枯れ尾花

五右衛門

枯れ尾花

 翔也によって投げられたゲームのカセットは、兄である達也の顔面目掛けて大きく斜方投射を描いて飛んでいく。咄嗟にかわそうとした兄は近くの棚の角に思い切り頭をぶつけていた。角をぶつけたためか、大きな音はたたなかった。兄は頭を抱えてうずくまる。叫び声か呻き声か、言葉にならないような声を発する。


 そんな兄の様子を呆然と見ていた翔也は、突然何かに動かされるように、

「兄ちゃん、大丈夫? 」

 そう声をかけて近寄ろうとするも、足が動かなかった。翔也は分からなくなっていた、目の前にいるのはつい先ほどまで仲良くゲームをしていた兄なのか。額から、ドラマでしか見たことがないような赤黒い血を流した兄の姿は、差し伸べようとした右手を留めるには十分な効果があった。


 兄の額から流れ出てきた血は目、頬の順番でゆっくりと伝っていく。真っ白な球結膜を血が覆い隠すようにして包み込む。切れ長の目であったので眼球全体が真っ赤になるのに時間はかからなかった。翔也は身体全体がひんやりとした。

 その時、うずくまっていた兄が翔也のほうを向く。虎がウサギを見るような目でこちらを見ていた。

「許さない。」

 ここが静寂に包まれた空間でなければ気づかないくらいの音量であった。翔也はさらに冷たさを感じる。早くこの場から逃げたくなった。


 ドアノブに手をかける。ドアを開ける。兄のほうは振り向かずに走り出す。二階の廊下を手すりで自分の体を引っ張るようにして加速する。突き当りの廊下を右に曲がる。階段を慎重に、でも急いで駆け下りる。玄関のドアに手をかけて、おぼつかない足で靴を履く。翔也は後ろから母の声が聞こえた気がしたが、無視して出ていく。兄が追いかけてくるような気がしたからだ。


 気がつくと、翔也は河川敷にいた。息が切れて嗚咽を吐く。汗が路上に滴る。翔也は後ろを振り返る。兄が来ていないことを確認して安堵する。翔也は息を整えて空を見た。ついさっき起きた出来事が反芻する。


 血を流して悶絶していた、大好きだった兄が。


 突如、翔也の耳元に甲高い音が響く。耳を抑えるようにして音のほうを向くと、四十歳くらいの男が、嫌そうな顔でこちらを見ていた。男は自転車に乗っており、指ではじくようにしてクラクションを鳴らしていた。

「ご、ごめんなさい。」

 翔也は両手で拝むようにしながら道の脇によける。男は聞こえるように舌打ちをしてその場を去った。翔也は、男の前かごにギャルゲーが敷き詰められているのを見逃さなかった。


 翔也は知らない男のおかげで、少し冷静さを取り戻すことができた。黄色の羽が集まったような花が辺りに咲いていたことにも気づけた。河川敷の傾斜面を下り、手ごろなベンチを見つけて座る。一呼吸置くと、兄が救急車で運ばれる様子が目に浮かんだ。そして、警察に詰められて連行される自分の姿を……


 それは考えすぎか、翔也は自分の頬を軽く平手打ちする。今現在の兄の事を考えようとすると、どれもよくない方向に進んでしまう。だが、今日の夕飯や、明日の学校について考えるのは流石に気が引けた。

 家に帰っても今頃家族は大騒ぎだろう。何より、兄にどう顔を向けていいかわからなかった。


 その後も翔也は座っていたベンチを囲うようにして歩いたり、スポーツをするわけでもないのに準備体操をしたりした。翔也は何かをしたり、考えたりしていないと正気が保てそうになかったのだ。

 その時、目の前を小学生の集団が通りすぎた。その誰もが自転車の前かごに、お菓子や漫画等、思い思いのものを入れていた。そんな中、集団に食らいつくように、メガネを掛けた一人の小学生が自転車に乗ってやってくる。その小学生の前かごには、最新のものと思われるゲーム機が入っていた。


 そうだ、翔也は手で相槌を打つ。翔也は二つの前かごによって、新たなアイディアが浮かんだ。兄と昔遊んでいたゲームソフトのことを振り返ろう。これなら後ろめたさも感じないし、自分の好きなゲームのことだからよくない方向には進まないだろう。

 翔也はクラクション男とメガネ小学生に小さく感謝する。


 兄と翔也はよく似ている。好きな食べ物も、好きなテレビも同じだった。そして、好きなゲームもその例外ではなかった。

 二人が好きなゲームは「ファンタジーレーサーズ」というもので、名前にもある通りレースゲームだ。このゲームに出てくるキャラクターは、輝夜姫や鬼等の昔話に登場するキャラクターのみである。翔也はキャラクターに応じた固有のスキルが非常にユニークなところが好きだった。兄はどのゲームも翔也より上手であった。特にこの「ファンタジーレーサーズ」は兄の独壇場だった。兄は様々なキャラクターを使うが、その中でも桃太郎は兄弟で取り合いになるほど人気だった。翔也はレース中に時々出てくる桃太郎の犬がかわいくて使っていたが、兄は違った。


 数年前、翔也は兄が桃太郎をよく使うことに対して、

「何で僕の桃太郎を勝手に使うの! 」

 と怒った事があった。しかし、兄は翔也の態度に怒るそぶりも見せずにこう言った。

「スキルが強いから。」

 翔也はその時、兄のことを身勝手だと感じた。同時に、兄には一生勝てないと思った。

 その頃の翔也は、スキルの存在すら知らなかった。今でも、少し考える程度で重視はしていない。神様、何故ゲームの技量だけは兄と似ていないのでしょうか、翔也はゲームで負ける度に、そんなことを思っていた。


 今朝もこのゲームを兄として盛り上がっていたっけな……

 その時は、兄が鬼で翔也が桃太郎だった。鬼退治だー、と意気込む兄の声がまたも翔也の頭の奥で反射する。結局よくない方向に進んでしまったため、翔也は考えるのを辞めた。


 一定のリズムで波打つ川を眺めていると、自分が平常心を取り戻して行くのを感じる。

 喉が渇いた。正確には少し前から喉は渇いていたが、兄のことの方が大切で、後回しにしていた。家から全速力で走り出してから、水分を一滴も飲んでいなかった。このまま歩いて家に帰ったとして翔也の喉は持たないだろう。


 河川敷の傾斜面を勢い良く上り辺りを見回す。近くに自動販売機でもないか探したが、そこは住宅街であり、屋根に隠れてよく分からなかった。根気よく探していると、屋根と屋根の隙間から、「百均」という文字が見え隠れしていた。


 翔也はポケットをまさぐる。巾着袋の中に二、三百円あるのを手の感覚で確認する。すぐに石でできた階段を駆け下り、一目散に目的の場所へ走り出していった。


 翔也の喉が飲み物を欲している。目の前には壁面パネル式の看板に赤色で大きく「百均」と書かれた店があった。河川敷まで走っていたときは心ここにあらずという感じで気づかなかったが、どうやらこの辺は家からかなり近いらしい。兄の通っている学習塾が翔也から見て右手側にあった。学習塾の入り口付近には自動販売機があった。だが、

「あそこの学習塾の自動販売機は値段が高いのが嫌なんだよなー。近くに百均があるからいいけどさ。」

 と兄が言っていたのを思い出した。兄は今年受験生だ。もう十月だというのに一向に家で勉強する気配すら見せない兄に誰も何も言わないのはこの学習塾のおかげだろう。この学習塾には日本で有名な塾講師が何人もおり、難関大学にもたやすく入れてしまうほど実力のある塾であった。

 兄は平日夜八時まで、休日は午後二時から午後十一時まで塾に通っていた。兄があまりにも余裕そうなため、翔也は四年後の受験に不安は感じなかった。


 自動ドアが開き、足を入れる。見た感じ、客は少なそうだった。向かってすぐ左に飲み物のコーナーがあった。多くのものは常温で並べられていた。翔也の好きなコーラは冷蔵されており、安心する。素早くそれを手に取ろうとしたが、もう少し店内を見て回りたくなった。まだ、ここを出たくはなかった。


 翔也はクラッカーや、血糊、ホラーマスク等が並べられているパーティーグッズのコーナーを通りすぎ、すぐ隣の文房具のコーナーに向かう。シャーペンの芯がなくなりかけていることを思い出したからだ。〇・五ミリの芯を探そうとして屈むと、棚の下の隙間に黒い虫が見えた。ゴキブリだ、翔也は足を跳ねらせて体勢を崩し、尻餅をつく。

 もう一度確認するように隙間を見ると、ゴキブリ、によく似たおもちゃであった。さっきは衝撃で気づかなかったが、偽ゴキブリには商品タグがしっかりと付いていた。つまらないドッキリのようで、驚いた自分に呆れる。パーティーグッズのコーナーから何かの拍子で落ちたのだろうと翔也は思い、隙間に手を伸ばして偽ゴキブリを取り、埃を払い、元の位置に戻した。


 他に必要なものはないか翔也は考える。いつかは家に帰らないといけない、でも帰りたくない。翔也はやるべきことを見つけて、帰れない理由が欲しかった。少しだけ、自分を正当化できる理由が欲しかった。

 何もすることがないことに恐怖する、寒気がする。頭では次にすることを必死になって考えているつもりなのに、兄の姿がフラッシュバックする。


 めまいがした。その場に倒れそうになるが、何とかこらえる。周りを見渡すが、近くにこの光景を見ている人はいなかった。水分が欲しい。このままでは自分の身が危険だ。小走りで飲み物コーナーへ向かい、コーラを手に取る。レジまで向かう。コーラとシャー芯をレジの人に渡す。ポケットから紺色の巾着袋を取り出し、三〇〇円を手に取る。二百十八円になります、とレジの人が言う途中で三〇〇円を差し出す。お釣りを貰って店を出ようとすると、

「待って下さい。」

 レジの人の声だった。お釣りが合わないはずはないと思うが、そんなことを考えながらレジの人の顔を見て、ハッとする。その顔は家で何度か見かけたことがあった。兄の彼女だった。何ヶ月か前、ここでバイトしていると兄が言っていたことを思い出す。

 反射的に足をドアの方に向けそうになる。まだ広まってないといいが……


「達也君、最近どう? 」

 翔也はきょとんとした顔をした。その翔也の顔を察したのか彼女は、

「あら、知らなかった? 実はね、もう達也君とは二ヶ月前に別れたの。」

 翔也は開いた口が塞がらない。そんな話も、素振りも兄は何一つ見せなかった。

「ていってもまあ、向こうから振ってきたんだけど。」

 またも翔也は驚く。コーラとシャー芯が入った袋が手から落ちそうになった。翔也は自然と口から何故という言葉が出てきた。

「達也君、今年受験じゃない? 勉強がかなり大変みたいで、それで疎遠になるくらいならって感じで、振られちゃった。」

 まあ私も来年受験なんだけど、彼女はそう付け加えた。翔也は何か気の利いた一言が言えないか模索したが、簡単な相槌を打つので精一杯だった。

「じゃあ私まだバイト中だから、それじゃ。」

 ぎこちなく微笑む彼女を背にして翔也は店を出ていく。


 店を出てすぐにコーラを喉に通す。萎れた喉の内側に、冷たい液体が流れ込む。炭酸が弾けるのを感じる。翔也は泡が弾ける度に、強い生命力を感じた、生き返るとはこういう事なのだと。


 コーラの中身が半分ほどになった時、辺りは夕陽に照らされていた。昼ごろに家を出て、かなり時間がたっていることに翔也は気づく。十月とは思えない、乾いた冷たい風が吹きつける。百均の外壁にもたれかかるようにして、学習塾のほとんどの窓から見える白光を眺めていた。本来なら兄は今頃この学習塾に行って勉強していたのだろう。


 それにしても…… 翔也はそう言葉を漏らす。翔也は兄と彼女が二ヶ月前に別れていた事が未だに衝撃的だった。それ以上に、兄が勉強に追われていたことに驚いた。いつからそんな悩みがあったのか、翔也は何も知らなかった。


『二か月前』という言葉が妙に翔也は引っかかっていた。目をつむり、その言葉をかみしめるように繰り返す。翔也の頭の中のミニ電球がピカッと光った。


 そういえば、兄が昔みたいにゲームをしようと翔也を誘ったのは丁度二ヶ月くらい前だった。それも、家には最新のゲーム機があったのにも関わらず、兄が昔のゲーム機を持って来たことを翔也は覚えていた。あまりに強く勧めてくるので、翔也は内心腹が立っていたが、いざやってみると時間を忘れるほど面白かった。

 それから週に一回のペースで「ファンタジーレーサーズ」を兄と遊ぶのが通例となっていた。


 もしかしたら兄は、寂しかったのかもしれない。兄の方から別れを切り出したものの、孤独に勉強をする事が辛くなり、人肌恋しくなって、自分に絡んできたのかもしれない。そう思った途端、居ても立っても居られなくなった。


 家に帰ろう。


 すっかり暗くなった空の下、翔也は決心する。


 その時、学習塾の二階の窓から視線を感じた。翔也はその視線を探るように二階の窓を見渡すと、兄がいた。

 翔也はたじろぐ。一瞬、見間違いかと思ったが、あの切れ長の目は間違いなく兄だった。証拠に翔也と目が合った兄の顔は、明らかに引きつっていた。翔也は様々な思考を凝らすが、目の前にいる兄が幽霊であるということにしないと、状況の説明がつかなかった。


 この後どうしよう……、と考えるよりも先に足が出た。飲み干して空になったコーラと、ビニール袋に入ったシャー芯を手に持って。百円ショップの駐車場を、学習塾の方を見ないようにして走り出す。宵闇を照らす電灯に挟まれた細道を、翔也はただ無心に走り続けた。


 家のすぐ近くまで来たところで、翔也は走るのをやめて、歩き出す。

 コーラは走っている途中にあったコンビニのごみ箱に捨てた。

 学習塾で兄の霊らしきものを見てからか、翔也は自分が人殺しなのではないかと思い始めた。いつもの夜よりも辺りが静かだと感じるのは、この町が人殺しの翔也を受け入れてないからだと思った。

 家が見えた。自然と体が震える。怯えた翔也は下を向く。俯いたまま歩く。家の前まで来ると、ゆっくりと前を向く。二階の窓が暗かった。警察の車両らしきものもなかった。まさかと思いながら、玄関のドアノブを握りしめる。震える右手を抑えながら、ドアを開ける。昼頃に出て行った時と、重みが違った。


「翔也、お帰り。遅かったじゃない。」

 聞こえてきたのはいつもの母の声。余りにもいつも通りだったため、翔也も脊髄反射でただいまと言ってしまう。

「兄ちゃんは? 」

 それを聞いた母は首をひねる。翔也は心臓が飛び出しそうだった。

「普通に塾に行ったけど。」

 翔也は夢でも見ているかのような気持ちになる。そっか、と乾いた返事をした。そのまま二階へ上がろうとしたが、あの惨劇がフラッシュバックして、足が思うように動かなかった。

「夕飯は? 」

 翔也は無言で首を振る。翔也にはご飯を食べる気力が残っていなかった。後ろから、母の小さなため息が聞こえた。

「そういえば、あんたも程々にしなさいよ、達也とゲームするの。今日だってドタバタうるさかったし。」

 翔也は足を止める。

「どうしてだよ。」

「あんたねぇ、達也が今大事な時期だってわからないの? ただでさえ、成績伸び悩んでいるんだし。」

「そんなわけないだろ、だいたい、兄ちゃんから誘われてゲームしたし。」

「達也ったら全くもう……。とにかく、今度からお兄ちゃんにゲームを誘われても絶対断るんだよ! 」

 かなり怒気の籠った母の言葉に翔也は萎縮する。翔也は状況が理解できないまま、彷徨う魂のように階段を上る。


 自分の部屋を開け、時計を確認する。時刻は午後七時。小さなテレビと、古いゲーム機、その二つのせいで先ほどまでの夢のような世界から、一気に現実に突き落とされる。


 翔也は強い眠気に襲われた。疲れ切った自分の体から、翔也は今日起きたことはすべて現実なのだと感じた。翔也は風呂にも入らず、赴くままにベッドに寝転がる。

 翔也は落ちる瞼に反抗するのをやめて、目を閉じた。


 気づけば、翔也は暗い細道の真ん中に立たされていた。細道を挟むようにして建てられた電灯から、ここは今日必死になって走ったあの細道だと確信する。

 後ろから小さな足音が聞こえる。その足音は徐々に大きくなる。翔也は怖くなって振り返る、鬼だ、鬼がいる。


 鬼は金棒を持って、桃太郎の姿をした翔也を追いかける。鬼は言葉にならない声を発しながら追いかける。どこかで聞いたことのある声だと思った。だが、そんなことより逃げることを最優先した。翔也はどれだけ走っても息が切れない。

 翔也は目の前にT字路があることを確認。華麗に曲がると同時にカーブミラーで鬼の位置を見た、少しずつ引き離せていると感じた。翔也は楽しくなってきた。


 鬼と翔也との距離は到底覆せないものとなっていた。翔也は後ろを向く余裕さえできていた。どれだけ走っても引き離されていくだけなのに必死に走る鬼の形相が、滑稽で仕方なかった。

 鬼がにやりと笑う。次の瞬間、鬼は手に持っていた金棒で思いきり地面を叩く。地響きが、走る翔也の足に痺れるように伝わる。その直後、地面が大きく盛り上がった。突然の出来事で翔也は体勢を崩す。かなりの勢いで地面が盛り上がったため、翔也は雲に届きそうなほど上に飛ばされる。着地に失敗して、大きく尻餅をつく。

 鬼の大きな足音と、劈くような声が止まる。この世界には翔也と鬼しかいないのではないかというほど、周りは静寂としていた。


 電灯に照らされた鬼が、表情筋を最大限に使った笑顔を見せていた。鬼は工事現場でしか聞かないような、大きな鈍い音をたてながら翔也の背後に近づく。地面が揺れる。

 翔也は電灯に照らされた鬼の影を黙って見ていた。その目は死んでいなかった。


 鬼が金棒を振り上げた。

 

「ウラアアア! 」

 鬼が大口を開けてそう叫ぶ。

 翔也はその一瞬のスキを逃さなかった。くるりと振り返りながら立ち、前かがみになる。鬼は翔也の余りの機敏な動きに驚いたのか、身体が動いていなかった。袴の隙間に手を入れ、紺色の巾着袋を取り出す。中に入っていたのはきび団子。それを鬼の口めがけて投げ込む。

 鬼は飲み込んだ。鬼の体が白く光り輝き、何かに変形していく。翔也にはその光景を見届けるほどの余裕はなかった。


 何かから逃げるように、しゃにむに走る。しかし、何処を進んでも行き止まりであった。翔也は諦めたように、行き止まりの壁に背中を合わせた。翔也の目の前には、可愛らしい犬がいた。翔也はもうあの足音がしないことに気づいた。

 見上げると、街を包み込むほどの大きな満月があった。

「やっぱ強いわ、桃太郎。」


 目を覚ます。今日見た夢はとびきり変な夢だった気がする……、翔也は眠い目をこすりながらそう思った。


「だから、もう勉強の話はいいって。」

 一階から兄の声がした。一階から翔也のいる二階まで響くような声に、背筋が定規のようにぴんと伸びる。今まで聞いたことのない兄の声だった。扉の閉める音がした。その音には、優しさがなかった。


 ベッドから起き上がり、部屋を見渡す。翔也は昨日の小さなテレビと、古いゲーム機の間から見える棚の中を見た。そこにはずっとそのままにされたゲームのカセットがあった。気になってそのカセットを手に取る。翔也はそのカセットの微細な違和感に気づくのに少し時間がかかった。


 血がついていなかった。拭き取られた後もない。昨日の兄の惨状を思い出す。あの量の血が出ているのにカセットに一滴も付着しないのはおかしい。翔也はまた何かに気づいた。兄が強く打ち付けた棚の角にも血はついてなかった。

 翔也はカセットの辺りをよく確認してみた。血痕らしきものは床にしかついていなかった。


 もしかしたらまだ寝ぼけているのかも知れない、そう思った翔也は一階に降りようとするが、足を止めた。ほぼ同時にトイレの流れる音が聞こえたからだ。今兄に見つかるのはまずいと思ったのだ。翔也は再び自分の部屋に入る。


 何かしていないと落ち着かなかった翔也は、古いゲーム機の片づけを行う。翔也は古いゲーム機を持ち上げ、足音を立てぬように部屋の隅の方に持っていく。腰を下ろし、指を滑らせるようにして、慎重に片づける。

「うんざりなんだよ! 」

 兄の声がしたから響く。その声に驚いた翔也はうっかり手を滑らせる。古いゲーム機が壁にぶつかる。さほど大きな音はしなかったが、殺伐とした雰囲気である一階からはその音がよく聞こえたのであろう。


 鬼の足音が聞こえる。翔也の表情筋がこわばる。座っているのは悪いと思い、立ち上がる。勢いよく開かれたドアに、翔也は足がすくんだ。


「ごめんな、翔也。」

 開けるや否や、兄はそう切り出す。兄は翔也が驚いたことに気づいたのかゆっくりとドアを閉める。優しい音がした。翔也が呆然としていると、兄は翔也のいる棚のそばに歩み寄る。打ち付けられたはずの額は少しニキビが目立つ程度で概ね綺麗だった。兄は前屈みになり、棚の後ろに手を伸ばして何かを探していた。

「昨日兄ちゃんが流してた血は、本物の血じゃないんだ。」

 そう言って、翔也に棚の後ろに隠していた血糊を見せた。翔也はただ黙って兄の話を聞いていた。

「お前、ゲームで負けるとすぐにものを投げるから、ドッキリ感覚で懲らしめてやろうと思って。」


 ドッキリ感覚という言葉に翔也はムッとした。そのドッキリにどれだけ振り回されたことか、翔也は大きくため息をついた。しかし、兄の言っていることは理解できた。今も、ヒステリックを起こしそうな心を、呆然という大穴に落とす。

「まさかこんなに驚くなんて思ってなくて、ばらすタイミングをなくしちゃって……。本当にごめん。」

 様々なものに追い込まれても、弟の前だけはいい兄であろうとするその姿に、翔也は大きく感動した。心の波が静まった、嵐が起こる前のように。


 兄が歩み寄ってくれたのだから、翔也もそれに応えなければならない。

「俺の方こそごめん。兄ちゃんは、背負いすぎているんだ。勉強や失恋、色んな事をね。このドッキリのお陰で、兄ちゃんのことをより深く知れたような気がするよ。でも、もうこんなのはごめんだけどね。」

 翔也はそうはにかむ。変に嘘をつくのは良くないと思い、自分の気持ちをストレートに言うことにした。


「どこで知った? 」

 待っていたのは予想していない返答。兄は暗く冷たい声でそう言った。翔也は兄の目を見つめる。その切れ長の目の奥は、墨汁を乾かしたような抑揚のない色だった。

「どこで知ったと聞いてるんだ! 」

 次の瞬間、翔也の視界が大きく揺らいだ。兄は翔也をわざわざ棚の方に引っ張ったので、棚の角に翔也の額が突き刺さる。本物の血は赤黒くなどなかった。ピンクに近い明るい赤。棚の角に沿うようにして流れる血を眺めながら、一つ、大きな勘違いをしていたことに気づく。


 翔也は何処かで許されると思っていた。母親ですら激怒されるような話題を、弟の分際で口に出すことが。


――僕たち兄弟は、本当によく似ていた――

                              (終わり)

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枯れ尾花 五右衛門 @2021bungei02

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