ホトトギスは異世界の夢を見るか

わた氏

ホトトギスは異世界の夢を見るか


 知ってる? “異世界”の噂。

 

 知ってる知ってる! 二年生からも一人行ったらしくてさ、ここんところその話で持ち切りなのよ。


 行ってみたい?


 行きたい! どうやって行くの?


 それはね——。




 ————


 小鳥の囀りが聞こえる。


 万緑は光を占有し、上りゆく石段と私に陰を落としていた。かと言って前方が見えないわけではなく、薄い日陰は私に蓄積される熱を洗い流してくれる。

 昨日の雨で湿気を帯びた土の匂いが鼻腔を掠め、ひんやりとした空気が肌を撫でる。まるでこちらに来いと言わんばかりの優しい追い風に急き立てられ、私は足を速めた。


 赤い鳥居の頭が見えた。身体に反響し騒ぎ立てる心臓を落ち着かせ、また一段と石を踏みつける。

 ようやく朱色の脚が見えたころには息が切れている。振り返ると、模型サイズの小さな家々が規則正しく列をなしていた。


 ——私、もり飛鳥あすかは今日“異世界”に旅立つ。


「たしか噂によれば、この“赤い門”をくぐれば良いんだな」


 ようやく開けた青空に引き立つ夕日のような朱は、否応なしに私の視線を支配した。鳥居は年季が入っているらしく、よく見ると赤い塗料は所々剥がれている。しかし荘厳に佇むその様はまさに神そのものであり、思わず私は息をのんだ。拍動が落ち着かないのも、きっとその存在感の所為だ。

 鳥居を隔てた向こうにはそれこそ古ぼけた小さな神社が寂しそうに立っている。その前には文字すらない賽銭箱。黒を基調としたであろう色は剥がれ、木材が剝き出しになっていた。


 ——異世界。

 言わずと知れた、ここではないどこか。

 ある者は剣と魔法の世界を空想し、またある者はあったはずの未来を世界として構築する。いずれにせよ、甘い夢のような——ぬるま湯のような世界であることに違いはない。ごくりと唾を飲む音に自分でも驚いた。私は緊張しているのか。

 この先には、一体何が待つのだろうか。この先に、はいるのか。

 意を決し足を踏み入れた。




 ……何もなかった。ただ賽銭箱が、久しい来客を迎えるだけだった。




「どうだった? 何か情報、掴めたか?」

「いや、なかったよ。神社があったから賽銭箱に金だけ入れて帰ってきた」

「そっか……ちなみにいくら」

「五円」

「お前も気にしてるのか? 五円だけに、“ご縁”ってヤツ」

「まさか。持ち合わせがなかっただけだ」


 旧校舎の南端にある一室の扉を開けた少女を出迎えたのは、静山。威厳のない先輩だ。


「賽銭、か……お前まさか、入ろうなんて思わなかっただろうな」


 重苦しい響き。


「……」

「行こうとしたんだな」

「…………ああ」


 言い終わるよりも速く、静山は飛鳥の肩を強く掴んだ。袖には乱雑な皺を刻み、腕は彼女を離してくれない。静山は大きく目を見開き、


「行くなと言っただろう!! お前に何かあったらどうする!!」


 腕を絞るように固く握りしめた。その眼差しに思わず目を反らす。


「……痛い」

「ああっ、すまん」


 権幕を忘れ腕を離す静山。しかし思い出したのか、


「“赤い門”——所詮はまやかしだろうが、世の中何が起こるか分からない。頼むから鳥居には行くな」

「……」

「返事は?」

「……分かったよ」

「まあ、お前を一人調査に行かせた俺にも非はある、か」


 気まずそうに静山は髪を掻いた。雑にかき乱すあたり彼の性格が表れている。


「お前はどうなんだよ、静山」

「何が」

「情報だよ」

「あ、ああ。この辺り……町の外でも何件かあったらしいな。掲示板由来の情報だから、正しいかはさておいて。ただそれ以外の情報はさっぱりだ。第一行った奴らは戻ってこないんだから」

「鳥居じゃなくても良いっていうのか?」

「さあな。だが、ある異世界に行った奴の痕跡は、鳥居の前で途切れている……デマかもしれないが」


 パソコンのカーソルを弄りながら、彼は言う。太字の短文たちが情緒豊かに会話を彩っている。


『人生疲れたから異世界行ってくるわwww』

『うそ乙』

『行ってみろよwww』

『噂通り、鳥居の前に来たわwww電波死にそうwww』


 低俗的な会話を最後まで見通しても、それ以上のヒントは得られないまま。


「杜、もう今日は帰らないか。日が暮れる」


 彼の提言に従い、この場は解散となった。




 ————


 妖しく世界を彩る月は、漆黒の雲に吞まれていった。星は疎らに輝いて、人を等しく見下ろしている。今夜は雲が多い。星の大部分は黒い腕に覆われ、街灯が星月の代わりだった。


 飛鳥は部屋に入るや否や鞄を放り投げ、ベッドに顔を埋めた。ふと見上げると時計の短針は八を差している。その隣には写真立て。白い枠の中には三人の学生が映っている。


「懐かしいな」


 手に取り眺めたのは、文芸部の活動写真。縦向きの枠いっぱいに並ぶ部員たち。フレームを手で撫ぜると、滲むように蘇ってくるものがあった。真ん中でおずおずとピースサインをしているのが飛鳥、左側で腕を組んでいるのが静山。そして右側でスマホ掲げているのが——。




「ほら飛鳥、写真撮ろうよ」

「ええ~、だって私写真苦手だし」


 私は引っ張られる腕を振り払う。も、彼女はめげずに手を握る。カーディガンからひょっこりと出ている指先が温かい。


「いいじゃない、魂抜かれるわけじゃないんだし」


 にししと彼女は笑った。


「だいたい学校でスマホ使っちゃ駄目じゃん」

「バレないバレない! ほらほら並んで」


 静山は乗り気なようで、もう持ち場についていた。


「部内で一度撮ってみたかったんだよな」

「先輩もこう言ってるし。お願い、飛鳥!」


 甲高い音を立てて手を合わせる彼女に、私は逆らえなかった。


「しょ、しょうがないな……一枚だけな」

「やったあ!」


 歯を見せ喜んだ彼女はスマホを高く上げた。左側に私、右に静山、そして真ん中に——




 ————子規。

 づか子規しき




 頬を伝うものがあった。冷たくてこそばゆい。まるであの子に撫でられているかのようで、こみ上げたものが耐えきれなくなった。


「子規…………」


 嗚咽を枕で押し殺し、そのまま布団に包まった。ぬくもりがただただ空しい。もうあの子はいない。




「ねえ飛鳥、あったかい?」

「ちょ、子規近いって」


 布団を並べて私たちは息を掛け合う。夏の夜の生暖かい空気が二人を包んだ。


「合宿って良いね。こうして二人っきりで寝られるんだもん」


 そう言って子規は頬を指の腹で擦る。


「……そうだな」

「もしかして飛鳥、照れてる?」


 籠った笑い声が鼓膜をくすぐる。こそばゆいけれど悪くないと思える。


「ちょっと、な」


 いくら親友とは言え、密着されるのはやはり慣れなかった。耳が赤く染まるのを感じる。


「『ちょっと』って何よ~。もう十年の付き合いじゃない!」


 子規は頬を膨らませる。


「しー……。静山起きるから」


 声を潜めると、


「ごめぇん」


 彼女は、チョコレートがとろけるような笑みを見せた。それがなんだかおかしくて二人で笑い合う。高い囀りが暗がりの部屋に響き、窓から差し込む白い月明かりが少女を優しく見守っていた。




 ——小鳥の囀りが聞こえる。

 開いた瞼の先にはやはり、朝日によって照らし出された世界が広がっている。憂いの気配を帯びた社会人、頭の冴えない子ども、日向ぼっこに興じる野良猫。変わり映えもない、いつも通りの現実でしかない。枕の露はとうに乾いていた。




 羽塚子規は歌うのが好きだった。三度の飯より……と言っても過言ではないのかもしれない。斜陽が差し込むしんと静まった教室で、彼女は今日も歌っていた。

 その歌声は、精霊が細い指先で奏でるハープのように清らかで美しく、どこか儚げで。水底の見える川の流れのように落ち着いていて清らかで、それでいて素朴で。いつもの快活な姿からは想像できないほどの歌声であった。まるで小鳥の囀りだと、心を寄せる。

 私も静山も、邪魔しないよう扉を隔てた廊下から彼女の歌声を堪能していた。耳を扉にくっつけ、体重を傾ける。心臓の鼓動が拍を刻み、歌声と絡み合うのが心地よかった。


 すると扉が勢いよく開き、私たちは教室へ雪崩れ込んだ。


「おわっ! ……ばれちったか」


 観念した口ぶりで静山は見上げた。

 そこには朱色に頬を染めた子規が立ちはだかり、


「なんで聞いてたんです?!」


 と糾弾する。


「だって綺麗だったから、つい」


 私がそう口にすると、


「そーいうのいいから!!」


 と身体をぽかぽか叩かれるが、全然痛くなかった。


 子規は歌うのが好きだ。

 ……だから以来、彼女は笑顔も見せなくなった。


 そう——。


 歌えなくなったあの日から、少女は変わった。




 突然だった。


「私、歌えなくなったみたい」


 彼女がそう言ったのは。


 信じられなかった。だから最初は受け流していた。なにかの冗談だろうと。しかし彼女が、自分の好きなことで嘘をつくような人だとも思わなかった。


「そういう嘘は言うな」

「嘘じゃない! 本当だよ!」


 彼女は激昂した。思わずたじろぐ。


「あ……ごめん。でも本当なんだ。もう私は歌えない」

「どういう意味だよ」

「そのまんまの意味なんだけど」


 理解ができなかった。だって子規は今喋っている。声はしっかりあるのだから、普通に考えればそのまま歌うことだってできるだろう。


「歌う時だけ、声が出なくなる」


 俯いた子規は、怯える子どものように飛鳥の袖を握る。その手は、震えていた。




「……確かに」

「ああ」


 子規がいくら口を動かしても、音は響かない。小鳥はいつまでたっても声を奏でられずにいた。まるでハープを忘れたみたいに、まるで川が干上がってしまったみたいに。

 静山は腕を組み、どうしたもんかと唸っている。或いはその原因を自身の記憶に求めていた。私が恐る恐る子規の顔を伺うも、表情を曇らせたままこちらを見てはくれない。


「なにか心当たりは?」

「……」


 子規は何も答えなかった。答えてくれなかった。




 ————


 夏とは思えぬほど柔らかな陽の光と爽やかな空気に満ちた万緑がさわさわと合唱をしている。


 小鳥の囀りが聞こえる。赤い口を大きく開け、心地よい声が樹海に響いた。


 その奥には“溜まり場”があった。大木を中心として空間が広がり、ほかの木々はその広間を綺麗に避け、育つのは小さな草花のみである。太く伸びる枝には縄が括り付けられ、その先には座るための板が釘で打たれている——ブランコであった。


 少女はブランコに座ると身体をゆらゆらと動かした。足が地面から離れ、宙に弧を描いた。振り子のように規則正しい軌道でブランコは揺れる。もう何年も使っているからなのか、それとも自身の成長の証か、ギシギシと枝は疲労を嘆いていた。


「せーの!」


 少女は飛び跳ねた。

 宙を舞う少女は鳥にはなれない。

 でもこの瞬間、子規は鳥になれる気がした。


「ヒミツキチ、もうこれで見納めかな」


 中央に居座る大木を見上げ、少女は言う。


「最後に飛鳥ともう一回来たかったけど……でも、今の私じゃね」


 片手で喉を撫で少女は独り言ちた。もう片方の手には、銀色に怪しく反射する刃。まだ血の一滴もついていないナイフであった。


「さて……と」


 ふと見下ろすと、苦しそうに蠢くものがあった。


 ——ホトトギス。


 匍匐前進もできずにいる。羽は力なく、ただもがくだけの存在。


「あなたも大変ね」


 外傷は見たところない。ならどうして、こんなにも辛そうなんだろうか。

 ああそうか。


「喉が渇いたのね」


 子規は腕にナイフを押し当て、そのままずらす。朱色に弾ける火花とともに、ホトトギスの真上から鮮血が滴り落ちた。


 ホトトギスは注がれる生血に恐る恐る嘴を近づけ、啜る。や否や勢いづいてさらに飲む。もっと欲しいと少女を仰いだ。嘴パクパク動かすその仕草は雨ごいを思わせる。

 子規は嬉しくてもう一度切り傷を刻んだ。またも滲み垂れるまだ温かい生血を、鳥はむさぼり飲んだ。


 ひとしきり飲むとホトトギスは翼を広げた。血しぶきを振り落とし、赤い口をした小鳥は樹木を縫う。


「あっ、待ってよ」


 眼に収めたその喉元は、やはり赤い。ナイフがするりと手を抜けていったがもはや気にする間もなく、そのまま足は駆けだしていた。


 小鳥の囀りが聞こえる。それは少女を祝うように。

 幾重にも聞こえる。それは少女を導くように。

 どこまでも聞こえる。それは少女を謳うように——。




 ————


 粘土の如く柔らかい土はあの頃と変わらなかった。肌の繊維に染み込むひんやりと空気はやはり懐かしい。飛鳥は記憶を頼りに、腰ほどの高さまで伸びた草をかき分け進む。


「なあ杜、本当にこっちで合ってるのか」

「ああ」


 飛鳥はそっけなく一言だけ答える。




 ……ずっとだ。

 羽塚子規が行方不明になってから早二か月。

 こいつのぶっきらぼうは生来のものだ。先輩たる俺に敬語すら使わない。文芸部に入部した時から相変わらずのタメ口なのだ。


 往く者を迷わせる木々を、杜は何の躊躇いもなく搔い潜る。


 だが今は昔のぶっきらぼうとは違う。ヤケクソ、自暴自棄。そういえば良いか。酷く否定的で自虐的で、排他的だった。クラスでも、彼女に話しかける者はもういない。


「よくまあ覚えてるな、俺だったら忘れてるぜ」

「……」


 杜は終ぞ振り向くことはなかった。ただプログラミングされた機械のように、淡々と足を運ぶ。その様が、その背中が虚しくてしょうがない。

 俺には何にできない。俺にあいつの心を埋めてやるほどの技量はないのだろう。先輩失格だな。


 羽塚は忽然と姿を消した。最初は警察も動いていたが、今は他の件で掛かり切りだとか何とか。あまりにも証拠が少なすぎる。まるで今世紀の神隠しかと思えるほどに痕跡がなく、向こうとしてもお手上げなのだろう。学校側も、腫物を扱うかのように話題にしなくなった。残されたのは、心にぽっかり穴を開けた後輩と、鳥居を潜れば行ける“異世界”の噂だけ。


 小鳥の囀りが聞こえる。何羽かいるらしく、その囀りは重なって森に響いた。


「この先にはさ、私と子規の“ヒミツキチ”があるんだ」


 杜はそう呟いた。


「楽しかったよ、思い出したくないぐらいに」


 自嘲的に彼女は笑う。

 もう二か月だ。羽塚は生きているのだろうか。誘拐だとしたら、俺たち一介の学生にはどうしようもない。まして警察が手を挙げているのだから、とても敵わない。単なる家出なら、俺は一生恨むと思う。それ以外なら——?


 ……あれはまやかしだ。

 ただの赤い門。それを潜っただけで、どうして別世界になんて行けるんだ。当初こそ信じていなかったが、今となれば信じてみたくもなる。

 いや、信じさせてほしい。それは杜も同じなのだろう。ただ、何でもいいから縋りたいだけなんだ。


「なんかヒント、あれば良いんだがなぁ」


 俺たちが秘密基地に訪れたのも、藁にも縋る思いであったのだから。




 走り回れるほどの広間に、聳え立つ巨木。海馬が記憶を呼び覚ます。霧を晴らすように、思い出がはっきりと


 ——今日からここが、シキたちのヒミツキチね!


 子規が声高らかにそう告げたのが、ずっと昔のことのように思えた。


「ヒミツキチ……か」


 飛鳥は巨木に頬を押し当てる。凸凹な質感も相変わらずだった。ブランコの縄は今にも寿命を迎えそうだ。


「こりゃ俺が乗ったらブチっといっちまいそうだな」

 縦に開いた大口を眺め、静山は呟く。


「これは……ナイフ?」


 ホトトギスのような黒い斑点を貼り付けたナイフが木陰に潜んでいる。寂しげなナイフを飛鳥はそっと拾い上げると、


「子規のかもしれない」


 と、タオルを取り出し丁寧に包んだ。


「なんで分かるんだ」

「ここを知ってるのは、私と子規だけだし。ここは二人の場所なんだよ。だから静山はとっとと忘れろ」

「そんな寂しいこと言うなよ~俺たち部活の仲間だろぉ~?」


 腕で飛鳥の肩を突く静山を、彼女は鬱陶しげに払いのける。


「少し……一人にさせてくれ」

 手のひらで大木に触れる飛鳥。

「分かった……帰れるかな、俺」

「この先をまっすぐ行けば隣町に出られる。あとは気合いだ」

「お、おう」


 去り際に彼が見たのは、縋るように巨木に寄りかかる飛鳥の姿だった。




 黄昏が、朱色の明かりがヒミツキチを照らし出す。

 いったいどれほど経っただろう。


 この木は、子規を見たのだろうか。


 一人、仁王立ちのままの大木を眺めて私は息を吐いた。




 ——アスカ~見て~立ち漕ぎ~!


 脳裏に響く声は、幾分か高い。


「危ないって、ちゃんと座らないと」

「へーきへーき! よおっし……!」


 能天気に声を弾ませた少女は、宙の一点に神経を研ぎ澄ませ……、


「とうっ!」


 鳥のように空を跳ねた。


 しかし翼はないのだから、


「へぶっ!」


 落ちるのは自然なことで。


「大丈夫?!」


 慌てて私は駆け寄ると、


「だいじょぶだいじょぶ! ……あ」


 子規の膝から朱色のペンキが流れ出ていた。


「全然大丈夫じゃないじゃん! ほらハンカチ」


 慌てた私は出血箇所にハンカチを押し当て血を吸いだす。


「ごめんね、ハンカチ洗って返すよ」

「いいよこんぐらい」


 ハンカチに染み込んだ血は絵画のようであり、最初に押さえた箇所は大きな水たまりのような円を描いていた。それを見た子規は、


「おっきな口みたいだ~」


 と、感心の声をあげていた。




 ブランコを漫然と見つめる。こうして見ると、大口を開けているようだった。朱色の夕日に晒されて、さながら赤い口————。


「赤い……口……」


 瞬間、頭頂部から脳内に刺さるような光が下りてきた。刹那として靄が晴れ、世界を一望できる感覚。かといって全てを見渡せるわけではなく、一点だけが望遠鏡のようにはっきりと見えるのだ。

 小鳥の囀りが聞こえる。


 飛鳥はナイフを取り出した。

 黒い染みのついた刃を一瞥すると、そのままブランコに近づいた。


 深く呼吸をして、肺にヒミツキチの空気を循環する。

 飛鳥は直感した。

 ——これで最後だと。


 ブランコの乗り場と枝の間に伸びる空間に切れ目を入れた。

 誇張ではない。

 ナイフの先で伸ばすと、赤切れのような線が刻まれるのだ。

 赤い波を立ててナイフは滑り、その軌跡が赤い線となって具現する。


 ここが——朱い陽に照らされたこの場所こそが、鳥居だった。


 息をのみ、切れ目に手を掛けると、いともたやすく口は裂かれた。ぐちゃりという音と生温かい感触だけを残して扉は開かれる。

 おずおずと裂け目に手を掛けると、そのまま吸い込まれていった。意識も思案もする間もなく。歪んだ空間ごと呑み込んで——。



 ————


 ——声が聞こえる。歌が聞こえる。

 柔らかな光が瞼に差し掛かる。ここはどこだろう。徐に開くと、広がっていた。


「異世界……」


 ——その光景は、いつか彼女が望んだ世界で。


 少女が歌っている。幸せそうな笑顔で、その声を響かせていた。


 ——その光景は、いつか私が望んだ世界で。


 聞いているのは、私と静山。うっとりと、その音色に耳を澄ましていた。


 ——その光景は……あったかもしれない世界で。


 それを私は、少し離れたところで見つめていた。まるで止まり木に足を着けた鳥のように。


 ——その光景は……しかしもうあり得ない世界で。


 私に気づくものはいない。手にはナイフ。鈍く染まった斑点は、次にすべきことを告げている。


 ——その光景は……醒ますべき世界で。


 私はゆっくり足を運ぶ。誰も私に目を向けないのは、私が“異世界”の人間だから。


 ——その光景は……子宮のような緩やかな世界で。


 これで良いのだろうか。ナイフを握りなおす。


 ——その光景は……再び生まれるための世界で。


 眼前の彼女は、楽しそうだった。

 だけど躊躇ってはいけない。


 刃の先を脳天から突き刺した。

 紙を切るようにいとも容易く少女は割れて、真っ赤な血とともに溢れたのは、無数の羽。

 飛び立つための衣は舞う。ふと頬についた羽は、もうが飛べないことを告げていた——。




 ————


「——い、おい! 杜! しっかりしろ!!」


 男の声がする。しっかりとした、怒号にも似た呼びかけに、意識が正されていった。


「静……山……?」

「そうだ、俺だ!」


 汗を滲ませ、少女を揺すっていたのは、この世界の静山だった。


「私……なにして……」


 見渡すと、寝起きの太陽が顔をのぞかせていた。指で伸ばしたかのような藍色の雲がたなびいている。

 ブランコの縄はちぎれ、板は墜落していた。握りしめたナイフにこびりついていたのは、血に濡れた羽。

 刃物が指から滑り落ちた。しかしそれすら気に留めることができない。

 嗚咽が塊となって出てきそうで、それを堪えるのに必死で。


「ああっ……あっ」


 口をついたのは喃語に似た母音だけで、言葉すら紡げなかった。


 次の瞬間、感じたのは人の熱。静山の腕が身体を包み込んでいた。大きな手は彼女の背を優しく撫ぜ、口は固く結ばれている。じんわりと伝わるぬくもりは、熱いほどの息は、少女に詰まったものを吐き出させるのに十分だった。



 ——小鳥の囀りは聞こえない。

 足元には、羽をもがれたホトトギスが、口から血を吐き死んでいた。








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ホトトギスは異世界の夢を見るか わた氏 @72Tsuriann

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