第33話 白い魔女と白猫
あやめは眠っていた。
病院を訪ねた蓮太郎は、医師にあやめが錯乱した時の使い切り注射器の使い方を説明された。射てばすぐに意識を失わせるという。蓮太郎はその方が危ないように感じたが、突発的な自殺を防ぐためだそうだ。心の状態はひどく良くないらしい。
そして、もう治療のしようもないので目が覚めたら連れ帰っても、このまま置いておいてもかまわないと言われた。
蓮太郎はあやめのそばで目覚めるのを待った。目覚めたくなければずっと寝ていてもいいと思ったが、程なくあやめは目を覚ました。
「れん……た、ろ」
あやめはかすれた声で言い、咳き込んだ。
「蓮でいいよ」
蓮太郎の名前は長いから、言いづらいだろう。
朦朧としたまま、あやめが途切れ途切れに続ける。
「どうして、ここにいるの」
蓮太郎は迷ったが、正直に言った。
「俺が次の操縦者だから」
あやめは疲れたように目を閉じた。
あやめが帰りたがったので病院を出た。
あやめはまだあまり長く歩けなかったので、樋口に車で送ってもらうことになった。蓮太郎はあやめが暮らしている場所、彼女と操縦者の部屋に帰るのかと思ったのだが、あやめは蓮太郎の宿舎を指定した。蓮太郎は戸惑った。単身用だし、設備も古い。
しかし送る方の樋口からすれば魔女の居場所さえわかればどうでもいいようだった。あやめは具合が悪そうで、車の中ではあまり口をきかなかった。
あやめは部屋に上がると、すぐに床の上に座布団を並べて横になり、目を閉じた。額には汗が滲んでいるのに、青い顔をしている。
「あやめさん、そんなところに寝ると風邪引くよ」
蓮太郎は猫のあやめをカバンから出し、慌ててテーブルを隅にやって布団を敷いた。蓮太郎の布団しかないが仕方ない。
あやめを布団に寝かせると、猫がのしのしやってきて当たり前のように布団の上に乗った。あやめが少しよけて猫の場所を作る。
「いつもこうして寝てるの」
青ざめた顔で、あやめが微笑んだ。蓮太郎も少し笑う。
「少し休んで。顔色良くないよ。何かほしいものはある?」
ううん、とあやめは首を振った。そして、蓮太郎を見つめた。
「蓮」
病院でのことを覚えているようだ。蓮太郎の反応を確認するように呼びかけた後、表情を失い、底なしの後悔に沈むようにしながら謝った。
「蓮、ごめんなさい。あなたが操縦者だなんて」
蓮太郎は首を振った。
「あやめさん、俺のことは大丈夫だから。休んで」
あやめは大きな目で不安そうに蓮太郎を見ている。蓮太郎は慰めるようにあやめの髪をそっとなでた。あやめの目にみるみる涙が浮かぶ。
「つらかったろう」
あやめはうん、とうなずいて、体を丸めた。蓮太郎はタオルを渡した。あやめはタオルに顔をうずめて泣き出した。猫が布団から逃げ出して蓮太郎の後ろにうずくまる。
蓮太郎はただ、そばにいた。
あやめが泣きながら眠ってしまったのを見ていたら、玄関の扉が叩かれた。
出てみると、樋口が大きなカバンを持って立っていた。
「白い魔女の当座の着替えと、日用品を持ってきました。それから、一応猫のものも一式。お2人で使うなら魔女と操縦者用の住居の方が適当と思いますが、しばらくはこちらに滞在しますか?」
蓮太郎はカバンと段ボールに入った猫用品を受け取りながら苦笑した。
「彼女が起きたら確認します。俺もここじゃない方がいいんじゃないかと思うんですけど」
あやめは何だかここが気に入っているようだ。それとも、愛した人と過ごした部屋に帰るのがつらいのか。
察したらしい樋口が説明する。
「部屋は変えられます。前任者の時も変えました。作りはみんな同じなので、変わった感じはしないかもしれませんが。ご希望であればいつでも用意します」
それから、薬を渡された。鎮痛剤、解熱剤、抗生物質。気持ちを落ち着ける薬、気持ちを楽にする薬、落ち込ませ過ぎない薬、穏やかなまま維持しやすくする薬、緊張を解く薬、眠れない時の薬、もう起きられない時の薬。それらを効きやすくする薬、副作用を抑える薬、他にもいろいろ。
「こんなに」
白い袋が山になり、蓮太郎が面食らうと、樋口は大丈夫です、白い魔女は慣れていますから渡せばわかりますとこともなげに言った。説明を聞いていると、心を整える薬が殆どのようだった。
「こんなに薬を飲んで、大丈夫でしょうか」
蓮太郎が思わず尋ねると、樋口は平然と答えた。
「大丈夫ではないでしょう。しかし、私たちは彼女の十年後より、今が大切なんです。今日明日であれば、この薬の量でいいんです」
食事はどうしますか、届けますかと言われたので、蓮太郎は何かあやめが食べられるものを頼んだ。自分はあるもので食べればいい。今日はちゃんとしたものを作る気になれない。
それから、蓮太郎は店の花のことを聞いた。閉店になり、何となくまわりの店の者などが持って帰ったが、まだ少し残っているという。残りは処分して、設備は片付けてくれるというので、花だけ持ってきてもらうことにした。
そんな話をしていたら、樋口の後ろから花が差し出された。アヤメだけの花束、小さな淡い色の宝石箱のようなアレンジメント。あやめの部屋で、まだ美しく咲いていた花たち。
あやめは、飾っていてくれた。
嬉しさと苦しさがこみあげ、蓮太郎は口を押さえた。
「自分はファウスト補佐官の補佐官の補佐官の
羽町は得意そうに花を床に置いた。蓮太郎は黙って台所の小さなテーブルに置き直した。樋口が羽町を小突くというには強過ぎる勢いで小突く。
「それでは、後ほど花をお持ちします。何かあれば遠慮なく言ってください、私たちはそれが仕事ですから」
樋口が言って扉を閉めた。何か言おうとしていた羽町は閉め出された。
蓮太郎は部屋に訪れた花を見た。
イリス。佐々木さん。
俺は、あなたたちのように戦えるだろうか。
あやめに贈ってもらった、枯れてしまう前に処分してしまったカンナを思う。今でもわからない。美しいうちに思い切って処分して良かったのか、枯れて、腐って、どうしようもなくなってから処分した方が良かったのか。
カンナ。俺はどうしたらいいんだろう。カンナを忘れられるはずがないのに。
あやめが、俺を彼らより好きになって、受け入れてくれるはずもないのに。
佐々木のように、動かないデアクストスで何とかできるような知恵も勇気もない。イリスのように、あやめに愛される素直な明るさも腕もない。
ただ、傷ついたあやめのそばにいることができるのが、消去法でもう自分しかいないというだけなのに。
受け入れてもらうには、自分からまず受け入れなければならない。蓮太郎はそう思う。思うが、心はそううまく動いてくれない。
蓮太郎はぼんやりと考えながら、花を布団からすぐには見えない位置に移動した。あやめは花が好きだから、もしかしたら今は見るのがつらいかもしれないから。
何もすることがなくて、台所の小さなテーブルでぼんやりしていると、猫のあやめが起き出してきてにゃあと鳴いた。椅子の足に体をこすりつけるようにしてくるくる回る。
「どうした、あやめ。おなかすいたのか?」
言葉がわかるはずもないが、猫はにゃあと鳴いた。返事をしたのでそういうことだと理解して、カバンに入っていたエサをさっき持ってきてもらった皿にとりわけた。猫は皿の前に座り込んでカリカリと食べ始めた。
そうか、水もいるな。
蓮太郎はもうひとつの皿に水を入れ、エサの隣に置いた。猫は一瞥しただけで、エサから顔をあげない。蓮太郎は減っていくエサを少し楽しい気持ちになって眺めた。
「あやめ、お前はどうしたらいいと思う?」
猫に小さく尋ねると、猫は皿まで舐めてからにゃあと答えた。それはそうだろう。
苦笑して皿を洗う。猫はまだまとわりついてくる。まだ食べたいのだろうか。猫は飼ったことがない。1度にやるエサの量とか、細かいことがわからない。
あやめに聞いてみようか、と少し思ったが、せっかく寝たのに起こすのもかわいそうだ。
猫のあやめに少し我慢してもらうことにした。代わりになるかわからないが、抱き上げてたくさんなでた。手が毛だらけになった。
蓮太郎は慌てて猫用品の箱からブラシを探し出した。ブラシをあてると、毛が大量に取れた。猫は気持ち良さそうになでられている。背中が終わったので腹側もとひっくり返すと怒られた。腹は嫌なのか。
満足したのか、猫はまた布団に戻っていった。蓮太郎は少し恐怖した。あの毛の塊が、布団の上に乗っている。布団はどんな有様になってしまっているだろう。
次買い物に行ったら、粘着テープを必ず買ってこなければ。そんな決意をしていると、樋口が花を持ってきてくれた。
蓮太郎はやっとすることができたので、残り物の花をまとめ、無駄に手をかけて花瓶にいけた。残り物の花は、樋口ができるだけほしがる人に配ってくれたらしく、小さな花瓶に十分収まる量しかなかった。色々な所でたくさんの人が花を見てくれた方が、蓮太郎も嬉しい。
ままごとのような花屋はこれで終わりだ。小さな感慨をこめて、蓮太郎はテーブルに花瓶を置いた。
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