第18話 上野家の闇4

 辺りが暗くなる17時を過ぎた頃。



 外気温と大差ない車内の温度に震える後輩の塚本を笑いながら一瞥し、「今夜は眠れると思うなよ」落合も愛用のコートとマフラーでしっかりと防寒対策はしてはいても、やはり日が沈んだ冬の季節は侮れない。



 落合もいい歳をしており、そろそろ五十路を迎えようとしている。塚本のようにもう若くもないのだから、あまりに無茶な張り込みや捜査は控えるようにと、日々、同僚や他の若い部下にも言われ続けていた。



 冷たくなった缶コーヒーを喉に流し込んで息を短く吐いた。



 落合は数日前に懇意にしている情報屋、海津原聖人から数々の情報を仕入れていた。被害者の共通点、一人の例外、上野典昭の女性問題、上野智恵と美園涼子の関係、この事件は上野家が深く関係している。



 落合はずっと断片的な情報に仮定を交えて組み上げていた。上野智恵の見舞いに出向いていた時も。見舞いから三日過ぎた頃に自分が納得できる推理の筋道を構築することができた。海津原からの情報がなければこんなに早く、いいや、事件解決の糸口なんて掴めなかっただろう。それだけ今回の事件で大きな力が中野区内で働いているのだ。その大きな力に介入するにはまだ一手不足している。



 犯人の目的が上野智恵である可能性が高いと判断を付けた落合は、その最後の一手を探しながら相方の塚本と共に上野智恵が入院している病院を張り込んでいた。



「落合さん。犯人が智恵さんを狙う理由はなんなんです。だって、まだただの少女じゃないですか」

「上野智恵はただの少女、か。こういった表現は好きではないんだがなぁ、敢えて言うなら、寂しかり屋な悪魔だよ」

「悪魔より小悪魔の方がしっくりくるんですけどね。その比喩の由来は相手を不登校にさせたって話からですか?」

「いや、もっと前だよ。小学生の少女が一人の大人を殺害する計画を練ったんだ」

「いったい何の話をしてるんです。自分にはまったく話が見えないですけど」

「考えるのは俺の役目だ。お前は身体を使ってくれればいいよ。老体になると思うように身体が言うことを聞いちゃくれなくなる」



 落合はまた思考を続ける。刑事になって何十年と考え続けて事件解決に励んできた。もちろんその中の幾つかは海津原の情報あっての解決もある。ここ最近では頭の方も鈍くなり、気付けばうたた寝をしているなんてことも度々あった。そろそろ自分も潮時かもしれないという寂しさが込み上げる。なんとかまだ刑事をやれているうちに期待をしている、優しすぎる大男を一人前に仕上げたいと思っていた。



「お前は絶対に上野知恵を守り抜けよ。これは警察として、市民の安全を守る義務がある」

「は、はい。判ってます」

「なら、ここはお前に任せる。解決のあと一手、俺は別から責めるとするよ」

「え、自分一人ですか!?」

「聡士朗か……。良い名前を付けられたな。間違っても公の字を捨てて恥士朗にはなるなよ」



 塚本に笑いかけたが暗い車内では相手からよく見えていなかっただろう。車を降りると真っ直ぐと中野駅方面へと向かいながら、「あとの一手は美園涼子に直接聞くとするか」上野家に連絡を入れると、今回の事件に関与している可能性のある松田が電話を取った。詳細は伏せてもう一度話を聞きたい旨を伝えるも、彼の声質に変化はなく、終始穏やかな男性とも女性ともとれる中性的な声はその容姿も相まって性別の判断にためらう。



 ひとまずアポイントは取れたので、道すがらもう一度自分の組み立てた仮説を順序立てていく。



 寒さから、捜査発展の期待からか次第に早足になっていて、思考にふけっていた落合を現実に引き戻したのは中野駅高架上を電車が走る喧しい音だった。



 上野邸の庭で遺棄されていた唯一の例外である男性被害者。彼の胸に挿されていた花こそ、上野利佳子と上野智恵に対する主張でありメッセージであると考えている落合は美園涼子が首謀者であると睨んでいる。しかし、それは上野邸での殺人事件だけで見た場合だ。彼女がこれまでの中野区の殺人事件を引き起こした犯人だとは全く考えていない。美園涼子を裏で操っている人物がいる、刑事の直感が落合を突き動かしていた。



 上高田の住宅街に左右の民家を押し退けるように囲う有刺鉄線を隠す板垣。まるで事件の根底にあるものを隠しているかのような堅牢な門戸に取り付けられたインターフォンを押し込んだ。



「落合刑事ですね。門を開けますので少々お待ちください」



 美園涼子の声だ。



 門の向かい側で玄関が開く音を聞いた。すぐに門戸も解錠されてゆっくりとスロープのある方の小さい門が開くと、美園涼子が小さく頭を下げて、入るように促した。



「失礼します。給仕の方々や典昭氏は」

「金田さんは昨日からしばらくの休暇を取らせて実家のほうへ。旦那様は奥様が精神病院に運ばれてから帰宅されていません。いま、この家にいるのは私と小野さん、松田さんの三人だけです。あ、でも松田さんは先ほど出掛けましたので、在宅しているのは私と小野さんだけになります」

「そうですか。典昭氏も大変な時期に困惑しているでしょうなぁ」

「ええ。本当に」

「まずは美園さんからお話を伺わせてもらいますよ。私の知りたいことが知れれば直ぐに帰りますので」

「わざわざ寒い中足を運ばれたのです。ゆっくりと温まっていってください」

「そうできればいいのですが、なにぶん警察も余裕が無い状態でしてねぇ、はやく犯人を捕まえなければいけません」



 美園涼子に続いて大昔は料亭だった細い通路を歩いて正門から見て裏側の部屋、美園涼子の自室に案内された。



 扉の正面向かいには裏庭に出れる大きな窓があり、夜でも目をこらせば視認できる大きな蔵がある。最初からここに通すつもりだったのだろう。急須と湯飲みが用意されている。



「お掛けになってください」



 蔵を右手側に互いに落合は美園涼子と向かい合って座った。



「単刀直入にお聞きしますよ。美園涼子さん、貴女、この事件に関わっていますね」

「それは、どういう意味でしょう」

「この事件には上野家が深く関係しているんですよねぇ。中野区の連続殺人事件、被害者は全員が女性。一見して性別以外は共通点が見当たらず、犯人の狙いが全く見えてきませんでした。しかしですね、あったんですよ、女性達の共通とする犯人の選定基準が」



 美園涼子は落ち着き払って、表情の一変たりとも機微に動かさない。



「不倫、されていたみたいですよ。犯人がどうして不倫をしていた女性を狙ったのかは、いまはどうでもいいんです。今回お話を聞きたいのは、一件だけの例外、そう、上野家で遺棄されていた男性についてです。彼の胸には母子草が挿されていた。この花もまた、他の被害者とは異なった意味のもの。母が子を想っているという意味があるらしいですね」

「花言葉には疎いですけど、その花は知っていますよ」

「それはそうでしょう。でなければ、貴女はその花を選ばなかった」

「まるで、私が殺したと言っているように聞こえますよ、刑事さん」

「おっと、これは失礼しました。そう言っているんですよ」

「どうして私が? いいですよ、仮に私が犯人だとしてわざわざ疑われる可能性の高い庭に、遺体を遺棄した説明はできますか?」

「それはメッセージです」



 美園涼子の眼に一瞬の揺らぎを落合は見逃さなかった。彼女もいまの僅かな反応に気付いて口を一文字に結んだ。真実を知ってしまったと確信しているように落合を睨み付け、「どうするおつもりですか?」観念したように口を開いた。



 自分にはそれを世間に公表するつもりはないとしっかり伝えると、美園涼子の全身から力が抜けていくようだった。



「上野利佳子が嫁いだ時に一緒に実家から持ってきたという桜の木は、彼女にとって我が子のようなものらしいですね」



 彼女を聴取した時にヒステリックな様相で耳が痛くなるほど叫ばれた。あそこまで取り乱すほど上野利佳子にとってあの桜の木は特別なものだったのだ。



「我が子同然の木に見知らぬ他人の血が塗りつけられていたのは、上野知恵さんに対するメッセージだったのでしょう。母子草はずっと幼少期から、母だと言えずに給仕として近くに居た母としての想い」

「そうです。智恵さんにも、世間に対しても秘匿としていなければならない真実です。智恵さんは私によく言っていました。私がお母さんだったら、と。その度に私は言ってしまいたかった。貴女の本当のお母さんは私よ、って。でも、できない。あの子が産まれてから十五年間、ずっと、ずっと私は我が子を騙して、他人であるフリをして過ごしてきました」



 弱々しく疲弊しきった枯れ木のように表情を崩していく美園涼子だが、「貴女のその葛藤を利用した人物がいるはずです。その人物は誰ですか」落合は身を乗り出した途端、室内の電気が消えた。



「美園さん」

「私ではありません。ブレーカーが落ちたのでしょうか。すぐに小野さんが対応すると思います」



 タイミングが良すぎると思った矢先、部屋の外、音の方角からして正面の居間だろうか。「なんだ、お前!」叫ぶ声。何かが床に落ちる音。静かになる上野家。



「いまの声は小野君!」

「しっ!」


 落合は舌打ちをして、眼が闇に慣れる前にゆっくりと立ち上がり、「美園さんはその場から動かないでくださいよ」扉の傍に立って耳をすませる。この物件は明治期前からある古い家屋であり、忍び足でも多少の軋む音が微かに聞こえてきた。その音は確かに此方へと近づいてきている。



 上野家という地位ある名家であることを考えれば強盗だと察しは付くが、落合の勘はソレは違うと否定していた。上野家の板垣は三メートルを超えていて、返し屋根には見えないように有刺鉄線が張られている。外部の人間がその存在に気付くはずもない。両隣の民家からであれば見下ろすことも可能だろうが。



 第一、上野家には住み込みの給仕がいる。無闇に盗みに入ろうなどとは思わないはずだ。計画性があるのなら以前から上野家を監視していたはずだ。上野家には住み込みの給仕がいる。金田という初老の給仕が不在だと判っていても、まだ若い男性の給仕が二人と美園涼子が在宅していることは周知しているのは明らか。タイミングを見計らっていたのなら落合が訪れているのを目撃しているはず。忍び込むのなら落合が帰宅した後に寝込みを襲うのが効率的であるにもかかわらず、この時間帯に忍び込む理由はなにか。



 足音が扉隔てた前で止まると、後方から窓硝子が盛大に割れる音が響いた。咄嗟に其方へ顔を向けると、誰かが部屋に上がり込んできていた。大きな体格をした人物が美園涼子へと手に持っている何かを叩き付けた。



倒れ伏した美園涼子に動く気配は無い。



 落合は身体を丸めてその人物へ突進をした。



 だがしかし相手を突き飛ばすより先に後方からの破裂音。ほぼ同時に背中から腹を突き抜ける熱感と奔る痛みに転倒してしまった。自分が撃たれたと自覚して、闇に慣れてきていた目で後方の人物を確かめようとしたが、大きな人物が遮って落合の頭に頭巾のようなものを被せた。



 視界が暗くなり、痛みで悶える落合は裏庭に引きずり出された。美園涼子も同様に引きずり出される音。ここで殺される覚悟はもうできていた。いや、刑事になった時からいつどのような状況でも死ねるように覚悟はしていた。



 何も見えない恐怖ゆえに聴覚が研ぎ澄まされていく。



 土を踏む音。寒空の下で聞こえた荒い息遣いに交じる声質から三十代後半くらいの男性だと判断する。ガチャリと音がした。音のした方角には大蔵があった。重厚な扉を開けるとまた足音が落合の方へと戻ってきた。



 声は発さずに、もう一人も何も喋らない。



 初めから打ち合わせをしていたのだろう。大蔵の鍵の在りかを知っているとなれば、上野家によく出入りをする人物の犯行だ。痛みが思考の邪魔をする。それでも考え続けなければならない。何か判ればそれを何とかして誰かに伝えなければならない。その手段も考えながら犯人に繋がる手掛かりを必死に聴覚頼りに模索する。



 美園涼子が引きずられているであろう音。



「待て! お前たちは、何をしようとして」



 頭巾の上からタオルを口に噛まされ、後頭部でキツく結ばれ声も出せなくなった。結んだのはきっと女性だ。後頭部にあたった手の大きさと、敏感な聴覚が拾った細い吐息からして若い女性だ。



 男性と女性のペア。この情報だけでは個人を特定できない。もっと何か別の音を拾おうしていると、くぐもった苦悶の声が聞こえた。その声は美園涼子だった。美園涼子の声はもう聞こえない。



次は自分の番であることも。



 手や足は拘束されていないのが幸いだった。女性はまだ自分を監視しているかもしれないが、運良く右手は撃たれた傷口を押さえつけている格好なので、インクとしての役割を果たせる状態だ。バレないように指先を動かそうにも相手の位置が判らなければ隠れてメッセージも残せない。



腹に激痛が走るのを承知で激しく咳き込むフリをした。すると目の前で足音がした。この場からみっともなく逃れようとしている演技をしながら身体をくねらせながら、腹部を下に向けて、ワイシャツがズボンから自然とはみ出てしまったように見せ、手帳は回収されると読んで、一枚だけページを破る。



一抹の不安はこのメッセージを解読してくれるかどうかだ。土壇場で思いついた暗号を誰かがきっと解いてくれると信じて。後は自分が運ばれる間に、上手くこんもメモ紙を見つからないように捨てられるかどうか。



 出血が多くて満足に身体も動かせず、朦朧としてきた意識では頭も働かなくなっていた。



 地面から浮遊する感覚を最後に落合の意識は闇に落ちた。

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