夜の魚は

浅瀬

夜の魚は…


 珈琲に入れて運ぶのさ。

 先輩が言う。私は、氷の浮かぶグラスに、なみなみと入った珈琲の中へ、匙ですくった黒い半透明の魚を入れた。


 小さくしぶきを上げて、菫の花が浮き彫りされたグラスの中へ、魚は潜り込む。

 珈琲の色にまぎれてすぐに見えなくなった。

 白木のテーブルに、跳ねた珈琲が小さなしみを作っている。


「この後どうするんですか?」

「飲むのさ」


 何かを企むようにちらりと笑う先輩に見とれた。


「ええと」

「飲んでみな」

「はい」


 直視すると眩しすぎて、心臓の機能をおかしくしてくる先輩から目をそらすために、グラスを持ち上げて口をつけた。

 傾けたグラスから口の中へ苦味が広がって、つるりとゼリーじみた感触が、舌をすべって喉に落ちていく。

 飲みこんでしまってから、私は口を押さえた。


「あ」

「飲んだね?」


 いたずらが成功したように嬉しそうな先輩は、テーブルに頬杖をついて片手を伸ばしてきた。


「大丈夫だよ。毒じゃないから」


 さらりと優しく髪を撫でてくれて、微笑む。


「夜の魚」というのがこのカフェの水槽には泳いでいる。

 入り口を入ってすぐ、左側にカウンターがあり、右側にテーブル席が三つ並ぶ。

 向かいに見える奥の壁に水槽が嵌め込まれていて、そこに小さな薄黒い魚達がいるのだ。


 私たちは奥のテーブル席に座った。

 先輩が水槽を背に座り、私は物珍しげに、おたまじゃくしくらいの大きさの魚達を眺めつつ、メニューを広げた。


 注文をすませ、先に運ばれてきたアイス珈琲にはバニラが載っていた。

 そのバニラを掬うための銀色の匙を、先輩がひょい、と取り。

 あろうことか、店主がこちらに背を向けて冷蔵庫を開けているときに、先輩は匙で水槽の魚をすくい取ったのだ。

 器用かつ大胆。


 びっくりする私の目の前に、先輩は魚の載った匙を差し出してくる。

 夜の魚はきれいだった。

 薄黒い小さな体や長いヒレに、星の斑点が散って、きらめいている。

 ヒレを動かすと、光の粉が散った。

 目はどこにあるのかよく分からない。

 小さい口がぱくぱくと動く。


 この魚はある程度大きくなったら夜空に放すのだ、と珈琲に潜った魚を目で追いながら先輩が言った。

 水中ではなく夜空の中を泳いで生きる魚がいるなんて、初めて知った。

 驚きと感心と、無知に思われたくない羞恥心がまざりこんで、表情を固めた私に顔を近づけて、先輩は囁きかけてくる。

 この魚を飲んでくれないか、と。


 夜の魚を育てた者は夜に呑み込まれてどこか別の世界に行くのだという。

 行ってみたくないか。

 長い指先で紙ナプキンを取り、テーブルにはねた珈琲を拭きとると、

 口の中に魚を隠して店を出ようよ、とそそのかして笑う。

 軽薄そうで可愛すぎる微笑にめまいがした。


 このカフェのオーナーは、先月に変わったばかりらしい。ちょうど水槽で大きくなっていた夜の魚を放す、イベント後のことだった。夜の魚と共に別の世界に行ったのだろうと先輩は言う。

 そうなのかもしれない、とは思った。

 オーナーは現に、誰にも挨拶することなく、消えるように姿を見せなくなったのだから。

 それでも、ただ気まぐれで失踪しただけかもしれないのだし。


 私は曖昧に微笑んでいた。

 好きだから従順でいるのは間違っている、と友達からどれだけ言われようとも。

 私は先輩には逆らえない。嫌われたくない。喜ばれたい。何でもしたい。だからためらわず、夜の魚だって飲み込める。


 胃の辺りで何かが動いている気がして、ふいに吐きたい衝動が湧きあがった。


「吐いちゃだめ」と見透かしたように先輩が言った。

 私の手をひいて会計をすませ、カフェを出る。

 店主は気づいた様子もなく、集めたらケーキセットが無料になるというポイントカードを2人分作ってくれた。


「この後どうする?」


 娯楽はすべて、駅から離れた大型ショッピングタワーでしか享受できないような小さな町に住む私たちは、とりあえずお互いの意向を聞くふりをしながらも、足はすでにそちらに歩き出している。


 私たちはタワーの3階にある映画館に向かった。チケット売り場に並んでいる間から、胃の辺りをやっぱり何かが動いていて、突き上げてくる吐き気を飲み込むのに集中しすぎて

 、上映時間になっても映画はちっとも頭に入ってこなかった。

 ただひたすら画面の中は夜から変わらなくて、陰気な映画だと思っていた。


「ねえ、見てる?」

 横から指で脇腹をつつかれ、首を振った。

 口元を手で押さえる。

 吐きそう。

「じゃあ吐いちゃいなよ、楽になりたいよね」

 声には出せなかったはずだけれど、先輩には通じたみたいだ。

 頷いて、トイレに行こうと立ち上がった私の鳩尾を、先輩の2本の指が刺すように突いた。

「げ……」


 嫌な音を立てて、私の胃から逆流して吐き出されたのは、飲み込んだときより大きくなった夜の魚だった。

 こぶし大くらいに育っている。

 ぬらりと口から出た途端に、吐き気が消え失せて胃が軽くなった。


 薄黒い体からは星の斑点が剥がれて、ウロコのようにぱらぱら落ちた。

 床に放り出された夜の魚は、苦しそうに尾ひれを打ちつけ、口を忙しく開けたり閉めたり繰り返している。

 尾ひれが床を打つたびに、体から剥がれた斑点は宙に舞って、きらきらとスクリーンの光を反射した。


 それを先輩が踏みつけた。

 びしゃっ。夜の魚の液体がとび、私の隣に座っていた人の長い髪にかかった。


 細く可憐な声をあげて、その人は驚いたように席を立った。

 綺麗な女の人だった。先輩がその人を見て、目が離せなくなるくらいに。

 その人は先輩を見て、それから私を見て、恥ずかしそうに髪を耳にかけ直して座った。


 先輩の足元では、夜の魚が潰れて、クラッシュゼリーみたいになっていた。


 私はしゃがんで、両手でそれらをかき集めた。先輩と座り直し、映画を見ながら、ポップコーンみたいに、粒状になった夜の魚を口に放り込んでいった。

 床に落ちたのに汚い、といった考えはむしろ心地よかった。自暴自棄だった。

 噛まないで飲み込んだ。横の先輩は見ないように、スクリーンを凝視した。

 私を透かして隣の綺麗な人を見ている先輩なんて、もう必要なかった。

 私に必要なものがあるとしたら、今すぐここから消え去るための、出口しかない。

 擦りむいた傷がずきずきとするような、この感覚から一刻も早く逃げだしたい。


 胃の辺りが熱くなる。

 こらえて口を閉じ続けた。

 吐き出したらだめ。


 でも鼻がむずむずして、私は軽いくしゃみをしてしまった。

 たったひとつ。

 くしゅん、と。


 その衝撃だけで十分だったらしい。

 私の内側から亀裂が入り、夜の魚で膨らみだしていた内部は押し広げられ、破裂した。

 間の抜けた音がした。裂けた私は細かい粒子になって散り、あっという間に空気中に溶けていった。



 気がつくと、夜の中にいた。

 さっきまでスクリーン越しに観ていた夜の世界。朝のこない世界。奇妙でいびつな殺人鬼が跋扈する夜の中。


 何者かが忍び寄る気配と、蒼白いざらざらした壁をもつ一軒家。その前に私は立っていた。古めかしい洋館の扉に、はめこまれたステンドグラス。そこに魚が泳いでいる。

 薄黒くて星模様のある小さな魚。


 靴裏を引きずって歩く音が近づいてきて、子供の頃、暗闇に対して感じていた原始的な恐怖を咄嗟に思い出していた。

 血の気がひいてかたかた震える。逃げなくちゃ。

 振り返ると殺人鬼が斧を振り上げ、走ってきていた。

 叫び声が喉からほとばしる。

 自分の声が脳を揺さぶった。動かなくては、逃げなくては。

 しかしふらふらと腰が抜けてしまい、私は叫びながらその場で両腕で頭をかばって小さくなるしかなかった。

 右肩に斧が食い込んだ。

 

 打ち下ろされた衝撃で地面に倒れ込む私の髪を、殺人鬼は掴み上げた。

 腰のベルトにいくつも提げた鋭利な刃物を一本ずつ取り上げ、見せつけて、笑う。

 殺される……。

 

 私はそのとき先輩の声を聞いた気がした。

 この恐ろしい夜の中で、私の頭の中だけで鳴っているのは、純粋に、楽しそうに笑っている先輩の声だった。


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夜の魚は 浅瀬 @umiwominiiku

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