NO53/私小説? ショッキングディ
ケンジ1973年昭和48年2月14日(水)
今日はショッキングデイであった。昨夜帰ったのが午前四時頃だったことからすでに、そのショッキングデイの前兆が現れていたのかも知れない。
今日は十一時から道場で稽古があり、16日のショーの稽古をみっちりやった。我ながらだいぶ自信がついた。
そして経堂に着いてまだちょっぴり時間があったので、そう乗り気でも無かったのだがちょっくらパチンコ屋へ、そしてものの30分経つか経たないうちに700円が飛んで消えた。それが昨夜のよからぬ胸騒ぎで目が冴えて眠れず、四時になってしまった前兆のより一層ハッキリと現れて来た第一歩であった。
そしてちょっと気落ちしていつものようにマドンナへ、いつもと変わらずマネージャーの不気味な笑顔に迎えられた。
私は、今日はバレンタインデーだしひょっとしたらいいことが何かあるんじゃないかしら、てな甘い考えも同時に持っていた。しかしそっちの考えはまったく外れる。
そしてついに今日のショッキングデイのクライマックスへと時は移って行く。
仕事を始めた私、いつもになく何故か気がせいた。何かすぐあとにとんでもなくアクシデントでも起こるのではないかと胸が騒ぎ、とにかく目についた足りないものや用意せねばならないものなどは、一刻も早く片付けようと思ったのだ。
ところが、いくらやってもあとからあとから気掛かりなものが出てくる。そしてとうとう客が来店し始めた。次から次へとできるだけ冷静でいようとつとめながら手順よく仕事を捌いた。でもついにきた。
いつもは大きな寸胴一杯分ぐらいコーヒーが余って店を終わるのに、今日は早、7時にしてコーヒーが足りなくなりそう。今日に限って早番のコガワ君の立てておいたコーヒーの量が少なかったせいもある。しかしそんなに早く無くなる量ではないと踏んでいた。
それがまんまと!私は抱いていた不安がひとつひとつ的中していくのを感じ、一層不安になり焦り出した。私はすぐコーヒーをたてる用意をした。その間にもプリンアラモード、焼きそば、ピラフなどのいつもになくオーダーが入って来た。ようやく用意が整ってコーヒーをたてに入る。と間もなく、コーヒー、ココア、焼きそば、コーラ、プリンなど、矢継ぎ早にオーダーが混んで来た。私の胸はますますその鼓動を速め、血管内の赤い血が逆流し顔が火照るのを感じた。
私は強いて冷静に出来る限り手順よくそれらを捌いて行った。しかしもう頭は血で煮えたぎっている。その最中にマネージャーの不気味なイヤミ、そのあとに必ず加えるイヤミ分だけのお世辞、それらの明らかに憎しみのこもったと思える言葉が私の耳をよぎった。
その時こそ、マネージャーのイヤミを痛感したことはなかった。私の心が高ぶっているせいもあったろうが、とにかくそういう時は一つのイヤミが十倍にも二十倍にも響くものだ。普段時々は感じてはいたけれど、あの気立てのいいと誰もが認めると思うキョウコママの言葉にも、いつもになく後味の悪い、キョウコママらしからぬ無頓着なニュアンスで私の耳に入って来た。今日のキョウコママは確かにいつものキョウコママとは違っていた。いや、いつもそうなのかかも知れないが、私の神経が今日いつもの数倍の感度を発揮したため、その馬脚を初めて明白に認めたのかもしれない。またそれとはまったく逆に、キョウコママが私の認めた以上に繊細かつ鋭敏な心情の持ち主で、故意に私の試練のためにいつもになく厳しく振る舞ったのかも知れない。しかし今の私には、何かマネージャー、キョウコママ、ホールのミツコさんの暗黙のうちのヒソヒソ話が聞こえてならないのだ。(その時の私は確かに気が高ぶっていて、何でもないことがそう思えたのかもしれないが、今現在、ヤナギさんの部屋でコタツに入り、ゆったりとこの日記を書いていても、その幻影が心から離れないというのは、これはおかしいのである。)
そうこうしてようやくコーヒーはたて終わった。ちょっとの間もなく、今度はその時の二倍も三倍ものオーダーが入り混んで来た。コーヒーなどたてておらず、気もせいていなければ十分捌けたと思うオーダーではあったが、すでにその時、私の心は不安と焦りの極に達していた。そうなるといつもの平静の手順が狂ってくる。あれよあれよの間に洗い物は溜まり、オーダーも溜まってしまった。それに昨日までは出たこともないプリンローヤルなどというものまでがご丁寧に二つも入って来たのだ。次から次へオーダーは来る。ミックスサンド、焼きそば、ミートの大盛、ハムサンド三人前、玉子サンド、ココア、みつ豆、もうここまで来ると私のできうる限りの力を振り絞って片付けていくのみ。長いものはおそらく20分以上待たせたであろう。それを考えるとまた一層焦るのだ。相変わらずキョウコママ、マネージャーの急かせる声が私の頭にこだまする。そうなるともうマネージャーもキョウコママも悪魔である。イヤミどころではない、地獄の責め苦である。私の心は怒りで震えた。でも私の強すぎるくらいの理性と小心さがそれを押さえていた。
「キョウコママの無頓着、無遠慮、デシャバリ、マネージャーめ、何をぬかすか、」私の心はそういう響きでいっぱいであった。しまいには、ミツコさんや客の一人一人までもが悪魔になっていった。あー、もう私はこんなところで働く気はない、働けない、なんて汚いところだ。そう何度も思った。
とうとうミツコさんがカウンターの中へ入って来た。あまりに溜まったヒヤタン、ソーサなどを洗うためだ。もう客に出すそれらがなくなってしまっているのだが、私は作り物で忙しくてそっちまでみてられないのだ。これも最初の手順を狂わされたからなのだ。私の心の不安のために、私の理性が負けたのだ。とうとう他人の手を借りてしまった。もし私の心に不安と焦燥の感覚がなかったなら、きっと一人で出来ていた仕事であった。
そのミツコさんも、ヒヤタンとソーサを洗い終えると速やかにホールへ戻った。そして何分かが過ぎた。とうとうオーダーは終わった。私はショックだった。そのショックをさっきキョウコママから受けた感情を確かめるためにも、わざとキョウコママに話した。キョウコママからは手厳しい返事が返って来た。
「葵君て根性ないのねェー!誰でもあれくらい忙しい時はあるのよ。それを口に出すなんて、やっぱり楽をして生きていこうって人間なのね。」
私はこの返事に別に大した怒りは感じなかった。なるほど、誰から見ても男がグチをこぼすなんてみっともないに尽きることなのだから。でも私はもっとショックなことを掴んだ。それはキョウコママが、本当にああいう無頓着なデシャバリなところのある人間なんだな、ということだ。確かにキョウコママは気立てのいい面倒見のいい女性だ。しかしどうしても人間にあるそれの裏返しの欠点を、あの今まで私が少なくとも頼もしく思っていたキョウコママにしてあったのだ、というところを見て、ちょっとしょんぼりしたのと、それより何より大きくショックだったのだ。でもここで言っておくが、私はマネージャーはきっと嫌いになるだろう、キョウコママはまだ深みがあって、私のとんでもない勘違いということも万が一ありそうな存在なのだ。
(今夜は久し振りに書きたいだけ書いた。他人から見れば、ヒステリックな負け犬の遠吠えとしか映らないかも知れない。でも、これが私の気持ちなんです。すっきりしました。
ヒロト2022年令和4年4月16日(土)
すごいよ、ケンジ。これは日記というより、
一つの興味深い作品だよ。見事に心象風景を描いてる。パニック状態にありながら、もう一人の自分が俯瞰しているように自分自身を観察して、文章に昇華させていく。いいものを読ませてもらった。
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