第44話 おはよう、あやめさん!
あやめはシャワーを浴びているようだった。
何だかまずい時に帰ってきたなと思い、蓮太郎はもう少しその辺りを歩いてこようかと思ったが、猫がすり寄ってきた。
朝あげたエサはきれいに食べ尽くされていた。次のごはんにはまだ早いので、構ってほしいのだろう。ブラッシングをしてたくさんなでる。
猫はなでられたい気持ちが満足したらしく、次の要求を始めた。しっぽを立てて玄関に向かい、蓮太郎を振り返ってにゃあと鳴く。
「外に出たいのか?散歩はあやめさんの話を聞いてからだよ」
猫は戻ってきて蓮太郎の足に体をこすりつけながらくるくる回り、また玄関に戻って鳴いた。蓮太郎は苦笑して猫を抱き上げる。
「あやめさんが来てから」
猫を膝の上に乗せて、部屋の隅のテーブルでお茶を飲む。布団が敷きっぱなしだ。もうしまってもいいかな。
水の音が止まったので、蓮太郎はとりあえず動かないで隅にいた。ひとりが動きまわりたい時、もうひとりも動くにはこの部屋は狭いのだ。あやめはこの狭さも気に入っているようだが。
少し変わった人だな、と思う。外の世界では何をして、どんな生活をしていたんだろう。蓮太郎は外の世界のあやめのことを何も知らない。今は聞けないが、いつか聞けたら。そして、一緒にそこに行けたら。
何だか危機感がないな、と蓮太郎は自分でも思う。一度は実戦にも出て人の死ぬところも見たし、大切な人も失った。しかし、やはり戦うということがよくわからない。死ぬ覚悟もあまりないし、先のことも普通に考えてしまう。
やはり花屋は軍人にはなれないのだ。蓮太郎は苦笑し、まだ美しさを保っている台所のフラワーアレンジメントを振り返った。
風呂場の扉が開閉する音、少し間を置いて台所につながる洗面所の扉が開閉する音がした。ぺたぺたと裸足の足音が近付いてくる。
何だか嫌な予感がして、蓮太郎は振り向かずに大声で言った。
「おはよう、あやめさん!」
足音がはたと止まった。そして急いで洗面所に戻って行く。
良かった、と蓮太郎は思った。あやめもこういう危機感がなさ過ぎるのだ。きっと蓮太郎がまだ帰っていないと思って、無防備な格好で出てきたのだろう。
ほっとして猫をなで、お茶を飲む。穏やかな気持ちで猫をなでながら、しかし蓮太郎は急に自分が千載一遇の好機を逃したのではないかと思った。
「……せっかくだから、黙ってたら良かったかな」
猫に話しかけたが、猫は素知らぬ顔を平べったくしてぐるぐる喉を鳴らしている。蓮太郎はものすごく後悔しそうになり、しかしその後悔を持ってあやめと向かい合ったら顔も見られなくなりそうで、何とか気を紛らわそうと深呼吸した。
そうだ、今布団をたたんでしまおう。蓮太郎は膝の上から猫を下ろして立ち上がった。こういう時は体を動かした方がいいのだ。
布団をしまってテーブルを真ん中に戻す頃、ようやく平常心が戻ってきた。ちょうどよくあやめも戻ってきた。
「おかえりなさい、蓮。帰っていたんですね」
足元にまとわりつく猫をなでながら、あやめが言った。もちろんちゃんと服を着ている。
「声をかけてもらって良かったです。私、蓮がまだ帰っていないと思って、すごくだらしない格好でお風呂から出てきちゃったから」
あやめが照れたように言うから、せっかくの平常心がまたぐらついた。蓮太郎は慌てて冷めたお茶を飲み干した。あやめは蓮太郎の葛藤には気付きもしないで猫と何かにゃあにゃあ話している。あやめは猫語が話せるのだろうか。まさか。
あやめにもお茶をいれようかと蓮太郎が立ち上がると、あやめが言った。
「蓮、あやめがまた外に出たいみたい。お散歩に行きませんか?」
そういえばそうだった。散歩には行きたいが、蓮太郎はあやめに聞いておきたいことがある。
あやめはよく眠ったせいか顔色も良くなって、表情も明るかった。改めて見ると本当に美人だ。こんな人が蓮太郎のそばにいてくれるのが不思議だ。
これから蓮太郎が尋ねることで、あやめの顔を曇らせるのがつらい。しかし、何か、何かひとつでも、欠片でも、得られることがあるのなら。
「あやめさん、あの、俺あやめさんに聞きたいことがあるんだ」
はい、とあやめは答えた。蓮太郎は急いでお茶を入れ、カップをテーブルに並べた。あやめは改まった蓮太郎に不思議そうな顔をしている。
「つらいことを思い出させたらごめん。あやめさんは何度か敵を倒しているよね。その時、敵の感じたことや考えたことが伝わるって聞いたんだけど」
あやめはやはりさっと顔色を変えた。恐怖と痛みがよみがえるのか、目が暗く沈む。
「はい」
あやめは短く答えた。蓮太郎は質問を続けることを躊躇した。確かな根拠や考えもなしに、こんなにあやめに負担をかけるのは可哀想だしつらい。
あやめは蓮太郎のためらいを察して微笑み、手を伸ばして蓮太郎の手に触れた。
「大丈夫、こうしていてくれたら。何か、私のわかることなら聞いてください」
蓮太郎はうなずき、あやめの隣に座り直した。あやめはそっと蓮太郎の腕を抱き、肩に頭をつけた。あやめは少し震えている。蓮太郎はごめん、と思いながら尋ねた。
「相手が、敵が何を考えてるか知りたいんだ。共存したいとか、戦いたくないとか、思ってたりしないかな」
あやめは困惑したように答えた。
「私が受けたのは戦いにきた人の最期の感情です。言葉ではないから正確ではないかもしれないけれど、思い通りに行かなかった悔しさや、死ぬことへの恐怖、遺していく人への思い、もっと生きたかったという無念さ。後は痛い、苦しい、そういったものだと思います」
説明しながら思い出したのだろう。あやめは蓮太郎にしがみつき、声を詰まらせた。蓮太郎はごめん、ごめんね、とあやめの頭をなでた。
あやめはひどく記憶力がいい。きっと蓮太郎が思うより鮮明な記憶があやめを苦しめているのだろう。
あやめは何とか息を整えて、濡れた目で蓮太郎を見上げた。
「どうして、それが知りたいの」
「戦いたくない人がいるなら頼んでみたいことがあるんだ。あんなすごいロボットが作れるんだから、もしかして空気清浄機をすぐに作ってもらえたら、もう戦わなくていいかと思って」
「もう、残りはひとつずつなのに?」
あやめが呆気に取られたように尋ねる。
「そうだけど、人はこの星にたくさんいるし、宇宙船には敵の仲間の人がたくさんいるんじゃないかな。どっちも助かるなら、その方がきっといいだろ」
「……蓮は、カンナさんの仇を討ちたくはないの。たくさんの人が戦って死んだのよ」
あやめの声が鋭くなる。蓮太郎はあやめを見つめ、うつむいた。そして少し考えて、顔を上げ、笑った。
「俺は、カンナのために他の人の命を取りたくない」
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