第34話 腕も気持ちもままならない


 翌日の早朝、樋口から連絡があり、蓮太郎は途中になっていた訓練に出かけた。


 昨日はあやめに布団を貸したままだったので、蓮太郎は台所に座布団を並べて服やタオルをかぶって寝たのだが、どうにも体が痛い。

 猫にエサをやり、缶詰を買い忘れたことに気がついた。小声で謝り、エサを皿に山盛りにする。

 出かける時間になってもあやめは起きなかったので、書き置きをしていくことにした。朝の挨拶と部屋のものを好きに使ってくれるように書いたあとは、朝ごはんやおやつや飲み物など、食べ物のことばかりになった。おかげで変に長い書き置きになった。

 蓮太郎はあやめを起こさないよう、そっと扉を閉めた。


 訓練を担当してくれるのは樋口だろうと思っていたが、ファウストだった。

「実戦を経験しているから訓練など必要ないかとも思ったが、君の能力を一度は見ておきたいからね」

 蓮太郎ははあ、としか言えなかった。ここでは佐々木にこき下ろされた記憶しかない。

 蓮太郎は試しに片手で操縦してみた。

「君はバカだな。そんな芸当が君のような一般人にできるはずがないだろう。あれは脳に羽が生えて飛んでいった本物のバカの専売特許だ。しかも魔女の座席は君の右側だ、逆だよ」

 そういえば、イリスは左利きだった気がする。蓮太郎は右利きだ。素直に諦め、蓮太郎は誠心誠意訓練に向き合った。

「僕からはあと何も言うことはないよ」

 ファウストはしばらくしてそう言ったきり、訓練中も終了後も何も言わなかった。どうしたのかと思いながら蓮太郎がシミュレータから出ると、ファウストは既に中座していなかった。


 代わりに羽町が蓮太郎を出迎えた。

「羽町さんも来てくれてたんですか。補佐官が3人もいるなんて、白い魔女はすごいんですね」

 蓮太郎が感心して言うと、羽町はにこにこしたままいやいやと手を顔の前で振ってみせた。

「ファウスト補佐官の弟さんみたいな人だったら、1人で十分なんですよ。でも、ファウスト補佐官はデアクストスの整備もしているから忙しいのに魔女に関わりたいから補佐官をやめないし、樋口さんは能力は高いんですけどね、あれでしょ、思いませんでした?性格に難があるっていうか。だから、自分は性格の方を担当している訳ですよ」

 どんな役割分担なのか今ひとつ伝わってこないが、羽町は確かに人のよさそうな顔ではある。


「ファウストさんは本当に忙しいんですね」

「ええ、今日は今週のアイスが切り替わる日ですからね。ファウスト補佐官は、まず初日に今週のアイスを食べなければ気が済まないんです」

 アイス、と蓮太郎は思う。

「ファウスト補佐官は帰る間際、藤澤少尉に比べたら弟さんもひどい腕だったそうですが、ましてひどい、見るに耐えない、これ以上いたら罵詈雑言を浴びせることになりかねないからお互いのために帰るとするよ、とおっしゃってました。アイスはそのための口実だそうで、そういえばお互いの信頼のために雨野さんには言わないように言われてたんでした」

「……」

 佐々木のような人は稀有な存在なのか。蓮太郎はしまったなあとひとりごとを言いながら笑っている羽町を見て思った。そしてやはり蓮太郎の腕はそんなに、いやもうはっきりと良くないらしい。

 腕は人並み以下だし、あやめともまだ仲良くなれていない。自分の気持ちすら整理できない。蓮太郎は肩を落とした。


 送ると言う羽町を蓮太郎は断って、とぼとぼと帰宅する。早朝からの訓練だったのでまだお昼前だ。

 玄関の扉を開けるとあやめが胸に飛び込んできた。

「うわ!」

「ごめんなさい、早く閉めて!」

 あやめを受け止めながら、言われるまま蓮太郎は後ろ手に扉を閉めた。

「あやめが外に出ちゃいそうだったんです」

 あやめは猫のあやめを抱き上げ、体を離して恥ずかしそうに笑った。

「もうあなたの足音を覚えたみたい。さっきまで寝ていたのに急に起きたから、どうしたのかと思ってついてきたんです。あやめ、ダメよ、勝手に外に出ちゃ」

 あやめは猫に顔をくっつけるようにして叱った。猫は前足の下を支えられてだらんと伸び、いつもの倍ぐらいに長く見える。蓮太郎は猫を揺すって遊ぶあやめを見て嬉しくなった。

「おはよう、だいぶ元気になったね」

「ええ、よく寝ました。薬も飲まないでこんなに寝たのは久しぶりです。ここは色々な音がするから、私には却って合うみたい」

「壁が薄いからね」

 蓮太郎は苦笑して部屋にあがった。


「蓮は訓練?」

「うん、でもなかなかうまくならないんだ」

 水を飲みながら、つい弱音を吐いてしまう。あやめが微笑んで、猫に話しかける。

「あやめのご主人様は、蓮は実戦になればそれなりにできるから大丈夫って、言ってたよね」

「佐々木さんが?本当?」

 蓮太郎が驚いて尋ねると、あやめは猫の前足を人の手みたいに動かした。

「本当だにゃー、ご主人様は蓮がとっても気に入っているみたいだったにゃー」

 蓮太郎は意外だった。嫌われていると思っていた。

「……もっと、話をすれば良かった」

 蓮太郎も猫に話しかけた。猫は横座りのあやめの膝の上に丸まっている。あやめは微笑み、静かに猫の背をなでた。


 昨日来たばかりのあやめと猫がこの部屋にいるのが、何だか普通のことみたいだ。

「秀柾は優しい人でしたよ。優しくて、少し心配性でした。あやめを連れて散歩する時も、逃げ出さないようにカバンに入れないと気が済まなくて、でも外に出たがるからハーネスも用意して、おもちゃもおやつもしっかり持って」

 佐々木らしい、と蓮太郎は思った。あやめは記憶の中の秀柾と笑い合っているかのように、優しい顔をしていた。そして、思い出したようにくすくす笑い出す。

「秀柾は、あやめに触るのをすごく怖がるの。気持ち悪いからって言っていたけれど、きっと自分のしたことで相手が不快になるのが怖かったんだわ。優しくて、臆病なくらいだったから。あやめはなでてもらえたら嬉しいのにね」

 あやめは猫をなでた。猫がぐるぐると喉を鳴らす。

「だから、人と距離を取りたがるなあって思いました。あなたともきっとそうだったんでしょう。蓮のことは、よく話していましたよ」

「そうなんだ」

 あやめが優しい表情をしていて、蓮太郎も嬉しかった。最近ずっと泣いているあやめばかり見ていた気がする。


「……ごめんなさい、私ばかり話して」

 あやめはふと気付いて謝った。蓮太郎は首を振った。

「あやめさんの話、聞いているの楽しいよ。俺で良かったら聞かせて」

「……私の操縦者をしてくれた人の話、してもいいの?」

 あやめが少し遠慮がちに尋ねた。今までの操縦者に選ばれたのは、多かれ少なかれあやめに好意を持っている人だったから、話しにくかったのかもしれない。

「うん。聞きたい。……俺の魔女の話も聞いてくれる?」

 あやめは笑顔でうん、と答えた。変な感じだ。お互い、心の中には違う人がいる。その人の話を聞いてもらえる人がいることが嬉しい。


 猫があやめの膝からぴょんと飛び降り、蓮太郎にまとわりついた。

「ごはんかな?」

 蓮太郎が捕まえようとしてすり抜けた猫をなでて、あやめが笑った。

「さっき食べたばかりですから、外に出たくなったのかしら。散歩の話をしたからね」

 猫が調子良くにゃあと鳴いたので、蓮太郎も笑った。

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