第15話 上野家の闇1
珍しくお母様と二人で私は哲学堂公園まで散歩に来ていた。
また珍しいことに今日のお母様の様子はとても変だった。朝から機嫌が良く、給仕の誰に対しても穏やかな口調で挨拶をし、目の敵にしていた涼子さんを相手でも気味が悪いくらいに微笑んでいた。
上野家では誰もがこれは何かが起こると予感した。
「お母様、聞いてもいい?」
「なにかしら、智恵」
車椅子を押していたお母様は一度足を止めてから、わざわざ私の目の前に回り込むと目線を合わせた。いつもは絶対に私と眼を会わせようとはしない彼女が、どうしてか今日に限って真っ直ぐと私の眼を見つめてくる。それが、ちょっと、怖かった。まるで私の内側まで覗き、すべてを白日の下に暴こうとしているように感じたからだ。
――ああ、そうか。
合点がいった。
――この恐怖は、私がみんなに与えていたモノなのね。
まるで化け物に捕食される寸前の獲物の気分。
――私の視線は、もっと怖かったのね。
不登校になるまでの恐怖を相手に与えていた。私は恐怖を与えたかったのではなくて、相手と仲良くなって、多くの感情を共感したかっただけ。しかし、目の前の女性は私をどういった感情で見つめているのだろう。
「お母様はいま、嬉しいの?」
可笑しい質問の意味を数秒の間、その意味を汲み取れずに小さく首を傾げたが、「ああ、ええ、とても嬉しいのよ。だってね、智恵。私たちは永遠に一緒にいられるのよ」ニンマリという表現が適当な笑顔を見せた。
――どういう意味。
今度は私の方が彼女の言った意味を汲み取れずにいた。ただ、予感はした。これは良くない事への前兆である、と。
もう少し探りを入れてみようと、「私達は家族よ。ずっと一緒でしょう?」思ってもいない事を口にしてみた。
「最近物騒よね。やっぱり智恵には私が付いていなきゃダメなのよ。本当に世の中物騒よね、ふふ」
「あの、おかあ」
「智恵。貴女、私が居ないところで、あの女と、美園涼子と秘密の関係を楽しんでいるみたいね」
「秘密の関係? なんのことかしら」
「いいの。ぜぇんぶ知っているのよ。だって、私ずっと見ていたんだもの。智恵のことを」
悪寒が背筋を伝い、今が長袖の衣服を着ていることがありがたかった。袖を捲り上げれば鳥肌が浮いているから。
上野利佳子という女性から目が離せなくなっていた。努めて平静を装うにも、私の未熟な心ではいっぱいいっぱいで、彼女の右手が肩から提げているショルダーバックの中へと滑り込ませたタイミングを見失っていて、「答えはね、簡単だったのよ。だってヒントが中野区で騒がれていたんだから」お母様は私を抱きしめた。
彼女の肩に私の顎が乗っかり、彼女の左腕が私の背へと回された。
「大丈夫よ。怖くはないから。大丈夫、大丈夫なのよ、智恵、私の子」
「何を言って」
初めに胸を突いた衝撃とそれが胸の奥にズブズブと押し込まれていく異物感。次いで熱感と激痛が私の脳へと電気信号で発せられる。
「おかあ……、さま?」
「貴女を看取ってから、私も直ぐに行くわ」
お母様が私から離れると、胸を刺していた果物ナイフが一緒に抜ける。溢れ出る血が白いブラウスを染めて広がっていく様子を私は未だに現状が把握できず、ただただ、それを見下ろしていた。ダークグリーンのロングスカートでは黒い染みとなる。
「智恵!」
刺された痛みと精神的な衝撃で何が何だかもう自分では理解できなくなっていたが、声のした方を振り向くと、四人の男女が駆け寄ってきていたのを何とか視認できた。しかしその視界は霞んでいて、助けを呼びたいはずなのに、声帯がピタリと合わさってしまったように声が出ない。
三人の男性のうち二人が私に駆け寄って片方が私の胸に手を押し当て、「心臓は逸れていますから大丈夫です! 頑張ってください、上野さん!」大柄なまだ若い男性の声。もう片方の中年男性は手に持った携帯電話で何処かに連絡を入れている。二人の顔には見覚えがあった。一人は中野警察署の塚本刑事で、もう一人は千丈家で智檡の護衛と運転手を兼ねる板倉さんだった。
状況を把握した周囲から悲鳴が飛び交っている。
私の身体は車椅子から降ろされて横たえられた。なんとか頭だけでもお母様の方へと向けると、くたびれたコートを着る男性にお母様は既に組み敷かれていた。
「智恵、死んじゃ嫌だよ! 大丈夫だから、もうすぐ救急車が来るから! ああ、もう! 刑事さんもっとしっかり傷口を塞いでよ!」
慌てふためいて苛立っている様子の智檡に私は目を向け、「このまま……、だら、紗鳥……笑う、かな」弱音を吐く私を、「馬鹿! 笑うどころか、呆れられるよ。智恵はこんな場所では死んじゃいけないんだから、気をしっかり持って!」彼女の顔が迫り、焦点が少し合い、やはり怒っている顔をしていた。
――このまま、死にたくなんてない。
まだやり残したことがあるのだから。
――誰とも触れ合えずに。
心を通わせて寄り添え合える相手を見つけていない人生なんて。
――許せない。
共感したい欲求が今の私を現世に押しとどめてくれている。
決して浅くはない傷。体内から生温かな血液が傷口を圧迫する大きな掌の隙間から溢れていく。朦朧としていく思考回路と視界は、いま自分が何を思って、何を見ているのかさえ判断できなくなっていた。
グルリと目が回る。
呼びかける声が遠ざかっていく。
もう忘れていた小さい頃の記憶が時系列順に流れている。ああ、あんな事もあった気がする、なんていう呑気な感想が平和的で可笑しかった。目の前に映る
上野家では裏庭に大きな蔵があり、その中にはいつ製造されたのかも判らない大きな振り子時計が壁に取り付けてある。ちょうど蔵の戸の真上に位置する場所。
いつもは上野家の人間たちとソレを見上げていた。私もその大時計が誇らしく好きだった。でも、いつからだろうか。その蔵の中が怖くなって、大時計が人間を喰らってしまう化け物に見え始めたのは。
中学二年の頃だった。上野家に来客が訪れた。門前の細い住宅街の道には高級車が二台停車していた。私も含めて上野家総出で迎えるほどのお客様。両親と同い年くらいの男女が先頭の車両から姿を見せた。
私の両親と親しげに何かを話していた。私は隣に並んでいた涼子さんに、「この人達はだれ?」そんなことを小さな声で聞いた気がする。困った様子で私の耳に顔を寄せ、「……ですよ」難しい言葉を言われて覚えられなかった。
後続車からは一人の男の子が降りてきた。とても可愛らしい顔つきで、長めの髪と大きな瞳は一見すれば女の子と間違えかねなかった。彼を彼と判断したのは半ズボンを履いたからだ。
親子を連れて私たちは裏庭へと回って蔵の中へと足を踏み入れた。彼らはどうやら大時計を見に来たらしく、一人でも多くの人間にこの大時計を知ってもらい、その迫力に圧倒される顔を早く見たいと心が逸り、予想通り彼らも驚きに目を丸くしていた。
「あのぅ、もう少し近くで見せて頂いてもよろしいですか?」
婦人がお父様へ願うと、「ええ、もちろん。二階へと上がる階段はあそこからです」木の板が壁から突き出し、階段となっていてグルリと蔵の壁面に沿っている。婦人は大はしゃぎで、子供の様に目を輝かせて板を軋ませながら二階へと上がっていった。
一階で私たちは笑い合って彼女が階段を駆け上がっていく姿を見守っていると、今までの軋みとは違う、不吉で心に不安を掻き立てるような音がした瞬間、「ああ!」誰もが一斉にそう悲鳴を上げた。
私はたまたま車椅子を反転させて大時計を見上げていた時だった。
背後から大きく重量のあるものが落下した音と衝撃を肌で感じた。
振り返ろうとしたら涼子さんが阻んで、私に背後の様子を見せまいと車椅子をゆっくりと押して蔵の外へと向かっていく。視界の端では少年が泣きそうな顔をしていたのが印象的だった。
――あの時……、そう、確か、あの後救急車が来て。
自室で涼子さんと過ごす間、屋敷の内外は慌ただしく、私は小さな溜息をついて、「あの子はどうして泣いていたの?」その問いに涼子さんはなんと答えればいいのか模索するように口を引き結んでから、「あの子のお母さんが怪我をしてしまったのよ」私はその言葉を否定して、「死んだのでしょ、あの人。だって、そうなるように事前準備をしていたのよ、お父様はね」あの人とお父様の密接な関係を知っていたし、この秘め事が露見すれば政治家としてだけでなく、上野家そのものが砕け散ってしまう。
多くの報道で取り沙汰されたあげく、一人の男の過ちのせいで、その家族にまで後ろ指されて非難される人生を歩ませることとなる。そうなった場合、私の他人と共感するという生きる拠り所が遠のいてしまう。
だから。
――私はお父様に進言したの。
――不都合を公にされる前に、元から絶ってしまえばいいのよ、って。
一番簡単でより確実な手段にどうして手を伸ばさないでこまねいていたのか、私には理解が出来なかった。目的の為に努力を惜しまず、その一点にのみ執着し続ければ必ず手が届くと父は言っていた。その言葉を判りやすく彼に教え返しただけのこと。
あの時のお父様の顔は今でも忘れられないくらいに可笑しかった。この人はこんな顔もできるんだ、という意外な一面を見た私は嬉しくなった。
「あの人は死んでいなければ、いけないの」
「智恵さん。そんなことを言ってはいけないのよ。このことを誰かに聞かれでもしたら……」
「聞かれて不都合があるかしら? 子供の戯れ言だと聞く耳を持たないわ」
「そういう問題じゃないの。あの子、泣いていたでしょう。ええ、智恵さんの言うとおり、たぶんあの時点で亡くなっていた可能性が高いわ。家族を失う悲しみの痛みはとても辛いものなの。智恵さん、誰かと共感したいなら、まずは彼女の悲しみに寄り添ってあげて」
――彼女?
確かにあの時の涼子さんはそう言っていた。目深に被った帽子と少年然とした服装の子供。彼女って、彼女はいったい誰だったのだろう。
自分の浅ましい部分なんかには目もくれずに、ただただ少年風の少女について考え続けていた。父の同業者か母の知り合いか。不倫という関係を結んでいるならば同業者の線が強い。もしくは支援者の誰かかもしれない。
「あれ、いつの間に」
暗くなっていた。真っ暗の空間。何処まで広がっているのかも判らない闇が広がっている。こんな暗闇の中で私はずっと考え事に耽けっていて気付けないでいたようだった。
真っ暗闇に一人、誰もいない、この場所から逃れようと両手を前に突き出してみたけれど、自分の腕どころか、自身の身体さえ何処にあるのかも判らないほどの暗闇。
「智恵、さん」
微かに耳に届く涼子さんの声を拾い、声の方へと振り向いてみると光が、暗闇の奥に小さな白い光が灯っていた。
何度もその光の方から私を呼ぶ涼子さんの声。私はその声のする光へとなんとか進もうと、いつもの感覚で手を車椅子の車輪へと持って行くも、そこに車輪の冷たさはない。次第に光りが強くなって私を覆っていた闇が払われていく。
迫ってくる光。
後退していく闇。
私はその中間なる線上に、確かに自分の足で立っていた。
まるで標のように差す光へと一歩踏み出すと、涼子さん以外の声が数人、確かに私の名を呼んでいる。
――ああ。
心の底が温まる感覚を得て胸に手を当てる。
――嬉しいわ。きっとこれは予兆なのね。
これはきっと素晴らしい予兆に違いない。
この胸の高鳴りこそ共感への初恋に違いない。
これは予感だけれど、この時点でどうしてか他人と共感できる日はそう遠くはない気がしていた。
――いま帰るよ。私を待つみんなの場所へ。
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