第3話 中野区連続猟奇殺人事件2

 モゾモゾと布団の中で身体を丸めて体温維持を試みた。敷き布団との間にできた隙間から室内の冷気が入り込んで、足先から体温が次第に奪われていく。私の足にはまだ感覚があることに安心して、布団から顔を恐る恐る出してまだ重い瞼をゆっくりと開けた。



 壁掛け時計が六時半を示しているのを眼だけ動かして確認した。



――警察はもう引き上げたのかな。事情聴取は。



家の中は静かで話し声や物音の一つもしない。無音の世界に一人、部屋から差す夕焼けは茜より濃い緋色をしていた。畳に広がる緋の明かり。新鮮に広がった血溜まりにも見えては死を連想させ、私の記憶に印象強く記録されてはいるが、ノイズ混じりの幼少期に見た誰かの影。



 ベッド脇に立て掛けてある杖を右手に取り、体重が乗せられない左足を庇いながら襖まで移動し、廊下に出てからは手摺りと杖で負荷を抑えて居間へと向かう。いつもは廊下を歩いていれば給仕たちとよく出くわすはずが、今日は誰とも会うことなく居間へと着いた。



 居間だけでなく、庭にも、二階からも生活音の一切も聞こえない。



「みんな、私を置いて何処へ行ったの」



 急に心細くなってくる。自分一人を残して全員がこの家からいなくなるなんてことはこれまでに一度もなかった。一人にされる、孤独にされる、あんな事件があったばかりの状況で置き去りにされるのはとても寂しく不安に駆られる。



 杖のみの歩行では数分が限界で、いつもは涼子さんや他の給仕達に支えられていたので、日常生活にそこまで支障をきたしてこなかったが、赤子の腕のように細く頼りない足は歩くことを拒絶するように疲労と痛みを主張してきた。



 縁側で腰を下ろすと寂しさを紛らわすべく、杖で自分と涼子さんの下手な似顔絵を地面に描いた。その出来上がりにおもわず声を出して笑ってしまった。お母様に見つかったらヒステリックに叱咤されていたに違いない。そこがまた可笑しく、自分を取り巻くありとあらゆるものがおかしくて、おかしくなりそうだった。



――私はいまどんな顔をして笑っているの。



――夕焼けに照らされた私の眼はどんな色をしているの。



 地面に描いた似顔絵に影が差し、ふと影を追って視線を上げた。



――ああ、そういうことなんだね。



 これは夢だった。夢だからこそ玄関に置かれているはずの車椅子が自分の目の前にあるのだ。私は腰を上げて、痛む足にもう少しの無理を強要して車椅子に座り、門戸へと車輪を回した。道路には車や人の往来はなく、中野通りの信号を渡って哲学の庭を抜け、そのまま哲学堂公園内に入る。橋をジグザグに掛けた菖蒲池を過ぎてからは緩やかな坂を上りたどり着く。



 理想橋りそうきょう



――私が誰かと共感できたら、自分の足で渡ると決めた橋。でも、できれば共感し合えた人と一緒に渡りたい。



 哲学堂公園には他にも多くの哲学を体現させた建築物が建てられているが、私を魅了し、興味感心を抱かせたのはこの理想橋たった一つだった。



 哲学堂公園は夕方で門を閉ざすので昼間の時間帯にしか訪れることができず、休日に給仕に付き添ってもらい訪れたお気に入りの場所。涼子さんが付き添うと、厨房を任されている彼女と夕飯の買い出しをしながら帰宅するのが楽しくてしかたなかった。



――涼子さんじゃないよね。



 上野家の誰かが犯人もしくは協力者だと睨む落合刑事。もちろん私も外部犯の単体での可能性は低いと思っている。自然と容疑の眼は上野家へと向けられるが、いったい誰がわざわざそんなことをしたのか。給仕を含めて疑いたくないのに疑わなければならない葛藤に揉まれ、心の奥底から自分でも分かるくらいに不安が色濃く充満していた。



 お父様は二日前から房総半島へと旅行に出ている。お母様は自分の子供のように大切にしている桜の樹にあんなことはしない。ならば給仕の誰か。そう考えるとどうしても涼子さんが疑わしく思えてきてしまう。



 お母様から粗探しをされて小言を言われている姿を容易に思い返せた。



――お母様はどうしてあそこまで涼子さんを嫌うの。涼子さんが何かをしたわけでもないのに。



 理想橋の向かい側は哲学堂公園の中心となる時空岡じくうこうと呼ばれる場所。時空岡の中でも一際目立つ朱塗りの六角形三層構造をした六賢台ろっけんだいの前で、幼い頃の自分と涼子さんの姿を見た。第三者としての視点で見る二人は親子のようでいて、とても羨ましく、自分相手に嫉妬してしまいそうなくらい自然と笑い合っている。



 二人は順々と哲学堂公園の建造物を見て回り、菖蒲池から哲学の庭へと向かう最中に鬼の象がひっそりと立っていた。



「涼子さん、それは鬼?」

「ええ、そうですよ。これは、鬼燈きとうというの。人に宿る鬼にも優しさや慈悲はあるという教えなのよ」

「でもこの鬼、辛そうにしているのはどうして?」

「鬼にとって良心は不要のもの。必要無いものを抱いてしまって、困惑しているのかしらね。良心が痛んでいるのかも、何か悪事をしてしまったことに対して」



 涼子さんは苦笑しながらそっと鬼燈に寄って、水仕事をこなしているには綺麗な細く白い手をその頭に乗せて撫で、「鬼とは言っても、愛らしい顔をしていませんか? 無理をして強がっているように私は見えるの。智恵さんにはこの鬼がどんな風に映っていますか」名残惜しそうに手を離して戻ってきた。



 当時の私は彼女の問いには答えていない。



 答えられなかった。



――私にはよく分からなかったから。



 表情は確かに辛そうには見える。しかしそれは誰もが視覚的に捉えた情報であって、涼子さんのように内面を自分なりに感覚してあげることができなかった。雰囲気やその時の気分で如何様にも見え方が変わるのかもしれないけれど、私は何度この鬼を見ても表面に浮かぶ情報しか読み取れなかった。



 在学中に同じクラスだった女の子に、「上野さんって相手を思いやったり、気遣うことって苦手でしょ」笑われながら言われたことを思い出した。



 クラスの中でも中心的な位置を獲得する彼女の取り巻きに囲まれ、「なら、貴女は他人と共感する術を知っているのね。教えてくれないかな。私は欲しいの。他人との繋がりが。他人の抱く喜怒哀楽の感情、理想を根幹に築く個人の思考によって形作る内面の諸々を。そして私の感情や理想も共感して欲しいの。さあ、教えて」見上げて視線を合わせただけで、今まで笑っていた彼女は眼を泳がせて動揺した。怒っていたわけでもないのに、ただ知りたいから聞いただけ。それだけで彼女は怯え、次の日から学校に姿を見せなくなり、取り巻きの子達も私に関わろうとはせず、意識して避けるようになってしまった。



――私は誰ともわかり合えない。



 そんなことはないと言い聞かせて落とした視線を上げると、哲学堂公園から土色の広い室内へと様変わりしていた。長方形をした天井高く息苦しい密閉空間。壁面に沿って木板の突き出した階段がグルリと続いている。本来は埃が積もっている手付かずの領域であるはずが、床が磨かれていていたのは、これも過去の思い出によるものだからだろう。



 この蔵には給仕を除いて誰も立ち入らない、上野家の人間にとっての禁足地だった。過去に何かがあった。思いだそうとしても思い出せない記憶。ドクドクと胸を突き破ろうとするような鼓動に胸を押さえた。この場に居たくはないと心臓が急かすように強く拍動する。



 息苦しさから逃れたい。車椅子を反転させて出口へ向かおうとした時、背後で大きな音がした。床に大きなものをたたきつけたような音だ。



 肩が跳ね上がる。その正体を振り返って確かめる勇気は無かった。そのまま車輪を回しながら閉じた鉄扉へと手を伸ばす。



――この匂い。



 締め切った空間特有のカビ臭さに交じって一瞬だけ花のような香りがした。どこかで嗅いだことのある、無意識の記憶が混濁して荒波を立てるように掻き混ぜられる。思い出そうとする力とそれを阻もうとする力が拮抗しているようだ。



――頭が痛い。気持ちが悪い。夢なら早く醒めて……。



 あんな事件を目の当たりにしてしまったせいで悪い夢を見ているのだ、と言い聞かせながらギュッと強く瞼を閉じる。何も聞きたくはないと耳を塞いで、何も見たくはないと目を閉じる。何も嗅ぎたくはないと口で呼吸をする。



――まだ醒めない。



――いつ醒めるの。



 逃れ出れない悪夢に怯えていると。



――ああ、この匂いは。



 私を蝕んでいた恐怖はフワリとした甘い匂いに攫われ、次第に身体から緊張が抜け落ちていく。「涼子さん……」いつも包み込んでくれた彼女の匂いに誘われて、私の意識も薄暗い蔵に差した光明へと攫われていった。



「智恵さん、大丈夫ですか。うなされていましたよ」



 次に見たのは私を覗き込んでくる涼子さんの心配そうな顔だった。今にも泣き出してしまいそうな表情。彼女の手が私の額に当てられている。手は滑るように頭へ、何度も優しく撫でてくれた。



「もう大丈夫ですよ。少し寝汗をかかれているようですし、シャワーを浴びたほうがいいわね」



 そう言って微笑む彼女に私の表情も自然と変化したのを自覚した。



「涼子さん。私、いまどんな顔をしているの?」

「とても嬉しそうに。安心した様子です」



――ああ、それなら良かった。



 悪夢を見たのにとても寝覚めが良いのは、きっと涼子さんが傍に居てくれているからなのだと思いたかった。



「食べたいな。涼子さんの焼きそば。半熟の目玉焼きを乗せた絶品の焼きそばを」

「直ぐに作ってきますから、まずはシャワーを浴びて着替えを済ませてくださいね」



 可笑しそうに笑む涼子さんはスッと立ち上がると、起き上がるのを手伝ってくれた。廊下に出るまでは不安定な杖一本を頼りにしなければならない為、いつもは床に座った態勢で這うように移動していた。それを一度、お母様に見つかった時ははしたないとこっぴどく叱られたが、忙しい給仕の人達の手を借りるのはどうも気が引けてしまう。



 脱衣所まで付き添ってくれた涼子さんはリクエストの焼きそばを作るために厨房へと向かった。料亭だったという和の雰囲気に合わせた全面木造。数人が一度に入浴できるような広さは大浴場という表現に近いかもしれない。しかし材質が木材である為に手入れがとても大変だと若い給仕の方が言っていた。



 シャワーで汗を流してから湯に肩まで浸かると、身体が喜ぶように全身がジワジワと解れているのを感覚した。



 次第にクリアになっていく頭はリラックスしていく身体とは真逆に、ここ最近で起きている連続猟奇殺人事件について考え始めた。これまで特に気にも留めなかった他人事だったが、実際に自分の家の庭に死体を遺棄されれば気にならないはずもない。



 世間で恐れられている犯人も普段は人間社会に溶け込んでいるのだろうか。平然とした顔の下に隠した強い想いを秘めながら、次なる獲物をどのような眼で選定しているのか。



 犯人について考えているうちに自分でもゾッとするような、湯の温度が四度くらい下がったような錯覚に自分の身体を抱きかかえる発想に至った。



――私と同じだ。



 訴えたい意志があるのにそれは誰にも理解されず、周囲から疎まれて距離を置かれる自分と犯人がピッタリと重なってしまった。



――この事件を引き起こした人物となら。



 口角がわずかに持ち上がり、水面に映る自分を見下ろして、愉快な気持ちが込み上げてくる。



――共感しあえるかもしれない。

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