十秒数えて

森林公園

十秒数えて

 バタンっと扉が閉まる音がして、小学五年生くらいの水色のランドセルをしょった少女が、リビングに元気いっぱい入って来た。母親は、台所の窓からの光だけで夕飯の下準備をしていた。家の中の方はもう薄暗い。


「ただいま」

「おかえり、二人とも手を洗ってね」


 少女はキッチンテーブルの椅子によじ登る。母親の背を見つめるような位置で、まるで大人みたいに両手を前に組んで顎を乗せた。足がブラブラと前後に揺れている。


「ねぇ、ママ。私学校でいじめられているの」


 彼女はそう、突然告白した。母親はスタンッと、みそ汁に入れる大根を切る手を止めると、急に真顔になって宙を見つめた。娘には、振り返らない。


「夏休みが終わってね、『さぁ、いじめの時間です』みたいな感じで。ほら私、パパにヒョウ柄のスニーカーを買ってもらったでしょう? 外履き用に」

「だからって、そんな……」


 母親は戸惑ったような声は出すが、手だけ前掛けで拭いて一向に娘に振り返ろうとはしない。何だか恐ろしかったのだ。


「『ヤンキーみたい』『大阪のオバちゃんみたい』だって……。人と違うことはすぐに孤立を浮き彫りにするのね。最初は揶揄からかい程度だったのに、いつの間にか教室でぶかぶかと一人ぼっちで浮いていたもの」

「学校い、きたくなかったら行かなくていいのよ? よっちゃ……」

「だからね、自分だけの『おまじない』を作ったの」


 母親の言葉を遮るように娘は強くそう言った。


「十秒数えて、『それ』を口の中で呟くと、不思議と心も落ち着つくの! 十字路に人の気配がするとそれに縋るしかないんだもの。ゆっくり数を数えて、『それ』を口にすると途端にざわざわとした厭な雰囲気は消え失せて、ほぅっと息がやっとこさ吐けるのよ」


 外はもう茜色だ。室内はより暗くなって、振り返っても少女の表情は分からないだろう。母親は冷蔵庫に貼られている学校からの注意書きに目を走らせていた。


『男子生徒が数名行方不明になっています。保護者は集団下校にご協力ください』


「よっちゃん、パパは? あなたを迎えに行ったわよねぇ?」

「あーそうなの! それが言いたかったのよ。集団下校もいじめのメンバーがいるでしょ? 私、ちょっと離れて校舎の端に隠れていたのよ」

「あなた……」

「そしたら、明らかに私の影に誰かの影が覆い被さって、ぞっとして悪寒が走ったから……ついその場に座り込んで十秒数えて、言っちゃったのよね、『おまじない』」


 母親は思い切ったように振り返った。紅い世界の中、ちょうど母親の影で少女が黒く沈んでいる。暫しの間、少女が喋らないので、母親は「それ……」と震える声で尋ねた。


「それ、おまじない。何って言う言葉なの?」



「『だれもいない』」



 少女が白い歯を見せる。


「だからね、多分パパ消しちゃった! ……って、あぁさっき黙ってから十秒経っていて、ママもかぁ」


 少女が椅子から降りて冷蔵庫の扉を開ける。中の光に照らされた広いリビングには、彼女以外誰もいなかった。



<了>

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十秒数えて 森林公園 @kimizono_moribayashi

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