社畜と嘘つきシンデレラ
弥良ぱるぱ
とある夜のこと
いつもより暗い帰り道は、いつにもまして足が重い。
それは単に淡々と降り積もる、この
「はぁあ……やっちゃった……」
今日は会社でミスをした。いや、今日も会社でミスをした。それも飛び切り大きな奴を。
「ははっ……ホントありえないわよね。最後にデータを上書きしちゃうなんて。はぁあ……」
愚痴と共に出てきた溜息は、まるで自分の魂なんじゃないかと思うくらいに、白くてとても大きかった。いっそこれが本当に自分の魂であったなら、どんなに良かったことだろう。もう失敗することもなければ、上司にこっぴどく叱られることもないのだから。
「はぁ、明日も会社に行きたくぁ__」
__瞬間、視界は宙を仰いだ。
直後に襲う腰からの鈍痛。
反射的に持っていた鞄や傘を全て振り払い、咄嗟に患部に手を
「いチチ……」
いきなりのことでよく分からなかったが、どうやら雪で転んだらしい。
恥ずかしさからか、周りから聞こえる人の足音がより大きく感じられた。
若干痛みは残るものの、これ以上誰かに転んでいるところを見られたくはなかったので、素早く足腰に力を入れて立ち上がる。辺りに散乱した私物を再び鞄に詰め直しながら、改めて自分の危機管理能力の無さを悔いた。
(ねぇ、またやらかしたの? これで何回目?)
「ごめんなさい」
(いい加減にしてくれんかね、ここは君のお守りをする場所じゃないんだよ?)
「……ごめんなさい」
過去のトラウマが幻聴となって、無言で行き交う人が口々に私を
分かってる。理解してる。もう二度と失敗はしたくないと。だからいつも以上に注意する。気を付ける。するとどうだろう、今度はこれとは全く別の失敗をやらかすのだ。いくら警戒を強めたところで認識の外側から突然やってくる以上、もはや手の打ちようがなかった。
仕様がなければ仕方がない。そうやって自分を受け入れてくれたのは、結局のところ自分以外に誰一人としていやしなかった。
何もかも空っぽな私は、酔うことによって満たされた。
酔えばいつも前向きに、自分自身を受け入れられる。自分を肯定し続けるには、どうしてもお酒が必要だった。
どうせ酔うなら強い酒を。
どうせ飲むなら美味い酒を。
そうして求め続けて見つけたのが、この先にあるたった一軒のバーだった。
Bar灰かぶり。
仮にも飲み物を提供する店のはずなのに何故こんな名前にしたのか、店先に出された看板を見るたびに、ふとそんな疑問が浮かぶ。しかし聞こうとする頃にはすっかり頭から抜けているため、いつも聞けずじまいでいた。
だから今日は、今日こそはと、いつもより食い入るように看板を見つめながら店に入った。
暖色の明かりに満たされた店内。暗色のテーブルやソファに囲まれながら、一人のバーテンダーがモップを使って床掃除に勤しんでいた。そんな彼は私に気づくと、屈めていた腰を元に戻して溜息を吐いた。
「表の看板見てなかったのか?」
ポマードで固められた真っ黒な髪をポリポリと指で掻きながら、呆れた顔で聞いてくる。
普段の堅苦しさがない分、こちらの方がかえって話しやすそうだった。
「? そんなの毎回見ながら入ってるわよ。あ、そうそう! ねぇ、
「はぁ? んーまぁ、なんでも爺ちゃんが『シンデレラ』の和名から取ったとか何とか……って、看板ってそっちじゃねぇよ。扉に掛かってる小さい方だ」
「そんな看板あったっけ?」
「あるよ。お前いったい何を見ながら入ってきたんだ?」
看板です。なんて流石に声には出せなかったので、大人しく扉を開けて確認してみる。すると扉の半分ほどの高さに、くだんの小さな看板がカラカラと物音を立てながら揺れていた。初めは動いていて見辛かったが、だんだんと落ち着いてくるとそこには“CLOSED”とだけ書いてあった。
「OPENじゃないわね」
「だから閉まってんだよ」
将治の鋭いツッコミが胸に刺さる。その衝撃は凄まじく、考えたくもない事実を理解するには余りに十分過ぎた。
仕事では大失敗。帰り道では雪で転倒。それだけでも辛くて痛いのに、お酒まで飲めなくなるなんて。
支えを失った感情は、なぜか目から溢れてくる。
「あー……わかった。分かったから。こんな雰囲気でも良ければどーぞ、お客様」
将治は促すように手をカウンターへと向ける。浮かれない顔つきではあったものの、それでも私の願いを聞き届けてくれた将治はまるで神様にも思えた。
「あ、ありがとーーー!」
はやる心を全開に、流れるように着席をし終える。
「あぁ、いいよそのくらい。で、何を飲むんだ?」
しばらくしてからカウンターの向こう側へと入ってきた将治は、私にそう質問しながら手を念入りに洗い始める。その時、彼の息からは少しだけお酒の匂いがした。
「じゃあ、いつもので!」
「いつものって、ドライマティーニじゃねぇか。大丈夫か? そんな強い酒を飲んで」
「いいの、いいの。私、強くて美味しいお酒が好きだから」
「……いや、そういう意味じゃねぇ。お前の体が心配なんだよ。毎日ツライ顔してやってきて、強い酒だけ飲んで帰るお前がさ。ほら、この際だから優しいカクテルでも作ってやるよ」
将治のお誘いは正直とても嬉しかった。確かに優しいお酒で体を温めるのもアリかもしれない。しかし私はどうしても強いお酒で酔いたかった。
酔えば何でも前向きに捉えることが出来る。仕事で大失敗しても、またやり直せばいい。帰り道に雪で転んでも、また立ち直ればいい。そして毎日失敗してしまう私であっても__
「__ありがとう将治。でもね、それでも私は強いお酒が飲みたいの」
将治は終始私を心配そうに見つめていた。けれども最終的には私の意志を尊重してくれたのか、カウンターには見慣れた酒瓶やグラスなどが次々に出揃う。
「はーぁ……分かった。強い酒でも何でも作ってやる」
将治の大きな溜息は、お酒の匂いが強くした。それでも彼は
それから両方のグラスが冷えると、今度は小さなグラスに入っていた氷は捨てて、大きめなグラスには二種類のお酒を注いでいく。ある程度のお酒が溜まるや否や、瞬時に酒瓶を上へと逸らせる。
「おーぉ、何度見ても凄わね。いちいち量らなくて大丈夫なの? それともテキトー?」
「どっかの誰かさんが頼み過ぎるせいで感覚的に掴んじまったんだよ」
「へー、私以外に強いお酒が好きな人もいるのね」
「まぁ、そうかもな。お前も体を大事にしろよ?」
「はいはい、分かってますぅ」
生返事もそこそこに、将治はバー特有の柄の長いスプーンを持ってグラスにそっと差し入れた。見えない軸が浮かび上がるくらい綺麗な円
頃合いを見計らい混ぜていたスプーンを取り出すと、中身を小さめなグラスに移し替える。
それからピンに刺したオリーブをグラスの内側に滑らせながら優しく底に沈ませた。
最後にレモンの皮の切れ端を摘まみ持ち、グラスの直上に目掛け、まるで指を鳴らすように素早く絞った。
「ほら、ドライマティーニだ」
慎重にコースターの上に乗せられた一杯のお酒が、私の目の前に差し出された。その際に少しだけ姿勢を前に倒した将治の胸ポケットの中には、何やら怪しい紙片が入っていた。
「へぇ将治。また貰ったんだ。毎度そうやって大事そうにしまい込んじゃって」
「はーぁ……仕方ねぇだろ? 俺だって名刺の扱いには悩むんだよ」
将治はそう弁解しつつ、自身の胸ポケットから一枚の名刺を取り出すと、サッとズボンに突っ込んだ。しまう際に一瞬ではあったものの、名刺の裏にはプライベート用と思しき電話番号が走り書きされているのがチラリと見えた。
そこで私はピンと来る。
「ふぅん。じゃあ、さっきからお酒臭かったのも、その人のせい?」
私の直感が当たったのか、将治は驚いたように少しだけ目を開かせる。
「ああ、そうだよ、よく分かったな。まぁ俺の方も奢られるだなんて滅多になかったから、一杯だけつい……な」
「ふぅん。将治は昔からモテるからねぇ……。あっ、もしかして、もう付き合ってたりして」
予想が当たったのが嬉しくて、思わず次の妄想を口走る。しかし今度は予想に反して素っ気ない態度を取られてしまった。
「そんなわけねぇだろ。俺は昔から一途なんだ」
「えっ? 将治って昔からの彼女なんていたっけ?」
「べっ、別にいいじゃねぇか。ほら、さっさと飲まねぇと冷めちまうぞ」
将治は顔を少し赤らめながら、どこか遠くを眺めるかようにそっと視線を逸らす。いつもとは違う彼の動揺した言動に、私は少し驚いた。
「? 冷めちまうってどういうこと?」
「たっ、単に言い間違えただけだ。ほっ、ほら、
「分かった。それじゃあ頂きます」
グラスの淵ギリギリまで注がれたドライマティーニを一滴たりとも
「美味しい」
自然と言葉が口から零れる。
たった二種類のお酒を混ぜただけなのに、何でこんなに味わい深いんだろう。そんな秘密が知りたくて、二口、三口と飲み進めるうち、だんだんと酔いが回り始める。
「ふふっ。でもホント、将治って昔からよくモテてたよねぇ」
「なんだ、またその話か」
「うん、だって高校の頃なんか凄かったじゃん、わざわざ隣の県から将治目当てに引っ越してきた子がいたりしてさ」
「ん? いや、あれは隣の“街”だ」
「あれ? そうだっけ。じゃあ、そうバレンタインデー! わざわざその日にママチャリで学校に来てたよね」
「いやいや、ママチャリで来てたのは俺じゃなくて隣のクラスの鈴木」
「えぇ? そうだっけ」
「ああ、そうだよ。お前もう酔いが回ったんじゃねえのか?」
「まだ酔ってなんかないよ、まだ半分ちょっとしか飲んでないし」
将治に見せつけるように軽くグラスを揺らしてみる。それから味に変化が欲しくなり、今度はオリーブを頬張った。噛んだ瞬間、口に広がる強めな酸味。そこに再びドライマティーニを飲んでみる。すると一口目で味わったあの感動が、形を変えて押し寄せた。
お酒を飲みながら思い出話に花を咲かせる。子供の頃には考えもしなかった大人の楽しみに、妙な充実感を得られていた。頭の中でもう一度あの頃の生活を謳歌していると、急にとある場面へと切り替わる。
「あっ。じゃあさ、じゃあさ、あれは覚えてる? 教室で二人きりになった時のこと。ほら、夕方にさ、将治がいきなり教室に入ってきたじゃん」
「ん? ……ああ、俺はあの時、宿題のプリントを取りに戻ってたんだよ」
またしても将治は私の突飛な質問に対して驚くほど早い返事をした。
「そっか。まぁ私は何で教室に残ってたのかも忘れちゃったんだけどさ、その時の将治、何かスッゴイ真剣だったよね」
「…………まぁな」
夕日に染まる教室の中。将治の顔はそれでも赤く染まっているのがありあり分かった。大きく見開かれた目は真っ直ぐに私を見つめていて、口元はずっと小刻みに震えていたのだ。
「でさ、でさ! ドキドキしながら何を言い出すのか待ってたら、急に『お前は犬の交尾をみたことあるか?』って言いだすんだもん。笑っちゃうよねホント、あっははははは」
どうやらツボに入ってしまい、しばらくの間カウンターに突っ伏して笑ってしまった。
「笑えるだろ? 昔の俺はお前に告白すら出来なかったからな」
“告白”の二文字に反応し、思わず顔を上げてみる。
すると目の前の将治はあの頃と同じように、顔を赤く染めながら、真っ直ぐ私を見つめていた。けれども口元は震えてはおらず、むしろ緩んでいるように思えた。
「俺はお前のことが好きだ。ドジなところも天然なところも、全部まとめてお前のことが大好きなんだ。だからおれと……俺と正式に付き合って欲しい」
全てを言い終える頃には、将治の顔は更に赤みを増しており、まともに立ってられないのか、両手をカウンターに置いて全体重を支えていた。
「将治……もしかして酔いが回った?」
心配して思わず言葉を投げかけたところ、将治は一瞬だけ物凄く怒ったかのような目を私に向けてきた。
「何でお前はそう分かって…………。いや、酔った。……そう、酔いが回っちまったんだ。だからすまん、今のは聞かなかったことにしといてくれ」
相変わらず赤らんだ顔でぎこちなく笑ってみせる将治。それにさっきの行き過ぎた言動と相まって、やはり原因はお酒で間違いない。
ただ彼をそこまで変えてしまった強いお酒に、私はすこぶる興味を惹かれた。
「ねぇ、折角だから教えてくれない? 将治を酔わせたお酒の名前」
私の質問に対して、将治はなかなか口を開いてはくれなかった。
私から視線を逸らし、しばらくのあいだ考え込む。
それから再び視線を合わせると、将治はゆっくりと口を開いた。
「…………シンデレラ。シンデレラだよ、俺が酔ったカクテルは」
「へぇ、可愛い名前のくせしてガツンと決めてくるなんて最高じゃない」
「ああ、お前そっくりなカクテルだよ」
「何それ、馬鹿にしてんの?」
その時、将治の顔に笑みが戻った。少年ような屈託のない笑顔は、心なしか学生の頃の彼にそっくりだった。
「よし! じゃあ将治、次はその“シンデレラ”ってやつを作ってよ」
空になったグラスを豪快に将治へ差し出した。すると将治の反応は想像以下の、実に淡白なものに変わっていった。
「あー……今更で悪いんだが……お前、終電大丈夫か?」
「えっ? あっ、そういえば! 教えてくれてありがとう! 将治! 千円、千円ここに置いてくから。足りる? 足りるよね? じゃあおやすみなさい美味しかったよ!」
一方的な別れの挨拶を口走りながら、急いで外に飛び出した。暗い空からはまだ雪が降っていたが、傘を差すのも面倒なので、そのまま駅までひた走った。
荒げた息を整えながら駅の時計を確認すると、終電までまだ十二分に余裕があった。
一瞬だけ将治の嘘を疑ったが、私の性格を知っている将治のことだ。またしても雪で転ぶことを視野に入れての発言だったに違いない。
そう考えているうちに、無人のホームに電車がやってきた。
徐々に速度を落とす電車を何気なく眺める。どうやら運が良いことに乗客は誰一人としていやしなかった。
それを知るなり私はしめたと思い、普段なら絶対にしてはいけない車両扉の真正面から堂々と乗車してやった。
改めて車内を見回すも、やはり私以外に誰も人は乗っていない。まるで自分専用の電車を与えられたかような贅沢さを味わいながら、長い座席のど真ん中に座ってやった。
途端、発車の合図がホームに響き渡る。
電車が再び動き出し、誰もいない静かな車内を一人で満喫していると、ふと思い出したかのように鞄からスマホを取り出して、すかさず“シンデレラ お酒”と打ち込んだ。瞬時に切り替わる画面から適当な記事を見つけて読んでみる。
シンデレラ:オレンジジュース・パイナップルジュース・レモンジュース
それぞれのジュースを1:1:1の割合でシェイクする。
確かに将治はこの酒で酔ったと言っていたのに、どこにもお酒の類が入っていない。
不思議に思い他の記事も確認したところ、やはり書いている内容はどれも一緒で、どこにもお酒の類なんて入ってなんかいなかった。
じゃあなんで将治はこんな嘘を。
「……あ」
将治は酔いが回る前、彼は一体何をした?
将治は私に告白をした。
ドジなところも、天然なところも、全部まとめて大好きなんだと、将治は私に言ってくれた。
どんなに注意をしても失敗して、どんなに気を付けても失敗したこの私を。
誰一人として受け入れてはもらえないと信じて疑わなかったこの私を。
将治は大好きだと打ち明けてくれた。
「……ありがとう、将治……」
胸の内から湧き上がる果てしなく熱い感情が、止めどなく目から溢れてくる。私は静かに鞄を抱きながら、心の揺さぶりを素直に味わう。
将治は嘘を吐いていた。私に嘘を吐いていた。
でもその嘘は優しくて、私の頬を赤く酔わせた。
「……今度は優しいお酒でも飲んでみようかな」
明るくて少し湿った声が、空っぽな車内に満たされていった。
社畜と嘘つきシンデレラ 弥良ぱるぱ @sbalpa
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