第17話 上野家の闇3

 病院生活も一週間が過ぎた頃に彼は突如やって来た。



 私にとって最高の手土産を持参してきたと彼は、私の嫌いな笑みを見せた。看護婦さんにしばらくは誰であろうと面会を断るように伝えた。



 起き上がれるくらいにまでは回復した私は彼に椅子を勧めると、情報屋の海津原さんは、「驚きと焦りを久しぶりに体感したよ。ニュースで上野さんが刺されたと知って、ああ、僕の労力は無駄になるかも知れない、報酬も反故になってしまうんだ、ってね。良かった良かった、生きていてくれて」気遣いのない発言にはいい加減に慣れてきていた、というより、依頼していた情報を早く聞きたい気持ちが急いていて聞き流していた。



「まあ、僕の予想通りだったよ。悪事に手を染めた小心者なら、弱みをチラつかせてやれば簡単に余計な事含めて喋ってくれる」

「そんなことはどうでもいいの。早く教えて」

「焦らされるのは好まないようだね。いいだろう。僕のビジネスを利用した依頼人の要望にはしっかりと対応するのがモットーでね」



 早くして欲しいと言っているのに話を勿体ぶるのが彼のモットーなのか、と溜息を交えて非難しようと思うも、どうでもいい言葉が十、二十となって余計な時間を浪費しそうになるのは目に見えていたので、何も言わずに視線だけで訴えた。



 海津原さんは鞄から大きな茶封筒を取り出して私の膝の上に放った。「この中に真実がある。キミの知りたがっていた、キミや世間に隠したい上野家の秘め事のすべてだ」どういう反応を示すのか興味があるといったように眼を細めて笑った。



 至って平静を装いつつも内心では心臓が跳ねる速度が速まっていくのを感じ、二、三枚の紙が入っている茶封筒の紐を解いた。



 生唾を飲む音が大きく聞こえた。



 滑り落ちてきた紙面の上部には出産証明書と書かれていた。私は大きく目を見開いた。子の氏名欄に私の名前を確認し、次に両親の名前へと視線を這わせていく。どうしてこんなものを隠しておきたいのか、その理由はこれから見ようとしている二人の名前にあるに違いない。



「嘘……、こんな……」



 そこに書かれた名前。よく知る名前がそこには書かれていた。あまりの突きつけられた現実に目眩と頭痛が脈打ち、その名前が見間違いではないか、もう一度父母氏名欄の名前を見た。



 父、上野典昭。



 母、美園涼子。



――私のお母様は、涼子さんだったの? でも、どうして、涼子さんとお父様が。



 その疑問に答えるかのようにフラッシュバックした過去の記憶。あの人、上野利佳子に刺されて昏睡していたときに見た夢。お父様は上野利佳子とも涼子さんとも違う女性とも関係を持っていた。



 政治家として世間に見せているお父様と、女性関係にだらしないお父様は表裏一体であり、公私を上手く使い分けていたようだ。これまでそういったスキャンダルに縁のない人物だと思っていたのは、記憶がお父様の不祥事を忘れていたからだ。



 世間にこんなことが知られれば上野典昭の政治家生命は途絶えるだろう。本妻の上野利佳子はこのことにどういう抗議を申し立てたのか興味はあった。二人の、三人の間でどのような話し合いが成されたのかは知らないが、私はこれまで上野利佳子を本当の母親だと信じて十五年間を過ごしてきていた。



――ああ、それで。



 上野利佳子が美園涼子おかあさんに対して当たりが強い理由と、日々、お母さんに対して利佳子さんは、親は自分であると主張し続けてきた理由も合点がいく。涼子さんを給仕として上野家に置いているのは口止め料的なものか、せめてもの情け程度でしかないかもしれない。



――待って。本当にこの証明書は本物なの?



 つい忘れていた自分の忌むべき特徴こそが上野利佳子との親子関係である確証であるはず。上野利佳子の母はスウェーデン人だ。彼女の眼の色は明緑色ライトグリーンをしている。明暗の差はあれど私の色は隔世遺伝ではないのか。



 海津原さんが偽の情報を持ってきたか、偽物を掴まされたという可能性だって否定はできない。子供相手だから情報収集に手を抜いたのかもしれない。



 ニヤニヤと視界の端に映る彼を睨み見て、「眼の色の説明がつかないわ」少々棘のある言い方をして抗議すると、片方の口角をこれでもかと持ち上げて、「次を見てみなよ」鼻を鳴らした。



 海津原さんに言われて思い出したように、二枚目の紙へと目を向けた。



――どうして、こんなものまで。



 涼子さんの家系についてを記した調査書だった。美園涼子の父親は、まさかの上野利佳子の母親と同じスウェーデン人だった。こんな確率の低い偶然の合致に鳥肌が浮き立つ。調査書の下部にクリップで一人の男性の写真が留めてあり、カラー写真に写る頭髪が後退している仏頂面の男性の眼は、確かに私の色に近かった。



「これでも説明不足かな、上野智恵さん」

「私は……、涼子さんの娘なのね」

「出産を担当した医師にも確認済みだ。キミの特徴的な眼の謎も解き明かした。よって疑う余地はないだろう」



 長く深い息を吐ききった海津原さんは、「最後の一枚は僕からのプレゼントだとでも思ってくれていい」不愉快そうに、今までの表情を一変させた口調で言った。



 最後の一枚は中野区で起きている連続殺人事件の被害者の名前が連なっていた。ある程度の範囲までの交友関係や家族歴が並んでいる。



「一見して被害者達は無差別に殺されているように見えて、共通点が一つだけあったんだ」



 判りやすく色ペンでラインが引かれている。



「不倫関係?」



 被害者は全員女性。不倫相手の名前や地位も調べ上げられているが、そこに意味があるようには思えない。



 この事件の主張は不倫だ。



 不倫をした女性が殺されている。



「このことを落合刑事に話したよ。上野議員の事も含めてね。事件解決の手助けになるだろうと判断して、一つ面白い情報も無償でつけてあげたんだ。キミも欲しい?」

「お父様の事が公になったら、上野家はどうなるのかしらね」

「僕には関係ないね。離散するも、失墜するも、例の約束事さえ守ってくれればどうでもいい他人事だ。それこそ、男女の関係に余計な口出しは無用だと思うけど?」

「はあ……。そうなったら、私はお母さんと静かに暮らせるから、私にとっても上野家はどうでもいい他人事かしらね」

「ふぅん。だけど、事件からは他人事ではいられないだろうね。僕はもうたどり着いているし、落合刑事もそろそろ犯人にたどり着くだろう。僕の知らない何かをキミは知っているんじゃないのかな」



 彼はそれこそ相手の内部を覗き見ようという眼で真っ向から視線を合わせてきた。彼の知らない情報とは、鵜宮紗鳥を名乗る人物からの殺害予告。



「上野智恵さん。事件の謎を一つだけ解き明かす手伝いをしてあげようか」

「どういう親切心からですか。何か裏があるのでしたら、自分一人で考えます」

「無理だね。キミが所持している情報量だけでは、この事件の犯人に辿り着けない」



 確かに彼の言うとおりだった。



 私の持っている情報だけでは辿り着くどころか絞るまでにいかない。しぶしぶな態度を飲み干して、「教えてください。海津原さんが所持している犯人に近づく情報を」頭を下げた。



「殊勝な態度だね。どこかの馬鹿な妹にも見習わせたいよ。さて、そんなことはどうでもいいか。この連続殺人事件で一件だけ、例外があったんだ。それが誰か判るね?」



 言われて紙面に記された名前と経歴で明らかに異なる人物、「葦原あしはら学人まなとさんね。一人だけ男性。亡くなっていた場所は上野家の庭」彼の経歴には不倫関係はなく、母子家庭で育ち、千葉県の松戸市で母親と仲良く暮らしていた。



「そうだ。お母さんと一緒に暮らしていた平凡な一般人が殺された。上野利佳子の我が子同然のように育てていた桜の木の根元でね。胸には母子草が挿されていたそうだね。花言葉はいつも想う。母が子を想っている親子の愛だ」



 可笑しそうに笑む海津原さんは続けて、「誰が誰を想っているんだろうね。桜の木には葦原学人の血が付着していた。上野家の桜に他人の血が付着している。これは何かの暗喩かなぁ。彼はある種の密室である上野家にどの手段を使って立ち入ったのか、そこをよく考えてみるといい」ここまでヒントを出したのだから後は自分で考えろというように口を閉ざした。



 考えたくない、認めたくない、そんなのは有り得ないと叫びだしそうなほどの可能性が自然と浮上する。



――お母さんが犯人なの?



 内部犯であれば上野家の密室も密室ではなくなる。誰かが招き入れた。それはいつか。私が夜の散歩に出掛けている間に遺棄された。あの時間は給仕も上野利佳子も唯一人を除いて就寝していた。その一人とはもちろん美園涼子おかあさんのことだ。



 屋内には被害者を匿っておける場所なんてない。いくつか空き部屋や物置はあるけど、誰かが扉を開ければ見つかってしまう。人目につかず、誰も寄りつかない場所は何処か。



――裏庭の大蔵。



 あそこはちょうどお母さんの部屋に面していて、二階は不在の父の書斎だ。誰からも見つからない上野家の死角となる場所。あの蔵を上野利佳子は忌避している。給仕達も色々な噂を耳にしていてあまり近づこうとはしない。これ以上に誰かを隠すに適した場所はない。



「おかしい。いいえ、不可能よ。だって涼子さんでは成人男性を運ぶ事なんてできない」

「キミは固定観念に縛られていないか? 密室もそうだ。密室なんて必ず穴があって不完全なように、犯人だって必ずしも一人とは限らないよ」



 彼の言葉に真っ先に思い浮かんだのは小野勝巳さんだった。小野さんはお母さんに料理を教わっている。基本的にはお母さんに付いて仕事を進める彼は見た目も力がありそうで、この間も引き車で利佳子さんの注文したドレッサーを運んでいた。



「さあ、言いたくないかも知れないけどキミの推理を聞かせてもらおうじゃないか」

「葦原学人さんを殺したのはお母さん」

「どっちの?」



 判っててそう聞いている性格の悪さに頬の内肉を噛んで堪え、「美園涼子さん……」訂正するや、「じゃあ初めから話してよ」挑発するような態度で煽る。



「葦原学人さんを殺したのは涼子さん。蔵で殺してから小野さんが桜の木まで運んだのね」

「動機は?」



 面倒臭そうに仕事を指示する上司のようにふんぞり返り始めた。どうしてここまで他人を苛つかせようとしているのか不思議でならない。



「利佳子さんに私が自分の娘であることを主張するため。胸に挿した母子草こそ揺るがない証拠」

「なるほど。で、どうして協力者が小野勝巳なんだ?」

「お母さんの傍で仕事をしているから、事情を聞いて手を貸そうとしたんだと思います」

「違う」

「どう違うんですか」

「そもそも、が違うよ」



 何度目かの溜息を吐いた海津原さんは、前屈みになって人差し指を立てた。



「まず、葦原学人を上野家に招き入れたのは美園涼子だ。殺害前日にまだ生きている葦原学人を、全員が、どうしてか、ぐっすりと眠っている時間に呼び出して蔵の中で匿っていた。事件当日、キミが深夜に家を抜け出したタイミングで、もう一人の来客が上野家に訪れた。その人物こそ、美園涼子に甘美な誘惑を持ち掛けた人物であり、中野区連続殺人事件の犯人だ」



 私が口を開こうとしたのを、立てた人差し指を自身の口元に寄せ、喋るなという意思表示をした。



「犯人は美園涼子にこう言ったんだろう。お前の娘を取り返す方法がある、とかそういった類の誘いを。長年キミの間近にいながら母親だと名乗ることが出来ない葛藤と苦痛に疲弊していた彼女は、ついその誘惑に乗ってしまったんだ。数日か数ヶ月か、どれくらい前からその計画が二人の間で共有されていたかは知らないが、葦原学人という哀れな罪も無い一般人を招き入れてしまった以上はもう引き返せないと腹をくくったんだろう。美園涼子が二人を招き入れ、犯人が葦原学人を手に掛け、遺体を運んだのは上野家給仕の松田だ」



 まさかの名前を聞いた私はこれまでの人生で見せたことの無いような呆けた顔をしていたかも知れない。



 まったくの無関係でありそうな松田さんの名前がそこで出てくるのかの根拠を求めると、「その頭は飾りなのかな? 考えることも出来ない塊が詰めてあるだけなら、キミはただ息をして生きているべきだよ。余計な事は考えず、周りに流されるだけの楽で詰まらない日々に満足していればいいさ」そこまで言われる筋合いはないと反論すれば、「気にすることはない。ほとんどの思考停止している人間は、社会で体よく使われながら飼い殺されている。僕はまっぴらだね、誰かの利益の為にやりたくも仕事をして時間を浪費するのなんてさ」だからこそフリーランスな生き方で、自己利益だけを考えて仕事を請け負っている海津原さんが、悔しくも自由な生き方をしているように見えた。



「あ! 松田さんは蔵の掃除も担当しているわ」

「ご名答。たまたま、昼間にでも見てしまったんだろうね。蔵の中に知らない誰かがいるって。そのことを美園涼子に報告したが懐柔されでもしたのかな」

「そんな家庭内事情も詳細に調べられるのね」

「上野家の事情は落合刑事から聞いていただけだよ」



 思っていた以上にシブさんの口が軽かったのが残念ではあった。しかし、その口の軽さがこうしていま、事件の真相の一端に迫っている。



「おっと、サービスをしすぎたようだ。採算は取れる報酬を楽しみにしているよ。上野家の都合が良いときでいいから、ここに連絡を入れてくれるかな」



 そう言って手渡したのは名刺だった



「それと、これね。落合刑事と僕からだ」



 二種類の花を包んだ束を受け取ると、花束にしては重量があるような気がした。



「じゃあ、僕は帰るから。後は自分で考えなよ」



 鞄一つが荷物のすべてになった彼は、「また僕の情報が必要になったら、頼るといい。キミに支払える代金が用意できるのなら、ね」鼻を鳴らして病室の扉を閉めた。



 色々と疲れた。主に精神的に。その疲労に見合う情報を得れたのが幸いだった。



 気疲れをした時には花に癒やされようと、二種類のうちの片方はサイネリアという見舞いに相応しい花だったが、もう片方の花、というより実を付けた植物の名前が分からなかった。



 しかしこの重さにやはり違和感が残り、花を分けて覗き見ると、そこには意外な代物が顔を覗かせた。

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