第15話 たかが人間、ではない

 カツ、と靴を鳴らして、慶次郎さんは立ち止まった。顔色も変えず、速度も落とさず縦横無尽に走り回っていた彼だが、立ち止まるとさすがに疲労感が襲ってくるのか、ぜぇぜぇと肩で息をしている。


「おう、やっと諦めたか」


 そしてもちろん相手の方では疲れることなんてないのだろう。これからどうしてくれようか、なんて楽しそうに舌舐めずりまでしていて、腹ただしいことこの上ない。けれど、当然あたしには何の力もないのだ。


「目玉を啜ってやろうか。舌をちぎってやろうか」


 ひひひ、と下卑た笑いを浮かべて、慶次郎さんの周りをぐるぐると飛びながら、「お前に選ばせてやろうなぁ」などと言っている。慶次郎さんはただ、そいつを睨みつけているだけだ。


 まさか、これで終わりとかじゃないよね? 慶次郎さん、何か作戦とかあるのよね?


 しゃべれないけど、そんな気持ちを乗せておパさんをぽふぽふと叩き、外にいる麦さんと純コさんを見る。どうにもならなかったらどうしよう。慶次郎さんが死んでしまったらどうしよう。そう考えると、涙がぼろぼろと出てくる。声だけは出すまいと、鼻水だって流れるがままだ。


 と。


 うねうねと動いていた龍がぴたりと止まった。


「ちかこ殿? 今度こそちかこ殿の匂いがする」


 そんなことを言って、くるりと向きを変える。いたぞいたぞ、とうわ言のように呟いて、ゆっくりとこちらへ向かってくる。


 待って待って待って待って。あたし? あたしのこと? 違うよね? あたしチカコさんじゃないし! 声は出せないけど、違います、と念じながら首をぶんぶんと振る。通じているわけがないけど。


 だけどそいつはうねうねしながらもまっすぐにこちらに向かってくるのである。あたしの――というか、巨大な白毛玉になっているおパさん(たぶんこの状態の時は『おからパウダー』っていうのが正しいんだろうけど)の上に座っている、あたしと、歓太郎さんの方に。


 人違いです、と言いたいところだけど、もうしゃべるなって言われてるんだよね。あぁでもあたしが何かおしゃべりして場を持たせている隙に慶次郎さんを少し休ませて――みたいな? そういうのをした方が良いのかな? むしろそれ推奨だったりする?


 そんなことを考えて、ちらりと慶次郎さんを見る。すると彼は、必死に呼吸を整えながらこちらを見ていた。そして、一度だけ、こくり、と頷く。な、成る程。GO、ってわけね。あたしに任せたってことね。よし、やったろうじゃん。


 いや、違う。

 あたしじゃない。

 目が合ってない。

 こっちを見ているけれども、見ているのはあたしじゃない。


 じゃあ、誰を見たんだ。

 誰に向かって頷いてみせたんだ。


 そんなのもう、一人しかいない。


 歓太郎さんだ。


 そこに思い至った時。


 慶次郎さんを見ていたあたしの視界を遮るように、歓太郎さんが、ざっ、と手を伸ばした。白くて細い人差し指と中指の先に御札が挟まれている。真っ赤な口紅の跡が見えて、歓太郎さんがさっきまで咥えていたやつだとわかった。


「ちかこ殿。やっと会えた」


 うねうねと身体を揺らす人面龍は、胴まで人の形になっている。映画で見たような着物を着て、慶次郎さんのやつみたいな長い帽子を被って。ただ、腰から下はやっぱり蛇だったけど。


 その、何か高そうな着物を纏ったその腕をゆっくりと伸ばして、嬉しそうににこにこと笑っている。御札を差し出している歓太郎さんの手に届きそうだ。


「ちかこ殿。やはり儂を選んでくれたか」


 そうかそうか、と目尻を下げているけど、いや、違いますよ? この人は歓太郎さんといって、そりゃあそんな恰好もしてますし、見た目はきれいなお姉さん、っていうか姐さんなんだけど、もうバリバリ男だから! すね毛もしっかり生えてる男だからね!?


 そう教えてあげたいけれど、たぶん何かしらの作戦なんだと思う。どういうわけだかわからないけど、あの人は歓太郎さんのことを『チカコさん』だと思ってるみたいだし。


 などと考えながらまじまじと歓太郎さんを見る。すると、あたしの視線に気が付いたらしい彼が、にや、と口元に笑みを浮かべて、自身の胸元を指さした。


 そこにあったのは、『凋子』と書かれた紙である。先を細く折り、襟に挟むようにして。


 何て読むの? と眉を顰めると、歓太郎さんは、あたしがそう思ったことなんてお見通しとでも言うような顔で、


 ち か こ 


 と口を動かした。


 地面に散らばったたくさんの『○子』を見る。


 もしかしてこれ、全部『ちかこ』って読むのでは。たった一人、この『凋子ちかこ』を当てるために、歓太郎さんは自分が知ってるありったけの『チカコ』を書いてたとか? いや、何その『チカコ』知識! 普通知らなくない? 浮子ったら『うきこ』でしょうよ! 俔子とか、まずその『俔』っていつ習う漢字なのよ! 


「凋子殿。そなたを思わぬ日など一度もなかった。もう一度抱いてやろう。さぁ」


 優しいその声は、さっきとはまるで別人だ。

 歓太郎さんが持っている御札は見えていないのか、それを避けるようにして彼の手首を優しく握り、慈しむように頬ずりしている。そんなことをされている歓太郎さんはというと、柔和な笑みを浮かべてされるがままだ。


 そんな姿を見れば。

 

 一体何がどうなって相手の男を斬るに至ったかはわからないけど、この『凋子さん』と本当に恋人同士だったのだとしたら、もしかしたら、向こうに浮気されたのかもしれない、なんて思う。本気だったのか、一回限りのつもりだったのか。だとしたらちょっと同情する気持ちも――、


「もう二度と儂のもとから逃げたりせんように、今度は手足の骨を砕いてやろうなぁ」


 前言撤回!

 やっぱりこいつ駄目だ!

 そういうやつじゃん!

 そういうやつだから凋子さんも逃げたんでしょうよ!


「……っ」


 歓太郎さんの手首から、めり、と嫌な音がする。

 ちょっと待って。マジで砕く気じゃん!


 慶次郎さん!? おパさん?! ぼさっと見てる場合じゃないって!


「ふはは。愛しや、憎らしや。儂を捨てた凋子よ。これからはずっと一緒だ。あんな男のところへなぞ行かせるものか。共に堕ちよう。ふはは、ははは」


 はらり、と歓太郎さんの手から御札が落ちる。と同時に、もう片方の手で着物の襟から『凋子』の紙をさっと引き抜き、口に咥えてびりりと破った。


「誰がてめえみたいな不細工と堕ちるかよ。土御門神社ウチの神様の方が万倍イイ男だっつーの」


 切れ端を、そいつの顔にぺっと吐き出して、「おい陰陽師、もう良いだろ」とうんと悪い笑みを見せると、それを向けられた慶次郎さんもまた、にやりと不敵に笑った。


「助かった。もう十分だ」

「な、何だ。凋子はどこだ。おのれ、謀ったな! たかが人間の分際でこの儂を――」

「たかが人間じゃない」


 カン、と高い音が鳴る。

 慶次郎さんの木靴が鳴った音だ。


「僕は陰陽師だ」


 ああもうそれ、四万回くらい聞いてる気がする。

 だけれども、いまなら「だから大丈夫」がしっかりイコールで結ばれているとわかる。もう絶対に大丈夫だ。だってこの人は陰陽師なのだから。


「たかが人間とか調子こいてんじゃないよ、下級の悪霊の分際でさぁ。汚い手でこの俺様に触んな!」


 もったいねぇから全部くれてやる、と言いながら、すっかり真っ黒くなった御神木をくるりとひっくり返し、辛うじて炭化していない角の部分をそいつの額にぐさりと刺す。


「――っぎぃやあああああああああ」


 耳をつんざくような悲鳴を上げ、御神木が刺さった額に手をやるが、それに触れる度、じゅうじゅうと指先が焦げていく。


「おうおう、さすがはウチの御神木サマだ。あんなんになってもまーだ有効か」


 あーもー疲れたぁ、と、歓太郎さんが崩れるようにその場にごろりと転がる。長い蛇の身体を地面に打ち付けながらのたうち回っている『下級の悪霊』の眼前に、ばさり、と例のバサバサ(もうマジで名前が出て来ない)が振り下ろされた。

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