第29話 君となら嬉しい


 昨夜あやめを探しまわっていたスーツの男たちはあれきり来なかった。

 店の鍵も返しに来なかったので少し心配して店に向かったが、店は開けっ放しで、鍵は事務机の上に無造作に置いてあった。盗まれるものも花しかないので、鍵さえあればいい。

 店は暇だった。魔女も絶え、ついにこの町から花を欲しがる余裕が消えた。蓮太郎はぼんやりと花を見つめた。

 今のあやめにはどんな花を贈ったら慰めになるだろう。どの花なら優しくあやめに寄り添うだろう。佐々木の気持ちをあやめに届けるだろう。

 

 翌日、佐々木はあやめを車椅子に乗せて店にやってきた。あやめはうつむいていたが、いつもの黒いワンピースを着て、靴も履いていた。髪もきれいにとかしてあった。膝には白猫を乗せている。

「あやめ、雨野さんの店だよ。花をもらっていこう」

 佐々木はあやめに語りかけた。あやめはぼんやりと店を見た。蓮太郎はあやめがまた泣き叫ぶかと思ったが、あやめはぽろぽろ涙を流すだけで、もうあんな取り乱し方はしなかった。

「雨野さん。花を見せてもらえますか。猫は入ってもかまいませんか」

 佐々木はあやめをなで、涙を拭いてやりながら蓮太郎に言った。蓮太郎はどうぞと言いながら車椅子が入りやすいように花のバケツを動かした。


 佐々木は細やかにあやめに話しかけながら花を見ていた。ずっとああしてあやめを気遣っているのだろうか。そのおかげで、あやめの心が少し戻ってきているように見える。

 あやめはぼんやりと花を見ていた。時々疲れたようにうつむいた。膝の上の白猫は置物のようにおとなしかった。あやめが途切れた時、佐々木は静かにずっとあやめが戻るのを待っていた。ひどく時間をかけて、2人は花を見た。

 時間があれば。この2人に時間があれば、きっとあやめは元気を取り戻し、佐々木の心はあやめに届くだろう。蓮太郎は祈るように思った。


 佐々木は注意深くあやめの視線を観察し、長く目をとめていた花をいくつか選んだ。蓮太郎はそれをうまくつないでまとめるような花を足し、小さなアレンジメントを作った。色とりどりでありながら、佐々木らしい控えめなものになった。

 蓮太郎も気付いていた。あやめが最も長く見つめていた花は、アヤメだ。しかし佐々木はアヤメを選ばなかった。

 佐々木は小さな花束をあやめに見せ、帰ろうかと語りかけて車椅子を押した。


「蓮太郎さん、アヤメがほしい」

 あやめが突然声を出した。佐々木はびくりと足を止めた。

「アヤメがほしいの」

 蓮太郎は思わず佐々木を見た。佐々木は壊れそうな顔をしていたが、すぐに薄い笑いをまとって、お願いしますと言った。

 蓮太郎は黙ってアヤメの花束を作った。店にある全部のアヤメを使った、アヤメだけで作った花束。

 あやめはそれを嬉しそうに受け取った。佐々木は薄く笑っていた。

「あやめさん、俺の店でアヤメを扱うのはこれが最後だよ」

 蓮太郎はあやめに言った。

「どうして?」

 あやめはぼんやりと問い返した。蓮太郎は言い聞かせるようにはっきりと告げた。

「どうしてもだよ」

 あやめは首を振った。白い髪が揺れる。

「いや、私はアヤメがいいの」

「雨野さん、もういいです。あやめの好きな花を使ってください」

 佐々木が蓮太郎を止めたが、蓮太郎はあやめの手にさっき作った小さなアレンジメントを持たせた。猫が花に埋もれて膝の上から逃げ出すのを捕まえながら、蓮太郎はあやめに言った。

「あやめさん、イリスはいないんだよ」

「雨野さん!」

 ぼんやりしたあやめの目にみるみる涙が浮かび、佐々木が蓮太郎の肩の辺りを強く掴んだ。猫が暴れる。

「あやめを刺激しないでくれ、まだ薬で落ち着かせているんだ」

 猫を逃さないように抱きながら、蓮太郎はあやめに繰り返した。

「あやめさん、ちゃんと見るんだ。今あなたの隣にいる人をよく見て。イリスと同じくらい、あなたを大切にしてくれている人を蔑ろにしちゃダメだ」

「言うな!」

 佐々木が叫んだ。

「僕はいい、あやめを悲しませないでくれ!あやめの好きなようにさせたいんだ、僕なんか放っておいてくれ!」

「佐々木さん、それじゃあやめさんはあなたを好きになれないよ」

 佐々木がはっと言葉を切る。

「佐々木さんもちゃんと自分を大切にして、それをあやめさんに見せないと。あやめさんは人が傷つくのが怖いんだよ、あなたがそんな風に自分を傷付けながらあやめさんのそばにいたら、あやめさんはひとりで閉じこもって、また誰にも頼らなくなるよ」

 佐々木は蓮太郎から手を離し、あやめを見た。

 あやめは花束を抱きしめて泣いている。

「あやめ」

 佐々木はあやめの正面にかがみこんだ。あやめを見つめて、ゆっくりと言う。

「あやめ、僕は操縦者になったんだよ。君が好きだ。僕のことも、今すぐは無理でもいつか好きになってもらえるように、せめて見てほしいんだ。僕は、佐々木秀柾と言うんだ」

 あやめは花束に顔をうずめたまま答えた。

「知っています。あなたのことは、以前から。ずっと私を見守ってくれていたから」

 あやめは泣きながら、途切れ途切れに言った。包帯だらけの細い手にアヤメの花束と小さなアレンジメントを抱きしめて、震えている。佐々木はその手に自分の手を重ねた。あやめは怯えたように手を引こうとしたが、佐々木はそっとその手を包んだ。

「私と一緒にいたら、いつかなんてくる前に死んでしまうわ」

「その前にいつかが来るかも知れないって、僕は思いたいんだ。あやめ、僕を見て。名前を呼んで」

「私はイリスを忘れられない」

 あやめは震える声で言った。しかし佐々木は微笑んだ。

「わかってるよ。それでいいよ。僕は彼の代わりじゃないから。でも、僕ならあやめに彼の仇を討たせてあげる」

 あやめは初めて佐々木を見た。

「あやめ、僕と戦おう。あと1度だけ、僕とデアクストスに乗ろう。そのために、君は元気になって」

 あやめは佐々木を見つめ、ぽつりと言った。

「あなたは死ぬ気なの」

「そうだよ。君となら嬉しい。あやめも死にたいんだろう。僕とじゃいやかな」

「あなたとはいやです」

 あやめはまたうつむき、涙をぽたぽた花束の上に落とした。

「あなたを死なせたくないの。あなたはいい人だから」

「あやめ」

 泣き出すあやめを抱きしめた佐々木は、ひどく優しい顔をしていた。この人の本当の顔はこっちなのだろう。

「あやめ、もっと話したい。彼の話でもいい、君の声をたくさん聞きたい」

「あなたは私を死なせてくれるの」

 あやめは花を離して佐々木にすがりついた。佐々木はうなずいた。

「いいよ、あやめがそうしたいなら」

「佐々木さん」

「名前で呼んで」

「秀柾」

 秀柾は嬉しそうに、抱きしめた手であやめの頭をなでた。

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