第30話 嘘


 翌日、あやめは杖をつきながら、秀柾に支えながらではあったものの、自分で歩いて店に来た。

「蓮太郎さん、あなたのカレーを予約しに来たの」

「あやめ、まだカレーは食べられないよ。ずっと何も食べてなかったんだから」

 秀柾が慌てたようにあやめを制して、蓮太郎に説明する。

「あやめはやっと今日からお粥を食べるようになったんです、油は無理です」

「食べられるわ。元気になるんだもの。秀柾もそれじゃ元気なんか出ないわ。もっと食べないと」

「あやめ、もう無理だよ」

 何か食べさせられた後らしい。あやめは楽しそうに笑って、不意によろけた。

「あやめ。無理しないで」

 秀柾がすぐに抱きとめた。あやめは立っていられなそうだった。店の前のベンチに座らせ、秀柾も隣に座ると、あやめはその肩に頭を乗せて笑った。

「もう少しだけ。もう少しで」

 終わるんだから。

 あやめがそれを言ってしまう前に、秀柾がキスで言葉を封じた。蓮太郎は思わず目を逸らした。人のキスを見慣れていない。

「蓮太郎さんのカレーが食べたいの。秀柾は誰の味を思い出すのか、楽しみ」

 しばらくしてから、あやめが吐息と共に言って、笑った。


 市販のルーを使わず、カレー粉から作るのは久しぶりだ。油を控えようとこうしてみたが、味は少し変わるかもしれない。

 蓮太郎は圧力鍋で野菜と肉を煮ながら、小麦粉とカレー粉を炒めた。いつもなら圧力鍋までは使わないのだが、今日は少しでも柔らかく仕上げたかった。

 約束の時間になり、あやめと秀柾が来た。猫のあやめも一緒だ。

 カレーはまだできておらず、蓮太郎は謝りながら2人と猫をリビングに通して待たせることにした。

 あやめはひどく顔色が悪かったが、秀柾がよく支えていた。あやめもすっかり秀柾に頼り切っているようだった。


 カレーが目の前に出されると、あやめは喜んだ。食べようとしてスプーンを持ち、しかし手が止まった。強い刺激を体が拒否していた。無理に食べようとして、スプーンを置き口もとを押さえる。

「ほら、だからまだ無理だって」

 あやめを横にさせて、秀柾が体をさする。蓮太郎はあやめの分を下げ、違うカップを持ってきた。

「あやめさん、これなら食べられない?」

 あやめはのろのろと起き上がった。野菜だけのポトフ。圧力鍋で煮たカレー用の野菜を取り分けて作ったものだ。塩だけで味付けして、気持ちだけカレー粉を使っている。

 あやめはスプーンでじゃがいもをすくった。煮込み過ぎたせいか、崩れかけている。

 あやめはじゃがいもを口に入れた。よく噛んで飲み込む。それからスープをすくって飲んだ。

「おいしい」

 あやめの笑顔に、秀柾がほっとした顔をした。


 秀柾は蓮太郎のカレーを、小学校の給食の味だと言った。

「最近は本格的に作ることばかりにこだわり過ぎていたな。こういう懐かしいのもおいしいですね」

 秀柾も料理をするそうだ。何も考えず手順の通りに手を動かしていると落ち着くのだという。蓮太郎もそれは少しわかる。

 秀柾と蓮太郎が食べ終わっても、あやめはまだ食べていた。かなり体力が落ちている。あやめ自身もそう感じて、焦っているようだった。

「大丈夫だよあやめ、食べて休めば元気になるからね」

 秀柾が励まして、あやめはうなずいた。


 あやめがようやく食べ終わり、疲れたように壁にもたれた。行儀を気にする余裕がない。もちろん蓮太郎は楽にしてもらえればいいからかまわない。秀柾が後片付けを手伝おうと立ち上がったので、蓮太郎は止めてあやめのそばにいるように言った。

 少しでも2人で話してほしかった。死ぬために残された時間を2人で過ごそうとするのではなく、生きたいと思えるまで元気になってもらえたら。

 イリスは1度は帰ってきたんだ。その1度で終わるなら、秀柾は死なずに済むかもしれない。

 もう、誰にも死んでほしくない。あやめに悲しまないでほしい。


 片付けを終えてお茶を淹れて戻ると、あやめはやはり寝てしまっていた。秀柾があやめの頭の下に座布団を2つ折りにして差し込んでいる。

「あやめは、ずっと頑張っているんです」

 秀柾はしばらくお茶のカップに手を添えていたが、溢れるように話し出した。

「元気になって、今度こそ彼が倒せなかった敵を倒すんだ、と。こんなあやめは初めてだそうで、補佐官も驚いていました。今までは戦いたがらなくて、そういう意味では正直楽ですが」

 秀柾があやめの髪をなでる。猫がいつのまにか横向きに寝ているあやめの丸まったお腹のあたりに、すっぽり収まって寝ている。

「かわいそうで」

 秀柾があやめを見つめる。

「私のことも必死に受け入れようとしてくれるんです。できることをやろうと、一生懸命です。本当にもう死にたいのでしょう」

 秀柾は優しい、しかし悲しい目であやめを見つめている。

「私が死なせると言ったから、何とか気力を振り絞っているようですが、きっとまだ座り込んで泣いていたいはずなんです。本当はそうさせたい。その隣で、あやめが自分で立ち上がれるようになるまで見守っていたい。けれどおそらくそんな時間はないから」

「佐々木さん、どうか死にたいなんて思わないでください。あやめさんを死なせないでください」

 蓮太郎は言わずにはいられなかった。秀柾は蓮太郎を見て笑った。

「死にたくはありませんが、仕方ないとは思いますね。それから、あやめを死なせると言ったのは」

 秀柾は笑顔のまままたあやめに目を戻し、声には出さず、しかしはっきりと言った。


 嘘です。

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