9章 化け物

 それから俺は死を待つ人になった。しかしそんな時に限って一ヶ月の間、化け物は現れてくれなかった。だから俺の意志が果たされることもなかった。


「花音先輩、」

「んっ?」

 裏世界の時間、保健室でラーメンを食べる雨音先輩は、今日はおでこを出している。朝見たときはピンでとめているだけだったので、来るときに変えたのか。それはかわいい。

「いや、呼んでみただけです」

「なにそれキモ」

「今日もかわいいです」

「知ってるからいちいち言わなくてもいい」

 うへえ。なんつう人だ。

「でも先輩のことを好きな人の評価なんで、あんまり、あてにならないかもです」

「彼氏以外からの評価なんていらないからいいわ。それにあなただけじゃなくて、わたしも思っているから、今のところ二分の二ね」


 彼氏と言われてもいまだに実感がわかない。それは、一般的な彼氏彼女ではないからかもしれない。一人でいるには裏世界は、厳しい世界だから、仕方なく。動物が群れを作るようなものだと思う。

 放課後は、こうして先輩と話して過ごす時間が殆どだった。先輩は、カップ麺を食べ終わると、鞄から参考書を取り出して、勉強を始める。

「先輩眼鏡するんすね」


 無視というよりかは、すでに集中しているのだろう。何の反応も返さない。


 先輩は、放課後多くの場合、勉強をして過ごす。それは、二人の時間を過ごすようになってから知ったことだ。

「花音先輩は、どうして勉強するんですか。……それは、もう」

「意味なんてない?」

「いや、まあ、そうです」これが失礼なことだと分かっていたが訊かずにはいられなかった。

「わたし、いつか、卒業して、学校の先生になりたいの」

「へえ」


 先輩は、動かしていた、シャープペンシルを置き、眼鏡をはずす。

「わたし、ほら、保健室にいることが多いから。なんていうの、……話を聞いてくれる大人がいてくれてうれしかったの。……学校にそんな大人少ないからさ」

 それは学校が生徒(子供)の場所だから仕方ないことだと思うが。

「やっぱあんたうざいわ。表情に出すぎよ。それじゃあ逆に聞くけど、あんたはずっとこんな生活を続けるつもりなの? わたしは絶対にこんな世界から抜け出す方法を見つけるわ」

 俺は答えられなかった。未来は考えないようにすることにしたから。

「……それにわたし、まだ、全部は信じてないから」


 祈るような言葉にも思えた。こうして、過ごしていてもわからない。うちにとどめている思いとかいうものは、こんなにも伝わりにくいものなのか。

「ほら、つまらないこと言ってないで、あなたも勉強しなさい。どうせ、ばかなんでしょう」

 俺は先輩の隣に行き、同じように、鞄から参考書を取り出し開く。

「窮屈」


 少し肩がぶつかる距離感に、先輩は不快感を示しながらも、避けようとはしなかったので俺もそのままでいた。俺も、前なら、イヤホンをして、音楽を流して、周りの音の恐怖から逃れるのだが、今は、その音すらも、この世界には必要なものに思えた。


 まあ、勉強においては、遅々として、ペンは進まず。問題文の空白ばかり読んで、先輩の横顔の方が、見ている時間としては長かったかもしれない。何度か、「集中」と、頬をつねられたが、まあ、止められるわけもなかった。勉強している、意志を達成しようとする先輩の横顔は美しかった。──それなら、俺はどうだろう。少しでも変わっていればいいが。


 静かな、時計だけが時を、リズムよく刻んでいる。時折先輩の、むーと低くうなる声が聞こえてくる。


 なぜかその姿を見て、唐突に俺は、決意できた。


 それは、ずっとぐだぐだ、心の中で、渦巻くように、とどまっていたものが、ぴたっと当てはまった感覚だった。


 この幸福な気持ちが、永遠とは違うと痛いほど知っているから。


 どこにも行くことない、幸せがあることが、嬉しくもあり、同時にそれは恐怖でもあった。


 ──世界は釣り合いを求める。なくなった恋心を補うように、偽りの恋をし、失った友情のために、何のとりえもない、友達は親友となった。


 それでは、この気持ちの釣り合うにはどれだけの、犠牲が必要になるのだろうか。それは、俺の一人の犠牲ではすまないだろう。俺なんかの犠牲じゃ済んでくれない。確信的予感。


 先輩は、俺の感情の揺れに気づいたのか、手を止める。

「どうしたの?」

 俺は今の気持ちを先輩と共有してはいけない、それだけはやってはいけないと思い、隠す。

「なんでもないです。先輩といられる、幸せを感じていたところです」

 本当の言葉。嘘ではない。

「ふーん、まあいいけど。そんな虚言。どうせ、くだらないことでも考えてそうだから」


 俺は押し出そうになる感情の渦を抑えることに必死で、言葉は出て来ない。少しでも動いたら、こぼれてしまいそうで、表面張力ぎりぎりの水を想像して、何とか押しとどめる。


 とんっ

 肩に重さを感じる。先輩が頭を寄りかかってきた。

「変なこと考えないでよ」

「それは無理です」

「そういうことじゃないでしょ」

 あきれたように言う。先輩は、勉強のひと時の休憩なのだろう。先輩の髪の柔らかさを感じる。そのやさしさ、心が動かされる振動としては十分すぎた。駄目だと思っても、あふれる涙が嫌になる。恥ずかしいし。──先輩は少し驚いた表情を見せる。

「すぐ泣く」「……すみません」

 そのままの態勢であきれたように言う。早く止めないと、先輩に迷惑が掛かってしまう。それなのに引っ切り無しに口元に甘い、水がしみ込んでくる。


「例えばの話」


「?」先輩は静かに話し始める。それは子供におとぎ話を聞かせるような、やさしい声で。

「例えば、この世界から出れたら」

 そんなあり得ない話を聞かせる。

「旅行に行くの。家族と会うのは久しぶりだから……」

「花音先輩は、両親と仲いいんですか?」

「あ、そっか、あんたは、父親いないんだっけ」

 前に、雑談の一つとして話した気がする。

「わたしは、普通かな。喧嘩もしたことあるけど、全く話さなかったわけではないし、まあ、……閉じ込められてから……少しは会いたいと思うかな……。

それから、彼氏と、どっか行きたいな。遊園地とか、できれば水族館が良いけど」

「それは嫉妬しますね。あいつが先輩に触れるの嫌だなあ」

「ぷふっ、なにそれ」


 笑った衝撃で頭がずれて、先輩は俺の膝の上に倒れこむ。

「あんたでもいいのよ」

「それは無理です。この世界だけらしいんで」

「例えばの話なんだから、少しは頑張りなさいよ。まあ、だったら、友達としてか」

「だったら、絶対に二人の邪魔をします」

「うっざー。なんでついてくるの」

 先輩と目を合わせる。きれいな瞳だ。

「涙こぼさないでよ。顔につくと嫌だから」

 俺は慌てて、目をこする。眼球がえぐれるくらい強く。

 


 俺は意思を完遂する。それは新しくできた、役割だ。



 たくさんの、ifの話をした次の夜にしよう。そう思って、三日がたってしまったが、心はようやく落ち着いた。激しい濁流の感情は収まってはくれなかったが。後悔。──これは希望に縋りつくような、面白くないものであると分かっている。

 俺は世界に抵抗しません。だから、そうか、それに対する代償を払うので、最後の希望だけは、守ってほしい。そんな世界からしたら、退屈でちっぽけな願いを胸に、俺は階段を上る。

 

 ──その日の朝は、体を震わして目覚めたのを覚えている。それなのにこの時期に目ずらしく、恐ろしいほどの快晴だった。できれば雨など降っていてくれればいいのにと、愚痴も漏らしたくなる。


 健と相良さんとも一言二言話した気がするが、それはもう俺の中では、意味のない会話にしか思えなくなっていた。二人に何か、あるわけではない。何もない、知らないがゆえに、言葉に意味がなくなった。いや、むしろ、それはもっと早くに訪れるべきだったのかもしれない。それこそ、出会ったはじめから。俺には重要なものが欠けて生きているのだ。 いるはずの、人がいない。俺はこれを普通のように思っていたが、やはり違ったらしい。

 裏の世界、もしそんなものに出会わなければ、隠しきれた。まぎれることだって可能だった。ずれは見て直せばいいから。それでも死ぬ前というものは、自分の性質がよく表れてしまうのだろう。それだけ裏の世界の影響を俺は受けていたのだ。



               ×××


 放課後が来る。一人教室に取り残されその時間を待つ。その遺された時間、何をするか考えた時、俺はノートから一枚紙を破る。

 何から書き始めようか。家族へについて書いてみるか。ありがちなことがいくつか浮かぶが、いざ書き始めると衝動で滅茶苦茶にしたくなる。そして漫画家のように、教室に丸めた紙を投げ捨ててみる。今人が入ってきて、もし中身を見たらどうなるだろうか。むしろそれは俺の望むことになるかもしれない。それだったらこのままにしておくのが正解だ。部活を終えた人が返ってくるのを待つか。いや、たぶん俺の残った時間に帰ってくる人はいないだろう。


 17時30分になる。俺は席を立ち、向かうことにする。

 通り過ぎる人たちは、誰も俺の存在というか、役割には気づいていなかった。自分のことに忙しいから仕方ない。雨音先輩を途中で見るが、彼氏と話すのに夢中そうだった。俺は決められた階段を上る。絞首台の階段は十三段らしいが、ここにはそれの倍以上の段数があり、そのせいで、心は、四季のように移り変わる。きれい、好き、美しい、感情は流れるが、足は機械のように勝手に、勝手に動き続け、確実に近づいていく。


 最後の階段を上り終える。「ふー」一息吐く。息を整え、屋上の扉を開く。

 ほどなく、風に乗せられて、校庭から、声が聞こえてくる。俺はその声に近づくように、自分の身長より少し高い、フェンスに向かう。下を見ると、この寒い中、声を張り上げる顔の認識できない人たちが、せわしなく動いていた。そこには、健の姿もあるのだろう。探す気にはならないが。


 突然下の声が大きくなる。誰かが、声を張り上げた。俺はそれを、合図にして、フェンスに手をかけ登ることを開始する。金網に足をかけると、体が揺れ、恐怖を感じる。

「ははは」これからすることにしたら恐怖を感じることが妙におかしい。それでも、 

 それからは、俺は慎重に、登りフェンスの向こう側の少しできた、空間に立つ。コンクリートの地面に足をのせると、足は一歩も動かない。ここが境界なのだろう。そこには安心感というものが、存在している。台風の目のような場所なのだ。


 何時だろう。──時間は重要だが、いま必要ないことだけはわかる。それでも一度頭に浮かんだ疑問は、ためらいを生んでしまった。そのせいで、重要な時間を無駄に伸ばしてしまう。

 ああ、どうしよう。携帯は、教室に置いてきてしまっている。わずかな時間の引き延ばしは、良くも悪くも、俺に雨音先輩との最後の時間を与えた。


「何してんの⁉」


 髪が乱れていることから、階段を走って登ってきたのだろう。

「何……してんの」

 先輩は息を整えるように、もう一度言う。

 何をしているか。改めて言われると、説明するのは難しい。雨音先輩を守るため? 直接的ではない、世界のルールというもののために。


 世界が平等である。これは、経験則的なものだから、一個上の先輩の言うのもおかしな話だ。だから、考え方なのだ。俺の幸せというものを測った時に、もう、俺だけでは償えない犠牲が必要だと気付き、それの恐怖から逃げたいだけなのだ。


 先輩は、そんな思考時間にも、距離を詰めてきて、フェンスを挟んで対峙する。

「答えなさいよ。何する気なの!」

 雨音先輩がフェンスに手をかけたことで。カシャリと静かな音が鳴る。フェンスがきれいな白い指に食い込む。

「……先輩を傷つけたくないんです」

「なに?」

「花音先輩を傷つけたくないんです」

 今の気持ちを言葉にする。それは先輩の答えにはなっていないし理由にもなっていない。

「俺は先輩と一緒に過ごす時間が、触れ合ってる時が幸せでした。……だから、だから、これ以上幸せになったら……だめなんです。俺がこれ以上幸せになったら先輩を巻き込んでしまいそうで、……だったら俺が消えるしかないじゃないですか。俺はもう、誰も死ぬのを見たくないんです。好きな人が……消えてほしくないんです。それなら……仕方ないじゃない。俺が死ぬしか……」


 俺も先輩と同じように、フェンスをつかむ。ぎりぎりと手が痛む。このまま指がちぎれてそのまま落ちてくれれば楽なのに。

「そういうこと」

 雨音先輩は暗い顔になり、うつむく。


「……飛び降りて死ぬの?」


「悪くないでしょう?」俺が言う。


「………………わるい。悪いに決まってるじゃない‼」

 先輩のきいたことのない大声に、体が固まる。

「わたしの幸せ? 違う! 逃げたいだけでしょ。あんたは、死ぬ恐怖から死ぬことで逃げる気なんでしょ。そんなの、……わたしだってこわいのに……」 

「……それでもいいです。もう、……無理なんです。俺にはもう無理なんです」

「そう。……だったら、わたしも自殺する。わたしも君と一緒に死んでやる。佐々木直哉。私は本気であなたのことが好きなの。それとも二人で戦い続ける。選ばせてあげる」

 

 そういって、本当に、俺がさっきしたように、フェンスを登り、こちら側に来る。

「──高っ!」

 興奮に満ちた声で言う。

「せっかくしたいこと話したばかりなのに。変なの」笑う先輩。


「お願います。やめてください。これじゃあ、俺がすることの意味がなくなってしまう。お願いです。戻ってください」


「もう遅いよ。君の前には二つしかないの。どちらかを選ぶ権利も目の前にある」

「先輩には、好きな人だっている。その人のために限界まで戦ってくださいよ」

 最低なことを言っていると自分でもわかっている。それでも、こんな場所で取り繕って話せという方が無理があった。

「……君だけだよ。わたしは、佐々木直哉が好き」

「は?」


「振ってきたから。まあ、別に嫌いではないけど、心の隙間はもう埋まったから、いいかなって。だから、君と行くの、水族館だって。死ぬのも」

 あげている場所はおかしな二択だ。正反対というわけでもない。どちらも希望的で、絶望的な表裏一体の二つだと思う。

 先輩が、手を俺の胸に当てる。

「ひどいですよ」

「女の子だからね」「先輩だからですよ」

「花音でいいよ。直哉」ひどく軽く言う。


「……花音先輩」「むっ花音!」


「か、かのん」

 俺は一度大きく息を吐く。

「…………ごめん。俺にはやっぱり、せん、か、花音と生きる未来は見えないです。でも、幸せになってほしい」

「わたしはもう幸せだよ」

 言葉に割って入る。

「俺にはもう死ぬしかないです。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

「泣かないでよ。……それじゃあ、私も最後の願いをいっていい」


「……はい」

「キスして」


 言葉にする、意味のあるもの。

 俺は胸にある先輩の手をつかみ引き寄せる。そして優しく唇をつける。涙が口元に流れて、その儘二人の中に吸い込まれていく。死ぬ前にしてはあまりにも短く静かなものに思えた。


「それじゃあ。」


 手を差し出す。俺はそれをつかむ。小刻みに震えているのはどちらだろうか。できれば俺であってほしいことを願いながら、一歩踏み出す。それでもまだ、距離はある。ここまで来ても、そう簡単には、死を与えてくれない。境界線というものは、近づけば、近づくほど、遠く思える。それでも、ふたりなら。そう決意し、足を踏み出す。


「────困るなあ」


 それは、ここにあるはずのない声で、二人して、硬直する。どうして、ここにいるんだ。

「17時50分許されないね」

 ここで、最も軽い言葉を吐く。

「岬先輩……⁉」

「はは、直哉君に花音ちゃん、なに? 感動的な物語にでもする気だったのかな」

 今を馬鹿にする言葉に、カッと頭に血が上り、反射で返す。

「あんたは何がしたいんですか‼」

「それは僕のセリフだよ。何世界から逃げようとしてるんだい? しかも死ぬなんて、最低な方法で。表の世界で死ぬことが許されるはずないじゃないか」


 冷たく、それなのに岬先輩の方がむしろ怒りを感じているように見えたせいで、俺は冷静に戻る。それに握っていた手のおかげもある。 

「ほら、ばかなことしてないで、戻ってきなよ」


 先輩の右手を見ると明らかに似つかわしくないものを握っていた。

「なんで、先輩、金属バットを持っているんですか」

 むしろ、それは阿久津先輩なんかが持っていた方が似合っている。

 

 岬先輩はからから、と、引きずって見せる。

「はは、確かに、ぼくには似合わなかったか。脅すために使えればと思って持ってきたんだけど、それに、持っている方が、それっぽいだろ」


 岬先輩は握っていたものを軽々、投げ捨てる。

「いやあ、あんなの持って歩いたせいで、階段上がるのしんどかったのに」


 なんだこの違和感は。話がずれているとかそういうのではない。温度差。


 普通、目の前で飛び降りようとしていた人がいたら、慌てて止めるか、何もできないにせよ、焦りなどが現れるはずだ。それが全くない。なぜ、こんなに普通に会話しているんだ。余裕すら感じるその立ち振る舞いだ。


 岬先輩の本性が見えてこない。それがこの、差を生み、違和感を覚えさせているのだ。今も、俺たちの方へ、どこか、笑いをこらえるような、薄気味悪い、視線を向けている。


「経験だよ。……何人が同じように死のうとしたか。僕にはこの世界から自ら命を絶つなんて意味が分からないんだけどね」

「あんた……まさか……」

「はじめ見た時見たときさすがに僕も絶望したけどね、化け物が蹂躙する世界で、僕ひとり残されたんだから。……まったく。君たちみたいに勝手に死のうとした奴がいたんだ。だから世界が、罰を下した。そういう風に世界は作られていたんだ」

「……なによそれ」

「でもね、次の年には、違う人が、以前とまったく同じ数になるために補充されるんだよ。そして、裏の世界の住人も同じように現れる。減ったら増える、養鶏場みたいだね。はは。そうだ、つまり、君たちに死なれると、僕が、この世界から消される可能性が生まれてしまう。だからそれに抵抗するだけなんだ。なにも間違っていないだろう。自分の命を守るために、行動する」


「まさか、殺したの⁉」


「……うん? ああもちろん。でも変わらないだろ。誰かに命を絶たれるのも。どうせ死のうとしてたんだし」


「……人殺し」雨音先輩の声は震えていた。


「はは、今更だろ。君たちだって、死を取捨選択しただろ。見捨てた命は、殺してるのとどう違うんだい?」


「……人としておかしいわ……」


「おかしい? むしろ。僕は生を謳歌していると思っているんだけどね」

「……岬先輩今何時ですか?」

 岬先輩は携帯を取り出し、時間を確認する。

「17時58分だね。それが?」

「花音‼」

 俺は先輩の手を引き、人殺しのように、下へと飛び降りようとす、



「────ふー、まったく無茶するなあ」


「「⁉」」


 体にはしっかりとした感触を感じ、つむっていた眼を開ける。

 俺の体は、あと半歩のところで、押さえつけられていた。


「花音ちゃんも、一緒じゃないと嫌なんだろ。あきらめなよ」


 目の前を見ると、フェンスが引き裂かれるように破られていた。空間にあったフェンスは、無残にも、垂れ下がり、カシャカシャと音を立てて風に揺られている。金属を引き裂いた? なんだこの力は──

 先輩は俺を抱えると、フェンスの内側に投げ飛ばす。

「うぐっ‼」


 思わず悲痛が漏れる。だが、いまはそれより──地面に体をこすりつけ、腕と膝を使って何とか上体だけでも起こす。


 見上げた岬先輩の目は赤く染まっていた。悲しみではない、むしろ上気し、興奮している。獲物を嘗め尽くすように、見下している。そんな感触に心臓が握りつぶされそうなほど、動悸がする。


「そうこれが僕の能力だ。だてに長く住んでないからね」

「嘘、だったん……すね。めちゃくちゃ戦闘向きじゃないですか」

「なに? 僕の能力が分かったの」

 先輩は、まるでリンゴでもつぶすように、手を握っては開いてを繰り返す。

「……直哉。違う。そいつの、能力はただの力じゃない!」

「はは、それも正解。さすが花音ちゃんだね」

「僕の能力は二つあるんだ。さっき僕一人が残ったといっただろう。あの時世界から与えられた能力がちょっと特殊でね。──僕の能力は裏の世界を疑似展開する。勿論それは劣化版だから、裏の世界には劣っているんだけど、こういう時は便利だね。  

 ──ああ、やっぱりこっちの世界は最高だッ‼」

 風で、せっかく数日かけて貼ってきた心のメッキがはがれそうだ。


「王様気分ですか」俺は言う。


 岬先輩は鷹揚と、夜の帳が下りた大空に手を広げて見せると、

「それもそうか。王様にでもなるか。それなら直哉君、君にもチャンスはある。空席だからね。誰も従わないけど、名乗ってしまえば君が王様だ」


 ──俺はもうすでに意志を失っていた。死ぬことで、雨音先輩を救い、死を見る恐怖からも解放されると思っていたが、早い段階でそれは実現不可能となり、そして、もう、自分で死ぬことさえ達成できそうにない。頭の中では、岬先輩に殺されてもいいとすら思えていた。


「岬先輩」

「ん?」

「俺を殺してください」


 それはすんなりと出た。別に死にたいという意志を貫き通したいわけではない。理性と、本能が、同時に出した“答え”のようなものだと思う。俺にはもう明日は必要ないと判断した。


「そうか。でもだめだ。それは、君の死にたいという気持ちから殺されるんだろ。それは、自ら死ぬのと変わらないからね。だから君は殺せない」

「だったら……」

「例えばだが、直哉君が、僕を殺しにくればいい」

「……そんなッ」

「できるわけない? それとも理由が欲しい? だったらそうだなあ」


 風が強く体をたたく。先輩からこれから話すことを妨げようとする音のようにも思えた。

「僕は、同じように、君たちのような人を殺してきた。そして、僕は表の奴らを何とも思っていない。記憶が消えるだけの存在だからね」


 それは、なんとなくだが分かっていた。雨音先輩が言った、岬先輩が裏の世界にとらわれている。これは正しかった。岬先輩は、真の意味で、裏の世界の住人になったのだ。でも別にそれは、俺が岬先輩を殺す理由にはならない。岬先輩は言葉を続ける、

「だから、あの日、目の前で起こったことに僕は傍観を選んだ。助けようと思ったら、助けれただろう。だが、君を裏の世界に適応させるために、わざと、見逃した」

「何を言ってるんですか……」

「運がよかったよ。まさか、直哉君がここまで裏の世界の戦闘に順応するとは思わなかった。狂気的に、自分の体を犠牲にする姿は、確信したよ。君もこちらの世界に来れる器の存在だと」


「もう、やめてください」


「いるんだよ。無駄に、表の世界にこだわり続けるやつとかが。でも君は違う。友人の死さへも他人の死と思い込めたんだ」


「違う……」風に消されるほど弱い言葉でつぶやくことしかできなかった。


「それに、君も気づいただろ、表の世界の、子供の考えが、いかに浅はかで、中身の伴わない空虚な言葉だと。夢を語り、友情、社会をそして死さえも全てわかったかのように語る醜さを。だから、間引きされるんだよ。君の死んだ友人だってその一人だろ。必要のない、誰かが変わりのできる人が消えただけでしかない」

 なぜこの男はこんなにも意気揚々と語っているのだ。


 体はすっかり治った。それなのに、全身が、鞭で打たれたように、びりびりと痛む。


 俺は、雨音先輩の方へ歩いた。時が止まったような気分だった。自分のしたいことができる。誰も妨害できない。


「雨音先輩(自分の中ではこちらの方がなじんでいたので、自然とそう呼ぶ)、ありがとうございます」

「死ぬの?」


 俺はそれには答えず、静かに、雨音先輩のスカートのポケットに手を入れ、カッターナイフを手に取る。

「いや、……だよッ」あまりにそれが悲痛な声で、思わず先輩の頬に手をあててしまう。先輩にその手をつかまれる。ああ、だめだ、このまま離れなくなりそうだ。俺の手に温かいものが触れる。好きで好きでたまらない。それが心をいっぱいに支配する。だから、一瞬忘れそうになる。


「でも、……だめなんです」


 そう、岬先輩が語ったことは、正しくても、だめなんだ。

 俺は、先輩から手を放す。抵抗する力が愛おしかった。それでも、もう駄目なんだ。


 再び対峙する。殺人犯。恨むべき人へ。


 静かな夜に、カタカタと、カッターナイフの刃を出す音を鳴らす。イメージする。先輩がいつもしていたように腕を切ってみる。腕が振るえるのを無理やり抑える。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い

 これが自分を傷つけるということなんだ。


「殺します」


 俺はそれだけ言うと、先輩に、突進する。今俺の中にある気持ちは、恨みの色で染まっていた。人を殺し、雨音先輩を侮辱し、そして、聡を殺した。それだけあれば十分だ。

 岬先輩は身構える様子はなく、ただ、体だけは、こちらへ向けている。俺は腕からこぼれる血が、刃に変わっていくのを、確認すると、それを先輩の体に、たてつける。

「何してんだい。そんなんじゃ人は殺せない。僕は殺せないよ」

 俺が見たのは先輩の目が、再び紅く染まるのと同時に、傷つけた腕が、破裂したのが、ほぼ同時に起こった。

「ぐがぁあぁぁっぁぁぁぁ」


 赤い肉の塊となった腕が、感触のないままついている。しかし、それは瞬く間に、花が咲くように、刃が展開される。


「そうだ。声をあげるんだ。声をあげれず、散っていく、滑稽なものもいるんだから」


「死ね死ね死ね──」


 恨みに染まった心は痛みによって、考えるのをやめた。ただ殺したいという感情だけが体を動かす。


 俺は先ほど入り強く地面を蹴る。岬先輩との距離の近さに脅かされる。踏み出すと目の前に先輩が、現れる。それでも、動きが目で追えないわけではなかった。腕を振るい先輩を引かせることに成功すると逆に、その引いた距離を詰めていく。


「そうだッ! それだよ。それこそが君の本性だ」


 そんな先輩の言葉を無視して、下から、上体を切りつける。先輩はそれに合わせる

ように、上から刃にこぶしを、たたきつけてくる。瞬間、物凄い衝撃が腕をつたう。


「ははは、久しぶりに効くなあ」


 見上げる先輩の顔は、笑い、幸福の笑いに包まれていた。月明かりがそれを一層、不気味なものにしている。よく見ると、先輩のこぶしからは、おびただしい量の血が流れていた。

「はは、ほら何をしているんだい。それで、終わりなわけじゃないだろう。君の感情は‼」


 再度の突貫。先輩のこぶしが届くギリギリから、肥大した腕の刃を振り下ろす──が、その寸前みぞおちに、人とは思えない力が加わる。内臓がすべて飛び出てしまうのではないかと思うほどの衝撃だったが、俺は何とか片膝立ちになってこらえる。口の中にどろりとした液体が満たし、それを地面に吐き捨てる。黒い粘り気のある液体が、吐き出される。


 普通の体では動けなかったかもしれない。それでも、勝手に体が先輩に攻撃を開始する。

「うおおおおおおお‼」

 威勢の声とは裏腹に、体はよろけるように、歩いているのと変わらないほどの速さ。これなら、這いつくばってしまった方が、お似合いだ。この間、先輩が攻撃しようとすれば、簡単にできただろう。だが、それでは意味がないのだ。自分を殺すという意思がある状態でないといけない。


 先輩は完全に油断していた。それは俺がもうほとんど動けない状態だったから。先ほどと同じ距離まで近づくと、先輩はこぶしを打ち放とうと都動作に入る。俺はそれを見計らい、懐に飛び込む。今できる限界の動きをは、先輩の虚を突き、初めて表情を崩す。そしてそのまま一緒に床に押し倒す。俺は先輩がクッションになり殆どダメージ半なかったが、先輩は背中を強打し、苦悶に満ちた表情を見せる。これを逃すわけにはいかない。


「──あああああああああああッッッ」


 腕を無茶苦茶に振り下ろす。あまりにも歪な刃は、上手く振るえず、先輩の肩のあたりにめり込みそのまま地面に突き刺さる。肩口から何か染み出す。


「ハハハハハッ、」

 その笑いを聞いたとき、さらなる怒りが、俺の殺しの衝動を後押しする。反対の手を、自身の刃に充て、一息で切り裂く。絶叫しながら、その刃を先輩の胸に突き立てて、そのまま押し込む。ガリッとした感触に触れた瞬間、先輩は、体を無理矢理よじり、俺の刃は、体の表層を削るようにすべり落ち地面に刺さる。

「なっ⁉」


 先輩はそのまま方に突き刺ささった刃を、殴り粉砕して外す。目の前にある、先輩の眼からは、涙にも似た液体が線を引いていた。

 粉砕された腕はさらなる刃を形成しようとしているが、──それは、もう無駄だった。


「直哉君、君は本当に僕を殺すつもりだったんだね……。──残念だけどもうお別れだ」


 直後、首元に、こぶしを突き刺す。俺の体は、突き刺さった片腕を残したまま、吹き飛び、地面にあおむけに倒れる。


 即死だった


 首元に空いた穴は、周りを無数の刃を形成しようとし、途中で、崩壊していった。

 腕は、醜い刃を途中まで形成し、もう一つの腕は、完全になくなっていた。

 ──こうして、世界から、一人の記憶が消えた。



 自分の腹には、刃が突き破るように生えていた。初めの攻撃の時に負った負傷に、 

自身の能力がさらなる追い打ちをかけたのだ。

「よかった。自分で命を断てたんだ」

 雨音先輩は俺を膝枕するように、自身の足に俺の頭をのせる。


「なにしてんの……」

 涙を俺のために流してくれている。


「──はは、見ていたのか」

 岬先輩の向く方には阿久津先輩が憮然とした表情で立っていた。

「死んだんですか」

 阿久津先輩も、岬先輩がこういうことをする理由を知っているのだ。

「うん。君も僕を殺すかい?」

「いや、あんたを殺したいほど恨むが、それ以上に死なせたくない人がいるんで」

「はは、そうか」

 岬先輩は力なくその場に座る。わき腹からは、黒い血が滴っていたが、気にする様子はない。

 誰もが何も言わない。それでも俺の体を取り囲むように、視線を向けていた。


 俺は最後に、世界に抵抗できたんだ。死んでも仕方ない。それでも、俺は抗い戦ったんだ。その末の死など、憐れむものではない。自分で称賛しようではないか。

 俺は自分の死へ、そして、裏の世界の住人へ、鳴き声を放つ。

 ──────そしてこの場を去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

表裏一体 荒木紺 @arraki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る