赤いロミオ

車椅子の神様


「なに? あんた、ロミオのつもり? それにここは二階じゃなくて、一階だけど」


 小さい頃にたしなんだ戯曲ぎきょくの世界が目の前で幕を開けている光景に、ノラは辛辣な言葉で返すしかすべが思いつかなかった。まさか、もう二度と会うことはないと思っていたあの赤い犬が、同じ色の一輪の花を持って自分のアトリエ兼自室の庭に現れたからだ。


 ノラは描きかけのキャンバスに伸ばしていた右手から筆を置き、どこか居心地が悪そうにしている闘王に向かって車椅子を走らせた。


「べ、別に俺が悪いとか思ってるわけじゃねーからな」

「じゃあ、なんで来たの? 不法侵入さん」


 それは、夕方のおうれんの話を聞いてなぜかお前のことが気になったからだ、なんてこと言えるはずもなく。


 筋骨きんこつ隆々りゅうりゅうの男がもじもじと芋虫のように身体をくねらせている様子にノラは不気味さを感じながら、とりあえず外は寒いだろうとほんの少しばかりの優しさで中に招き入れる。闘王の不器用な一輪の花を受け取って。


「勝手にいじったりしたら、即、追い出すから」

「わ、わーってるよ!」


 ノラが花を受け取ってくれた喜びと、そして花瓶を用意して生けようしてくれている行動に、闘王は今までに感じたことのない感情が込み上げてくることに戸惑っていた。


 ──女ってこんなに緊張する生き物だったっけ?


 闘王が知っている女という生き物は、きつい香水の匂いを振りまいて、猫のように身体をこすりつけてきて、濃い仮面を身につけている、そういった勃々ぼつぼつたる獣のような存在だ。


 だが、ノラはどうだ? 優しく包み込んでくれるような甘い匂いと一緒に香る少しばかりの絵の具の匂い。華奢なその身体から伝わる魂の色の強さ。化粧を施さなくても美しい素顔。


 ──参ったな。この俺が、まさか。


 出会いは最悪。決して同情からきた想いではなかったが、きっかけはなんだっていい。


 柄にもなく緊張しながらキャンバスの海の中を慎重に泳いでいく闘王は、ノラがたった今まで描いていた絵の前で歩みを止める。


「……これ、次の客に渡す絵か?」


 まだ動く素振りを見せない風景画を覗き込みながら、闘王はなんの考えもなしに聞いた言葉だった。しかし、ぴくりと肩を揺らしたノラの目が、いぶかし気に変わったことに気がつかない。


「どこで聞いたの」

「……あ?」

「どこで聞いたかって言ってるの」


 急に怒気を含んだノラに声に闘王がうろたえていると、ノラは持っていた花瓶を小さなテーブルの上に置いてから、目を吊り上げて闘王を睨んだ。


「別に、俺は」

「あんたには関係ないことでしょ。どこで聞いたか知らないけど、根も葉もない噂にはこっちだって辟易へきえきしてるの。あんたみたいなやつがいるから、私は、私は……!」

「お、おい」

「やめて! 触らないで!」


 途端、ガラスが割れる音が二人の耳朶じだに響いた。ノラが身体をよじった際に車椅子がテーブルにぶつかり、上に置いてあった花瓶が落ちて割れてしまったのだ。


 床に小さな水溜まりを作ってへたる一輪の花が、闘王の困惑した目に映り込む。


 ノラはハッと我に返って、割れた花瓶と落ちた花を見つめ続ける闘王に気がついた。何か言葉にしようとしたが、肝心の言葉が出てこない。


「あの、その、私はただ」

「……悪かった」


 二人の間を流れる静寂を完全に破ったのは、闘王のその一言だった。


 闘王は水を失っても生気を感じられる花を拾い上げ、そっとテーブルの上に置くと、揺れる瞳をそのままにして踵を返すことにした。


「風邪、ひくなよ」

「ま、待って!」


 ノラの静止を振り切り、闘王は来たばかりのアトリエを後にする。小さくなっていく闘王の背中を追いかけて、必死で車椅子を走らせて縋るように右手を伸ばすノラは、ただ闇に呑まれていく赤色が消えていくのを見続けることしかできなかった。


「待って……、私は……」


 ぽたり。闇の中でも美しく輝く緑の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。

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