タイムリミット

車椅子の神様


 キャンバスに描かれた風景画。色をつけた筆を持っては戻し、持っては戻すを繰り返している内に、時刻はお昼を回ろうとしていた。昨夜からノラは作業を一つも進めることができないでいた。


 ふう、と一つ溜息を吐き、脇にある小さなテーブルの上に飾られている花瓶に視線を向ける。そこには、生き生きとした真っ赤な色の花が一輪、真新しい花瓶にけられていた。


 ノラはその花弁にそっと触れる。途端、昨夜のことが鮮明に流れ出してきて、胸が苦しくなった。


 ──あいつは別に悪くない。悪いのは、私だ。


 この黒神くろかみ家に付きまとう黒い噂が広がっていたことは知っていた。井の中の蛙であるノラでさえ耳に届くほどの醜聞しゅうぶんだ。だが、その噂が事実である以上、どうしようもなく怒りが込み上げてきて、やるせなくて、むなしくなった。


 ノラはまた絵の具がこびりついた自分の両手を見つめる。この両手にあるものはなんだ。なにもない。あの時から、妹が亡くなってしまった時から心の中にある時計は止まったままなのだから。


「……エマ」


 ノラは一際大きいキャンバスの前で車椅子を止める。まるで封じ込めているかのように布が掛けられているそのキャンバスにそっと右手を寄せて、たった一人の妹だった名前を呟いた。


 西日が差す部屋の中にむなしく吸い込まれていったその時、部屋の外からノックする音に気がつく。


「……お嬢様。ジョーでございます。お部屋に入られても?」


 ノラは慌ててこぼれ落ちそうだった涙を雑に手の甲で拭い取り、いつもの強気な返事で了承した。


「失礼いたします」


 ノラを里子に迎え入れる前から、この黒神くろかみ家に奉仕しているジョーは、やはり事情をよく理解している身だった。しかし、執事である立場上、主人とその養子の間で起こっている問題に口を挟むべきではないことも、重々理解していた。だが、今にもシャボン玉のように儚く割れて消え行ってしまいそうな存在を目の前にした時、ジョーはいつも身につまされる思いでいた。いることしかできなかった。それがどんなに身に堪えることか。


「……無理をなされておりませんか、お嬢様」

「大丈夫。いつもありがとう、ジョー」

「……左様でございますか」


 また今日も一つ増えたキャンバスの前を通り過ぎ、誰も座る気配を見せないソファーまで足を運ばせると、その上に煌びやかな赤色のドレスなどを置いていく。


「旦那様が明日のオークションのことを気にしておりました。絵はもう完成したのか、と」

「もう少しで完成するから、心配はいらないって伝えておいて」

「かしこまりました。こちらはその際に召してもらう新調したドレスでございます」

「わかった。ありがとう」

「それから……」


 歯切れ悪く言葉を切ったジョーが自身の胸ポケットから何かを取り出している様子を見て、ノラはまたかと眉を寄せた。答えはいつも決まっているのに、ジョーはオークション前日になると必ず同じ行動をする。


「ジョー。いつも言っているでしょ。私はそれを絶対に受け取らないって」

「しかし、お嬢様……」

「死んだ妹からの手紙なんて、今更、受け取れるわけないじゃない」


 そう。ジョーが胸ポケットから取り出したのは、時間の経過で茶色く変色した一通の便箋だった。表にはきれいな字でおねえちゃんへ、裏にはエマよりと書かれている。ノラはその手紙が愛おしく感じる一方、恐怖の対象でしかなかったのだ。嫌でもあの日のことを思い出させてくる、いや、決して忘れさせはしないとでも言っているかのように見えるそれが、怖くて怖くて堪らなかった。


義父とうさんには今日中に絵は完成させるから安心してって伝えておいて。ジョーはもういいから」

「お嬢様……」

「わかってる。心配してくれてありがとう。私は大丈夫だから」


 歩み寄ってくれようしてしているジョーを言葉で突き放したノラは、渋々と頭を下げて部屋を出ていくジョーの後ろ姿を見つめていた。


 これでいい。あの赤い犬のことも、ジョーのことも、皆、突き放せば巻き込まずに済む。


「そろそろ限界、かな」


 震える右手を見下ろして、ノラは自分の役目を終える時が来たのだと悟る。このオークションがきっと最後になるだろう。


 傾いた日差しが伸ばす影が、まるであの世へと連れて逝こうとしているかのように、ノラの足を掴んでいた。

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車椅子の神様 はなめい @crocus_hana

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