第16話 上野家の闇2
痛みがまだ生きている証拠だと落合刑事は笑って、目覚めたばかりで胸の痛みに顔をしかめた私にそう言った。
私の眼を真上から覗き込む涼子さんと智檡、それに松田さんと小野さんの心配げに揺らぐ黒い眼の数々。
彼らと接しているとつい忘れてしまう自分の目の色。
他人との共感を阻む因子は、彼らにとっては僅かばかりの障害にはならない、上野智恵の個性の一つとしか認識していないようだ。
「智恵お嬢さん、やっと目を覚ましてくれて安堵しましたよ。電話で智恵さんが刺されたと聞いて、勝巳と飛んできたんですから」
松田さんが緊張を解いた瞬間に泣き出しそうな笑顔を向けてくれた。
仰向けに横たわっている私は視線だけを彼へ向け、「松田さん。お母様は?」当然の質問に彼は視線を逸らして涼子さんへと向けた。
涼子さんもなんと答えればいいのか困惑している様子だ。誰の眼からみてもこの話題を振って欲しくはないという、言葉の必要ない意思表示。彼らを見て私は小さく笑った。同調して笑ってくれる人は誰一人としていなかったが、「どうしたんすか、智恵お嬢」小野さんが無難な言葉を投げかけてきたので、「まるで判らない問題を先生が生徒の誰かに答えさせようとしている時みたいね。みんな、誰も目を合わせてくれなくなったから、つい可笑しくて」カラカラに乾燥して乾いている喉から出た小さな笑い声は、掠れて空気が抜けるような音だった。
「上野さん。では、警察の私から答えましょうかねぇ」
冗談を言って笑っていた落合刑事が大きな溜息を交えながら、「上野利佳子さんは精神的な問題を抱えて」この先がどうにも言い辛そうなので、「構わないから。教えて、シブさん」友好的な笑みを形作ってみたが、鏡もないのでそれがどんな表情かは想像でしか描けない。しかし多少なりとの効果はあったらしく、「彼女が貴女を刺したのは覚えていますかな?」重い言葉が彼の口から漏れ出た。
「ええ」
私はそれだけ答える。
哲学堂公園で何が起こって、どうなったか、意識が途切れる寸前までの出来事はしっかりと私の頭の中に保存されている。
「上野利佳子さんが貴女を刺した後、張っていた私と塚本、それとたまたま出くわした千丈智檡さんと板倉さんで駆けつけて、彼女を拘束しました。貴女の意識が失われた後も彼女は、半狂乱で上野智恵の母親は私だ。誰にも渡さない。誰にも傷つけさせないと叫ぶことを止めませんでした」
「そう。それで?」
「彼女の精神状態は常軌を逸脱していましたので、いまはこの病院とは別の病院で、監視下に置かれた状態で隔離されています」
「当然ですね」
「実の母親が隔離病棟に運ばれたというのに冷静なんですねぇ」
「私を刺した人ですよ?」
「まあ……、そうですな。しばらくは出てこれないでしょう。このことについてですが上野典昭さんからは、あまり詮索をするなと釘を刺されてしまいましてね。まあようするにこれは家庭の問題だから、警察は出しゃばるなという意味ですな」
落合刑事は肩を竦めて、これで話は終わりですと言った。
夕焼けの色に病室内が染まりきると涼子さんを残して全員が目配せをして立ち上がった。「そろそろお暇させていただきますよ。何かあればいつでも連絡してください。連絡先は美園さんに教えてありますので」落合刑事は和らげた表情で、安心させるような声音で告げると、塚本刑事を連れて先に病室から出て行った。
「じゃあ俺達も行きますんで、退院日には松田と迎えに来ます。養生してくださいよ」
「智恵お嬢さんの為に、僕はプレゼントを用意しておきますからね。そう、とっておきのね、きっと驚かれると思いますよ」
手を振る松田の空いた手を引いて小野さんたちも出て行った。
「上野家に車なんてないじゃん。智恵に無理をさせる気? いいよ、ウチが大人数でも乗れる車を出させるから。ね、板倉」
「もちろんです、智檡お嬢様」
誇らしげな智檡と恭しく頭を下げる板倉さんの姿勢。同じお嬢様でも格式の違いを感じる。智檡を見ているとその在り方を忘れてしまうが、千丈家は上下関係がとても厳しいと聞く。それとは正反対に上野家は給仕の人達を含め、例外二人を除いてとても家庭的な関係を築いている。
智檡がこれまでに見たことのない優しい眼で、「本当に、本当に生きててくれてありがとう、智恵」手を振って出て行く。板倉さんは退室する前に此方へ向き直り軽く頭を下げた。本当によくできた従者だ。智檡の護衛と運転手を兼任するとなればとてもスケジュールが逼迫しているに違いない。彼女は彼を日々よく使っているはずだからだ。智檡の気まぐれで日夜関係なく車を運転し、現在の中野区で起きる連続殺人事件の犯人から智檡を守り切らないといけない緊張感は、気が気でないに違いないと彼に同情した。
「ねえ、お母さん」
「なあに、智恵」
残された二人。
このやりとりこそが痛み以上に、私が生きている、生を実感できる温もり。
「松田さんの言っていたプレゼントって何かな」
「さあ、なんでしょう。私もそんな用意があるなんて初めて聞きましたから」
「松田さんのプレゼントとお母さんの手料理、最後に小野さんのデザートを退院祝いにしたいな」
「あら。私の作ったデザートは嫌かしら?」
「ううん。涼子さんのデザートはとても好きよ。でも、小野さん料理の腕はそこまでだけど、デザート作りは絶品だって松田さんが言っていたから、気になっていたの」
「小野君はね、見た目や喋り方がちょっとガサツかもしれないけど、手先は器用だし、デザートの腕なら私以上かもしれないわよ」
「食べたの? ずるいよ、お母さんだけ」
「小野君の指導係ですから」
病院特有の匂いが漂う病室には多くの人間の残り香が漂っている。ベッドで横たわる私の頬に涼子さんの手が伸びると、彼女の匂いがした。
「退院したら、二人だけで少し旅行にでも行きましょうか。旦那様には私からお願いしておきますから」
「本当? 嬉しいな、涼子さんとの旅行。場所はどうしよう。北海道でラム肉や海鮮を頂くのもいいね。沖縄だと、サーターアンダーギー?」
「退院祝いだから、智恵さんの行きたいところにしましょう」
私は国内のありとあらゆる観光名所を思いつく限り思い浮かべると、その場所に自分と涼子さんの二人で観光を楽しむ様子を書き足していく。何処へ行っても二人は笑っていて、周囲から見れば自然と親子のように映っている。
――旅館の女将さんの前で、涼子さんをお母さんって呼んでみようかな。
いっぱい、いっぱい、涼子さんをお母さんと呼ぶ案を採用しておく。楽しい旅行計画を構築中している私の様子を涼子さんが微笑ましそうに眼を細めて眺めていた。私は少し恥ずかしくもあったけど、涼子さんにならどんな私だって見せてもいい。それどころか、もっと私を知って欲しいという欲求が増え、「私そろそろ眠くなってきたの」眠くもないけれど、彼女に初めての嘘を試みる。
「あら、じゃあ私はそろそろ帰るわね。また明日、お見舞いに来るから、何か買ってきて欲しいものとかある?」
「涼子さんの焼きそば、かな」
二つ返事で承諾してくれた涼子さんに嘘の本題、「それと、いま欲しいものがあるの」涼子さんとの時間を終わらせてまで欲しいもの。
「なあに、智恵」
「おやすみなさいのキス」
これには涼子さんも驚いて目を丸くした。数秒固まって私の顔を見ていたけど、すぐに彼女は前屈みになって私の唇に、涼子さんの唇が重ねられた。彼女の微かな吐息に交じって彼女の匂いが私の口内から食道へと流れ込んでくる。
私の中が美園涼子という一人の女性で満たされていく幸福感。
頬と耳が少し熱くなったような感じがしてくる。
私が求めている間、静かに唇を合わせてくれている涼子さんは眼を瞑っている。私も同じように目を閉じてこの重なり合う二人の時間を堪能していると、病室のドアをノックする音に慌てて唇を離し、「はい、どうぞ」涼子さんがうわずらせた声で対応した。
邪魔者の正体は看護婦さんだった。「面会時間はそろそろ終わりになります」憎らしいほどに最悪なタイミングには悪意を感じた。短い溜息をついて寝返りを打った私に、「智恵さん。では、また明日来ますね」給仕としての美園涼子の口調でそう言って部屋を出て行ってしまった。
今度は長い溜息で彼女の匂いを吐き出してしまった。
火照っていた顔の一部分もすっかり冷めて、むしろ冬の冷え込みで室内が寒く感じるくらいだった。気晴らしにテレビのリモコンに手を伸ばしてニュース番組を付けると、私が刺された報道がされていた。園内に居た誰かが携帯電話のカメラ機能を使って撮影していたようだ。
半狂乱に叫ぶ母を落合刑事が取り押さえている。直ぐ近くでは車椅子から降ろされた私が、塚本刑事と板倉さんに胸を押さえられてぐったりとしている。私とお母様の中間辺りで智檡が手元の携帯を耳に当てている。警察か救急に連絡をいれているのだろう。直ぐに通話を切った智檡も私の下へ駆け寄って、そこで映像は途切れた。
映像の後には上野家について近隣の住民への聞き込み映像が流れ始めた。誰もが口々にお母様を快く思っていない様子だった。お父様の評価は誰からも好評で、正反対の二人がどうして結婚されたのか疑問に思われていたようだ。そんな二人の間に産まれた私に話題が移ると、以前に通っていた学校の校舎が懐かしく映り、顔は出されなかったが誰かは特定できる数人の生徒にマイクが向けられ、「ちょっと変わった子でした」、「あの子に興味を持たれると精神異常を起こして、何人も不登校になってます」等々のお母様以上の不評が語られた。
中野区を第一歩に良くしようと働くお父様を妨害するかのように頻発する事件の数々。私やお母様の事も含めて余計な仕事を増やしてしまった申し訳なさが、小さな罪悪感のように消そうと思っても消えてくれない。
テレビなんて付けなければ良かったと後悔しても遅く、チャンネルを変えても夕方のニュース番組では上野家について有ること無いこと詮索する不愉快な報道ばかりだ。名家である母方の実家では今頃大騒ぎになっているに違いない。父方の実家もそれなりに裕福であり、そんな両家から一人たりとも見舞いに来てくれないのはどういうわけか。
「上野さん。入りますね」
テレビを消したタイミングで先ほどの看護婦が病室に入ってきた。手には体温計とバインダー。私は手渡された体温計を脇に挟んで、何かをすることもなくボーッと天井を眺めていると、「受付に上野さん宛に手紙が届けられていましたよ。鵜宮さんっていう女性から」思い出したようにズボンのポケットから封筒を取り出した。
――鵜宮さんという女の子?
鵜宮と言えば紗鳥くらいしか該当する人物はいない。紗鳥からは姉妹がいるなんていう話を聞いた覚えは無い。それどころか紗鳥は一人っ子だと言っていた。仮に紗鳥のお母さんであった場合、看護婦さんが女の子なんていう言葉を使用するはずもない。
「でも、受け取った看護婦が言うには、しっかり歩けているのに杖をついていて、持ってきた千羽鶴は渡さないでそのまま帰って言ったみたいなの。なんか急いでいる風だったって」
体温計を渡してから封筒を受け取った。看護婦さんが体温を記帳して部屋を出て行った。封筒を掲げて裏表を確認してみたけど差出人はなく、上野智恵様とだけ書かれていた。
中身は三つ折りくらいの紙が一枚。
封を切って折り畳んだ紙を広げ、「なるほど」そう呟いた私の口角は少し持ち上がった。
手紙の内容は実にシンプルなものだった。
上野家を壊して、上野智恵を殺す。
このタイミングで送られてきたのはどうしてか。もしかしたらニュースでお母様に刺され、病院に運ばれたことを知ったからかもしれない。
――中野区の殺人鬼さん。早くいらっしゃい。
この手紙の差出人は中野区連続殺人事件を引き起こしている犯人からのものだと確信した。その根拠は文面の最後に折られたサルビアの花の写真が貼り付けてあったからだ。サルビアは私が好きな花であり、花言葉には良い家庭、知恵、家族愛といったものがある。こういった花言葉が根底にこの花が好き理由でもあった。
犯人は上野家に恨みを持ち、私を殺したいくらいに想ってくれている人物。困ったことに該当する人物に心当たりはなく、不登校にさせてしまった生徒たちが辛うじて私に嫌悪を抱いているかもしれないけれど、殺意を抱かせるほどでもなかったはず。
思案しても判らないことは聞けばいい。頭上に手を伸ばしてナースコールのボタンを押し込んだ。直ぐに先ほどの看護婦さんが来てくれた。
「一つだけ、聞いても良いですか?」
「私でよければ、何でも聞いて」
「この手紙を渡してくれた女の子って、どんな子でしたか?」
変なことを聞く子だとでも思われたのかもしれない。私は真っ直ぐと彼女の眼を見ると、そんな考えを放棄して眼をわずかばかり逸らし、「帽子を目深に被った髪の長い子だったかな。たぶん、上野さんと同い年くらいか、少し上かなって思うけど……」これ以上の情報は、彼女を見て引き出せそうもないと判断した。
小さな欠伸をすると看護婦さんは愛想笑いを浮かべて、「痛み止め麻酔の補充にまた来ますね」逃げるように、私の眼を見ないで告げて早足に病室を出て行ってしまった。とても懐かしい対応に少々心が痛んだ。
帽子を被った髪の長い同い年くらいの少女。そのシルエットは夢の中で見た彼女そのものを想像できた。彼女が中野区連続殺人事件の犯人である可能性が高い。しかし文面からして彼女が恨んでいるのは上野家と私。
――だったら、上野家に何かしらの危害を加えて、私を殺せば済む話……。どうして、彼女は関係の無い人間を、それも花を挿して殺したのかな。
非合理的で回りくどい手段。
そもそも自分の推論が飛躍しすぎているのだろうか。よく考えてもみれば、私を殺そうとしている人物と中野区の殺人鬼が同一人物である確証はない。ただ、手紙の文末に書かれた花くらいにしか共通点はない。
私はもう一度欠伸をしながら、お母様がいまどう過ごしているのか興味を持った。
――お母さんのお暇は保留、かしら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます