第35話 白い魔女と海


 あやめにお昼を食べたか聞いたらまだだそうなので、ごはんを食べに行くついでに散歩に行くことにした。

「……海に行きたいな」

 蓮太郎が言うと、あやめはうなずいた。少し歩くが、あやめはちょうどいいですと意気込んだ。体力が落ちてきたことを気にしているようだ。

 蓮太郎は笑って、でも絶対に無理をしないことを約束させた。あやめはうなずいた。


 猫はまずはカバンに入れた。出たがったらすぐに出せるようにハーネスを持ち、自分たちばかり食べては申し訳ないのでおやつも持ち、カバンの中が退屈だとかわいそうなのでお気に入りのおもちゃも持った。結局秀柾と同じ装備だ。あやめが楽しそうに笑う。


 あやめと歩きながら、何が食べたいか相談した。猫がいるから店には入れないから、持ち帰りで何かを買って行って海で食べようと言うことになった。

 女性は何かおしゃれなものが好きなのかと思ったが、あやめはお寿司、それも太巻きと細巻きとお稲荷が入ったパックのお寿司が食べたいと言った。蓮太郎の花屋が入っていた食料品店に置いてあるもので、よく食べるそうだ。

 あやめに猫を見ていてもらって、蓮太郎が買いに行った。お昼時のことなので、お寿司のパックはたくさん積まれていた。

 顔馴染みの店員に、操縦者なんだって、頑張ってね、と激励されてしまった。気恥ずかしいような申し訳ないような気がして、蓮太郎は曖昧に笑った。これからふたりで話すのは、蓮太郎は自分の魔女だった女性のこと、あやめは操縦者だった男性のことだ。デアクストスを動かせる気がしない。


 買い物袋を下げて店を出ると、あやめは店の前に置かれた休憩用のベンチに座って、カバンの中の猫と遊んでいた。カバンから猫の手が出たり入ったりして、あやめが手をひらひらさせてじゃらしている。

 その遊び方は危ないな、と蓮太郎が思ったと同時に、あやめがぱっと手を引いた。慌てて駆け寄ると、あやめは手を押さえていた。猫のカバンを閉めてあやめの手を見ると、興奮し過ぎた猫に引っ掻かれた手の甲から血が流れ出した。少し深く引っ掻かれてしまったらしい。

 蓮太郎は急いで持ってきたペットボトルの水で傷を洗い流した。そしてタオルで傷を押さえさせ、店に戻った。


 さっきの店員にあやめのケガを相談していると、偶然軍関係の男性が聞きつけて手当を申し出てくれた。必要なものを買い、あやめの元へ戻る。

 あやめはしゅんとしていた。傷を見てもらって、医者までは行かなくても大丈夫だろうということなので、手当をしてもらう。あやめのほっそりした手に大きめの絆創膏が貼られ、包帯で巻かれた。

「血が止まったら包帯は外していいですよ」

 手当をしてくれた人にお礼を言うと、彼は笑顔で答えた。

「少しでも白い魔女の手助けになれば嬉しいです。自分たちはずっと守ってもらっていますから。つらい役目を負ってくれて、本当に感謝しています」

 あやめは戸惑ったように彼を見上げた。

「たくさん人を死なせて、私は恨まれているのではないのですか」

「恨む?まさか。あなたを戦場に送っているのは守られている自分たちです。あなたがそれで人を死なせたとしても、それは自分たちが死なせているのと同じです。むしろ恨まれるなら自分たちのために戦ってくれているあなたより、戦えない自分たちの方でしょう」

 あやめはうつむいた。彼は敬礼をして、改めて感謝を伝えて去っていった。


 蓮太郎はうつむいたままのあやめの隣に座った。あやめが血の滲んだタオルを顔に当てるので、新しいものと交換する。

「……蓮のカバンからは、何でも出てくるのね」

 蓮太郎は笑った。

「だから、安心して泣いていいよ」

 あやめは泣き出したが、その涙は今までの心を削って流すような悲痛なものではなかった。

 閉じ込めたままの猫も戸惑っているだろう。蓮太郎はカバンから猫を出し、膝の上に乗せてなでた。猫ははじめ少し怯えた顔をしていたが、すぐに気持ち良さそうに平べったい顔になった。

 猫が眠くなるより前に、あやめは何とか泣きやんだ。涙を拭きながらごめんなさいと微笑み、猫に手を伸ばしてなでる。

「ごめんね、あやめ。びっくりしたね」

 猫は喉を鳴らして喜んだ。蓮太郎は落ち着いた猫をまたカバンに入れた。

「疲れた?大丈夫?」

 蓮太郎が尋ねると、あやめはにっこり笑って立ち上がった。

「行きましょう。何だかすごく元気が出てきた!」

 走り出しそうなあやめを見ていると、蓮太郎も嬉しかった。

 

 海に着き、まずはごはんを食べることにした。ちょっとした公園のようになっているところがあるので、そこのベンチに座ってお寿司のパックを開ける。蓮太郎は紙コップに緑茶のティーバッグを入れ、水筒からお湯を注いだ。

「熱いからね」

 声をかけながらあやめに渡すと、あやめは微妙な顔で蓮太郎を見た。

「何?」

「私、秀柾のこと心配性だなって思っていたんですけど、蓮を見ていたらまだ普通だったって思えてきました」

「どうせ俺は深読みし過ぎの小心者だよ」

 カンナにも言われたことがある。外では外のハプニングがあるのよ、それを楽しむべきなのよ、蓮太郎がいたんじゃハプニングも起こらないわ。

 しかし蓮太郎に言わせれば、用意したタオルや絆創膏を使うのはカンナだ。ハプニングではなく、起こるべくして起こることに対応するため、必要なものを用意していくのは当然だ。

 あやめだってタオルも水も使ったじゃないか、と蓮太郎は内心思う。水は本当は猫のためだったし、タオルは海に行くのだから濡れるかもしれないと念のために持っただけだ。絆創膏の出番はなかったが、それこそハプニングで、そんなに大きなケガをするとは思わなかった。予想を超えて心配をかける癖によく言うよ。


 蓮太郎が拗ねてお稲荷を口に放り込むと、あやめがそれをのぞき込むように見ていた。間近で見ると肌の色が白くて目が本当に大きくて、きれいで、蓮太郎は思わず顔をそらした。

「ごめんなさい、怒った?」

 あやめが心配そうに尋ね、尚も蓮太郎の顔を見ようとしてくるので、蓮太郎は慌てて怒ってない、あんまり見ないで、と降参した。

「そんなにまじまじ見られてると食べにくいよ」

「ごめんなさい」

 あやめは謝ってまっすぐ海を見た。そのまま今度は蓮太郎を見もしない。それはそれで少し寂しい気がするものだ。とはいえ言い出したのはこっちなので、蓮太郎はおとなしく海を見てお寿司を食べた。


 海は北の色をしていた。澄んできれいだが、暗い青だ。その上に光が散ってキラキラと波を輝かせている。

 もともと漁港だったそうで、コンクリートの桟橋の上では釣りをしている人もいる。

 お寿司を食べ終わり、パックを片付けて蓮太郎はぼんやりと海を見た。間もなくあやめも終わったようなので、空のパックを受け取る。

「ああ、全部食べられたんだね。良かった」

 蓮太郎はほっとした。ごはんを食べられるなら何とかなるような気がする。

 しかしあやめはそのあとラムネ菓子か何かのように何錠も薬を飲んでいた。安定して見えるのも薬のせいなのだろうか。ほんの数日前に秀柾の腹を裂いたのだから、仕方ないのかもしれない。それでも蓮太郎は少し暗い気持ちになった。


 それから、蓮太郎とあやめは黙って海を見ていた。話したいことは決まっている。相手もそうだろう。しかし、なかなか切り出せなかった。


 釣り人がまた魚を釣り上げた。釣ることを楽しむ小物狙いらしく、ぽんぽん上がるので見ていても楽しい。

 カンナは海が好きだった。住んでいたところが内陸だったので、海に憧れていた。同じところで生まれ育った蓮太郎ももちろんそうだ。しかし蓮太郎はあれ以来海に来られなくなっていた。


 カンナと約束した海。


 久しぶりに来た海は、カンナと来た時と同じようにきれいだ。


 またカンナと見たかった海。


 よし、次に釣り人が魚を釣り上げたら話し出そう。蓮太郎は決心した。

 ほどなく釣り人が魚を釣り上げる。

「あの」

 同時に切り出して、蓮太郎とあやめは顔を見合わせた。

「……あの人が次に魚を釣り上げたら」

「話そう、って思っていました」

「俺も」

 思わず笑い出す。そして、お互いに譲り合って、結局じゃんけんで勝った方から話すことになった。

 蓮太郎からだ。

「俺の魔女と、カンナと約束してたんだ。明日海に行こうって。その海に行ける明日は来なくて、ずっと心残りだった。ひとりで来る気にもなれなかったから、だから今日、あやめさんと一緒に来ることができて良かった。ありがとう。海、きれいだね」

 思ったよりすんなりと話せて、蓮太郎はほっと息をついた。感情が昂って泣き出してしまうのではないかと思っていた。しかし泣かなかった。どんなに好きでも、忘れられなくても、時間は過ぎていくということなのか。

 少し寂しく思いながら、蓮太郎はあやめを見た。

「次、どうぞ。あやめさん」

「私……私は、イリスにまた会いたい」

 あやめは海を見て呟いた。

「私はイリスのお葬式に行けなかったの。ご両親のいる国でお葬式をすることになったから。輸送の飛行機に乗るまで、できるだけ一緒にいたけれど、何度見ても眠っているだけみたいだった」

 それであやめはまだイリスの死を受け入れ切れないのかもしれない。ああいう儀式は、残された者が死を受け入れるための手順のようなものだと思う。蓮太郎がカンナの花を作り、自分の気持ちに、今考えると一区切りつけられたように。

 あやめにもお葬式が必要なのだ。


「じゃ、ここでお葬式をしよう」

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