NO11/受験生ブルース

ケンジ1971年昭和46年1月26日(木)

今は午後一時半である。勉強していたのだが、どうも雑念が入ってしまうので、今ここに吐き出してしまう。

人のうわさというやつである。うちでは私も兄も、他のことは一切やらず勉強ばかりしている。父もいないのに、母が血まなこになって働いているのに。私はふと近所の人たちがこんな風に思っているのではないかと、胸を締めつけられ、気の滅入るようになってしまう時がある。

「栗原さんのうちじゃ、息子らがまったく勝手で、親のことも考えずに大学行くことばかり考えている。まったく甲斐性のねー息子らだ。」とうわさしているのが、私の耳にありありと聞こえてくるような思いになるのである。こうなると私はどうにもしようがなくなる。

しかし、人間長い目で見てもらいたい。私は今に作家になっていろいろ書こうと思っている。また、落語家になって、人々の前で人々の安楽を作り出してやろうとも思っている。今はそのための準備段階なのである。

そして、そういうものを通して、私はそれまでいろいろ犠牲になってきてくれた人々に報いようと思う。


ケンジ1971年昭和46年1月12日(火)

さて、私は都立大学人文、早稲田教育、学芸大B類を受験する。知らない人は知らないだろうが、三つとも超一流とまでは言わないが、平均からいったら結構難関の部類に入る。そして、私の成績は、内申書にしても、実力にしても、誰の目から見てもその三つに相応しているという人はおるまい。私の数学は2である。一年からの平均も本当の中間というやつである。しかし私はそれをあえて受験する。決して自信があるとは言えない。むしろ落ちる可能性の方がよっぽどはびこっている。しかし、うわさの疑念を払拭するためにも、犠牲に報いるためにも、このぐらいの大学でなくてはならないのだ。


ケンジ1971年 昭和46年1月 25日(月)

まぁー書きたくねーけど書くとするか、

「もー」、今ちょっと神経がいらだってる。「キーーーーーー」とうなりたい。もー試験まであと一ヶ月、アッー、アンチクショー、だめだー、ほんとに、ちっとも筆が進まない、じれったくもなってくる。クラスで日本史などの覚え競争をしていてもひけをとる。あーだめだ。「キー」ハッハッハッハッハ

「ギィー」もうこうなったら半分ノイローゼである。進まねー、アッー、もうどうしようもねー、やることがありすぎるゥー、今までいったい何をして来たのだー、もう、足の親指をへし折りたい、指をかみちぎりたい、うっー、にゃろめー、これでもやらなきゃならねー、バカはどうしようもねー、先天的能力はいったいどうして差を縮められるんだー。

そんなことできるわけねーじゃんかー。それでもやらなきゃなんねーのかー。

アーーー人間!


ヒロト2022年令和4年2月13日(日)

大丈夫?大変だね。

他人事みたいだけど、俺も同じ受験生だったんだよね。でもね、ある意味俺たちはシアワセだったかもしれない。凄い時代に受験生だったんだから。

ベトナム戦争による反戦運動、そして学園闘争、その真っ只中でアマチュアフォークシンガーの中川五郎は受験生でもあった。

1967年、18歳、高校3年生

夏休みの補修授業中、日本史の講義に身が入らずボヤっとしていたその時、ボブデュランの曲に日本語の詞をつけた炭坑街のブルースのメロディーに乗せて、言葉が浮かんだ。

プリントの裏に、スラスラと12番までの歌詞が出来てしまった。

中川五郎は、それをステージでも歌ったが、曲調が暗かったのかあまりウケなかった。

しかし、それを聴いて面白いと気に入った男がいた。誰あろう、高石友也である。

高石はメロディーを作り直した。三拍子の短調をC調二拍子の明るい曲調にした。

この曲があの、「受験生ブルース」!

🎵おいで みなさん 聞いとくれ

1968年、コンサートで人気になり、ビクターが目をつけてレコード化、90万枚のヒットになった。

俺たちも、まさに旬の受験生ってわけよ!

そして、フォーク・クルセダーズ「帰ってきたヨッパライ」

深夜、ラジオではじめて聴いた時は、ブッタマゲたね。「イムジン河」「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」

なんか、たまらないね。

1970年代に入り、ベトナム戦争、学園闘争が終息していくとともに、フォークシーンの熱も冷めていった。

というわけなのよ。俺たちはこの時代に、間に合った。

「受験生ブルース」の歌詞を書きたいけど、著作権の問題もあるから抜粋するね。

🎵おいでみなさん

と始まって

テレビ見たいけど我慢してラジオ講座を聞き、

母ちゃんに、一流大学に入らないと近所の人に合わす顔がないと言われ、

サインコサインなんて何になるんだ、俺には俺の夢があるんだ。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

まさに、ケンジそのもの!


さあ、次はいよいよ本番かな?



ケンジ1971年昭和46年2月26日(金)

昨日はさすがに興奮と不安のために、夜よく眠れなかった。日記も書かずにさっさと寝たのに。こんな試験くらいでジタバタ興奮するようでは、私の生い先も知れてるなぁー。

何しろ昨夜は、心臓ドキドキ、胃の調子は半狂乱、歯を磨けば吐き気をもよおす等々、だいぶ血の循環がトットしていたらしい。

さて明けて今朝は、まさに35年前の2・26事件を思わせるような寒ーい朝、雪までご丁寧に降り始めていた。

私は、6時に起こされると、さっとむすびを二つ食べ、昼食のむすび三つを、いつも学校に行く時のショルダーバッグに入れ、新しく設けられた五日市発東京行き6時59分の電車で、早稲田へと向かった。

途中、降る雪はますますひどくなり、それと相まって私の心もますます不安の色が濃くなっていった。いつもの単語集を開き、少しでも単語を覚えようと努力するのではあるが、集中できない。そんなことをしているうちに早稲田に着いた。一昨日ハラシマと調べておいた正門に着くと、そこはもうたくさんの学生たちでにぎわっていた。拡声器でアジ演説をぶっている者、受験生にビラを配っている者、それらの人々の中を、私は平然と通り抜け受験生入り口まで来た。途中で一昨日、つっけんどんにしてしまった「合格電報屋」にまた、「いかがですか」と声をかけられた。私は、今日は私の晴れの受験日、愛想悪くしたら縁起が良くないと思った。そこで心持ちうっすらとした微笑みをたたえながら、さもご苦労さんという風な口調で、「いや、近いから結構です」とスッキリ言った。すると向こうでも、「あっそうですか、じゃー頑張ってください」と励ましの言葉をくれた。

さて、そうして、迷い迷いようやく私の入る教室を見つけた。席もすぐに見つかった。

第1時間目の英語も終わり、休み時間、私は廊下に出てみた。窓際にある休憩用の椅子のところで、タバコをパカパカ吹かしている受験生らしい集まりを見た。ちょっと頭を冷やそうと外に出た。するとまた、そこいら中でパカパカブカブカやっているのである。そんなに浪人生が多いのか、いや、そうではあるまい。

「なーんだ、早稲田なんてこんな連中が受験するのか!」と、世に響き渡った早稲田の校風を汚すことにもなろうと思った。

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