他和誰一起喫老火湯了?

中田もな

佐敦

 香港の街は人が多い。立ち並ぶアパートは実に巨大で、最早芸術の域に到達している。

「なぁ、兄ちゃん。俺の家で、老火湯を飲まないか?」

 私はイギリスのコーンウォールから、特にあてもないまま飛行機に乗った。そして特に理由もなく、佐敦ジョーダンの大通りを歩いていた。夜空とネオンが混在した、騒々しい道の端を。

「……ろおふぉーとん、ですか?」

「そ。ちょっと作りすぎたからさ、良かったら分けてやるよ」

 彼は烏のように黒い髪を、子どものように無邪気に揺らした。全くの初対面にも関わらず、親密な態度を私に見せる。

「えっと、気持ちはありがたいのですが……」

 英語で話し掛けられた私は、丁寧な言葉で返事をする。人の熱気に呑まれそうな街中では、穏やかな口調はかき消されてしまいそうだった。

「いいから、いいから! 遠慮すんなって!」

「え、でも……」

「いいから、いいから!」

 案の定、彼は私の言葉を笑い飛ばし、ぐいっと腕を引っ張った。私の青い瞳を覗き、スマートなウインクを返す。

「兄ちゃん、聞いて驚くなよ? 俺はなぁ、あの高層ビルの……」

 言いながら、彼は背の高いビルを指差す。最近建てられたばかりの、美しい高層マンションだ。

「……右斜め前の左斜め前の、そのまた左斜め後ろのアパートに住んでるんだよ! どうだ、あのオンボロアパート!」

 彼の部屋があるアパートは、目まぐるしい香港の開発に出遅れたような、ひどくさびれた姿をしていた。周囲の年季の入ったビルと比べても、一段と時代に取り残されている。

「はっはっは! 兄ちゃん、驚きすぎて、言葉も出ないか!」

 私がじっと黙っていると、彼は満足そうにけらけらと笑った。玄関先で主人の帰りを待つ、大型犬のような明るさだ。

「確かに、見た目以上に汚いんだが、住み心地は最高なんだよ。ま、案内してやるから、ついてきな」

 私は腕を引かれたまま、彼のアパートへお邪魔する。やたらと急な階段を四回上った先が、彼の狭い部屋だった。よく分からないゴミと、着古されたぼろぼろのシャツが、至る所に散乱している。

「兄ちゃん、適当に座って。あ、そこのビール、飲んでいいから」

 足のガタつくテーブルには、余りものの揚げ物やら、読みかけの漫画やらが、ひどく不衛生に置かれていた。私は潔癖症ではないが、さすがにこれは不安になる。

「ビールって、これですか?」

「それそれ。たまたまスーパーに寄ったら、安かったんだよ」

 私は床に横倒しになった、黄色い缶を持ち上げた。見慣れない文字が書かれているが、どうやら日本語のようだ。

「今、tangを出すからな。ちょっと待ってろよ」

 彼は非常に機嫌よく、器にスープを盛りつける。私はビールの蓋を開け、生ぬるい炭酸を飲み込んだ。

「兄ちゃん、遠慮すんなよ! 六人分ぐらい作ったから!」

 テーブルにやって来た老火湯は、美しい黄金色をしていた。ほろりとくずれた豚肉に、鮮やかな赤をまとった人参。透明な大根の下には、小さな青豆が隠れていた。

「老火湯は体にいいからな! 具を捨てるやつもいるけど、もったいないから、俺は食う!」

 彼はスプーンを手に取ると、嬉しそうに汁を飲んだ。私も器に顔を寄せ、まずは一口、食べてみる。

「……とても、優しい味がしますね」

「だろ? 美味いんだよなあ、これが!」

 見た目からは想像できないほど、味に深みがある。様々な調味料をブレンドして、何時間も煮込んだのだろう。初めての老火湯の美味さに、私は驚きを隠せなかった。

「あ、そうだ。牛肉球niurouqiu、食べるか? 食べるよな?」

 テーブルに置かれたミートボールを指差して、彼はにへらと頬を緩ませた。よく見ると、首の裏から手前にかけて、龍のタトゥーが入っている。

「あ、いや、それは……」

「またまたぁ、遠慮すんなって! 旅先の味だぞ、食べてみろよ!」

 数日前に購入したであろう肉を、彼は私に勧めてくる。私はついに断り切れず、腹を壊さないことを祈りながら、ゆっくりと口をつけた。……牛肉と言うよりも、牛肉と何かの混ぜ物のような味だった。

「しっかし、兄ちゃん、髪長いなぁ。そんなに長いんじゃ、結ぶのにも苦労するだろ?」

 私の黒いポニーテールは、腰にかかるほどの長さだ。ぼさぼさの髪をした彼は、不思議そうな顔で私を見た。

「宗教上の関係で、あまり髪を切れないんです。『髪には魂が宿る』と言われているので」

「ははぁ、なるほどなぁ。道教で言うところの、『牛を食べない』みたいなもんか」

 国際色が混じり合う香港では、牛を喜んで食べる人も、食べない人もいる。それはヒンドゥー教の人だけではなく、道教の観音様を信じる人も同じだと、彼は教えてくれた。観音信仰のタブーは、牛肉を食べることらしい。

「ここら辺では、豚や鶏を食べることが多いけどな。でもさぁ、鍋にはやっぱり、牛なんだよなぁ!」

 そう言いながら、彼は美味そうに舌なめずりをする。私はスープを何杯も飲んで、腹がいっぱいになってしまった。夜もすっかり更け切って、アパートの下の露店からは、愉快な笑い声が聞こえてくる。

「本当に、ありがとうございました」

「礼なんかいらないって。料理が余ったから、分けただけさ」

 彼の人懐こい表情を見て、私はとあることを思い出した。「少し旅に出る」と言ったとき、私は仲の良い友人に、小さな頼みごとをされていたのだ。

「せっかくですので、一枚、写真を撮らせていただけませんか? 友人に、『旅の記録を撮ってほしい』と、頼まれていまして」

 私は赤いリュックの中から、白いインスタントカメラを取り出した。友人が日本のアキハバラに行ったとき、思わず衝動買いしたものらしい。名前は確か、「チェキ」と言った。

「あー……。写真、かぁ……」

 彼はカメラを見つめると、少し困ったような顔をする。「写真はなぁ、好きじゃないんだよなぁ」と言いながら、ぽりぽりと頭を掻いた。

「いえ、無理ならいいんです。撮れたら撮る、くらいの感じでしたので……」

「いやいや、無理ってわけでもないいだけどさぁ。うーん、どうしよっかな……」

 彼はしばらく考え込んでいたが、やがて「よーし、分かった!」と答えながら、ごろんと床に寝転んだ。

「さぁ、じゃんじゃん撮ってくれ! いえーい!」

「え、いいんですか?」

「ああ! 写真は好きじゃないけどよ、兄ちゃんに撮られるなら、別にいいかなーって!」

 ヨガのようなポーズをしながら、彼は私に向かってポーズを取る。何だが可笑しい被写体だったが、私は丁寧にシャッターを切った。

「ありがとうございます。きれいに撮れました」

「おー、そうか。そりゃあ、良かった」

 このカメラは高性能で、撮った写真がすぐに印刷される。私は今さっき撮った写真を、彼にも見せてやろうと思った。

「このカメラ、すごいんですよ。撮った写真が、すぐに印刷されるんです」

「へぇ……。すごい世の中になったもんだなぁ……」

 彼は青年であるにも関わらず、年寄りのようなことを言った。そして何だか申し訳なさそうに、私の背中を強く押した。

「わりぃな、兄ちゃん。俺、ちょっと、用事を思い出したわ」

 彼は優しく微笑むと、「じゃあな、兄ちゃん!」と言いながら、私を玄関の外へと追いやった。私はチェキとリュックを持ったまま、再び佐敦の街へと放り出された。


 その後、宿に着いた私は、印刷された写真を見て驚いた。そこに写っていたのは、物が散乱した汚い床と、転がされた日本ビールの缶だけだった。彼の姿は、どこにもなかった。

 不思議な気持ちになりながら、私は翌日、彼の指差した高層ビルを見上げた。下町の佐敦を見下ろすような、背の高い高層ビル。……その右斜め前の左斜め前の、そのまた左斜め後ろには、真新しいアパートが建っていた。

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