二十二葉・手紙のその後。

「ごめんなさい」


全てを書き終えて、小野孝太は筆を置いた。

原稿用紙何枚にも及ぶ、長い遺書。

完成したばかりのその束を眼前に掲げると、なんだか感傷のようなものが胸の奥からこみあげてきて。

――何より、空っぽだと思っていた自分の中にこれだけのものが残ってたことに、少し驚いた。


「でも、それもこれで終わりだ」


死のうと決めた八月のあの暑い日から、丁度半年。

それだけの時間をかけて、遺書を書いてきた。

自分の人生、自分の悩み、そして自分の想い。

それらを書き出していくうちに心はどんどん穏やかになっていって、これで悔いなく死ぬことが出来ると思った。


お世辞にも綺麗とは言えない自分の文字がのたうつ紙束を封筒に入れると、表に名前をかきこむ。

『河津郁乃 様』

宛てる名前は、他に思い浮かばなかった。

封筒を机の上に置くと、孝太はぐぅーっと背伸びをしてから、部屋の中を見渡す。

小さな自分の下宿先の部屋。

がらんとした空虚の中に夕日が差し込んで、部屋が温かな色に染まるのを見ていると、目頭が熱くなった。


「これで、この部屋も見納めか」


後はもう、死ぬだけだった。

遺書を書き上げた今、やり残したことはない。

後悔はもうなにも……


「いや、ひとつだけ……」


最期にひとつだけ。

思い出の多くが生まれた関西のあの町へ行きたいと思った。

中高の六年を過ごしたその町では、たくさんの幸せ、たくさんの苦しみ、たくさんの喜び、たくさんの哀しみを経験して。

それらを最期に、あの街に返しに行きたかった。


夜行バスに乗る。

最期の帰郷くらい新幹線を使おうかとも思ったけれど、やめた。

中部地方から関西へ、片道で六時間ほど。

その間、孝太は一睡もせずに、なんとなく妹のことを考えていた。


朝五時。

まだ、真っ暗闇に包まれた第二の故郷に立つ。

吐く息が白く染まる。

空気の冷たさと少しの切なさで、鼻の奥がツンっと通った。


色々な所を回った。

子どものころ大きく見えた中学校は、まるでおもちゃ箱のように小さくて。

高校の校舎は、相変わらず大きいままで。

何気ない道がセピア色に見えて、何気ない街並みがキラキラと輝く観光地のように見えて。

――もう二度と、ここに来ることはない。

そう思うと、どんな些細なものまでもが愛おしく感じた。


時間はあっという間に過ぎて、気がつくと夕方になっていた。

橙色に染まる空と街を見ていると、無性に切なくなって。

気がつくと孝太は、いつかの川辺に立っていた。


いつかの時間を少女と過ごし、そして少女を傷つけた川辺。

そこに腰を下ろすと、チラチラと波間に輝く夕陽が目に滲みて、涙が零れた。

その雫を拭うこともしないで、孝太はただぼんやりと川の流れを見ていた。


――どれだけそうしていただろうか。

やがて、東の空が深い紺色に沈み、街が彩度を失っていく中で、孝太は立ちあがった。

この水辺に来れば、ひょっとするとに……そんな期待したわけではない。

ただ、足が動かないだけだった。


「そう、動かなかっただけ……」


でも今は動く。

また一つ心が軽くなったようで、孝太は立ち上がった。

最後にもう一度だけちらりと川辺を振り返り、それから孝太は土手の方へと上がる階段を求めて歩き出す。

もう未練はない――そう思った瞬間だった。


「――あ」


一人の女性とすれ違った。

彼女は大きなスポーツバッグを抱えていて、そのバッグには漢字が四つ書かれていた。

その文字は――。


坂本さかもと結美ゆみ……」


後悔が、振り返った。


* *


「結美……さん」


ぎこちなく、口が動いた。

そんな自分の声の、あまりにも情けない響きに泣きそうになる。

数年ぶりの邂逅なのだから仕方ない、と自分を慰めたところでそれはどうなるものでもなかった。


「また、そんな声を……」


足を止めた彼女は、孝太から視線を逸らしてそう呟いた。

そして、そのまま川辺に歩み寄ると、彼女は腰を下ろした。


「また、何かに悩んでいるの? 孝太くん」

「俺の名前……覚えてて……」

「孝太くんも私の名前、覚えててくれたじゃん」


あはは、と笑って、そこで初めて結美は孝太の方へと顔を向けた。


「久しぶりだね、孝太くん」


その笑顔は、記憶の彼女よりは随分と大人びていて、でも一目で結美だと分かるものだった。


「元気してた?」

「ぼちぼちかな」

「……そっか」


薄く笑って、それから「隣、座りなよ」と誘う彼女の言葉に甘えて、孝太は川辺に腰を下ろす。

落ち着く香水の香りが、ほんのりと鼻をくすぐった。


「ありがとう」

「ん」

「……」

「……」


静けさが二人を包み込む。

風も川の流れも今だけは口を噤んで、ただ耳をそばだたせているかのようだった。


「最近、元気だった?」


先に口を開いたのは、孝太だった。

そのことに孝太自身が驚いた。


「おかげさまで、あれからは病気ひとつなく元気に過ごしてるよ」

「そっか。それは良かった。本当に」

「うん、ありがとう」

「……」

「本当に、君のおかげだよ」

「……え?」


彼女は感謝の言葉を口にした。

その意味がわからなくて、でもなんだか、顔から血の気が引いていくように感じた。


「ありがとう……?」

「うん。感謝してるの。それと、謝りたいなって……」


一瞬、嫌味かと思った。

そんなことを言う人ではないはずだけれど、そんなことを言われても仕方ないことを自分はしたのだから――そう思ったけれど、しかしその表情には一切影がなかった。


「ありがとうなんて……どうして?」

「君のくれた時間が、生きる糧になったから」


間髪いれず、彼女はそう答えた。

その目は真っ直ぐに孝太の顔を見つめていて。


「あ……あぁ……うん、とにかく元気になって良かったよ」


孝太はその目をまっすぐ見ることができなくて、空を見上げた。


「……なにか、あった?」


不意に、結美がそんなことを聞いてきた。


「いや? 元気ピンピンだよ。見て分かるでしょ?」

「見て心配になったから、聞いてみたんだよ」


思わず顔を戻した。


「心配……?」

「うん。何かあったんじゃない? 何か悩んでることとか、ない?」

「……」


驚いた。

今まで、そんなことを言ってきた人はいなかったから。

誰も気付かなかったのか、気付いても言う人がいなかったのか。

どちらにしても、俺が遺書を書いている間も、周囲でそんなことを問うてくる者はいなかった。


「……私ね、落ち込んだ時はいっつもここに来るんだ」

「……」

「いつも、君との思い出から元気をもらうんだ。良い友達で、良い思い出で、良い励ましで、そしてちょっぴりの後悔。そんな君との時間の詰まったこの河岸から、元気をもらう。そうして、今まで辛いことも悲しいことも乗り越えてきた」


彼女は足をパタパタと動かした。

ロングのスカートから覗くきめ細やかな肌の足に、夕陽が美しく輝いた。


「だからこそ、後悔してたの。君を叩いたこと、ずっと謝りたかった。君の思いも汲もうともせずに、ただ言葉尻だけをとって思いっきり叩いたこと……ごめんなさい」

「そんなッ……」


頭を下げた結美に、孝太は思わず立ち上がった。


「そんな……そんな……俺の方こそ、謝らないといけないのに……俺の方が、傷つけたのに……」

「違うよ。違うの」

「何が違うって……」

「孝太くんはいつも、私を気遣ってくれたじゃない。あの夏祭りの日、覚えてる? あの時、私、楽しくて悲しかった。この楽しい時間がこの一瞬だけのものなんだって思うと、悲しくて悲しくて。お祭りを盛り上げてる焚き火の火のように、明日になったらなかったことになるような気がして。もしかするとこれが最後かもしれないと思うと震えるくらいに怖くて。そんな私の手を、そっと包んでくれたのは君だった」

「……」

「あの秋のライトアップの日も、そう。夢みたいに綺麗な世界で、私はこのまま死んでしまいたいって思った。四隅を限られた閉鎖的な病室で死ぬよりも、あの光と闇がどこまでも続く天国みたいな場所で、君だけに看取られて死んでしまいたいって、本気で思った。――思ったのに、君はなんて言ったか」

「……」

「来年も一緒に来ようって。自分の来ていた上着を私の頭にかけて、そう言ってくれた。泣いてる私の涙を誰にも見せないように、そして自分も気がついていないようなふりをして、上着をかけてくれた。――その時、思ったの。あぁ、私はなんて幸せで、なのになんて愚かなんだろうって」

「愚か……」

「目の前の光景に哀愁を覚えるのは、死を受け入れているからだった。全部受け入れて、諦めて、そして、そんな自分を哀れだと思ってた。でも、違う。君は……君だけは、私の『来年』を信じてくれた。私の未来に、目を向けてくれた。私の現状を知り、私の運命を知り、私の想いを知った上で、『来年』と……」

「……浅慮な人間だっただけだよ。その言葉を聞いて人がどう感じるのか考えもせず、ただ無遠慮に『来年』と口走っただけ。買い被りすぎだよ。愚かなのは君じゃない、俺だよ」

「無遠慮な人間が、気がつかないふりをしてまで私の涙を隠してくれる?」

「……」

「他人が何をどう感じるのかも分からない人間が、お祭りの灯火を眺める私の表情の意味を汲み取れると思う?」

「……」

「言葉だけじゃなくて、あなたの人となりに思いを至らせるべきだった。そうすれば、あなたの言葉の意味が、表現の通りではないことくらい気がつけたはずなのに……」

「……でも」


強い口調の彼女に、足から力が抜けて孝太は膝をついた。


「でも…………俺は罰を受けている」


人が亡くなった時の自らの振る舞いを思い返すと、息が苦しくなる。

結美を傷つけたことを考えると、胸が苦しく痛くなる。


「俺は、たくさん人を傷つけてきた。祖母が亡くなった時には涙を流せなかったし、祖父の時にはその法要の最中に欠伸をした。もう一人の祖父が亡くなった時には、その尊厳を傷つけるような発言をしたし、中学では君を傷つけ怒らせた。高校では期待してくれた人たち全てを裏切り、友人を裏切り、そして、大学では僕のことを思ってくれる人たちを全て切り捨てようとしている。人の気持ちがわかるのなら、こんなに人の事を傷つけることなんてないはずなんだ。だから……」


これは罰なのだ。

人を傷つけ、人を思いやることのできない自分への罰なのだ。

そう、胸を押さえて俺は俺に言い聞かせる。


「ずっと苦しみつづけないといけない。ずっと、この胸の痛みと向き合い続けないといけない。人に負わせた苦悩を思うなら――」


――俺は、苦しみ続けて死ななければならない。


その最後の言葉は口にできなかった。

それを口にしてしまえば、自分はまた彼女に新たな業を負わせてしまうことになるから。

口にすれば、自分はほんの少し救われてしまうから。

だから、口にできない。

自分は苦しみ続けて死ななければいけないのだから。

――そんな考えを、手に感じる温もりが遮った。


「……その苦しみを受けていること自体が、君が人の心を解してる証拠だよ」


結美が、孝太の手を取っていた。

その顔は泣きながらも微笑んでいて。

その涙は、間違いなく孝太に向けたものだった。


「君は人を思いやることのできない人なんかじゃないよ。だっていつまでも亡くなったおじいさんやおばあさんのこと、そして私のことを忘れないでいてくれたじゃない」


それは人への思いやりであり、そして君が人一倍優しいことの証でもある――少女はそう言った。


「でも、僕は人を傷つけた。いつも、いつでも、いつになっても……僕は人を傷つけてばかりだった……」

「私だってそうだよ。色んな人を傷つけてきた」

「でも……それでも俺はきっと許されちゃいけない」

「そんな事ない。人と人の繋がりっていうのは、人を傷つけあって少しずつ太くなっていくの。みんなお互いに傷つけ傷つけられて、それを許し許される。その繰り返しで人は強く、優しくなれる」


優しく、そして力強く、彼女は孝太の知らない考え方を提示していく。


「あなたは昔から、人一倍自分で自分を傷つけてきた。人一倍、辛い別れを経験してきた。人一倍、人のことを慮ってきた。人一倍、自分の無力さを知り、それでも誰かの支えになろうと一生懸命だった」


彼女の手はとても暖かくて、安心する手触りで。


「だから、もう罰を受けることなんてないんだよ。自分を許してあげていいんだよ」


そう言って、少女は孝太の胸に手を置いた。


「ここが痛いって言っていたでしょ? それはきっと、罰でもなんでもないの」

「じゃあ、何……?」

「あなたの優しさ……人を悼む思い」


いたむ。


「私はね、『悼む』って言葉は『痛む』からきているんだと思う。大切な人を失って胸が痛い、亡くなった人を思い出すたびに胸が痛い、遺された人の姿を見ると、胸が痛い……その痛みは、故人が安らかに、残された人が幸せにと願う『いたみ』――『悼み』なんだと思う」

「悼み……」


頭にかかっていたモヤが払われて、心が軽くなっていくような気がした。

それは、最近よく感じていた空虚さを伴う軽さではなく、じんわりと胸に温かみの残る軽さだった。


「俺は、前を向いていいの?」

「……うん」

「俺は、苦しまなくていいの?」

「うん!」

「俺は……俺を許していいの?」

「うん……!」

「俺は……生きていいの?」

「ッ!」


最後の言葉を口にした途端、彼女は口を覆った。

目からは大粒の涙が溢れて、ただ何度も彼女は頷いた。


「うん……うん!!」

「そっか……」


そんな彼女の背中をさすりながら、孝太は天を仰いだ。


「生きて……いいんだ……」


* *


それから、たくさんのことを話した。


幼い日の祖父母に対して感じた後悔。

中学生のころの、結美に対する後悔。

高校生の時の、郁乃への想い。

そして、大学生になってからずっと抱え続けていた、抱えきれないモノたち。


ぽつりぽつりと、まるで雫を落とすように孝太は語り続けた。

そして、結美もただそれに耳を傾けるだけ。

でも、ただそうしているだけの時間は、それでもこの数年間のいかなる時よりも確かな時間に感じた。


「遺書を書いたんだ」

「遺書?」

「そう、遺書。親友に向けてね」

「郁乃さん、だっけ?」

「そう。その彼女に、遺書を書いたんだ」

「何を書いたの?」

「さっき話したことを、全部」

「郁乃さんはびっくりするかもね」


結美はぽつりとつぶやいた。

その言葉に「そうかもね」と返して、孝太は彼女に笑顔を向けた。


「でもね、せっかく書いたその遺書、捨てないといけなくなっちゃった」

「え?」

「誰かさんに、『まだ生きたい』って思わされちゃったからね」

「そっか」


結美は顔を伏せた。

表情は見えなかったけれど、その耳はほんのり赤くなっていて。

微かに鼻をすする音が聞こえた。


「……私、いつか郁乃さんに会ってみたいな」

「どうして?」

「宣戦布告をしにいかないと」

「唐突に物騒な話だね!?」

「あはは……。でもね、本当に……嬉しい」


結美は小さく息を吐いた。


「……生きたいって。そう思ってくれて、本当に……わたし……」

「結美さん……」

「死んじゃう前に会うことが出来て……止めることが出来て、良かった……」


震えるその言葉に、孝太は何も言うことが出来なかった。

ただ、ひとつの想いが――。


――死ななくてよかった。

そんな想いが胸の奥から湧き出でて、心がいっぱいに満たされた。


「……遅くなったね」


気がつくと、当たりは随分と暗くなっていた。

さっきまで煌めいていた無数のお店の明かりたちは、いつしか随分とその数を減らしていて。

空に瞬く星たちが綺麗に見えた。


「どこかの店に入ればよかったね」

「だね」


話すのに夢中で、お互いに気が回らなかったことを二人で笑う。

随分と話して、泣いたから、すっかり体は冷え切っていた。


「良かったら、これ。使って」


孝太は自分のつけていたマフラーを手渡した。


「今さら焼け石に水だろうけどね」

「いや、でも孝太くんが寒いんじゃ……」

「子供は風の子っていうだろ?」

「同い年なのに! マフラーよりも若さを私に譲って!」

「若さって言われても、今日は随分説教されたからなぁ。ね、先輩?」

「茶化すなら二度としないもん!」


笑って、二人は歩き出す。

夜の街に、二つの足音が並び行く。


「でも、偶然にしても会えてよかったよ」

「ほんと、びっくりしたよ。しかもよく見たら、ものすっごい顔してたからね。二重にびっくりだった」

「言われた事ないんだけどなぁ。よく気づいたね」

「審美眼があるのかな?」


たわいもない話をしているうちに、気がつくと分かれ道。

楽しい時間はあっという間で。


「またよかったら、うちに来てくれ」


気がつけば、孝太は次に会うお誘いを投げていた。


「私はいいけど……孝太くんはいいの?」

「もちろん。俺の実家の場所は知ってるだろ?」

「うん。中学の頃、一緒にデートしまくったからね」

「お家デートはしてないけどな」

「あはは」

「まぁ、今日は遅いからあれだけど、また二人にも顔見せてやってほしいんだ。二人とも、最近までずっと結美さんの体調を心配してたから」

「あー、二人も私のことをご存じなんだね……じゃあ、元気になりましたって報告しに行かないとね」


懐かしい、温かな感覚だった。

幸せだというのに、あの恐怖感は押し寄せて来なくて。

友人と当たり前のように日々を過ごすことへの多幸感に、舞い上がるような気持ちだった。


「っと、夜行バスの時間や」


時計を見ると、別れの時間が近づいていた。


「駅前に行かないと」

「慌ただしいね」

「まぁ、また今度ゆっくり話そう」


そう言うと、少女は笑った。

その笑顔を目に焼き付けて、孝太は彼女に手を振った。


「また、会おうね」


* *


バスが停まる。

降りて空を仰ぎ見ると、うっすらと東の空が白んでいた。

寝ぼけ眼には眩いそれに目を細め、孝太は視線を下ろす。

この数年ですっかり見慣れた町には、至るところに雪が積もっていた。


車の往く音が暁の空に低く響く。

冬の冷たい風の声が孝太を追い越し、自分の足音がそれを追いかけようとリズムを早める。。

こうした自然の声たちは、昔から孝太をよく慰めてくれていた。

でもその慰めは、結局のところ所詮慰めでしかなく、立ち上がる力にはならなくて。

そうして孝太は、ひとり腐り堕ちていくだけのはずだった。


――そのはずだった。


孝太は一人で消えていくはずだった。

そのつもりで、全てを投げ出して、捨て去って。

この胸に宿る命すらも、全て投げ出してしまうつもりだった。

そのはずだったのに……。


「あぁ……」


目を閉じてみる。

力をくれたあの笑顔を思い出すと、孝太は自分の胸が力強く波打っていることに気づかざるを得ない。


ドクン、ドクン、ドクン。


胸は高鳴り、身体には力が湧き上がる。

誰かの言葉がこれほど自分を奮い立たせてくれるだなんて、思いもしなかった。


――自分を許してあげて。


静かで、でも確固たる意思の下で発せられたその言葉を思い出すたび、孝太の心は何度も震えて力が充ち満ちた。


「ただいま」


朝七時。

祖母の家につくと、祖母はすでに起きて朝食の準備をしていた。

なんの連絡もなしに、いきなり顔を出した孫にはじめは驚いた様子だったけれど、すぐに優しく出迎えてくれた。


「せっかくだから、ご飯をお食べ」


その言葉に、孝太は素直にうなずいて、席についた。

朝食の献立は白ご飯とお味噌汁、そして鮭と目玉焼き。

食卓に並んだ料理たちに、二人で手を合わせる。


「「いただきます」」


まずはじめに、ホカホカと湯気を立てる艶立った白米に手を付けた。

一口含むと途端に広がる、ほのかな甘みと炊き立ての香り。

その味もさることながら――。


「味が……」


味がした。

久しく感じることのできなかった幸福感が、口いっぱいに広がった。


「おいしい、おいしい」


気がつくと、おかわりをしていた。

舌が、喉が、胃袋が欲するままに、孝太は箸を動かした。


「そんなに食べてくれると、作った甲斐があるわね」


祖母はそう言って笑った。

いつも通りの柔和な笑顔。

だけど、どこか泣きたくなるような笑顔が目に焼き付いた。


朝食を終えて食器を洗っていると、祖母がふと口を開いた。


「このあと、用事は?」

「いったん下宿に戻ってから、学校に行こうかなって」

「そう、弁当作ろうか?」

「大丈夫、大学で食べるよ」

「そう。それじゃ、気張っておいでよ」

「うん」


しばらくして、孝太は祖母の家を出た。

時刻は八時過ぎ。いつの間にか雨が降っていた。

歩道の雪は随分と溶けてぐちゃぐちゃになっていたが、白線の上などはまだまだ踏み固められたままで、油断をすると滑りそうになった。


祖母の家から下宿に帰る道中にある大通りで、信号に引っかかった。

手持ち無沙汰にスマホを手に取ると、SNSのアプリをタップした。


「河津郁乃……」


親友の名前を呼び出して、トーク画面を開く。

大好きだった親友とのトーク画面。

一番大切な人だったのに、勝手に遠回りして、惚れて、間違えて、傷つけて。

その結果、このトーク画面には何も残っていなかった。

背景しか映っていない、空っぽのトーク画面。

でも今は、そこに載せたい想いがあった。


「――君にあいたい」


その六文字を入力欄に打ち込んで、孝太は目を閉じた。

たった六文字だった。

でも、そのたった六文字にたどり着くまで、随分と遠回りしたことを思うと、目頭が熱くなった。


早朝の町に、車の音が響く。

その音に引っ張られるように、集団登校の子供たちが孝太を追い抜いた。

横断歩道が青だった。

それを確認して孝太も歩き出し……


「あ」


視界の片隅に、異物が見えた。

何か大きな、黒い影。

それが孝太に向かって、とてつもない勢いで突っ込んできた。


「ッ!」


思わず手が出た。

左手は集団登校の最後尾を歩く少年を突き飛ばし、右手は影に向かって突き出した。

次の瞬間。


――グシャリ。


そんな音が聞こえたような気がした。


* *


……っ……た……うた……


「孝太! 孝太!」

「う……」


自分を呼ぶ名前に目を醒ますと、そこは知らない天井だった。


「こ……こは……」

「孝太! あぁ、良かった、目を醒まして!」

「お……ばあ……ちゃん?」

「孝太、ここ病院よ! 分かる?」

「びょう……いん……」

「あなた、交差点でバイクの事故に巻き込まれたのよ」


交差点……バイク……事故……。


「そうだ……! 何かが横断歩道に突っ込んできて……」


意識がはっきりとすると同時に記憶が再構築され、孝太はガバリと跳ね起きた。

――いや、起きようとした。


ぅ……」

「ダメよ、動いちゃ!」

「それより子どもたち! 子供たちは!?」


制する祖母の声に逆らって首を回すも、周囲に子どもたちの姿はない。

そのことに「もしや」と最悪の状況が脳裏をよぎった。


「孝太、大丈夫よ。みんなかすり傷ぐらいの軽傷だから。大丈夫よ!」

「ほんとに?」


良かった。

そう言おうとして、言葉が出なかった。


「ぁ……ぇ……」


安心した途端、なんだか急に眠くなった。

自分の名前を呼ぶ祖母の声が、遠くで聞こえる。

それに答えたいけれど、意識の沈み込みは抗いがたいもので、これが「死」なのだと孝太は悟った。


――あのラインは送信できたのだろうか。


不意に、どうでも良いようなことが頭の中にひらめいた。

事故の直前にスマホに打ち込んだ、自分の気持ち。

遺書なんかではない、最新の自分の想い。

それを彼女に届けることができたのか、気になった。


――遺書。


そうだ、遺書だ。

遺書を、捨てなければ。

宛名書きをして机の上に置いておいた封筒の中身。

あんなものは、今の想いじゃない。

だから叶うならば、あの手紙は届かないでいてほしい。

きっと彼女を苦しめるだけのあの手紙を、どうか彼女が読むことがありませんように。

明滅する意識の中で、孝太はそう思った。


――君に、あいたい。


ただ、その想いだけが親友に届きますように、と。

どうか届いていてくれ、と。


やがて孝太の命の灯はろうそくのように静かにかき消えて、それから二度と灯ることはなかった。

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彼岸の君との別れ方 ねこたば @wadaiko_pencil

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