師匠、俺はもうあんたを越えた! あんたの頭上を遥かに飛び越え、雲を突きぬけ、そこで出会った天女と恋に落ちるぐらいな!

クサバノカゲ

師を越える日

「師匠! 俺はもうあんたを越えた! だから師匠と弟子の関係は、今日これまでだ!」


 若者はぎらつく瞳で、燃えたぎる言の葉を叩きつけた。


「この私を越えたと言うのか、不肖の弟子よ」


 相対する壮年の男は、腕組みで泰然とその熱を受け止める。


「ああ越えた、越えたとも! あんたの頭上を遥かに飛び越え、雲を突きぬけ、そこで出会った天女と恋に落ちるぐらいにな!」

「ふむ。──して、それはいかなる天女か?」


 その問いに若者は、我が意を得たりとばかり、にやりと不敵な笑みを浮かべた。


「ほどよいタレ目が優しげで、甘ったるい声と喋りかた。しかし話してみると意外にサブカルにも明るく、知的な一面が見え隠れする」

「例えるなら?」


「長濱ねる!」


 ほう、と壮年の男──師匠が小さな感嘆を漏らす。


「やるようになったな、弟子よ」

「当然だ。師匠はどうせ、いつまでたってもガッキーだろう? いい加減、現実から目を逸らすのはやめてくれ。そんなだから、俺は」


「フッ、甘いな」


「……なに? まさか」

「ああ、そのまさかだ弟子よ。私はすでにガッキーの深淵ロスを脱し、次なるステージへと羽ばたいている! そう、不死鳥のごとくな!」

「くっ。ならば誰だというのだ、師匠の天女は!!」


 若者は目の前の机をバンと両手で叩き、身を乗り出す。はずみで空のコーヒーカップがカチャンと跳ねた。


「そう急くな。まずは弟子よ、きみの恋の顛末を聞こうじゃないか」

「……逃げるのか? まあいい、聞かせてやる」


 ずれた椅子を直し、腰を据えて彼は語り始めた。


「俺と天女は、雲の上で甘く幸せな日々を送る。けれど俺はしょせん人間、永遠を生きる彼女とは違って、やがて老いて死ぬ運命だ」

「異類婚姻譚における永遠のテーマだな。弟子よ、きみはどんな決断を下した?」


 師の問いを受け、若者は天を見上げる。喫茶店の天井に吊るされたアンティークな照明の光の向こうに、きっと彼は天界を見ているのだろう。


「老いて死んでいく姿を見せて、ねるを悲しませたくない。俺は自らの意志で地上に降り、ひとりで生きる選択をした。ねるが、すこしでも早く次の幸せを見つけられるように」 


 右目の端から、表面張力にうちった想いがひとすじだけ、つうと頬を流れ落ちた。


「そうか。つらい、決断だったな」


 師がそっと差し出したハンカチを、しかし彼は一顧だにせず、自らの両手で乱暴に目じりをぬぐうと、「さあ次はあんたの番だ」とばかりに真っすぐ視線の切っ先を突きつける。


「……さて、私の天女の番だな」

「ああ、聞かせてくれ。あんたが、ほんとうに呪縛から逃れたのか」


 二人の間に沈黙が落ちた。ごくり、つばを飲み込んだのはどちらだったか。


「──橋本愛だ」


「…………な……に…………」


 若者は目を見開く。その脳裏には、物憂げに、されど達観した空気もまとい、超然と天界から地上を見下ろす美しき天女──いや、限りなく女神に近しきその姿が、彼女の歌う「木綿のハンカチーフ - From THE FIRST TAKE」をBGMにありありと浮かんでいた。


「それは一瞬の邂逅だ。雲を突きやぶり、しかし重力のくびきから逃れ得ぬ私は、そのまま自由落下で雲の中に消える」

「……え……会話も、なしに?」


 唖然とする弟子を置き去りにして、師匠は淡々と言葉を紡ぐ。

 

「そう。一瞬だけで二人は恋に落ちる。しかし互いに差し伸べた手は、指先をかすめることさえかなわず、そのまま運命は永遠に分かたれるのだ」

「そんな、そんな馬鹿な! それじゃあまるで」


 抑えきれず立ち上がった弟子の前で、師匠は悠然と冷めたコーヒーを飲み干し、カップを置く。


「そう。プラトニックだ」


 弟子は絶句しながら、へたりこむように椅子に腰をおろしていた。


「……プラト……ニック……」


 ありえない。煩悩のほとばしりである妄想の中、どんなことでも自由自在な世界に、ただ清らかな心と心だけの関係──プラトニックという概念を持ち込むだなんて。


 ──彼の師は自らのうそぶいた言葉にたがうことなく、新たなるステージへと、到達していた。


「俺が…………俺が愚かでした! やっぱり師匠は師匠だ! どうかこれまで通り俺を、不肖の弟子として導いてください!!」


 机に額をこすりつけながら、彼は懇願していた。しかし。


「いいや、駄目だ」

「……え、そんな……」

「きみのことを、これまで通りに扱うことはない」

「それは、どういう」


 師匠は宣言する、おごそかに。


「さきほどの妄想、内容はありきたりだが、没入ぶりは実に見事だった。それと長濱ねる。このキャスティングはまさに天晴あっぱれと言えよう。とてもよく勉強しているね」


 その言葉を、顔を上げた若者は呆けた顔で聞いている。


「ゆえに今日このときより、きみに『花園流妄想術』の師範代を任せる!」


 師匠は、未だ呆然としたままの弟子に大きく頷いて見せた。そこでようやく彼は言葉の意味を咀嚼できたのだろう。瞳に、きらきらと輝きが灯る。


「しはん……だい……俺が、師範代……!」

「今日のコーヒー代は私の奢りにしよう。ご祝儀として受け取ってくれ」

「はっはい! ありがとうございます、師匠!」


 ──そんな二人のやり取りに、店の奥から向けられる視線があった。


 先月の半ばから給仕のアルバイトをしている女子大生が、怪訝で埋め尽くされた表情かおを彼らに向けている。

 週三ペースで来店しては、コーヒーを一杯ずつだけ注文して延々わけのわからない会話を繰り広げる男たちに、彼女はすこしばかり辟易しつつあった。


「マスター……あのお客さんたち、なんなんです……?」


 常連さんみたいですけど。彼女は、カウンター向うでコーヒーカップを丁寧に拭いている初老のマスターへと、小声で問いかけてみる。


「ああ、彼らか」


 マスターは当の二人に穏やかな微笑みを向けつつ、答えた。


「僕のかつての弟子と、その更に弟子──孫弟子ということになるかな」

「えぇ……」


 ──このバイト、やめようかな。


 そんな思考がよぎったけれど、時給の良さと仕事のラクちんさを天秤の反対側に乗せてみた結果、やっぱり当分は続けることにした。

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