毒芋
QUILL
蜜芋を夢見て
私のお母さんは、ワガママを許さない人だった。二人でスーパーマーケットに行って、私が焼き芋を強請っても、お母さんは頑なに許さなかった。でもあの日、私は身の丈に合わない幸せを望んでしまった。押し寄せる後悔とは裏腹に、腹は限りなく満たされていた。
早くからお父さんと離婚してしまったお母さんに、私は不服だった。お父さんが会社の後輩と浮気をしていたらしく、その1回をきっかけに二人は離婚してしまった。たった1回くらい許してあげても良いじゃないか。家族でお出かけするのを約束した日を忘れ、接待を入れてしまうようなお父さんに、完璧を求めること自体に無理があったのではないか。しかしそんなタラレバを、いつも苛立っているように見えるお母さんに話すわけにはいかなかった。今はお父さんがいなくなったせいで家庭の経済状況はグラグラだ。友達は誕生日にプリキュアのおもちゃを買ってもらえてるのに、私には何にもない。ケーキはフランス語みたいなよく分からない名前のお店で友達は買ってもらえてるのに、私はスーパーマーケットで閉店間際に安売りされるヤマザキのショートケーキだ。友達は年に1回はハワイやグアムに連れて行ってもらえるのに、私はおばあちゃん家に付き合わされるだけだ。そんな取り留めのない不満を学校の毎日日記にぶちまけていたら、それはとうとうお母さんに見つかってしまった。私がそれを開きっぱなしにしたままで、昼寝をしていたのが悪いのだ。病気で仕事を早退してきたお母さんは、それを見て一層不機嫌になった。穏やかに寝息を立てていた私は、首根っこを掴まれて低い声で問い掛けられた。
「私との生活が嫌だって言うの?」
「そんなこと、ない……」
「良いのよ! 嫌いなら嫌いって言って! 私だってあんたがいるせいで贅沢を我慢してるのよ! 出ていきたいなら出ていきなさいよ!」
「分かったよ! もうこんな生活懲り懲りだから!」
私は錆びれたアパートの狭い部屋を飛び出した。お母さんが追いかけてくることはないと分かっているのに、現実逃避を試みるように何度も何度も角を曲がった。もう何も見えなくなってやっと心が落ち着いた時、私は知らない場所にいた。
一面に広がる畑には、サツマイモが沢山実っていた。昔、家族で焼き芋をよく頬張っていたことを思い出しながら、一帯を眺めていた。とはいえ、距離感が正確に測れたわけではない。さっきまで晴れていたはずの空から、雪が降ってきていたからだ。息が切れてどうしようもなく、立ち止まって地面にへたり込んだ瞬間、空からは雪が降り始めた。それはそれは激しく吹雪いて、2寸先はもう見えなかった。そんな不気味な今年最初の初雪を見上げていると、遠くからはいきなり機械音のようなものが近づいてきて、目の前に視線を戻すと、眩い光が明らかにこちらへと向かってきていた。その存在がトラクターであることは数秒後に分かったのだが、トラクターはジリジリと私への距離を詰めてきて、目の前で止まった。農作業着を着たおじさんが降りてきて、私の顔を覗き込んだ。
「お嬢ちゃんは焼き芋が好きかい?」
私は大好きだと言った。しかし、おじさんの視線は疑わしげだった。
「でも、それにしてはガリガリにおじさんは見えるよ? 何だかツルボケしたサツマイモみたいだよ」
それは、お金が無いからだ。もう当分の間、焼き芋なんて食べていない。
——全部、父親のせいだ。
父親なんて居なくなれば良い……。
「君はさ、何か恨みがあるんじゃないのか?」
……ある。ある、あるある、あるあるある!父親がいなければ!
私の引き攣った表情を見て、にっこりとおじさんは口角を上げた。
「じゃあ、おじさんの手伝いを君がしてくれたら、君の望みを1つだけ叶えてあげよう」
容易いものだった。この目の前にいるおじさんのお手伝いさえすれば、私は望みを叶えられるのだ。私の望み、それは、お父さんを殺すこと……。
冬の寒空の下、私は1日、畑仕事をすることになった。まずは歓迎会ということで、おじさんが沢山、焼き芋を作ってくれた。私は忘れかけていたその味に、感動すら覚えていた。金色に輝くお芋の中から溢れ出してくる蜜の味、ねっとりと舌に絡まる幸福感。私は思い出した。トイレに行きたくなって目を覚ました夜中、何気なく覗いた隣の寝室で、お父さんとお母さんが濃密なキスをしていたのを。二人は目を閉じて、ただその甘美な時間に身を委ねているようだった。私が今頬張っている焼き芋の味は、ひょっとするとキスの味に似ているんじゃないかと、そんなことを思った。3つほどの焼き芋を平らげて、私はおじさんにお礼を言った。おじさんは微笑んで、それじゃあ作業を始めるよ、と言った。
おじさんについて行き、畑に出た。しかし、私はそこで、不思議なことに気がついた。さっき話をしていた畑の一角には、おじさんが降りてきたトラクターが止まっていたはずなのだ。しかし、おじさんは私とずっと行動していたのだから片付けに行く暇など無かったはずなのに、見渡す限りでは畑のどこにもトラクターの姿は見当たらなくなっていたのだ。一帯を包んでいる霧か靄のようなどんよりとした空気のその境界線の辺り、畑と畑の間の道途に車が1台止まっている以外に人家など目につくものはなく、まるでマジックのようにトラクターは消えてしまっていたのだ。私はその不思議な現象についておじさんに問い掛ける気にはならなかった。元より、ここに来た瞬間から異質な空気は感じ取っていた。その箱庭の中で不可解な現象が起きようとも、私はもはや知る気にすらなれなかった。もしそんな疑問を問い掛けたら、おじさんの正体を私は見破ってしまう気がした。はたまたこの不穏ではあるが壊れる気配は無いこの時間が、おじさんと交わした望みを叶えてもらう約束が、全て無かったことになってしまうような気がした。おじさんは突然振り向いて、あれこれ考えていた私に向かって、農家の1日の仕事について語り始めた。
「農家っていうのはね、大変そうに思われるかもしれないけどね、慣れてしまえばそれほどでもないんだ。まぁどっちかと言えば肉体労働だし、野菜は天候に左右されるし、不作だってある。ただ、そういう所が僕は逆に好きでね、この仕事は恋愛とか育児とか、そういう所にも活かされていくとも思うんだよ。野菜が自分の思うように育ってくれない時、一晩中悩むよ。恋愛も育児も、全部自分都合では回らないから、だから頑張ろうって思えるし、面白いんだよな。そうやって成長した先に、自分も一人前になっていくんだと思うと、僕はこの仕事を選んで良かったって、心の底から思うんだ。まぁ、中にはそうやって寛大な心ではいられないくらい、辛い日々を送っている人もいるとは思うんだけどね」
私は、その太陽のような言葉を全て飲み込めるような精神状態ではなかった。ただ、自分の中でそういう感情の一つ一つに、極端であったとしても折り合いをつけて生きていくのなら、きっと誰も咎めないだろうという、勇気や覚悟が芽生えたのも確かだった。
「まぁ、それは良いとして、うちはどういう農家かって言うと、輪作の農家でね、毎月これくらいの時期にはじゃがいもの種まきをしていてね……」
話を変えたおじさんの瞳を覗き込んだが、さっきの言葉の真意を100パーセント掬い取ることは出来なかった。おじさんの瞳の色は、暗い夜の底のような色をしていたからだ。
畑を耕し、畝を作っていたら、もう外は夕暮れになっていた。冷たく降り頻っていた雪も、いつの間にか止んでしまって、燃えるような夕陽が紅く、白く雪化粧した地面に照りつけていた。やがて、おじさんは作業の手を止めて言った。
「今日はありがとうね」
そして、心中を伺うような目を向ける私を見て、機は熟したとでも言うように、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて言う。
「さて、君はどんな望みを叶えてもらいたいんだい?」
私は熟考している風に、顎に手を当てて斜め上を仰いでみたものの、結局は父親の惨殺にしか今後歩み出すきっかけを見い出せそうになかった。私は口を開く。
「父親を殺してもらいたいです」
ボソッと言った私に、耳が悪くて聞こえなかったのか、わざともう一度その言葉を繰り返させたかったのか、おじさんは耳に手を当てた。
「なんて言った? 聞こえないよ?」
私は意地になって言った。
「父親を殺してください! お母さんにも幸せになってもらいたい!」
「ちょっと待って」
おじさんが私の言葉を遮って、こんなことを言った。
「それじゃあ2つのお願いになっちゃうよ? お嬢ちゃん。お嬢ちゃんは、父親の惨殺と母親の幸福を天秤にかけて、どっちの方が今後の為になるかを考えなきゃいけないんだよ。母親の幸福は、何だか抽象的でボンヤリしてるから、そこはかとなく幸せそうという域を出ないと思うよ。それに比べて父親の惨殺は、対象が明確だ。まぁそれは、父親の惨殺と母親の幸福をイコールで君が結び付けられる場合にしか決定されなそうだけれども。それじゃあ、良く考えて1つの方に絞ってくれよ」
私は、考えるまでもなく父親の惨殺だと思った。
「父親を、殺してください! 人類史の中でも、極めて残酷なやり方で! 生き地獄という名前のふさわしいような、そんな苦あしさで追い詰めてやってください! その苦しみでさえも、きっとお母さんの抱えてるものには勝てない!」
おじさんはまたニヤリと笑い、そして、鼻歌を歌いながらトボトボと、私に背を向けて歩いてゆく。
「あ、1個言い忘れてた。人を殺すなんて残酷な依頼を僕は受けるんだから、君にはそれなりの代償をいずれ払ってもらうよ。それだけは、忘れないでいてくれ」
私は、こくりと頷いた。そして、ふと一瞬靄が濃くなって目を擦ると、目の前にはトラクターに再び乗ったおじさんがいた。
「じゃあ、君の望みを叶えるよ」
そう言ったおじさんの顔は、私もよく知っている顔に変わっていた。靄や霧が少し晴れたその瞬間、私の目には父方の実家が映っていた。
5時の時鐘で目が覚めると、私はおじいちゃんの家にいた。目の前のブラウン管のテレビにはノイズが生じており、振り子時計は異常なスピードで時間を刻んでいた。そして、目の前の掘りごたつの上には、おじいちゃんからであろう書き置きが残されていた。俺が、あいつのイカれた頭を正しに行ってやる、と……。
襖を開けて部屋を出ると、芋焼酎の瓶などが、至る所に転がっていた。混沌とした、見慣れた家の見慣れない風景だった。酒の匂いから逃れるように歩を進めると、玄関の引き戸は開けっ放しになっていた。私は嫌な予感がして、適当に下駄を突っかけて外へ出た。
目の前の車道で、車が横転していた。
ちょうどこの家の横のガードレールから、反対の電信柱にロープが結ばれていた形跡があった。元々この道はあまり車通りがなく、そのまま真っ直ぐ行けば、行き止まりに当たってしまうために、近道などの目的で地元住民くらいしか使う者はいなかった。しかし、目の前で横転している車、それは完全に、父親のものだった。父親は、新しい結婚生活においても、車を新調したりすることはなく、私たち家族の匂いが染み付いたままの車に乗っているのだと、恨み言のようにお母さんから聞かされていた。目の前に、死体が転がっている。肝心の顔は、面影さえもぐちゃぐちゃ担ってしまっていた。濡れて光っている地面は、きっと灯油のようなもので濡れており、ガードレールと電信柱のロープの結び目は、真ん中が焦げ落ちていて、きっとそれは火に炙られたものに間違いなかった。父親は、酒を飲んでいたおじいちゃんに(おじいちゃんは酒が得意ではなかったので、頭がおかしくなっていたのかもしれない)、何らかの口実で帰ってくるように言われていたが、帰ってきた途端におじいちゃんが仕掛けた死刑執行装置に引っ掛かってしまい、死んだのだろう。「着いたよ」と電話をかけるつもりだったのか、スマートフォンが道端に落ちていた。ただそれを見て、私は恐怖という感情は全く抱かず、むしろ、蚊を殺した後のようなスッキリした感情で、道を歩き出した。
さぁ、帰ろう。おじいちゃんの家は、自宅近くだったので、帰り道は分かっている。
しかしまた靄、霧と共にあの畑が目の前に姿を現した。もう父親の始末は終わったんだから良いだろう、と思う一方で、あのおじさんに言われた何か重要な一言が何だったのか思い出そうとしていた。私はまだかいけつゾロリくらいしか本を読んだことがなかったので、難しい漢字や言葉は分からなかった。しかし、確かおじさんが言っていた言葉は、「だいしょう」だったような気がする……。霧や靄が晴れるように其の言葉を思い出したと同時に、目の前にまた、トラクターが迫ってくるのが分かった。しかし、今回は何かがおかしかった。前回は正常に見えていた視界が、何故か今回は、ゾンビゲームの死ぬ間際のような赤い視界になっていたのだ。そして、前回は真っ直ぐとトラクターを見据えていたのに、今回は何故だか、見上げるような目線なのだ。私は焦った。トラクターはジリジリと、私への距離を詰めてくる。私はきっと寝ている。しかし、自分の意思では起き上がれない。どうなっている?トラクターとの距離は1メートルを切った。あと50センチ、いや、あと30、20、10……。気絶しそうになる私の意識をよそに、おじさんは語りかける。
「いやぁ、君みたいな子は本当にありがたい。よく育ってくれたね。君は肌艶も他の子に比べて良いじゃないか。父親が死んでくれたおかげかな? まぁでも、君にもああやって種を蒔いておいたから、いま収穫できるんだよね。父親1人の命と、さつまいも1つの供給だったら、父親1人の命なんてちっぽけだし、殺すなんて易いものだよ。こうやって、大抵は需要の方が小さいから、供給量を増やしていけるんだ。僕は農家の中でも、大分頭が良い方なんだよね」
意味不明なことを語りかけられながら、私はおじさんの手の中に収まった。
「良い消費者さんの元に届くと良いね」
私は意識を失った。
私が再び意識を取り戻したのは、アルミホイルの中だった。アルミホイルに包まれた私は、熱気に意識を削がれていた。きっと私がいるのはオーブントースターの中であるが、外からは男女のキャッキャとした笑い声が聞こえる。そして、時折、甘い声で女が話しかけているのだが、私はその女の声を聞いたことがあるような気がした。というか、半分くらいはその声の主が誰であるのかを察してはいた。チン、と音がしてオーブントースターの熱気がやっと止められると、私は大きな手に掴まれて、オーブントースターから外に出された。
肌蹴ていく私、肌蹴た女の姿……。
そこは、ラブホテルの1室だった。そして、赤い視界で覗くと、やはり女は、私のお母さんだった。お母さんも、新しく男を作っていたのだ。お母さんはケラケラ笑った。
ケラケラケラケラ、ゲラゲラゲラゲラ。
本当に、幸せそうだ。しかし、この男はいつから付き合っていたのだろう。いや、違いそうだ。お母さんは、机の上に置かれた茶封筒を、ハンドバッグの中に仕舞った。
「じゃあ、食べようか」
皿に乗せられて、私は運ばれる。
「いただきます」
お母さんに皮を剥かれ、マーガリンを塗り付けられる。
ガブリ。
かぶりつかれた私は、お母さんの顔を間近に見る。しかし、幸せそうだ。こんな美形を捨てた父親は、どんな神経をしているのか。どれほど部下は綺麗だったのか。
そして、お母さんのしていた仕事は、何だったのか。実は、この水売りの仕事だけでお金を稼いでいて、ホテルの部屋では美味しいものを食べていたのではないか。
探ろうとするけれど、お母さんはむしゃむしゃと私を食べる。
まぁ、なんでもいい。
お母さんが幸せなら、私はそれでいい。
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