あけずの櫃
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あけずの櫃
第一章 (聖痕)
孝司が、紀子と出会ったのは、中学2年の夏休みの事だった。
その日は、記録的な猛暑でとにかく信じられないほど暑い日だった。孝司は悪友の慎二と茨木市の公営のプールに行く約束をしていた。大阪府茨木市、東野孝司はここで生まれ育った。正確には茨木は茨木でもほとんど亀岡市に近い下音羽と言う山奥の村で阪急の茨木駅からバスで優に一時間はかかった。関東の人には馴染みがないかもしれないが、茨木は「いばらき」と読み「いばらぎ」と読むといっぺんでよそものである事がばれてしまうのだ。
孝司が慎二と待ち合わせをしていたのは、JR茨木駅の郵便ポストの前だった。几帳面でまじめな性格の孝司は待ち合わせの時間に遅れそうだったので、バスが、信号で止まるたびにいらいらしていた。結局、待ち合わせの場所に着いた時にはすでに約束の時間を15分程オーバーしていた。しかしそこには慎二の姿はなかった。
「あれ?なんや慎二の奴まだ来てないんか・・なんじゃあわてて損したわ」孝司は思わず郵便ポストをけ飛ばした。その時、後ろから大きな声がした。
「こらっ!だめじゃないかそんな事をしては、逮捕するぞ!」一瞬、孝司はドキっとしたが、それが、悪友の慎二だったという事はすぐにわかった。
「あほ!脅かすな、なに東京弁話しとんねん!びっくりするわ!」孝司は顔を真っ赤にして怒った。そんな孝司の額には玉のような汗が光っていた。
「あほは、おまえじゃ」慎二は簡単にひっかった孝司を見て大笑いをして後ずさりすると郵便ポストにぶつかってそのままひっくり返ってしまった。「大丈夫か?ほんま驚くわ」孝司はあきれながら慎二の手を引っ張って起こしてやった。
二人は顔を見合わせ大笑いした。
箕輪慎二、慎二の母親と孝司の母親は高校の同級生だったので、二人は小さい頃からよく一緒に遊んでいた。しかし慎二の家は阪急茨木駅から5分位のところにあって孝司とは家が離れていたので小学校は別々の小学校で、中学で初めて同じ学校になったのだった。
二人が行こうとしている、茨木の公営プールは今年の春に出来上がったばかりで、今日がプール開きの日だった。二人が市民プールに着いた時には、もう老若男女でごった返していた。
「孝司!どうする?やめとくか?えらい人やで・・・」
「ここまで来てやめられるか1時間かけて来てんねんど」
「しゃないな、ほな待ちまひょか・・・」慎二の爺むさい
言い方に孝司はこう続けた。
「慎二さぁ、おまえの格好?何でそんなに爺むさいんじゃ?」慎二は、むっとしてこう言い放った。
「あほか、夏はこれが一番ええ格好なんじゃ!」
そう言う、慎二の格好はランニングシャツに麦わら帽子、学校の紺の半ズボンにゴムぞうりと言う格好だった。
それに対して孝司は、当時はやっていたバミューダパンツにVANのTシャッツ、そして阪急ブレーブスの野球帽、白いスニーカーと言う精一杯のおしゃれをしてきたのだった。「まぁ俺のおしゃれの引き立て役をやってくれたまえ」孝司は腰に両手を添えて大げさに笑った。
「まぁ勝手にほざいとれ!」慎二は、精一杯強がってそう言うのだった。
30分程炎天下の下、待っただろうか、二人は、やっとプールに入る事が出来た。新しく出来たこの公営プールには大きなプールが二つと子供用の小さなプールが三つあった。当時としては最新の設備を誇っていた。
「おい、あそこにおるのは田中ちゃうか?」慎二が指さす方向を孝司は見た。紛れもない隣のクラスの田中肇だった。田中肇は千利休の子孫と言う噂があったがその真偽は定かではなかった。すると田中肇もこちらに気がついた様でこちらに向かって来た。
「こっちにきよんど」慎二と孝司は顔を見合わせた。二人は田中肇が苦手だったからだ。
「君たちも来てたんや」田中肇は無表情にそう言うと、にやっと笑った。孝司は田中肇とはこれまで話をしたこともなかったが、田中肇は思いもよらない事を言うのだった。
「東野君だよね?前から君に伝えたいことがあったんやけど・・・」そう言うと田中肇はなぜかちょっと考え込むような仕草を見せた。「なんやねん早よ言えよ」慎二が田中肇をせかした。田中肇はこう言うのだった。「東野君は隠れキリシタンなんでしょ?」
沈黙の時間が流れた・・・
孝司は何の事か全く分からなかった。「キリシタンって何やそれ?」孝司は初め聞く言葉だった。「えっ、あ・・ごめん・・」そう言うと田中肇は、ばつの悪そうな顔をして、そのまま子供プールの方へ向かっていった。「なんや あいつ訳わからんやっちゃな・・ほんま」慎二は、はき捨てる様にそう言った。孝司はキリシタンと言う言葉は初めて聞く言葉だった。「キリシタンってなんの事や?」孝司は、さっぱり意味が分からなかった。「そういえば、おばあちゃんが昔言うてたけど、この辺には昔キリスト教を信仰する人らが住んどったそうや、そのこととちゃうか?」
慎二がそう言ったその時、孝司の隣にいつの間にか小学校3年生くらいの女の子が現れて孝司にこう告げた。「キリシタンの印やで・・・そのわき腹のアザ・・・」
「えっ何?」
「それは、聖なるしるし・・聖痕や・・・」
それが紀子との最初の出会いだった。
第二章 あけずの櫃
「慎二! 見たか今、俺の隣に小学校3年生位の女の子がおったやろ?」
「えっ?誰もおらんぞ、何寝ぼけとんねん・・・」
「いたやん、ここにランドセル背負って・・」
孝司は自分でそう言って、はっとした。なぜ、プールにランドセル背負ってくる子がいるのか?孝司は幻を見たのか? 孝司は背筋がぞっとした。幽霊を見たのか?
紀子は幽霊でも幻でもなかった。この事件以降、紀子は、孝司の前に頻繁に現れる様になったのだ。
次に紀子が現れたのは、孝司のお爺さんのお通夜の晩だった。
孝司のお爺さんは、下音羽の村長を長年つとめた事もあって通夜には村じゅうの人が来たのではないかと思うほどだった。孝司は通夜と言うものも初めてだったし、死んだ人を見るのも初めてだった。棺桶の窓から覗くお爺さんの鼻には白い詰め物がしてあり、お爺さんの顔をこんなに間近で見るのも初めてだった。お爺さんの眉毛は、今までに、見た事がないほど長かった。孝司は、お爺さんの眉毛と白い詰め物が気になってしょうがなかった。
その時に孝司は自分のズボンを誰かに引っ張られている気がした。振り向くとそこに紀子がいた。
「しー!・・・うちの姿はお兄ちゃんにしか見えへんの・・・」
「自分・・誰や?幽霊か?」孝司の隣にいた親戚のおばさんが
自分の事を言われたのかと思いにらんでいた。
「すみません・・・」孝司は頭をかきながら紀子の手を引っ張って人のいないところまでつれていった。
「幽霊やないみたいやなぁ・・今、手握れたから・・自分、名前はなんて言うんや?どこから来たんや?」
「紀子・・・うちの名前は紀子・・お兄ちゃんに大事な話を伝えたくてここに来たんや」紀子の格好はよく見ると近所の小学生の格好とはかなり違っていた。ぴったりとしたタイツの様なズボンを孝司はこれまで見たこともなかったし何よりも小学生が時計をしている姿なんて見たこともなかった。しかもその時計も見たことも無いような奇妙な形をしていた。
「お兄ちゃん、ついてきて」そういうと紀子は屋根裏部屋まで孝司を連れていった。お爺さんの家は孝司の父親が言うには明治の初期に建てられた家で、100年は経っているのではないかと思われた。
「紀子ちゃん、何でこんなところに来るんや?何があんねん?」屋根裏部屋は、小さな裸電球が一つだけで、どこに何があるのか皆目検討がつかなかった。小さな窓が2つあり、そこから月の明かりが差し込んでいた。
「お兄ちゃん・・・あれ見て」紀子ちゃんが指さしたのは屋根裏部屋を支える大黒柱だった。孝司は小さな裸電球を大黒柱の方に手で向けるとそこには何か箱の様なものが縛り付けられていた。
「なんや?あれ?・・えらいふるい箱やなぁ」そういうと孝司は大黒柱の裏側に隠す様にいわえられていた小さな箱を取り外し手でほこりを払いのけた。そして裸電球の下に孝司と紀子は座ってその箱をおそるおそる開けてみた。
「なんやこれは?」そこには古い人形と丸まった古い絵、そして木で出来た十字架が入っていた。その十字架は長い年月で真っ黒になっていた。孝司は十字架と古い人形(それはマリア像だったのだが・・)を取り出すと、次に丸まった絵を広げた。「あっ、これはフランシスコザビエルの有名な絵? 学校で習ろたやつや!」それは、中学の社会で習ったばかりのキリスト教伝来の箇所で出てきた宣教師フランシスコザビエルの絵だった。「あれ?よう見たらザビエルの向いている方向がちゃうがな!」その絵はザビエルが右の方向を向いていた。確か社会の教科書の絵は左を向いていた。「お兄ちゃん、よう気がついたなぁ、ほんまはあの絵は2枚一組になってたんや、最初の絵もここ下音羽で見つかってるで・・」
「お兄ちゃん、その十字架をこの絵の様に持って」
「えっ・・・こうか?」その時だった孝司の目の前の景色がめまぐるしく変わり一瞬、孝司は気を失いそうになった。
「ここは、どこや?俺は生きてるんか?」
「大丈夫や・・お兄ちゃんは、江戸時代にタイムスリップしたんや・・ここではお兄ちゃんは、東野新七朗・・・お兄ちゃんの6代前のお爺さんやで・・・」
「何やさっぱり分からんけど、そや、わしは新七朗じゃ・・・何?・・・俺は何を言うてんねん?」
孝司は自分であって自分で無いような不思議な感覚に陥っていた。
確かに自分が新七朗に違いないとだんだんと新七朗になっていく自分がそこにあった。
第三章 高山右近
「新七朗、隼人、よく聞くのじゃ。我ら高山隊はクルスの旗の下、信長様を裏切った明智光秀の討伐を秀吉様から仰せ付かった。」
時は、天正10年6月、まさに歴史が大きく変わろうとしていた。室町幕府を事実上滅亡させ、畿内を中心に強力な中央集権を確立し天下統一も目前であった織田信長が本能寺で家臣の明智光秀に反旗を許し本能寺で自害したのだった。「殿、新七朗は、ついこの間、元服したばかり・・戦はまだ時期早尚かと・・」加賀山 隼人 洗礼名はディエゴ 彼は、1566年摂津国高槻に生まれ10歳の時にルイス・フロイス神父から洗礼を受けていた。隼人この時17歳、初めての戦だった。
「新七朗は伊賀の出、幼き時より我らには信じられない修行をこなしてきておる。むしろわしは隼人が心配な位じゃ」孝司はまだ、新七朗にはなり切れておらず、この殿と呼ばれる人の話が理解できずにいた。きょとんとしている孝司・・・新七朗に紀子がこうささやいた。
「お兄ちゃんは、東野新七朗って名前で高山右近と言う大名に仕えている家臣や・・ほんで伊賀の忍者やで・・・」
「に・・にんじゃ??俺が・・忍者?」
「新七朗は、何をぶつぶついっておるのじゃ、とにかく
明日、我らは山崎に兵を進める!判ったか?」
「はっ承知いたしました。」新七朗と隼人は大きな声で気合いを入れるのだった。
「兄じゃは、戦は怖くないのですか?」新七朗は隼人にそう聞くのだった。「新七朗、戦が怖くない人間などいるものか!只、我らには、デウス様がいつも一緒にいてくださることを忘れてはいけないぞ」
「は!」新七朗は十字を切って空をあおいだ。
あれ? 孝司は新七朗のこの仕草の意味が分からなかった。「紀子ちゃん、新七朗のこの仕草は何を意味してるんや?」「それはキリシタンが行う仕草なんや、新七朗はキリシタンなんや・・・お殿様も隼人さんもみんなキリシタンやで・・・」「キリシタンが戦をしてええんか?」孝司の声は恐怖でふるえていた。それは当たり前の事で、孝司の生きていた時代では、戦争なんて遠い世界の出来事だったからだ。「紀子ちゃん、はよ俺を元の時代に戻してえや・・・俺はまだ死にとうない!」「お兄ちゃんは死なへん、大丈夫、全部、神様の計画や・・大丈夫や!」紀子の目は真剣だった。その気迫に孝司は何も言えなくなった。
「わかったわ・・・その言葉信じるしかないな・・・紀子ちゃん、お殿様の事をもっと教えてくれへん?」「せやな、お殿様もそうやけど、この時代の事をもっと知っておかなあかんな・・・」そう言うと紀子は腕まくりをした。
「お殿様の名前は高山右近・・戦国時代のキリシタン大名の代表選手や!この人の影響からキリシタンになった大名は多いんや、例えば、牧村政治、蒲生氏郷、黒田孝高、お兄ちゃんも歴史で習ったやろ?」正直、孝司は皆初耳の名前ばっかりであったが、すごい人なんやろなぁと言う事は何となく判った。
「ほんで重要なのは、この戦国時代の話や・・・この時代は日本の混乱の時代・・・天下統一を巡って戦が日常茶飯事の時代や、織田信長の3日天下ってお兄ちゃんでも、さすがに聞いてると思うけど、その信長を家臣の明智光秀が暗殺したんや、これから始まる戦は明智光秀への復讐の戦や」
「復讐の戦・・・」孝司いや新七朗は戸惑いを隠せなかった、新七朗の初陣は明日に迫っていた。
第四章 大罪
その日は雨だった。天王山の山裾を横切って高山右近のクルス隊そして中川清秀の中川隊と明智秀光側についた伊勢貞興の軍勢との衝突で戦いは始まった。
「新七朗、後ろじゃ!」隼人の声に新七朗は振り返ったその時、二人の敵兵が同時に刀を振りおろしてきた。とっさに新七朗は二人の間を転げぬけ一撃のもと二人の首もとを切りつけた。二人は即死だった。「さすが伊賀者」隼人はその鮮やかな身のこなしにただただ感心するばかりだった。雨も本格的に振り出し気が付くと周りは敵や味方の死体の山だった。30分位の戦いだっただろうか?新七朗にはそれが、何時間にも感じられた。敵も一旦は退却した様子で隼人と新七朗は大きな木の下で小休止していた。
「兄じゃ、わしは何人、人を殺してしまったのか?数えられないほどの人を殺してしまった。間違いなく地獄行きだ!」「新七朗、それはわしも同じ事、二人で地獄に行こう。地獄でデウス様のご慈悲があれば良いのだが、それもかなわぬ事であろう。もし、この戦いで生き延びる事ができれば中津の教会で懺悔をしよう」
その時、二人の目の前に騎馬武者が現れ、こう叫んだ。
「伊勢貞興の第二派の軍勢がすぐそこまで来ている!皆の者は、すぐにこのまま前進し羽柴軍と合流するべし!」
「おい、聞いたか?親方様がお戻りになったそうじゃ」隼人の声は興奮で声が震えていた。「おぉデウス様は我らを見捨ててはいなかった。アーメンじゃ!」新七朗は天を仰ぎ十字を切った。高山右近のクルス隊はこの戦いですでに大きな痛手を追っていた。何人の命が失われたのだろうか・・隼人と新七朗の周りにいた数十人の姿はもうそこには無かった。二人も雨の中での初陣で体力は限界をとうに越えていた。二人の体からは湯気が立ち上り、いかに二人が体力を消耗しているかが判った。新七朗は泥にまみれたクルスの旗を手に持ち羽柴軍と合流するために最後の力を振り絞るのだった。
羽柴軍が備中高松城の陣を引き払ってここ天王山までこんなに早く戻って来れるとは明智軍も思っていなかったのだろう。この「中国大返し」がクルス隊を救ったのだ。
この「中国大返し」は天下分け目の戦いの肝になる事件として今日まで語り継がれている。
隼人と新七朗は羽柴軍に合流するため天王山の山裾を高槻方面に足を進めていた。雨はすでにやんではいたが、足下はぬかるんでおり、あたりも暗くなって来ていた。
その時だった。草陰に潜んでいた敵兵がいきなり隼人の背後から切りつけてきた。新七朗はその気配にいち早く気づき振り向きざまにその敵兵を一刀両断に切りつけた。月の明かりで倒れたその敵兵の顔を見て新七朗は息を飲んだ。
「こやつ・・おなごか?」その敵兵は女だった・・
実際のところ戦国の時代では、女性が戦に出ることも珍しい事では無かったのだが、二人は初めての戦・・新七朗はそのまだ幼さが残る女の顔を見て罪の意識がますます重く感じられた。「わしは何をしてるんじゃ」新七朗は天を仰いだ。「デウス様・・・私を許してください・・・」
新七朗・・いや孝司の意識はそこで無くなった。
第五章 中津教会
深い深い闇の向こうに光が見えてきた、次の瞬間、孝司、いや新七郎は教会で祈っていた。長い長い祈りだった。隣には加賀山隼人が同じく祈っていた。二人の祈りが終わった頃、なにやら後ろがざわついていた。何かと思い二人が振り向くと、そこには何人かの侍女に付き添われた美しい女性が修道士と話をしていた。
「おい、新七郎!あの方は細川忠興様の奥方、細川玉様だ!なんとお美しい方なんだ」 確かに細川玉の美しさは飛び抜けていた。
しかし、時代は玉には厳しく信長に謀反を働いた明智光秀の娘、逆賊の娘として
玉は厳しく監視されていたのだった。そんな玉であったが細川忠興が九州討伐に出かけた隙を見て教会に洗礼を受けに来たのだった。
その日はちょうど復活祭の日であり、復活祭礼拝が行われ様としていた。
そして、なんと言うことか、細川玉とその侍女たちは新七郎、隼人の隣に席を取ったのだった。隼人の隣には2人の侍女が座りその向こうに細川玉、そしてまた侍女が座った。その時、新七郎は玉の向こう側に座った侍女と目があった。その侍女は軽く会釈をした様に新七郎の目には写った。
そして神父の説教が始まった。説教が始まっても新七郎はその侍女の事が気になって神父の説教は耳に入ってこなかった。その侍女の名前は清原 きこ そう、あの
細川 玉をキリスト教に導いた清原 いとの妹だった。清原いとは、高山右近と非常に近しい清原枝賢の娘だった。
説教が終った。新七郎は心ここにあらずだった。次の瞬間、気がつくと、加賀山隼人が、隣の細川玉の侍女と話を始めるているではないか、新七郎はあっけに取られた。そう、この侍女こそ清原いとその人だった。
「新七郎、この方は、清原いとさん、細川様の侍女頭をされておられる。拙者とは子供の頃からの知り合いなんじゃ、拙者もこの教会でお会いできるとは夢にも思わんかったが・・・」 「いとさん、こやつは、わしの弟分、東野新七郎 じゃ」 新七郎は、がらにもなくドキドキしていた。天王山の戦で多くの血を流したのが新七郎には遠い過去の事の様に思えた。「新七郎さん、初めまして私たちは今日、奥方様の受洗を修道士様にお願いしに来たのです。でも受洗には準備が必要との事、残念ながら今日は受けることが出来なかったのです。奥方様は、今度いつ教会に来れるか分からないというのに・・・」 「そうですか・・・一日も早く受洗できますように拙者もお祈りしています。」
事実、玉が教会に来れたのはこの日が最初で最期だった。ちょうど、この年の7月24日に秀吉は、あのバテレン追放令を発布したのだった。バテレンとは、ポルトガル語で神父のことを指す言葉だ。
秀吉はそれまでは、信長の政策を受け継ぎキリスト教には寛大であったが、九州征伐の途中で宣教師やキリシタン大名によって仏教徒が迫害を受けたり、多数の神社や寺が焼かれていること、また日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていることを知り九州征伐後、博多にて当時の布教責任者であるガスパール・コエリョを召喚しバテレン追放令を発布し宣教師の国外退去とキリスト教宣教の制限を表明したのだった。
細川玉は自らの身分を明かすことができなかった為、受洗できずにその日は教会を後にしなければいけなかった。
そして新七郎と隼人は教会の前で細川玉の一行を見送る群衆の中にいた。修道士は玉の事を知らなかったが、多くの民衆は、細川玉の事をよく知っていたからだった。その時、紀子が現れ新七郎いや孝司に囁いた、「お兄ちゃん、その本をきこさんに手渡してあげて」それは、高山右近から貰い受けたコンテムツス・ムンジだった。「えっ、俺は全然、面識あらへんのに・・」「かまへん、きこさんもお兄ちゃんとお話ししたいんや」そういうと紀子の姿は次の瞬間、消えていた。
孝司(新七郎)は勇気を振り絞り清原きこの前に躍り出た。「これは、わしの親方様からもろうたキリシタンの本や、受け取って」清原きこは、この突然の事に驚く様子もなく
うんと頷いてただ一言こう言った。「ありがとう新七郎さん」
新七郎は、顔が真っ赤になるのが自分でもわかった。そして走り去るように群衆の中に戻ったのだ。
用意されていた駕篭に乗り込んだ細川玉たちを見送った後に、隼人と新七郎は、播磨の国の帰路に着いた。この時、高山右近は、秀吉から播磨明石群に領地を6万石与えられて船上城を居城としていた。しかし右近も玉と同じく、秀吉のバテレン追放令の発布の後、悲運の人生を強いられる事になるのだった。
「新七郎、教会に足を運ぶことも今後は厳しくなるぞ、羽柴の親方の動きがどうも拙者は気になるのじゃ、羽柴の親方は、今の所はイエズス会との関係を表面的には重んじているようじゃが、その実は、火薬の供給源としか見ていないのじゃ、そして昨今は、キリシタンの結束力を恐れ始めているのは間違いないと思うてる」「兄者、羽柴の親方は、右近様も追いやろうとしているのではないですか?どうも私にはそう思えてならんのです。」「そう、新七郎その通りだ、それはそうとして、なぜ清原きこ様は新七郎の名を知っておったんじゃ・・」 確かに清原きこ様と新七郎は教会では一言も話しはしていなかった。「そういえば、いとさんが、お前の持っていた、その本の事をわしに聞いていたな、コンテムツス・ムンジを持っている人間なんぞ、見たことないからなぁ、よっぽど気になったんじゃろ、細川玉様も気にされていた様子じゃったぞ」 事実コンテムツス・ムンジが一般に知られる様になるのは、それから数年後であった。細川玉が洗礼を受けた後に片時も離さなかったという話はあまりにも有名な話であって細川玉がコンテムツス・ムンジを知るきっかけとなったのが、新七郎が清原きこに手渡した、このコンテムツス・ムンジだったと言う事実を知る人はほとんどいなかった。
第六章 クルス山
「東野君! 起きなさい!」
孝司の頭の中でその声がグルグル回っていた。孝司は今、自分がどこにいるのかわからなかったのだ・・・ 「あっ吉田先生・・・おはようございます。」
「何寝ぼけてんの?」 孝司はやっと今自分が、中学の教室にいる事、吉田先生の歴史の時間だった事が理解できた。「後で職員室きいや、ほんまにもう、しゃーないなぁ」吉田先生は教科書で孝司の頭を軽くこづいて授業を続けた。
「なんや、夢やったんか・・妙にリアルな夢やったな・・・」孝司はふと窓の外を見ると、
そこには紀子ちゃんが手を振っていた。「えっ??ここ2階ちゃうの?」紀子ちゃんは確かにそこにいた。そして窓から入ってくると孝司の隣の空いた席に座った。「紀子ちゃんまずいよ、今授業中!」 「大丈夫やうちの姿はお兄ちゃんしか見えへんから、それより授業が終わったら校門の前で待ってて、お兄ちゃんに見せたいものがあるんや」「わかった。わかった。」 「東野君、何がわかったん?!もういい加減にしてや!」吉田先生は美人で有名だったが、気性の激しいところもあり、瞬間湯沸かし器のあだ名がついていた。孝司はこれ以上、吉田先生の感情を逆なでしないように小さくなった。
そして職員室で孝司は吉田先生の席の前にたたされていた。窓からは紀子ちゃんが
ニコニコ笑ってそれを見ていた。
「あのね、お母さんから東野君の家での生活の事も聞いてるけど、なんかずっと寝てるそうやね?どっか体でも悪いんか?」 吉田先生は歴史の教科書を団扇代わりにして煽いでいた。 「いえ、体はどこも悪くないと思てます・・・せやけど一回寝るとなかなか起きられへん体質の様で・・・」孝司は頭をかきながらそう答えるのだった。
「まぁ、ええわ・・とにかく学校で寝るのはやめてや」 孝司はやっと先生から解放され職員室を出た。するとそこに紀子ちゃんが待っていた。
「お兄ちゃんが、あんまり遅いから迎えにきたわ!ほな行こか?」「えっどこいくん?」「クルス山や!キリシタンの村がある山や」 孝司は訳がわからなかった。
「まぁしゃないな・・・」と、孝司はとりあえずはつきあうしかないかという感じで紀子ちゃんについていった。校門を出て国道を少し北上したところにバス停があった。
そして二人は忍頂寺行きのバスに乗りクルス山に向かった。バスは1時間に1本しか出ていなかったが、二人は待つ事もなくすぐに乗る事ができた。
孝司はクルス山に行くのは初めてだった。
ほんの10分もすると田園風景が広がり、のどかな景色に様変わりした。青い空とどこまでも続く緑の森のコントラストはまるで今までと全く違う世界に迷い込んだ様な錯覚を起こさせた。「ほんまのんびりするなぁ」紀子ちゃんは窓の外の風景を見ながらホッとため息をついた。そんな幼い紀子ちゃんを見て孝司も心が和んだ。「あれがクルス山やで」紀子ちゃんが指差す方向にその山はあった。クルス山・・・どこかで聞いた響き・・・孝司はクルスという言葉を何度も自分の心の中でリピートさせた。
クルス山の麓のバス停で二人はおりてクルス山を登った。紀子ちゃんは孝司の前をどんどん先に登っていき孝司は後を追うのが精一杯だった。 「こっちや!こっち!お兄ちゃん!遅すぎ!」「紀子ちゃん何、そんなに急ぐんや?待ってえな・・・」孝司は汗だくだった。 孝司は紀子ちゃんの姿を見失ったが、道は一本しかないので「まぁええか」とタオルで汗を拭いながら自分のペースで山道を登った。しばらくすると紀子ちゃんが何かの前で座り込んでいた。それは祠(ほこら)の様なものだった。
「お兄ちゃん、これやこれ マリア様の祠やで・・・」そういうと紀子ちゃんは、
そのマリア像らしき像の(実際には、お地蔵さんの様にしか見えなかったが・・・)の裏側に手を伸ばし何かを探しているようだった。しばらくゴソゴソして次の瞬間、紀子ちゃんはにこっと笑ってこう言った「これを見てもらいたかったんや!」紀子ちゃんの手には真っ黒になった竹筒が握られていた。「なんやそれ?」孝司はその竹筒が入れ物の様になっている事に気が付いた。そして上側の竹筒を回しながら力を込めて上側の竹筒を引っ張ると「ポン」という良い音がしてその竹筒は二つに分離した。中にはとても古い巻物の様な物が入っていた。孝司はそれを広げて読もうとした。
「えーっと、千利休・・・徳川家康・・・キリシタン・・・あかんほとんど読めんな・・・」
「うちが読んだるわ」紀子ちゃんは、ふむふむと一読すると、その内容を説明し始めた。
「これにはな、こう書いてあるんや、あの豊臣秀吉がなんで備中の国、今の岡山県から奇跡的な早さで山城山崎まで戻って来れたのか?ってことや・・・お兄ちゃんなんでやと思う?」 孝司は検討もつかなかった。「わからんなぁ・・初めから知ってたとかそういう事か?」 「そうや、感ええな・・そういう事やねん。豊臣秀吉は初めから明智光秀が織田信長を暗殺する事を知ってたんや・・・と言うかそう言う風に仕向けたと言うてもええんちゃうかな・・・」 「罠にはまったんか?・・・」「そうや。イエズス会の罠にはまったんや!」 「イエズス会?なんやそれは?」「ローマ教皇の精鋭部隊や!フランシスコ・ザビエルもイエズス会やで・・・戦国時代では、どこの武将も最新鋭の武器が欲しかった訳や・・・その武器を供給していたのもイエズス会って言う訳や・・・織田信長は、そんなイエズス会と表面上はうまくつきあってはいたけど、入信はしてへんやろ、それは信長は仏教勢力の対抗手段や南蛮貿易の手段としかキリスト教を考えておらんかったんや、イエズス会は織田信長のそんな魂胆がわかって来ると、織田信長が将来的に自分たちを脅かす存在になるんとちゃうかと思てきたんや」
「そこで明智光秀をそそのかして暗殺を計画したという訳や」
「千利休はどういう関係なんや?」孝司が紀子ちゃんにそう聞いた時、「それは僕が教えたる」孝司は声のする方を振り返ると、いつのまにかそこに田中肇が立っていた。そうあの千利休の子孫と噂されていた“いけすかない”奴だった。 「自分、この子が見えるんか?」と孝司は驚きが隠せなかった。なんせこれまで紀子ちゃんは自分にしか見えない存在だと信じていたからだ。
「あぁ紀子ちゃんとは顔なじみやで、むしろ東野君より古い知り合いやで」
「そうなん?」孝司はびっくりした。
「そう肇お兄ちゃんとは古い知り合いやねん」紀子ちゃんはニコニコ笑っていた。
「肇お兄ちゃん・・・・なんやそれ?」孝司は少し機嫌が悪くなった。
「それで千利休の関係ってなんなん?」
「高いで・・・この話は・・」田中肇はもったいぶってそういうのだった。「もうええわ、はよ言えよ・・」相変わらず田中肇は人をいらつかせる奴だった。
「言いますよ、よう聞いとってや・・・」
「信長を暗殺したのは、実は明智光秀とちゃうんです。あのイエズス会なんです。東野君はイエズス会って知ってる?」田中肇は相変わらずだった。「知ってるわ、さっき自分が説明しとったやんけ・・」孝司は意外と田中肇はボケキャラなのかとむかつきながらも笑いそうになった。「せやったな、それは失礼・・で、イエズス会は信長が天皇をも超えた存在、すなわち神となろうとした事に対して許す事ができなかったんや。ほんで千利休はイエズス会と深いつながりを持っとって、信長を本能寺に誘い出すのに一役買ってるんや。」田中肇は得意げに話を進めた。
「これは常識やけど、当時の武将のうちでは茶の湯が一番のステータスになってたんや。信長も茶の湯に熱心で茶器にも相当に熱心やったんや、俗にいう名物狩りという奴やね。そんな信長の収集癖に付け入り、本能寺で信長がのどから手が出るほど欲しがっていた茶器を披露するような働きかけをしていたのが千利休、僕の遠い遠いおじいさんやったという訳ですわ」
「なんでそんな事、自分がしっとんねん?」孝司はもうええ加減にしてやと言う感じだった。「わかりました。それでは東野君も一緒に行きましょか?」「えっどこにや?」
次の瞬間、孝司の目の前の景色が小さな一点に吸い込まれていった。
第七章 野点(のだて)
次の瞬間、孝司は息を飲んだ。なぜなら歴史の教科書で見た、あの千利休が目の前にいたからだ。その隣には高山右近、細川忠興、古田織部、牧村兵部、何故かそこにいた人物の名前がすらすらと出てきた。
時代は1586年、新七郎が清原きこと出会う1年前だ。
「新七郎!大丈夫か?」 それは加賀山隼人だった。その隣には田中肇が座っていた。「あぁ大丈夫じゃ」孝司、いや新七郎はうろたえながらも体裁を取り繕った。
「新七郎、こちらは千道安氏、利休先生のご子息だ・・」 新七郎は、田中肇がそのまま大人になった様な、この道安という人物が千利休の子供と言われてもピンとこなかった。「せ・・拙者は東野新七郎と申します。以後、よろしくお願い申し上げます。」新七郎がかしこまってそういうと、道安は新七郎の耳元でこうささやいた。「俺や俺・・・田中肇や・・・ほんまアホやな、東野孝司ちゃん」 「えぇ・・・田中肇?」
孝司、いや新七郎の頭の中で田中肇と千道安の名前がグルグル回っていた。
「大丈夫?お兄ちゃん」紀子だった。その紀子の声に新七郎は、我に返った。
「紀子ちゃん、説明して、田中肇は何者なんや?」
「田中のお兄ちゃんは、私と同じく時間軸を超える能力があるんや、この時代では千道安って千利休の長男を名乗ってる。田中のお兄ちゃんは、孝司お兄ちゃんに千利休の手足となってある仕事をしてもらいたいと思ってるんや」
「なんや、その仕事って?」
「それはわしが説明しよう」千道安、田中肇だった。
「なんや、ややこしい奴やな、今、野点の最中やから大丈夫なんか?」
「大丈夫や、今は時間が止まってる。見てみ・・みんな固まってるやろ」
確かに千利休をはじめ野点に集まった全員の時間が止まっていた。
「ほ・ほんまや」新七郎はその異様な風景にあっけにとられていた。
千道安の説明が始まった。
「まず、この野点、集まってるのは皆、キリシタンや」
「えぇ!千利休もキリシタンなんか!」新七郎は驚きで声をあげた。
「せや、みんなそうやで・・・ほんでこの茶の湯や・・これはキリシタンの礼拝なんや
、なんやかんや言うても羽柴の親父はキリシタンの事はよう思てないんや!いつかはキリシタンを追放するんとちゃうかと思てる」
「せやで、事実、豊臣秀吉は来年にバテレン追放令を出すんや」それは紀子だった。
紀子は続けた。「この一つの茶碗の同じ飲み口から同じ茶を飲むと言う“濃茶”の作法はキリシタンの“聖体拝領の儀式”と同じやねん。ほんで、茶入れを拭く際の作法も聖杯を拭く仕草と同じなんやで・・」
「茶室の躙り口が2尺しかなく狭いのも聖書の“狭き門から入れ”を表してるんや」千道安/田中肇が続けた。
次の瞬間、止まっていた風景が動き出した。
「新七郎殿、貴殿にお願いしたい事がある。この書状を家康殿に渡して頂きたい。」千道安となった田中肇がかしこまって言った。
続いて高山右近「新七郎、おぬしの忍びの力が今、ここにいる我々キリシタンの同胞に必要なのじゃ」千利休が続けた。「羽柴殿は、今にもキリシタンを追放しようとしている、我らはイエズス会の命を受けて家康殿と同盟を結ぶ事にしたのじゃ、新七郎殿には、家康殿にこの書状を届け家康殿の了解をもらって来てもらいたいのじゃ」
新七郎は、その命の重さに押しつぶされそうになったが、同時に皆の期待に答えたいという気持ちがメラメラと湧いてくるのだった。
「承知いたしました。」新七郎は大きく答えた。
「よくぞ申した。」高山右近が手を叩いた。細川忠興、古田織部、牧村兵部も皆、
手をたたき新七郎を讃えた。
1586年、徳川家康は、その居城を浜松城より駿府城に移していた。そう駿河の国、今の静岡県にあたる。
勢いでそうは言ったものの、不安になった新七郎(孝司)は紀子に駿河の国までの距離を尋ねるのだった。
「紀子ちゃん、駿河の国までここからどの位で行けるんや?」
「せやな、この時代の人は一日平気で40キロ歩いたそうや、そのペースで行くと、2週間で駿河の国まで行ける計算になるね・・・」
「2週間?なんやそれ」新七郎(孝司)は気が遠くなりそうだった。
そして高山右近「新七郎、この書状を1週間以内で家康殿に手渡すのじゃ、我らには時間がないのじゃ」
「え・・・」高山右近の言葉に新七郎は。逃げ出したい気分になった。
「お・・・親方様・・・」新七郎は泣きそうだった。
「新七郎、大丈夫じゃ安心せい、拙者も共に参るつもりじゃ」加賀山隼人のその力強い言葉に新七郎は励まされた。
「隼人、新七郎に一句贈ろう。」
細川忠興だった。一同は細川忠興の俳句に耳を傾けた。
「クルス山、越えて集わん主のみもと」
細川忠興、そう明智光秀の三女である細川玉の夫、これからの新七郎(孝司)の人生にも大きく影響を与える人物だった。
そして紀子にも・・・
第八章 徳川家康
新七郎と加賀山隼人は、超人的は早さで徳川家康の居城である駿府城に向かっていた。駿府城まではもうすぐだった。走りながら孝司は紀子に前から疑問に思っていた事を聞いてみた。紀子はいつも孝司のそばにいたからだ・・・
「紀子ちゃん、家康は、小牧・長久手の戦いで秀吉軍に勝ったのに、なんで秀吉に臣従しなあかんかったんや?前から不思議やったんや・・・」
「あのね・・・小牧・長久手の戦いで、家康は確かに羽柴軍に勝ったんやけど、それは長い長い戦いのほんの一つの戦いでしかなかったんや・・織田信雄・徳川家康軍は全体的には負け戦で豊臣秀吉と講和を結ぶしか選ぶ道はなかったんや・・・せやから家康は自分の領地を取られた上に、秀吉に臣従しなんとあかんかったんや、家康としては当然、面白くはないわなぁ・・千利休、イエズス会はそこに目をつけたんや・・・」
「えっそれはどういう事なん?」
「この時代の鍵はイエズス会が握ってたという事や、イエズス会は、それ以前にあった、修道会クリューニー会やフランシスコ会とは違って「より大いなる善」の為には何でもやる様な考えがあって、火薬の原料となる硝石を貿易の目玉として各地の大名と取引してたんや、各地の大名は硝石欲しさに自分の民をキリシタンにしてたんや、この時代のキリシタンの人口は10万人なんやで・・・」
「何をぶつぶつ言っておるんじゃ?新七郎?」隼人には紀子の姿は見えないので新七郎が独り言を言っているように見えたのだった。「いや、独り言じゃ・・・隼人兄、駿府城までは後、どの位の距離なんじゃろか?」「そうじゃな、ここからは、まだまだ距離はあるな・・・とりあえず今日は温泉にでも入って作戦を練ろう。」隼人と新七郎は焼津で有名な黒潮温泉に宿を取ることにした。
黒潮温泉の旅館の露天風呂で二人は旅の疲れを癒していた。雲一つない夜空に満月が美しい夜だった。「隼人兄は、イエズス会の事はどう思ってる?」新七郎は、心の奥底では、イエズス会がキリスト教を広める為に各地の大名を利用する様な動きをしている事に疑問を持っていた。「そうじゃな、確かにイエズス会の考え方は、過激な面があるのは確かじゃな・・・今回の家康様の件もこれからは家康様に天下を治めさせるのがイエズス会に取って得策だと睨んでの話なのじゃろ」
「隼人兄、家康様は秀吉様に一矢を報えるのであれば間違いなくこの話に乗ってくるでしょう、しかし親方様・・・右近様は本当に家康様に寝返るつもりなのじゃろか?親方様も拙者と同じくイエズス会の過激さには疑問をもっておられるように見受けられるのじゃが・・。どうなんじゃろか?」 「新七郎、欧州ではイエズス会に対して反旗を翻す輩がおるそうじゃ、彼らはプロテスタントという呼び名で呼ばれていると言う噂を聞いた事があるぞ、どうも右近様もその考えに気持ちを合わせる部分もある様な話をされておられるのをわしは聞いた事があるのじゃ」「プロテスタント 奇妙な名前の輩じゃの・・・とにかく今は家康様に書状を渡す事だけを考るとしよう」ふたりは遅くまで露天風呂で将来の日本の国のあるべき姿について語り合った。焼津の夜はこうして過ぎていった。
そして翌日には、二人は駿府城についに着いた。これは、一日40キロ以上走った計算になる。
「隼人兄、なんとすばらしい城なんじゃ、わしゃ度肝を抜かれたわい」新七郎は初めて見る駿府城のすばらしさにただ、ただ驚くばかりだった。隼人も初めて見る駿府城に興奮していた。二人は会見の間に通され家康と接見した。接見の間には既に家康の側近が座していた。二人はその人物に深々とお辞儀をした。その人物の名は、本田忠勝だった。あの小牧・長久手の戦いで苦境に立たされていた家康軍をわずか500人の軍勢で16万の兵を誇る羽柴軍の間に立ちはだかり羽柴軍の進撃を阻止した徳川四天皇の一人として知られた人物だった。「あの本田忠勝・・・・」二人は緊張で息ができない位だった。「加賀山隼人、東野新七郎 おぬしらの書状は確かに受け取った。家康様には、この本田忠勝が間違いなく届けようぞ、今日は、この駿府城でゆっくり休んでくれ」隼人と新七郎は、家康に接見できるかと思っていたので、少し残念な気持ちもあったが、反面ホッとしたところもあった。二人は、長旅の疲れ緊張から解放され全身から力が抜けるような疲労感に襲われたのだった、「新七郎、疲れたじゃろ、わしも本当に疲れた・・・今夜は酒でも飲んでゆっくり休もう。」その夜、二人は大いに飲み、食いをし、大広間で大の字になってそのまま寝てしまったのだった。
第九章 暗殺計画
隼人と新七郎はもちろん、書状の中身など知る由もなかった。実は、その中身はイエズス会の手先だった千利休の秀吉暗殺計画を記したものだった。そして秀吉暗殺が成功した暁にはキリスト教を国教にする事を家康に約束させる事が目的だった。
家康に天下を治めさせる代償として・・・
黄金の茶室にて
「秀吉殿、この茶碗いかがでございますか?楽長次郎に作らせましたこの茶碗は轆轤を使わず、手捻りで作らせたものでございます。一見、いびつに見えるかもしれませんが、持った時の手触りが何とも言えないものがございます。この黒と言う色もすべての色を包含している色で禅宗の侘び寂びを余すところなく表しているのです。一つの宇宙を表現しているとも言えるのです。」「利休よ、わしは豪華絢爛な茶碗を好いとる、黄金の茶碗でも良いと思うとるんじゃ、なぜに黒い茶碗なのか?わしには判らん。」「まぁ、そう言わずにまぁ一服・・・」 利休は、これまでも少しずつ、少しずつ、茶に毒を入れ徐々に秀吉を死まで追いつめる作戦だった。秀吉は、日に日に悪くなる体調の原因がどうもこの茶にあるのではないかと疑い始めていたのであった。「利休、おぬしは何を企んでおる・・・この黄金の茶室にその黒い茶碗が似合うとでもおもっておるのか?わしが忌み嫌うとると知っててわざと黒い茶碗を出しているのじゃろ、わしを小馬鹿にしとるのか!」 「秀吉殿、それは全くの誤解です。この黄金の茶室も私の作品、黒い茶碗もこの黄金の茶室にあってこそ、さらにその存在を際立たせるのです。」「もう、良いわしはもう寝る、お前も帰れ」秀吉はそう言い放つと黄金の茶室を後にした。秀吉に対しては、これまでも数々の暗殺計画が企てられ、その都度、秀吉は家臣に助けられ難を逃れていた。秀吉はこの時、疑心暗鬼になっていたのだった。千利休は、茶の湯の師匠であり、多くの武将から慕われていた、秀吉は、その事にも懸念を持っており自分を脅かす存在にいずれなるとのではないかと恐れていたのだ。そして、天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられたのだった。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられた。享年70。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあるから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられている。死後、利休の首は一条戻橋で梟首され、首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。
利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている
人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)
提ル我得具足の一ッ太刀 (ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち)
今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)
こうして千利休の秀吉暗殺計画は失敗に終わった。
時は移り、現代に・・・
「孝司、ほんま久しぶりやな」孝司は慎二と中津の駅前で待ち合わせをしていた。「慎二、その教会ってどこらへんにあるんや?」「ここから5分くらいのとこらしいで・・・」
「なんていう教会やったっけ?」「なんとかバステスト?って言ってた様な?バスがテストを受けるんかいな?」「バプテストや・・・」気がつくと隣に紀子がいた。「紀子ちゃんも久しぶりやなぁ」紀子と会うのは、駿府城に向かう途中に会ったのが最後だった。
孝司は、なぜか嬉しかった。「何にやけてんねん?」紀子に気持ちを見透かされている様な気がして孝司の頬は赤くなっていた。なんとかそれは紀子にはバレなかったのだが、今日は、慎二のお兄さんが通っている中津教会のバザーに孝司は慎二に誘われたのだった。教会につくと既にバザーは始まっていた。「孝司くん、よう来たね・・」慎二のお人さんは慎二とは似ても似つかないほど真面目な好青年っていう感じだった。バザーは、教会のメンバーが色々な物を持ち寄って安く販売をし、その収益はミャンマーにある孤児院に寄付するというのが目的だった。教会の中には、そのミャンマーの孤児院の写真や孤児院の子供達からの手紙や絵が飾ってあった。
孝司と慎二がそれらの写真を見ていると綺麗なお姉さんが声をかけてきた。「これは、ピース オブ ハウス 平和の家なんよ、ここにいる子供たちはみんな、イエス様を中心に一つにまとまっているんよ」 「イエス様ってデウス様の事?」孝司にとってイエス様という名前は初めて聞く名前だった。
「デウスって?」お姉さんは目が点になっていた。「デウスというのは、ラテン語で神を表す言葉ですね・・・」 それは中津教会の牧師の川田牧師だった。知らない間に孝司の後ろにいて話をどうも聞いていたらしかった。川田牧師はこう続けた。
「昔、フランシスコザビエルは、ザビエルの通訳者として有名なヤジローに相談し、神様の事をなんと呼ぶべきかを考え抜いた結果、大日如来から大日と呼んでいたそうですよ、なので仏教の一つと思われていたようで、日本のお坊さんからも歓迎されていたらしいのです。しかし、誤ちに気がついたザビエルは、大日ではなくデウス様を信じなさいという事を急に言い始めたので、皆が驚いたそうです。」
「ところで、君はどうしてデウス様という言葉を知っていたのかな?」
孝司は、返答に困りとっさに嘘をついてしまった。「中学校の授業で先生がそう言ってました・・・」「へぇそうなんですか?」川田牧師もそれは意外という感じだった。
「みなさん、バザーの後に礼拝がありますので是非参加してくださいね。」そう言うと川田牧師は2階の礼拝堂の方に向かっていった。「それじゃ、僕らも礼拝堂に行きますか?」慎二のお兄さんの誘導で孝司たちも礼拝堂に向かった。
礼拝堂に続く階段は、ギシギシと音を立て今にも崩れ落ちそうな感じがした。
「大丈夫かいな?」慎二がつぶやいた。孝司も内心不安になった。階段を登りきり、これまた古いドアを開けると、意外や意外、礼拝堂は真新しい感じで、100人くらいは人が入れそうな立派な礼拝堂だった。 「あれ?」慎二が誰かに気がついた。 そこに田中肇がいた。田中肇も二人に気がついたようでこっちを向いて手招きをしていた。「おい、どないする?」慎二はもろに嫌そうな感じでそう孝司に言った。孝司も気乗りはもちろんしなかったが「しょうないなぁ」としか言えなかった。 二人は田中肇の隣にイヤイヤ座った。「なんでお前がここにおんねん?」慎二はストレートに田中肇に聞くのだった。「なんでって?僕はここの信徒やからねぇ、のりちゃんもおるんやね?」 「そうや、うちは孝司お兄ちゃんといつも一緒やからな」紀子は孝司の腕にしがみつく格好をした。孝司はまたまた顔が真っ赤になった。小学生に腕組みされて顔が赤くなるのも変だったが・・
慎二だけには紀子の姿は見えていなかったので慎二は怪訝な顔をしていた。
「孝司、のりちゃんってなんや・・・こいつアホちゃうか?」孝司はまぁまぁと慎二をなだめた。そうこうしているうちに礼拝が始まった。礼拝はオルガンの厳かな賛美歌で始まり、10人くらいの聖歌隊が入場して始まった。賛美歌を皆で数曲歌って、川田牧師の宣教が始まった。宣教が始まると田中肇が孝司にこう耳打ちをして来た。
「新七郎、おぬしにお願いがある、わしの親父を殺した、あの秀吉に復讐する。その計画に参画して欲しいのじゃ・・」 それは秀吉の暗殺の計画だった。
第十章 石川五右衛門
時代は1594年に戻る、場所は金森長近の屋敷、千道安(田中肇)は、千利休の切腹の後、秀吉からある意味追放され金森長近の預かるところになったのだった。
「新七郎、よう来てくださった。おぬしは伊賀者ゆえ、あの石川五右衛門と旧知の仲と聞いておるが、それは本当なのか?」千道安(田中肇)はいつになく真剣な眼差しで新七郎に語りかけた。「もちろん、石川五右衛門こと真田八郎は、伊賀で共に修行を積んだ身、わしとは兄弟のようなもんじゃ」事実、新七郎と八郎はいずれも早い時期に両親をなくしており、伊賀の忍者の里で幼い頃から共に育った兄弟同然の関係だった。「それをな、見込んでの頼みなんや」いきなり千道安は田中肇に入れ替わった。
「俺はなぁ、どうなってもええんや、ただ俺の親父、千利休を殺したあの太閤秀吉、あの猿面冠者、あいつだけは許されへんのや、確かに俺と親父は長い間、仲たがい状態やった。でもやっとここに来て親子の関係が戻った矢先やったんや、せやから余計に許されへんのや!」 田中肇は口角泡を飛ばす様な勢いでそう熱弁をするのだった。そして孝司 「ようわかった、真田八郎、いや石川五右衛門は、今や天下の大泥棒、連絡をつけるのは至難の技かもしれん、せやけど俺がなんとか連絡をつけたる、そのかわり見返りは高くつくと思うぞ」 「なんやがめつい、やっちゃな」そこには
知らない間に紀子が来ていた。 「いくらいるんや」と田中肇が聞く、そして孝司「せや、石川五右衛門は時代の英雄やからなぁ、噂では、百両位のお金を積まないと動かないと聞いてる」 「百両ってまた無茶苦茶なこと言いよるな」紀子は目をまん丸にして大げさに驚いている振りをした。そんな姿が孝司には可愛く映った。しかし田中肇はそんな金額には驚いた様子も全くなかった。「おれは、親父から宝物の茶碗をたくさん貰い受けたんや。その金額は見当もつかへん・・・百両、安いものや」この言葉に孝司と紀子はあっけに取られるのだった。
「せやけど、そんなことしても孝司お兄ちゃんには何の得もないやないの」紀子は田中肇にそう言い放った。「紀子ちゃん、それは違うよ、秀吉はキリシタンの禁教令をいずれ出す事になってるんや、そうしたら新七郎も終わりじゃ」確かに田中肇(千道安)の言葉は真実だった。孝司も紀子それは良くわかっていた。過去を変えることは難しい事ではあったが不可能ではなかった。孝司も田中肇にこうして協力する事になったのだ。
場所は移って京都は南禅寺の石川五右衛門の隠れ屋敷、新七郎は石川五右衛門こと真田八郎と対峙していた。
「八郎、ここに百両ある。これはわしと八郎の二人だけの秘密として欲しい。」
「何を水臭い事を言うのじゃ、わしと新七郎の仲ではないか、なんでも言うてみぃ」
「実は、あの太閤秀吉を暗殺して欲しいのじゃ」
「な・・なんと言う事」さすがの石川五右衛門も新七郎のこの話には驚きを隠せなかった。
「新七郎、わしは確かに大泥棒かもしれんが、人は殺さん。さすがに新七郎の頼みでもそれは無理じゃ」石川五右衛門には取りつく島もなかった。
そこにいつもの様に突然、紀子が登場する。
「五右衛門さん、太閤秀吉は五右衛門さんを釜茹の刑で殺すよ」
そう言うと紀子は一瞬で消えた。真田八郎こと石川五右衛門は目が点になっていた。
「今、確かにここに女子が・・おなごがいたよな?新七郎?」
「ああ、確かにいた、あの子は、未来から来た子だ、未来がわかるのだ」
その話を聞いてガラッと五右衛門の態度が変わった。
「確かにわしの首には百両の懸賞金がかかっている・・そうか、秀吉は忍びを俺に差し向けるつもりなのか?」 五右衛門は、宙を見上げ何やら思案をしているかと思うとかっと眼を見開き、新七郎の目を見つめこう言い放った。
「わしに任せろ、殺される前に殺してやる!金はいらんぞ」
こうして石川五右衛門は、秀吉の暗殺に動き出したのだった。
京都からの帰り道 紀子と新七郎
「紀子ちゃん、俺は、あの真田八郎がこの話に乗ってくるとは、正直思ってなかった、実は今でも信じられんのや、ほんまに暗殺するつもりがあるんやろか?」
「真田のお兄ちゃんは、秀吉を暗殺しなあかん理由があるんや」と紀子
「なんや、その理由って」
「あんな、あの真田のお兄ちゃんは大泥棒って言う表向きの顔の他に別の顔を持ってんねん」
「他の顔って?」
「陰陽師や」
「陰陽師ってなんやそれ?」
「陰陽師っていうのはな、天文学と方位学を使った占い師みたいな者や、真田八郎はその中でも呪術を使う呪術師で有名なんや、単なる泥棒やないから秀吉も警戒してるんや」
「呪術って・・・なんや恐ろしいなぁ、あの八郎がそんなんになっとったんか・・・」
「秀吉も陰陽師がある意味恐ろしかったんやなぁ、陰陽師を追放し始めたんや・・なので真田八郎は陰陽師の頭として秀吉の暗殺をもともと計画してたんや、俺は人は殺さんとか言うてたけど、それはお兄ちゃんを巻き込みたくなかったからやと思う」
「そうか、八郎はそんな優しいところが昔からあったわ、せやからお金も受け取らなかったんやな・・・」
石川五右衛門が秀吉の暗殺に乗り出すのは、新七郎との密会の翌週の事だった。
しかし、秀吉は石川五右衛門を完全にマークしており数人の隠密を張り付かせていたのだった。これには、さすがの五右衛門も太刀打ちできなかったのだ。
五右衛門は秀吉と対峙していた。
「石川五右衛門、お主をわしに差し向けたのは、一体誰じゃ、正直に言えば死罪を免せてやっても良いぞ」 秀吉は、石川五右衛門の単独犯ではないと見ていた。そして何とか自分を殺そうと画策した人間を探し出そうと必死だった。
それには、秀吉は方々に隠密を放っており、それらの報告で、秀吉の命を狙っている人間の情報は的確につかんでいたのだった。その中でも、秀吉の後継者と言われていた豊臣秀次や、千利休の息子である千道安の名前も上がっていたのだった。
そして新七郎が五右衛門と密会していた事も実は秀吉の耳に入っていたのだった。
「東野新七郎、この名は知っているはずじゃ、千道安の一派でイエズス会ともつながりがあるとわしは見ている。どうじゃ五右衛門、早う本当の首謀者の名を言わんか!東野新七郎がお主の黒幕なんじゃろ、今、全てを話さんとお主の子供もお前と一緒に釜茹でにしてしまうぞ!」 秀吉の尋問は、小一時間は続いた。
石川五右衛門、真田八郎は新七郎の名前は決して言わなかった。石川五右衛門はそういう男だった。
そして刑は執行された。
「ええい、五右衛門よ、お前は本当に強情者やのう、秀吉様の温情も分からんのか?」そう言うと京都所司代の前田玄以は、五右衛門を縄で縛り馬に乗せた。
市中引き回しの刑だった。五右衛門の前には罪状が書かれた木の捨札や紙でできた幟、刺股や槍を持った非人身分の雑色が周りを固めていた。五右衛門は京都中をその様な格好で引き回された。 その後、京都三条の河原で釜茹での刑が五右衛門を待ち構えていた。
「八郎! 聞こえるか俺だ!新七郎じゃ!なんでお前は俺をかばうんじゃ!このままじゃとお主の家族も皆殺しにされるぞ!」 新七郎は与力や同心が五右衛門の検視役としてびっしりとついているのも気にもとめず大声で五右衛門に声をかけるのだった。五右衛門は、そんな新七郎の声には耳を貸さなかった。しかしその本意は、新七郎を巻き込みたくないと言う石川五右衛門の友達への思いだった。石川五右衛門は自らの子供の命よりも新七郎の命を助けたのだった。石川五右衛門の心の中では、家族は一心同体、死ぬのも一緒にという思いがあったのだった。
釜茹での刑・・・当時の日本においては植物油が貴重品であったことから非常に贅沢な死刑方法だった。もちろん五右衛門風呂というのは、この釜茹での刑から来ている。
石川五右衛門の処刑が実行されたのは、現在の鴨川にかかる三条大橋の周辺だった。今でこそ、京都らしい風情のある景観だが、この当時は堤防も無く現在の河原町通りぐらいまで石がゴロゴロしていた、堤防もなかった為、大雨でも降れば周辺の家々は水浸しになったものだった。橋の上や河川敷には大泥棒の最後を見ようと
多くの民衆が群がっていた。突然、民衆の中から、石川!石川!と五右衛門を讃える声援が湧き上がった。そう石川五右衛門は民衆の人気者だったのだ。五右衛門は民衆に応えるように辞世の句を叫んだ!「浜の真砂は尽きくるとも世に盗人の種は尽きまじ」この辞世の句に民衆は拍手喝采した。五右衛門は笑みを浮かべながら傍にいた五郎市を抱きかかえると一気に窯の中に飛び込んだ。またしても民衆の拍手喝采が起こった。五右衛門は五郎市を両手で抱えあげ我が子を守るべく必死に耐えた。
役人は両手でしっかりと我が子を守る五右衛門に業を煮やしついに熱湯に油を注ぐのだった。次々に足される油、油、ついにドンという大きな音がして油に引火するとさすがの五右衛門もすでに息絶えていた五郎市とともにズルズルと窯の中に消えていった。新七郎には最後に五右衛門が新七郎に微笑みかけていた姿をはっきりと見た。
その姿を新七郎は忘れる事はできなかった。
時は1594年10月8日だった。
第十一章 大きな愛
そして現代に話はまた戻る、中津教会の礼拝の時間
「なんや夢見とったんか?俺は・・・」 宣教も終わりにさしかかっていた。ほんの30分くらいの間に孝司は、時代を380年も遡り数十日をその時代で過ごした事になる。
「夢ちゃうで」紀子がちょこんと隣の席に座っていた。 礼拝中だったので、前に座っていた年配のおばさんが「しー」と人差し指を口の前の立てて振り返った。孝司はすいませんと頭をさげるポーズをした。
川田牧師の宣教も終盤にさしかかっていた。
「ヨハネによる福音書15章12節から読みましょう。ヨハネによる福音書15章12節・・・わたしがあながたを愛したように、互いに愛しあいなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。まず、皆様の中には、三浦綾子さんの「塩狩峠」を読まれた方もいらっしゃるでしょう。主人公は永野信夫氏(実名は長野政夫氏=クリスチャン)これは、明治42年2月28日に起こった実際の出来事です。旭川から北に約30km,天塩(てしお)の国と石狩の国の国境にある峠、深い山林の中を曲がりくねって越えるかなり険しい峠を、自分の身を犠牲に暴走した客車の乗客の命を救った長野政夫氏の勇気と功績に感謝した多くの人々の思いは、今も変わらず慕われています。JR塩狩駅には、長野政夫氏の石碑が建てられています。それでは最後に心を合わせて祈りましょう。
愛する天の父なる神様、あなたの御名を心より賛美いたします。友の為に命をすてる事、これより大きな愛はないと聖書より学びました。私たちはともすると我を我をと自分中心の考えをしてしまう者です。どうか心の王座をあなたに明け渡し、いつも主を見上げ生活をする事ができますように私たちひとりひとりを助け、力を与えてください。
イエスキリストの御名を通してこの祈りを御前におささげ致します。アーメン」
こうして礼拝は終わった。
孝司は友のために命を捨てる事、これ以上の大きな愛はないという聖書の言葉を何度も何度も口に出して繰り返した。
涙が止まらなかった。幼なじみの真田八郎は、自らの子供よりも自分を助けてくれた。本当は孝司自身が釜茹でにされていてもおかしくなかったのだ。そんな孝司に紀子は声をかけた
「孝司お兄ちゃん・・・しかたないんや・・どないもしようがないんや・・・過去は変える事はでけへんのや・・・」
「わかってる、わかってるけど涙が止まらんのや・・・過去は変える事は本当にでけへんのか?紀子ちゃんは、なんで俺にかまうんや?過去を変える事に関係あるんとちゃうのか?」
「そうや、今まで内緒やったけど孝司お兄ちゃんの言う通りや、私がここにいる理由は今はまだ言われへんけど、過去のある出来事に関係している・・・過去は変える事がでけへんって言ったけど、実は過去は変える事ができる、でもそれは現在の過去じゃなくなるということやねん、過去が変われば現在が変わるわけでそれがどういう風に変わるのかは誰もわからへん、現在と過去は一対一の関係という事や、その意味では過去は変えられへんのや・・」
「なんやわかった様なわからんような話やな」孝司は涙を拭きながら紀子ににっこり笑いかけた。何か紀子は昔からよく知っている様な気がした。この感覚は実は前から時々あった感覚だった。
その時、川田牧師が二人の前(と言っても勿論、牧師には紀子は見えなかったのだが・・)に来て孝司を教会学校に誘った。
「どうですか?時間があれば、これから皆で今日の宣教の分かち合いの時を持ちますので東野さんも参加しませんか?」
孝司は教会学校というものがどういうものか分からなかったが興味もあったので参加する事にした。
孝司は川田牧師に連れられて礼拝堂の隣のラウンジに移った、そこにはすでに幾つかのグループに分かれていてこれから教会学校なるものが始まろうとしているところだった。孝司は川田牧師のグループに参加する事になった。川田牧師のグループは中学生から大学生までの学生で構成されたグループだった。
「それでは、学生グループの教会学校を始めたいと思います。今日は、この教会に初めて来られた東野孝司さんが参加してくださいました。私はこのグループのリーダーの岩崎さゆりと言います。よろしくお願いします。」岩崎さんと言うその女性は、綺麗な標準語を話した。「じゃ、最初に東野さん、自己紹介をお願いします。」孝司はいきなり自己紹介を振られ正直ドキドキした。そんな事をした経験がなかったからだ。「はぁ、」孝司は自分では「はい」と言ったつもりが、腑抜けた返事をしてしまった。となりで紀子が笑っていた。もちろん他の人には見えなかったのだが・・・
「えーっと名前は、東野孝司と言います。下音羽中学の2年生です。」
学生グループは岩崎さん、川田牧師の他に数名の学生がいて、皆いっせいに歓迎の拍手をした。孝司は気恥ずかしくなったが、頭をかく仕草と苦笑いでそれをごまかした。
「東野さんはなぜこの教会に来たのですか?」リーダーのさゆりさんが質問をした。
「なぜ?と言われてもなぜでしょうね?自分でもようわからんのですが、何故かキリスト教が気になるというか・・・遠い昔からキリスト教に関係していた様な気がするんです。」それは孝司の正直な気持ちだった。
「へぇそれは不思議な話ですね?」川田牧師だった。「他の皆さんはどうですか?この教会をなぜ選んだのでしょうか?」
さゆりさんが答えた。「私の場合は、おばさんがバプテスト教会の教会員だったので自分もバプテストがいいなぁと思っていたんです。そしたら家の近所にバプテストの教会があったのでこれは、神様が導いてくれていると確信したんです。」 「そうなんですか?初めて聞きました。」そう言ったのは、副リーダーの島田さんだった。島田さんは中津の大学の1回生という事だった。おかっぱ頭のかわいい女の子だった。孝司はかわいい人だなぁと最初から気になっていた。
「私は、最初、別の教会に行ってたんやけどなんか違うなぁ・・という気がしてきて・・・それは・・えーと、なんでかというと前の教会はほとんどおじいいちゃん、おばあちゃん、あっ、もとい・・・年配の人ばっかりで、聖歌隊もなければ、牧師の話も眠たくなる様な話ばっかりで・・・それでこの教会に友達の紹介で来てみたら、明るい雰囲気で全然違うので今はハッピーって感じです。」島田さんは思いの外、軽い感じの話ぶりだったので孝司は少し期待はずれな感じだった。
「ひとそれぞれですね・・それでは教会って言葉の意味って考えた事がありますか?」川田牧師が皆に問いかけた。最初に島田さんがこう答えた。「教会って神様の言葉を教えるところだから教会って言うんじゃないんですか?」 島田さんは自信満々だった。東野さんは、どう思いますか?島田さんが孝司に質問を振ってきた。孝司は何も考えていなかったので、慌ててこう答えた。「教会ってこの建物のことを教会って言うんと違うんですか?」 「そうですね、多くの人が教会っていうと漠然とキリスト教を信仰している人の集団や建物自体をイメージするのではないでしょうか?たしかにそれも間違いではないのですが、教会という言葉はギリシヤ語のエクレシアと言う言葉から来ていて、その意味は呼び集められた者と言う意味なんですよ、すなわちここに集う人々は、不思議な力、神様の力で呼び集められた人々なんですよ」
「呼び集められた・・・」孝司は小さく呟いた。
「そう、私たちは呼び集められたの・・・」紀子が答えた。
第十二章(サン・フェリぺ号事件)
時は1596年秋 高山右近の屋敷にて
「隼人、新七郎 ふたりともよく聞くのじゃ、土佐国の沖にスペインの船が漂着したことは知っておろう。土佐国の長宗我部元親が、その船の乗っていた7名の司祭を処刑するかもしれんとの話を聞いた。お主らに、その7名の司祭を助け出してほしいのじゃ」「右近様、その7名の司祭の命が危ないと言うことですか?」新七郎は事の成り行きが判らなかった。「そうじゃ、どうも船長のランデーチョと申す者が、五奉行の増田長盛に対してスペインがいかに強大な国で自分たちに逆らうとフィリピンの様になってしまうぞと脅かしたらしいのだ、そしてこの話が秀吉公の耳に入り秀吉公の怒りを買ってしまったらしいのだ、隼人、新七郎、しかと頼むぞ」
この命を受け翌日、隼人と新七郎は土佐の国へと向かった。
その道中で
「新七郎、7名の司祭を助け出す命を受けたが、これは右近様のご慈愛のお心からの命であって、どうもイエズス会は、この司祭らを太閤秀吉に売ったのではないかという話だ」 「同じキリシタン同士、なぜそんな事があるのですか?」新七郎は、隼人の話が全く理解できなかった。「イエズス会は面白くないんじゃ、これまで日本のキリスト教の布教は彼らが中心であったのに、ここ数年はフランシスコ会がその勢力を伸ばしてきておったろう、それが秀吉公と親交のあったジョアン・ロドリゲスやオルガンチーノらのイエズス会の中心人物の逆鱗に触れ、フランシスコ会は日本をフィリピンの様に制服する野望を持っていると秀吉公に吹聴したという訳だ。」「な・なんとそれでは、ランデーチョ船長が脅かしたという話はでっち上げと言う訳ですね?」「そうじゃ、その通りだ」「なんと卑劣なやり方なんじゃ、キリシタンの名が廃るわ」 新七郎はいつになく言葉を荒げた。
そして
隼人と新七郎は、二日をかけて土佐の国に着いた。「司祭らを救う作戦じゃが、彼らは、今、牢屋敷に入れられている、この牢屋敷に新七郎、火を放すのじゃ、そして拙者が火事で見張り役人が気を取られている隙に牢屋敷の鍵を開けて司祭らを解放する、新七郎は用意している馬3頭に司祭らを乗せて逃げてくれ、拙者は後から新七郎を追いかける」 「わかりました・・・」新七郎はこの命がけの作戦に内心、恐れを抱いたが、デウス様の守りがあると信じ、祈りを持って決心するのだった。 司祭救済の決行日は、到着の3日後と決めた。隼人の情報によると4日目に司祭達は京都に移され、そこで処刑されるという情報があったからだ、この情報は1588年に元親と対立し切腹を命じられた吉良親実の家臣からの情報だった。また司祭を逃がすための馬3頭も同様に吉良親実の家臣に手配させた
決行当日、司祭救済の作戦は丑三つ時に決行された
「新七郎行くぞ」 「は!」黒装束に身を包んだ二人は司祭らが捉えられている牢屋敷に向かった。新七郎は3頭の馬を連れての出陣だった。これはまさに今後の日本に於けるキリスト教の行方を決める戦いだった。「兄じゃ、牢屋敷に忍び込むのは、命がけの仕事、是非、その仕事は拙者に任せてもらえないだろうか?」 もともとは忍びであった新七郎は、牢屋敷への潜入がいかに危険な仕事か十分心得ていたのだった。もちろん、隼人もそんな事は百も承知の事だった。「いや、この作戦の肝は、司祭らを3頭の馬でいかに逃がすか事ができるかというところだ、首尾よく司祭を馬に乗せ、3頭の馬を先導するのは並大抵の事ではないぞ、ここは新七郎の走馬の技が必要不可欠なんじゃ」 「兄者・・・」新七郎は、それ以上何も言えなかった、隼人の決意が揺るぎないものである事が分かったからだ。
「よし、行くぞ」小さく、しかし力強く隼人はそう言い放ち漆喰の闇の中に浮き上がる牢屋敷の塀からあっと言う間に屋根を伝って牢屋敷の中に消えていった。新七郎は隼人の言いつけ通り反対側に回り、用意していた燈油を牢屋敷の正面玄関に大量に巻きそして火を放った。その日はいつになく乾燥していたのか、新七郎が思った以上にすぐ火の手は大きくなった。牢屋番達が慌てふためき大声で叫ぶ声が聴こえた。新七郎は、すぐに牢屋敷の裏手に戻り、いつでも司祭達を馬に乗せ逃げられるように待機していた。叫び声が一段と大きくなった次の瞬間、司祭達が裏門から飛び出してきた、その後には隼人が牢屋屋敷の番兵ら数人に囲まれていた。「兄者!!」新七郎は、すぐに隼人の元に駆け寄ろうとした。それを隼人は制した。「拙者の事は気にするな、すぐに馬を走らせるのじゃ!一刻の猶予もないぞ!」新七郎は、唇をきっと噛み締め、隼人の言う通り司祭を連れ出す事を優先した。
新七郎は、自分の馬に1人の司祭を乗せ、残りの3頭に2人ずつ乗せ漆喰の闇の中をひたすら駆け抜けるのだった。心臓の鼓動が自分でも分かった。そして、背後では番兵らの叫び声と牢屋敷がメラメラと燃える音が聞こえた。
新七郎は後ろを振り返る事が出来なかった。番兵の叫び声からその数は、半端ない数である事が容易に思えたからだった。新七郎は恐ろしかった。そしてひたすら祈った。その祈りは次第に叫びになっていた。「デウス様!兄者を!兄者を助けてください!」 その叫び声はきっと隼人にも届いた事だろう。しかし、神様は隼人に大きな試練をこの後与えることになる。その事を新七郎は知る由もなかった。
第十三章(創世記・・夢・・エデンの園)
その夜、新七郎はボロ雑巾のように疲れ眠った。そして夢を見た、夢の中では新七郎は孝司になっていた。そして紀子が隣にいた。二人は森の中を歩いていた。風が心地良かった。
「紀子ちゃん、なんか見ないうちに大人になったなぁ?」確かに紀子は小学生の紀子ではなかった。孝司と同じくらいの年齢になっていた。「そう?自分ではようわからんけど・・」そんな話をしていると目の前の木に蛇がぶら下がっていた。その蛇は頭を持ち上げ紀子に目を合わせ、そして紀子に声をかけるのだった。 「おい、お前!」 「は?私?」紀子は怪訝そうにそう答えた。
「そうや、お前や お前は誰や?」「誰って?私は私やけど・・・何かようなん?」 「用があるから聞いてんねん、アホかお前は?」「失礼なやっちゃな・・・」紀子はむっとなった。蛇はさらに、こう続けた。「あんたの神は園のどの木の実も取って食べてたらあかんと本当に言うたんか?」紀子は答えた。「ちゃうちゃう、園のどの木の実も取って食べてもええけど、真ん中にある木の実は食べたらあかんで!死んでしまったらあかんからなと言われたんや・・」「そんな事は絶対ないぞ、その木の実を食べると目が開け、あんたらが神の様に善悪を知る者になる事を神は知ってるんや、死ぬ事はあれへん」紀子は、蛇の話を聞いて園の真ん中の木の実を今一度、見てみた。その木の実は見るからに美味しそうで、また賢くなれる様な気がした。紀子は思わず手を伸ばしその木の実を口にしてしまった。そして孝司にもその木の実を渡した。孝司も思わずその木の実を食べてしまった。その瞬間、二人は裸である事が分かったのでイチジクの葉を綴り合わせて腰に巻いた。 孝司と紀子は、その時、誰かが二人を探している気配を感じた。二人は茂みに身を隠した。それは神、いや・・・なぜか高山右近その人だった。高山右近は簡単に二人を見つけ、孝司に呼びかけた。「あなたは、なぜ隼人を助けなかったのか?」 孝司はたじろぎこう答えた。「右近様、兄者を助けたいのは誰よりもこの私が願っていた事です。」なぜかここは、新七郎になっていた。「まぁ良かろう、あなたの事を信じよう、じゃが、なぜ私の言いつけを守らず園の真ん中の木の実を食べたのか?」その時、右近は神の姿に変わっていた。「いえ、私ではなく、あなたが一緒にしてくださった。紀子が木から取ってくれたので私は食べたのです。」そこで主なる神は紀子に言った。「あなたは、なんて事をしてくれたのか!」紀子はなぜか標準語でこう切り返した。「いえ、あの蛇が私を騙したのです。それで私は食べたのです。」 ・・・と言うところで新七郎は目が覚めた。 新七郎は、しばらく放心状態だった。先ほどまでの夢が夢の様な気がしなかった。まさに何千年も遡り、最初の人であるアダムとシンクロしていたのだ。「デウス様、自分は兄者を救うべきだったのでしょうか?自分はアダムと同じ様に罪を犯してしまったのでしょうか?」新七郎はうなだれ頭を抱えた。その時、神様の声が新七郎に聞こえた。神様はこう囁くのだった。「加賀山隼人は、聖人となるだろう、そして私が再びこの地に来る時には肉体を持って復活することになる。新七郎、あなたは私の計画通り、正しい選択をした。あなたの苦しみは取り除かれたぞよ。」
「デウス様」新七郎はその言葉聞いて涙が止まらなかった。
「デウス様、あなたは、いつ再びこの地の戻られるのですか?」この問いに神様は
こう答えた。
「その日、その時は誰も知らない、天の御使いたちも、また子も知らない、だからあなたは目をさましていなさい。一日は千年の様であり千年は一日の様である。私は一人も滅びないで全ての人間が救われることを望んでいる。」
新七郎は、この言葉の意味が判らなかったが、デウス様が自らのひとり子であるイエスキリストを人類の罪の贖いの子羊として送って下さったこと、そのイエス様を心で信じ、口に出してイエスが自分の主であると告白すれば、アダムによって入り込んだ罪が取り除かれ、天国に入ることが許され、永遠の命が与えられると言う事は理解できたのだった。一度、救われた者は決して神様に見捨てられる事はないのだという事を・・・
罪とはすなわち神様から離れる事を指す。人類の始祖であるアダムは、神様の言いつけを守らなかっただけではなく、それを神様が与えてくれたエバに責任転嫁してしまった。またエバもその責任を蛇のせいにしてしまった。こうして人類は神から離れ、また自らが神を作ってしまった。すなわち神さえも自分の思い通りに作り変えてしまったのだ。
第十四章(26聖人殉教)
「新七郎、隼人は残念だが、長宗我部元親に捕らえられ秀吉様の元に送られたそうじゃ、どうも元親殿と秀吉様との間に何らかの取引があったのではと思うておる。」 「右近様、なんとか兄者を救う事はできないのでしょうか?」新七郎は、必死だった。ある意味、隼人は自分の身代わりで捕らえられてしまったからだ。
「もちろん拙者も隼人を助けたい、しかしそれは叶わぬ事だろう、なぜなら秀吉様は、あのサン・フェリぺ号の件がきっかけで禁教令を出し、京都奉行所の石田三成に命じて京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒を捕縛して磔の刑に処する様に命じたそうじゃ、隼人もその中の一人じゃ、隼人だけではなく拙者もどうなるかわからない何せ、隼人は拙者の家来なのだから」 「ま・・・まさか」新七郎は言葉にならなかった。 時は1597年1月隼人を含む24人は、京都堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされ、市中引き回しとなったのだ。
その場所に新七郎はいた。幼なじみの真田八郎が自分の身代わりとなって処刑され、今度は兄と慕っていた加賀山隼人が今まさに処刑されようとしていたのだ。堀川通りには何百人という見物人が出ていた。隼人たちは縄で縛られ、馬に乗せられていたその前には、罪状が書かれた木の捨札や紙でできた幟を持った雑色が周りを固めていた。先頭の馬に隼人は乗せられていた。罪状は「切支丹邪宗門」と書かれていた。
新七郎は大勢の見物人を押しのけ、最前列で隼人の乗った馬が来るのを待った。見物人たちは、大きな声で隼人たちを罵っていた。「こらぁ日本人なら日本人らしく日本の神様を拝め!」 「日本人のくせに毛唐のまねをしやがって馬鹿野郎!」という罵声が飛び交っていた。
隼人の馬が新七郎の目の前に来た時、隼人も新七郎に気がついた。新七郎は隼人を見上げた時、隼人の頭上に白い鳩が太陽の光の中に見た。見間違いではなかった。間違いなく隼人の頭上に白い鳩がいた。 隼人は笑みを浮かべ何も言わずただうなづいていた。それは「わしは大丈夫だ、心配するな」と言っているのが新七郎にはわかった。新七郎は涙で隼人の顔がゆがんで見えた。「兄者・・・」 新七郎が隼人の姿を見たのはそれが最後だった。
日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。この出来事は後世に「二十六聖人の殉教」と言われ。彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。
隼人らは、京都で市中引き回しの刑を受けた後、厳冬期の中、長崎まで歩いて向かう事になった。当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟であった寺沢半三郎は一行の中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見つけた。
「おぬしは、年はいくつじゃ?」半三郎は少年に問いかけた。 少年は答えた「12になります。」 「おぬしは、なぜ切支丹の教えにこだわるのじゃ?仏教でも極楽浄土に行けるぞ!なぜ切支丹の教えにこだわるのじゃ?」12歳の少年ルドビコ茨木は、こう答えた。「確かに仏教の教えでも極楽浄土に行けると教えています。でも本当の仏教の教えは心を浄めることで某脳をなくし悟りの境地に達することを教えています。阿弥陀仏にすがることで極楽浄土に行けるという教えは切支丹の教えを真似たものなんです。」 12歳の子供の言葉に半三郎は驚いたが、この子供を救ってあげたいという気持ちからこう切り返すのだった。「おぬし、切支丹の教えを棄てればわしがおぬしを救ってやろう。人生をここで終わらすことをおぬしの神も望んでいないだろう・・」 「いえ、この世のつかの間の命と天国の永遠の命を私は取り替えることはできません。」こうしてルドビコ茨木は毅然として寺沢の申し出を断ったのだった。
隼人やルドビコ茨木、26人は、キリストが処刑されたゴルゴダの丘に似ていると言う理由から西阪の丘での処刑を望んだ、この望みは叶えられた。処刑当日は外出禁止令が出されていたが、なんと4000人もの群衆が西阪の丘に集まって来たという。
隼人は、4000人が見守る中、自らの信仰の正しさを群衆に語った。群衆の中にはその証を聞き後に切支丹になった者も多かったと言う。
第十五章(細川ガラシャ)
隼人が殉教してすでに2年の年月が流れていた。しかし、いまだに新七郎は、兄としたっていた隼人を死に追いやったのは、自分に責任があったのではと、自らを責め苦悩する日々を送っていた。そんな時、新七郎の元に一通の手紙が届いた。
それは、中津の教会で出会った清原きこからの手紙だった。その手紙の内容は、この様な内容だった。 「東野新七郎様、 中津の教会では、本当にお世話になりました。コンテムツス・ムンジを頂いたのに何のお礼もできず、ずっと心苦しく思っていました。是非、近いうちに玉造の越中屋敷に遊びに来てください。皆、心待ちにしています。」と書かれていた。
新七郎は高山右近と共に全国あちこち転々としていたが、この1599年当時は、京都に居を構えていた。右近の足取りを遡ると、まず1587年に秀吉から信仰を捨てる様に命令され、それを断った為に追放されたところから始まる。右近は追放されて最初、小西行長の領内にある小豆島にオルガンチーノ神父と共に隠れ住む事になる。その後、小西行長の肥後への転封により右近も共に九州に移り住む事になり、有馬のセミナリオ(小神学校)などで過ごすうちに秀吉から何故か京都に来る様にと伝言を受け、秀吉の本心が分からないままに京都に戻って来たと言う忙なさだった。
手紙はさらに続いた。その内容に新七郎は、驚き、戸惑い 居ても立っても居られない状態になってしまうのだった。
「実は、玉様は、ほとんど幽閉状態で24時間、2人の監視がついているのです。忠興様にしてみれば、秀吉様の赦しがあったと言えども、逆臣、明智光秀の娘である玉様を大阪城の目と鼻の先で迎え入れた訳ですから、何か事が起これば細川家の取り壊しにもなりかねない訳です。玉様は忠興様に離縁を願い出たとも聞いております。しかし、忠興様はそれを許さず、玉様は自殺するのではないかと侍女である私たちも心配の中、毎日を過ごしているのです。忠興様は右近様に全幅の信頼を置いておられるので、右近様の側近の新七郎様であれば喜んで迎え入れてくれるはずです。どうか、玉様を救ってください。お願いします。」 手紙はそこで終わっていた。 正直、新七郎にはその意味が判らなかった。「救う?この私が・・・」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」紀子の声に新七郎の中の孝司が表に出てきた。
「紀子ちゃん、久しぶりやなぁ、どこに行ってたんや?」 「どこにも行ってないよ、ずっと一緒や、お兄ちゃんに一つ言っておきたい事があって出てきたんや、それはこれから起こる事や・・・細川玉様は、キリシタンや、せやから自殺はでけへん、自分を殺す事は“汝、殺すなかれ”と言う十戒を破る事になるからや、でも玉様は死を決意している。これはもう避ける事はでけへん神様のご計画や・・・でも玉様の侍女たちは救う事ができる。お兄ちゃんには、侍女たちを救ってもらいたいんや・・・きこさんもそれを望んでるんや・・」 紀子の頬に一筋の涙が流れた。 新七郎は無言でうなづいた。
時は1600年7月、豊臣秀吉の死後、豊臣政権は、5大老・5奉行によって運営されるようになり、関東の徳川家康が筆頭となっていた。その時、徳川家康に対抗できるのは、加賀の前田利家だけだった。
しかし前田利家が秀吉の没後、後を追うように病死すると、もう徳川家康に対抗できる大名は居なくなってしまったのだった。すなわち揉め事の仲裁役だった前田利家が死ぬと、豊臣秀吉時代から内在していた軋轢が表面化するようになり、黒田長政・加藤清正・福島正則などの武断派の7将が、朝鮮出兵の時に讒訴された遺恨から、朝鮮軍事奉行を務めた石田三成を襲撃すると言う事件にまで発展するのだった。
しかし、徳川家康が石田三成襲撃事件の仲裁に乗り出した事で、黒田長政ら武断派の7将は矛を収めざるを得なかった。
その一方、石田三成は徳川家康から隠居を勧告されたため、隠居して居城の佐和山城へと引き籠もり、豊臣政権から退く事になるのだった。
隠居した石田三成は、会津の大名・上杉景勝と結託し、徳川家康を討つ準備を静かに進めていた。そして、徳川家康は、会津の大名上杉景勝に謀反の兆しありと報告を受け、慶長5年(1600年)6月に上杉討伐(会津討伐)を発令し、諸将を伴って関東へと兵を進めた。
こうして、近畿から徳川家康派の勢力が居なくなると、佐和山城で隠居していた石田三成は慶長5年(1600年)7月、中国の毛利輝元を総大将にして挙兵したのである。
豊臣秀吉の時代から、各大名は大阪に屋敷を持ち、大名の妻子を大阪の屋敷に住まわせる決まりになっており、大名の妻子は人質であった。
細川忠興は大阪城の南にある玉造に屋敷を作っており、妻の細川ガラシャや長男・細川忠隆の正室・前田千世を住まわせていた。そこで、上杉討伐に加わる細川忠興は、小笠原秀清・稲富直家・河北石見など数名の家臣を玉造・細川屋敷の警護に残し、小笠原秀清らに「細川ガラシャの名誉に危険が生じるようなことがあれば、細川ガラシャを殺して、みなも自害するように」と命じて、関東へ向かったのだった。
時は慶長5年(1600年)7月17日 石田三成の使者が越中屋敷に来て事件は、始まる。
「小笠原秀清殿は、ご在宅か?我は石田三成公の使いである。」石田三成の使いと言うその男の背後には、数十人の兵が控えていた。
新七郎は、その光景を遠くから見ていた。隣には紀子がいた.「いよいよ、始まるよ、お兄ちゃん・・・うちは、この日の為に用意してきた事があるんや、まず、お兄ちゃんは屋敷の裏に廻って裏門から屋敷に入って玉様の部屋の隣で身を隠しといて・・・」「紀子ちゃん、せやけど裏門ってしまってるんとちゃうんか?」紀子と話をする時はいつも新七郎の中の孝司が出てくるのだった。「裏門は開いてるんや、大丈夫やうちを信用して」紀子の目は真剣だった。「わかった」新七郎は大きくうなづき、屋敷の裏門に回った。
確かに裏門の扉は開いていた、新七郎は、誰にも見つからないように屋敷の中に入った。玉様の部屋の場所は紀子ちゃんから聞いていたので少し迷ったがなんとか玉様の隣の部屋にたどり着けた。隣の部屋からは、ガラシャ(た様)の長男である細川忠隆の正室である前田千世とガラシャの声が聞こえた。
「ガラシャ様が自害されるのであれば、私も共に自害いたします。侍女も皆そう申しております。」「いいえ、千世は宇喜多屋敷に逃げなさい。あなたが自害する理由はないのです。」ガラシャの言葉には千世も逆らえなかった。
その時、玄関で石田三成の使いの対応をしていたはずの小笠原秀清がガラシャの部屋に来てこう叫んだ。「玉様、一大事です。直家が三成に寝返りました。一刻も早く逃げてください。もう奴らを食い止めることはできません。今が最後の時です。」なんと、表門で石田三成の手勢を防いでいた稲富直家が石田三成側に寝返ってしまったのだ、稲富直家は、元々は丹後の領主である、一色義清の家臣だったが、本能寺の変の後に細川忠興が一色義清を滅ぼしたさい、鉄砲の腕を買われて、細川忠興の家臣となり、細川屋敷の警護を任されていたのだった。
それを聞いた細川ガラシャは、侍女を呼び集めた。そこには、清原いと、そして清原きこもいた。
「いと、侍女を連れて千世と共に宇喜多屋敷に今すぐ逃げなさい。」
しかし、その言葉にいとは、こう返した。「ガラシャ様、私たちは決して逃げません。最後までガラシャ様と共にいます。」その声は涙で震えていた。
そして、ガラシャ「それはなりません。そなた達は、決して死んではいけません。」ガラシャは、その時、死を決意していたのだった。
これらのやり取りを紀子と孝司は隣の部屋から聞いていた。「お兄ちゃん、きこさんを助けてあげて、きこさんもお姉さんと一緒に自害する・・・」
「紀子ちゃん、わかった。でもどうやって?」「もう、無理やりでもこの屋敷から連れ去って欲しい。運命を変えるには、それしか方法は無いの・・このままだと、ガラシャ様と共に殆どの侍女は自害してしまう。」
石田三成の使者、そして兵は今まさに屋敷内に入ろうとしていた。
時間がなかった。ガラシャは、自分の形見や遺書を千世に渡し千世の背中を強く押しこう言い放った。「お逃げなさい、そなたは、私の最後を告げる役目があるのよ」千世はガラシャの遺書と形見をしっかりと握りしめ、涙で声を詰まらせながら「承知しました・・」と言い、紀子と孝司のいる部屋の障子を開け一目散に駆け抜けた。紀子と孝司は部屋の隅に隠れていたが、千世はまったく気がつかなかった。ガラシャは、千世が屋敷を出たのを見届けると、次に侍女たちも千世に続きなさいと促した。
多くの侍女達は、ガラシャの言葉に従ったが、きこといとは、決してガラシャの側を離れないとガラシャの着物の裾にしがみついた。ガラシャはそれを振りほどき、小笠原秀清にここを突きなさいとばかりに胸元を開くのだった。秀清は、「承知した。」と言い放ち次の瞬間に「ごめん」と長刀でガラシャの胸を突いた。「ガラシャ様!!」きこといとの叫び声が屋敷中に響き渡った。
その時、すでに石田三成の使者達の足音がすぐ近くまで来ており、まったなしの瞬間だった。いとは、短剣を取り出し、一本をきこに渡した。この時を覚悟して準備していたものだった。
この短剣でお互い刺し違えると二人は事前に申し合わせていたのだった。紀子が叫んだ「きこさん!ダメ!」その叫びと共に孝司は、部屋を飛び出し、きこの手を握り叫んだ。「逃げよう」孝司は必死だった。
もう後ろも見ず、きこと共に無我夢中で裏門から逃げ出した。どこをどう走ったのかも覚えていなかった。気がつくと大阪城の表門まで来ていた。
振り返ると玉造の越中屋敷が真っ赤に染まっているのが見て取れた。石田三成の使者が屋敷に火を放ったのだ。「お姉さん・・・」きこが涙を流していた。「お姉さんを捜しに行きたい」きこは、涙ながらに孝司に訴えた。それはとても危険な事だったが、孝司はそれを受け入れた。
屋敷近辺まで二人は誰にも見つからないように身を隠しながら戻った。屋敷はごうごうと音を立てて燃え盛っていた。その熱さに孝司の額からは汗が流れ落ちる程だった。
きこは、いとを探したが、どこにもその姿を見つける事はできなかった。二人はただただ屋敷が燃え崩れるのを見るほかなかった。時間だけが流れた・・・
この屋敷後に、約300年後、玉造カトリック教会が建立される事になる、その玉造カトリック教会の正面玄関の左側には、高山右近の像が、右側には細川ガラシャの白い像が今も立っている。
そして細川ガラシャの辞世の句が彫られた碑が立っている。
このような句である
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」 それは、
花は散る季節を知っているからこそ、花として美しい、私もそうありたいと言う詩である。
細川ガラシャ享年38歳、ガラシャの死の数時間後、オルガンティノ神父は細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い教会で彼女の為にミサを行い、堺のキリシタン墓地に葬った。細川忠興はガラシャの死を深く悲しみ、後に大阪の崇禅寺へ改葬した。
第十六章(猫間川のほとりで)
猫間川は玉造の付近で船溜りになっていて水運による物流の集積地としても賑わっていた。現代では、失われた川となってはいるが・・・
その猫間川のほとりに二人は気がつくと来ていた。そして二人は、川の土手に座った。遠くに越中屋敷の火が夜の暗闇に浮かんでいた。なぜかそれは、新七郎には、遠い世界の出来事であった様で現実感が湧いて来なかった。
しばらくは、沈黙の時間が流れた。最初に口を開いたのは、きこだった。
「新七郎さん(当然きこには、孝司は新七郎だった)、ガラシャ様も姉上も天国に行ってしまった。天国ってどんなところなのでしょう?」
「きこさん、天国には苦しみも、悩みもない世界と聖書は言っています。姉上もガラシャ様も今頃はデウス様に忠実な僕よ、よくやったと抱きしめられている光景が目に浮かびます。」
「新七郎様・・・きこは、姉上と共に天国に行くつもりでした。ここに新七郎様と共にいる事がデウス様のお導きならば、私は新七郎様と共に生きて行きとうございます。」 新七郎は、まさに自分が思っていた事を先にきこに言われてしまったので驚きを隠せなかった。
「拙者もまさに、今ここに生かされている事が、デウス様からの啓示の様な気がしてなりません。きこさんを初めてお目掛けした時から拙者は、きこさんが自分にとってのマリアだと思っていました。」
「私も初めて新七郎様とお会いした時から、運命的なものを感じていました。」
それ以上の言葉は二人には必要がなかった。
猫間川に飛び交う無数の蛍の光は、暗闇に残像として光の線を描き、二人はそれを無言で何時間も見つめていた。
そしてその3か月後・・・
天下分けの合戦、「関ヶ原の戦い」が始まるのだった。
第十七章(そして現代へ)
「きこ! はよ起きなさい、教会に遅れんで」と紀子、そして食卓には、朝ごはんのトーストとハムエッグが出来上がっていて、孝司は新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。 きこが起きてきた。きこは、今年小学校に上がったばかりだった。
「おはよう」きこは目をこすりながらそう言うと孝司の横に座った。
「きこちゃん、歯磨いたんか?」
孝司の言葉にきこは頭をかきながら「あっ、忘れてた」と言って洗面所に向かって行った。そんなきこを見て紀子は笑った。
その10年前・・・
孝司は、高校を卒業し京都のミッション系の大学に進んだ。悪友の慎二も同じ大学だった。
二人は、地下鉄烏丸駅を出て今出川のキャンパスに向かっていた。多くの学生が二人の前を歩いていたが、ちょうど前にいた小柄な女の子が振り返った。
「あっ」孝司は声にならない声を出した。 それは紀子だった、紛れもなくあの少女だった紀子が大学生になって孝司の前に現れた様だった。
その少女は、孝司になんとも言えない微笑みを返し、また前を向いて今出川キャンパスに消えていった。
「おい、孝司、あの女の子お前の事知っとんのか?なんか意味深な笑いをしてへんかったか?」
慎二のその問いかけになんと答えれば良いのか孝司は判らなかった。
「せやな・・知ってる様な、知らん様な・・・」
「なんやそれ?あほとちゃうか!まぁあんな可愛い子が孝司の事を気にするはずないもんな・・・」
二人は、その大学の商学部になんとかかろうじて合格した。お互いに奇跡の合格と笑いあったものだった。大学のクラスは、あいうえお順にクラス分けがされていたので、孝司と慎二は別のクラスだった。
「ほんなら、昼休みに学食で・・」
「わかった・・・」
孝司は、慎二と別れると一限目の英語の授業まで時間があったので、休憩室で時間を潰そうと商学部の校舎の東の端にある休憩室に向かっていた。気がつくと、自分の前に朝のあの彼女が歩いていた。 彼女もどうやら休憩室に向かっている様だった。
孝司はその後を追いかけた・・・というか孝司も休憩室に行きたかったからだったのだが・・休憩室に入ると先に入っていた彼女は入り口の対面にあるベンチに座っていた。
孝司は、入り口の左にあるベンチに腰をかけ、履修科目の一覧表を見ながら履修科目の選択をする事にした。ただ、どうしても自分から見て左にちらちら見える彼女の事が気になって仕方なかった。朝のあの微笑みは何だったのか?
彼女は、あの紀子ちゃんなのか? でも年が違いすぎるし・・そんな事を考えていた時・・・
「あの・・・隣に座っていい?」 彼女だった。
「・・・あ どうぞ」
孝司は、年甲斐もなく顔が赤くなっているのが自分でもわかった。
「こんな話・・・信じてもらえんと思うけど・・・うちの遠い先祖は、自分の遠い先祖に助けてもらったんや」
「え?どういう事なん?」孝司には何の事かちんぷんかんぷんだった。孝司には
時間を超えての一連の出来事は全く記憶に残っていなかったからだった。
「うちの先祖・・・江戸時代の先祖やけど、清原きこと言う名前やねん、彼女は、自分の先祖の新七郎という人と結婚の約束をしていたんや、せやけど新七郎さんは、二人が結婚のちぎりを交わしたその後にすぐ起こった、関ヶ原の戦いで戦死してしもうたそんなんや、きこさんは、新七郎さんと結婚する事はでけへんかったけど、命を救ってもらった新七郎さんといつかきっと結婚したい、代は変わっても遠い将来であっても結婚したいと思うてたんや・・・うちの名前は、清原紀子・・清原きこの末裔なんや・・」
「やっぱり紀子ちゃんなんや?」孝司は紀子ちゃんの記憶だけは残っていた。
「うん、ずっと一緒やったあの女の子はうちなんや・・・」
そして紀子は一冊の本を孝司に手渡した。
それは、コンテムツス・ムンジだった。
そうあの時の・・・コンテムツス・ムンジだった。
完
あけずの櫃 yuko_yuko @Khoki
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