心の絵の具

車椅子の神様


「……あら? なにか、お取込み中だったかしら?」


 おうれんが『招き猫』に戻ってきたのは、昼のカフェから夜のバーに移り変わる少し前のことだった。


 今日も今日とて神社に参拝に来た者達を吟味し、一番心惹かれたとある坊やの恋煩いに片棒を担いできたおうれんは、その坊やの憑き物となって、見事、恋愛成就の花を咲かせてみせた帰りだった。おうれんとうおうまつってある神社の神様に願い事をしに来た者達の頼みを叶えるのが、二人の仕事だ。だが、闘王はその仕事を放棄し、自堕落な生活を送っている。その罰がついに下ったのだろうか。


「おお、おうれん。いいところに帰ってきた。この絵をあそこに飾りたいんじゃが、背の高いお前さんなら届くじゃろうて、手を貸してほしいんじゃが」

「それは別に構わないけれど、じじ様。と言うか、ノラちゃん? 今日はこっちに配達してたのね」

「こんにちは、おうれんさん。はい、いつもはじじ様のお家なんですけど、お店にも飾りたいって言われて」

「そうだったのね。ちょっと待ってて。絵を飾り終えたら貴女の家まで送るわ」

「いつもすみません。ありがとうございます」

「だぁーッ!? 誰かこの犬をどうにかしてくれッ! おいッ、おうれんッ、クソガキィッ!?」


 自分達と瓜二つな狛犬が闘王の尻に噛みついているのを横目に、おうれんは海のように煌めく豊かな青い髪を払いのけながら素通りしていく。その際に「ご愁傷様」とだけ声をかけて。


「できたわよ。これでいいかしら?」


 男性にしては細い指が額縁から離れていく様子を、ノラは車椅子に腰をかけて眺めていた。じじ様のためにと魂を込めて描いた絵が、装飾を施された金色の額縁の中で踊っている。


 ノラは自分の両手を見た。石鹸で洗ったはずなのに、まだ絵の具がうっすらとこびりついている。


 まるで、自分の心のようだとノラは独りごちた。心の垢は、取っても取ってもこの絵の具のようにこびりついて全てを落としきることはできない。でもノラにはこうして誰かのために動く絵を描き続けることしか能がないのだ。例えそれが自分の意に反することだとしても、「それ」に逆らうことはできない。逃げられない。


 ぎゅっと固く握りしめられた小さな両手を見て、おうれんはどこか泣いているように感じられるノラの背中に手を添えた。


「ノラちゃん。送るわ」


 ぴくりと微かに跳ねた華奢な身体に気がつかないふりをして、おうれんはノラが座る車椅子のグリップに手を伸ばし、そしてゆっくりと店の玄関口へと方向転換させる。


「悪いのだけれど、耳障りだからそろそろ闘王のことなんとかしてくれないかしら?」

「あ、忘れていました」


 途端、いたずらっ子のように口端こうたんをあげるノラの表情は、いつもの強気な少女に戻っていた。


もっとやれ、もっとやれと、狛犬の威を借る子猫になっていた喜助を制し、ノラは指先をパチンと鳴らす。すると、まるで人魚姫が泡に還るかのように雲散霧消うんさんむしょうした狛犬に、喜助の驚嘆の声と、そして闘王の地を這う声が響くのだ。


「んの、クソガキ……ッ」

「そのクソガキって言うのやめて。いい? 今度、私に盾ついたら同じ目にあわせてやるから」

「頼もしいわぁ、ノラちゃん。闘王もこれを機に改心して、仕事の一つや二つやってみたら?」

「そうだぁ! そうだぁ! おうれんを見習え、闘王!」

「うるせぇ! このクソチビ助ッ!」


 まるで親の仇だと言わんばかりの目つきでノラを睨む闘王は、手をひらひらさせながら「さようなら、赤い狛犬さん」と嫌味たっぷりに吐き捨てるノラに、なんとも旗色の悪い今の状況に歯軋りをするのだった。


 そんな二人の様子を少し離れた場所で見守っていたぬらりひょんは、逡巡しゅんじゅんしていた。


 もしかしたら、と。


 だが、そんな淡い期待を振り払うようにしてかぶりを振ると、床に這いつくばっている闘王の赫々あかあかとした頭を見て、ただただ青い息がもれるだけだった。


おうれん、ノラを頼むぞ」

「もちろんよ、じじ様」

「闘王、おぬしも行きなさい」

「はぁ!? なんで! この! 俺が! こいつのために!」

「いいから行くんじゃ」


 不平不満を口にする闘王と同じく、ノラも不快に思ったのか、その表情は険しくなっていた。


じじ様、私は」

「ノラや。このじじからの頼みじゃ。どうか聞いてくれんかのう」


 うっと言葉を詰まらせたノラに、ぬらりひょんは更に畳みかけるようにしてその高い頭を下げる。


 そんなぬらりひょんの姿に慌てて肯定の言葉を返せば、福々ふくふくとした恵比須えびす顔がそこには居た。


 ノラは苦笑いを浮かべるしかなかった。

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