円と直線、ときどき三角。

美崎あらた

円と直線、ときどき三角。

 私立筆箱学園は戦場と化していた。

発端は筆記具生徒会による圧政だった。生徒会は、文房具における筆記具の重要性をことさら強調し、他文具差別政策を実行したのである。

「筆記具がなければ、定規があっても直線は引けない!」

「筆記具がなければ、消しゴムがあっても消すものがない!

「筆記具がなければ、数学の問題が解けるであろうか? 否!」

 このような文脈で、彼らは自分たちの優位を主張した。筆箱内のヒエラルキーを形成しようとしたのだ。

 それからというもの、学園のあちこちでいさかいが勃発した。かねてからの不満が爆発したのだろう。

 やがて戦いは筆記具対他文具という単純な二項対立だけに留まらなくなった。はさみとカッターが共闘し、ホッチキスとスティックのりが独立した。徒党を組み、分裂し、戦い、いよいよ訳が分からなくなった。

 生徒会ですら、もうその統率力を失っていた。

 ――否、真実はそうではない。生徒会が統率力を失ったわけではなく、生徒会が何者かに乗っ取られたのである。


『聖なる円規セイクリッド・サークルのコンパス使い』


 男はそう呼ばれていた。彼は戦いの混乱に乗じて生徒会室を乗っ取り、見せしめとして生徒会長を吊るしあげた。彼は恐怖によって筆記具部隊を操り、さらに数々の派閥を手中に収めた。

 コンパス使いは圧倒的な力を持っている。彼が占拠した生徒会室には、誰も近づくことができないという。

 しかし、この学園に再び平和をもたらすには、彼を倒し、新たに民主的な生徒会を編成する必要がある。

 そこで、ある三人組が立ち上がった。その名も、


万能定規マルチ・ルーラーの定規使い』こと直木ナオ


『BNB360(ノット・ラジアン)の分度器使い』こと角田カスミ


不確定消去イレギュラー・イレイサーの消しゴム使い』こと梢ショータ



     ◆◇◆◇◆◇


 校舎の中で、生徒会室からいちばん離れたところにある建物。それが木工室である。技術家庭科や美術の授業で使われる棟であり、僕ら木工クラブにとっては、部活動の場でもあった。

 そこが、そこだけが、コンパス使いの魔の手が届いていない、最後の砦だった。

 決意を胸に、期待を背に、木工室の扉を押し開いた時、僕らは三人組だった。


 しかし今、生徒会室の前に立っているのは、僕一人だった。

 『万能定規マルチ・ルーラーの定規使い』こと直木ナオ。


 僕はかつて、第七次定規戦争という、定規使いたちの熾烈な机上の戦いを勝ち抜き、この能力を手に入れた。

 この能力――『万能定規』は、定規と名のつくものなら何でも武器として使いこなせる、というものである。

 しかし残弾は少ない。木工室を出るときにはかき集められるだけの定規を持っていたのだが、ここへ至る戦いの中でそのほとんどを消費してしまった。破損したものもあれば、やむを得ず投げつけたものもある。

 漫画研究会から受け継いだ雲形定規は『黒鉛粒子ブラックミストの鉛筆使い』との戦いでカマイタチの舞を見せた。しかし後の『白きモンブランの万年筆使い』との戦いで破壊されてしまった。万年筆使いを倒したのは、製図用のT定規だ。これはボーガンのようにして他の直線定規を射出する能力を持っている。遠距離攻撃ができるのだが、直線定規のストックが無くなってしまったので、戦いの最中捨て置いてきてしまった。

 道中数学準備室で定規を補充したのだが、そこで僕らは大きな犠牲を払うことになった。数学準備室を根城としていた『折刃α《オルファルファ》のカッター使い』と『支天力天作用天ヘブンズ・レバリッジの鋏使い』のコンビと戦闘になり、仲間の一人、消しゴム使いの梢ショータが重傷を負ったのである。分度器使いの角田カスミとともに何とか撃退したものの、僕らは深手を負った。さらに悪いことに、カスミはショータの容態を見て、すっかり戦意を喪失してしまった。

 しかも追い打ちをかけるように『三色接続トリプルアクセスの三色ボールペン使い』・『千本ノックタウゼントシュライバーのボールペン使い』の挟撃にあった。通りすがりの『重機関針ココココココココココココのホッチキス使い』と『疑似軟膏剤メソソレータムのスティックのり使い』の協力が無ければ、ショータとカスミを戦線から逃がしてやることはできなかったろう。

 僕が犠牲にしたのは、定規だけではない。数々の仲間を犠牲にして、ここまでたどり着いたのだ。僕は一人になってから、一直線に、それこそ定規のようにまっすぐに、生徒会室へ突き進んだ。

 振り返ることはしなかった。いまや一人きりになった僕は、定規のような生き方しかできなくなってしまったのだ。


 僕は直角二等辺三角定規の盾と九〇、六〇、三〇度三角定規のブレードを手に、生徒会室の扉を開いた。

 数人の生徒会役員が使う部屋ではあるのだが、この学園の生徒会室は少し大きめである。普通の教室程度の大きさがある。正方形の間取り。前には黒板。古き良き木製の机と椅子がいくつか。四方の棚には各種資料が積まれていた。向こう側の窓から夕日が差し込んでいる。

 ……が、いまやそこは生徒会室ではない。暴君の天守閣だ。

 教室の真ん中に、一人の男が立っていた。まるで僕を待っていたかのように、こちらを向いて立っていた。

 彼を中心に、円を描くように机と椅子、その他の物が薙ぎ払われている。

 いや、『円を描くように』ではない。きっちり、正確に、その男を中心として半径三メートルの『円を描いている』のだ。

 男の手には、彼の身長ほどあるのではないかと思われるくらいの、巨大なコンパス。

 『聖なる円規セイクリッド・サークルのコンパス使い』である。彼は親しげに、それでいて冷ややかに、僕に話しかけた。

「よぉ、『万能定規マルチルーラーの定規使い』……いや、直木ナオ。お前がここにたどり着いてくれて嬉しいよ。ショータでもカスミでもなく、お前がここに来る必要があったのさ」

「やはり、君だったんだな……君の失踪と、戦局の変化のタイミングが、あまりにも一致しすぎていた。信じたくは無かったが……」

 そう、僕はそのコンパス使いのことを知っていた。


 彼の名は丸井エンキ――かつての仲間だ。


「さぁ、昔話など必要はない。今の俺とお前がすべきことはただ一つ。殺し合いだ」

 ――ガコン

 そんな機械音とともに、彼のコンパスが展開した。

 ――ズドン

 巨大な針が教室の中央に突き刺さる。

 ――ギュンッ

 そして描く。最大限に半径を広げた円を。

 僕は間一髪、その半径から逃れた。彼のコンパスが描く軌跡に触れてはならないと、本能が叫んでいた。

 その半径は三メートルでは済まなかった。さらに一回り大きな弧を描いて、周囲の物を吹き飛ばす。僕自身、その軌跡には触れなかったものの、風圧によって壁際へ追いやられた。

「なんだよ、話し合いの余地はないのか」

「ないね」

 僕の提案は、すげなく断られた。

 仕方がない。打ちのめしてから、ゆっくり話を聞いてもらうことにしよう。僕は短絡的に、直線的に考える。

 何のことは無い。彼の能力は、コンパスの描く円による結界、バリアの類らしい。まずはそれが平面的な結界なのか、立体的に彼を守るバリアなのか、そこを見極める必要がある。

 僕は近くに転がっていた椅子を掴み、投げつける。

 ガンという音がして、椅子は空中で見えない壁に阻まれ、砕けた。

「無駄なあがきはよせ」

 エンキは淡々と言う。そしてもう一度、コンパスを振るう。

 ――バキッ

 何かの破砕する音が聞こえた。回避の間に合わなかった僕の三角定規ブレードの先端が、持っていかれたのだ。三〇度の一端を失い、三角定規は三角定規ではなくなった。

「なんだよ、おっかないな」

 僕は虚勢を張りつつ、冷静に敵の能力を分析する。

 彼の円は立体的にバリアを作り出す。しかもそれは、ただの壁ではない。明確に破壊能力、殺傷能力を持った壁だ。

 彼はコンパスでもって自分の周りに聖域を作り、他者を寄せ付けないだけでなく、近づくものを傷つけようとしている。

「もう誰も、俺には近づけない。近づけさせない!」

 エンキの声が生徒会室に響く。それは孤独な響きだった。

「とんだひきこもり能力を身につけたな!」

 僕は挑発的なセリフを吐きながら、先ほど破壊された三角定規ブレードを投げつける。

 ――ギュン

 もう一度、コンパスが高速で稼働し、円を描く。三角定規は粉々のプラスチックとなって円の外側に散らばった。

「何度やっても同じことだ」

 コンパス使いは言う。

 確かに同じことだった。だが、これでわかったことがある。

 奴の結界は一時的なものであり、その効果は持続しない。だから攻撃を察知するたびに、新たな円を描かなければならないのだ。

 しかもその半径は流動的だ。大きくなったり、少し小さくなったりする。依然として三メートルは保っているが、これに規則があるのかどうか……。

 そしてもう一つ、確かめたいことがある。

「フンッ」

 息を吐きながら、机を一つ投げつける。さすがに少し重い。

「だから無駄だと言っている!」

 ――ガンッ

 机は鈍い音を立てて、空中で弾かれ、床に転がった。

 たしかに無駄だった。攻撃としては。

 だが、僕が机を投げつけたのは、攻撃のためでも筋トレのためでもない。ただ、移動するために邪魔だったから、退かしたのだ。

 そして僕は、生徒会室の隅に移動した。正方形の角である。ドアが近くにあるとはいえ、それは一見して自らの退路を塞ぐような行為である。敵にとってはチャンスのはず。

 だが、コンパス使いのエンキは、一歩も動かなかった。いや、動けないのだ。

「やっぱりね。僕が入って来た時から、君はその場所からまったく動いていない。その能力を使うには、そこがベストポジションだからだ」

 僕は推理を口にする。

「そのバリアは、真円を描くことによって初めて完成する。半円や扇形ではダメなんだ。だから君は、壁に邪魔されず、この正方形の部屋の中で最大の円が描けるように、その場所に陣取った」

「………」

「この推理が正しければ、君はどうやっても、正方形の角にいる僕をその円の範囲内に入れることはできない」

 エンキは黙ったまま、コクリとうなずいた。

そして、笑い始める。

「ハハハハハ、確かにその通り。だが、そこが安全地帯だとわかったところで、それからどうするんだ? このままでは膠着状態が続くだけだ。お前は俺を倒さなければならない。そうだろう?」

「いや、そんなことはない。僕はここから、君を説得する」

「は?」

「僕にはもう、投げつけるべき武器がない。あるのはこの直角二等辺三角定規の盾だけだ。だから、代わりに言葉を投げつける」

「馬鹿なことを……時間を稼いだところで、仲間はやってこないぜ。それはお前がよく知っているはずだ」

 そう、よく知っている。ショータもカスミも、もう戦えない。

「時間稼ぎじゃない。説得すると言っている」

「俺は説得されるつもりなどない。今からお前のところに歩いて行って、このコンパスの針で突き刺すことだってできる」

 彼はそう言いつつ、コンパスの脚をなでた。

「僕にはまだ盾がある。その一撃を受け止め、刺し違えるだけの体力も残しているつもりだ」

「ほほぅ」

 エンキは腕を組み、こちらを睨みつけた。僕も負けじと睨み返す。

 これは駆け引きだ。刺し違えるだけの体力は、確かにあると自負している。だが、刺し違えてしまってはいけないのだ。それは、根本的な解決にならない。いや、あからさまに言ってしまえば、僕の気が済まない。

「よかろう。なら説得でもなんでもするがいい。隙を見せればこの針に貫かれるとおびえながらな」

 コンパス使いは不敵に笑った。


     ◆◇◆◇◆◇


 木工室を出た時、僕らは三人組だった。

 そしてさらに以前、僕らは五人組だった。

 直木ナオ、梢ショータ、角田カスミ、丸井エンキ。そしてもう一人――木庭ジュリという少女。

 僕らは木庭ジュリを部長とした、木工部の仲良し五人組だったのだ。僕らはそれこそ、丸い円のように、一つになって調和していた。誰が欠けてもいけない、そういう共同体だった。

 だがその円は、戦いの中であっけなく崩れた。

 丸井エンキは失踪し、僕らの中心だった木庭ジュリは戦闘に巻き込まれ――命を落とした。

 トライアングルとなった僕とショータ、カスミは生徒会室を共に目指したが、残ったのは僕だけだった。そして何の因果か、その生徒会室で、失踪した丸井エンキと再会した。仲間ではなく、敵として。

「僕らは五人で一つだった。彼女も――ジュリもそれを望んでいたはずだ。なのにどうして君は……」

「その木庭ジュリは死んだだろう?」

 エンキは、ただ淡々と、事実を確認するように言った。感情は殺されていた。

コンパスは半径三メートルあたりでぐるぐると円を描き続けている。隙はない。

「あぁ、確かにそうだ。だけど……だからといって、僕らが離れ離れになったら、意味がないじゃないか」

「………」

「ジュリだって、こんなこと望んでいない!」

――ギチギチギチ

 コンパスの脚が稼働した。半径がさらに大きくなる。

「お前が……お前が死者の代弁をするな!」

 こちらを睨みつけるエンキの目は、凍えるほどに冷ややかだった。だが僕も、負けるわけにはいかない。

「君がどうして僕らの前から姿を消し、生徒会を占拠して暴君となったのか……僕にはわかる気がするんだ」

「ほう、また推理というやつか……おもしろい。聞いてやろう」

 半径が少し短くなり、圧迫感が減る。

「君はコンパス使いだ。筆記具を搭載していながら、文字を書くことはできない。描けるのは円だけ。そんなアンビバレントな君は、筆記具派からも、他文具派からも爪弾きにされ、孤立した」

「………」

 沈黙の中で、また半径が大きくなる。

「孤独感は不信感となり、君は僕らのことも信用できなくなった。ジュリが死んで、五人の絆が緩んだところで、君は出て行った……」

「………」

 コンパスはこれ以上開けないところまで脚を開き、正方形の教室で最大限の円を描いていた。

 そして――

「アハハハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハァ‼」

 丸井エンキは、大笑いした。腹を抱えて笑っていた。

「な、何がおかしい?」

「いや、よくもそんな作り話を滔々と語れるものだなぁと感動してしまったのさ」

 困惑する僕を、彼は冷酷に見下す。

「お前が掲げているのは偽善だ。そして、俺に対する侮辱だ」

 コンパスの回転が速まる。その風圧で窓ガラスが割れた。

「俺の孤独感か……それはあったかもしれないな、認めよう。だがそんなことは、ほんの些事だ。そんなものが無くても、俺たち五人の輪は、とっくに崩れかかっていた」

 エンキが語り始めると、コンパスはその動きを緩め、半径が少しだけ縮まった。

「まず、梢ショータと角田カスミが密かにつきあっていたことは、いくら鈍感なお前でも、薄々勘付いていただろう?」

「それは……でも、そんなことで僕らの友情は……」

 それは、気が付いていた。でも彼らは、五人の輪を乱さないように、黙っていたのだ。そして残りの僕らも、気が付かないフリをしていた。

「そんなことで、輪は崩れるんだよ。その証拠に、ここへ来る途中重傷を負ったショータを手当てするために、カスミは迷わずお前を一人で行かせた。自分はまだ戦えたのに……」

「違う! 僕が勝手に来たんだ!」

「何も違わないね。カスミは自分にとってより優先順位の高い方を選んだ。仲間に優劣をつけたのさ」

「そんな言い方は……」

「そしてもう一つ、お前は重大なことを見落としている」

 僕の言い分を遮って、彼は話を続ける。

「お前は、どうして木庭ジュリが命を落としたと思う?」

「そ、それは、戦いに巻き込まれて……」

「そう、戦いに巻き込まれた。だがどうして、お前はそれを助けられなかった? その時お前は、何をしていた?」

「何をしていたって……」

 僕がジュリの死を知ったのは、第七次定規戦争が終わってからのことだった。

「そう、ジュリは、お前が定規戦争などという定規使いたちのお遊びに興じている間に、命を落としたんだ!」

「なっ……⁉」

「さらに言えば、ジュリは第七次定規戦争を弾圧しようとする生徒会に刃向って殺されたんだ。彼女は、定規戦争に没頭するお前を助けるために死んだんだ!」

 コンパスの描く円が、いよいよ壁にめり込んだ。削られたコンクリートの破片が、隅にへたり込んだ僕を傷つける。責め、苛むように。

「俺はまず、生徒会に復讐した。あっけないものだった。生徒会長も大した文房具使いじゃなかった……」

 エンキは語る。遠い昔のことを思い出すように。

「復讐が終わってしまうと、俺の心は空っぽになった。もう、帰るべき場所もない。だから、めちゃくちゃにしようと思った。何もかも、めちゃくちゃに。二度と円など描けないように」

 僕は、ただ茫然としていた。自分の無知を恥じた。彼女の想いも、彼の怒りも、何も知らなかった自分を恥じた。

 ――ギュルルル

 コンパスが唸りを上げる。バラバラになった机の木片が、僕の左手をかすかに切った。

 血がにじむ。木片と血の匂いが交じり合って、僕の頭に、あの日の記憶を呼び覚ます。


 温かな午後。

 五人で椅子を並べた木工室。

 クラフトナイフで左手を切ってしまった僕に、彼女は――ジュリは絆創膏を差し出してくれた。にっこりと微笑んで。


 その時エンキは、どんな顔をしていたのだろう?

 気が付いてしまえば何のことは無い。これは、円でも正方形でもない。ただの三角形の問題だったのだ。

 一端の欠けてしまった三角形。僕がこの戦闘の初めに投げ捨ててしまった三角定規といっしょだ。

「それで君は、この愚鈍な僕に、復讐をするのか?」

「そうだ。確かにお前は無知だっただけだ。だが、俺はお前のことが気に入らない。動機はそれだけで十分だ」

「そうか……だけど僕も、ただやられるわけにはいかない」

 僕は、まだ欠けていない三角定規の盾を手に、立ち上がった。

「フン、この真実を聞かされても、まだ立ち上がるのか」

「ああ……僕は僕が恥ずかしい。死んでしまいたい。だけど、それじゃあダメなんだ! せっかく助けてもらった命を無駄にしてはいけないんだ!」

 盾を前に出して、突進する。コンパスのバリアに押し戻されても、なお立ち向かった。

「無駄無駄ァ! お前は俺に触れられない!」

「僕にはまだ、君といっしょにやり直す未来が見えている!」

 僕は渇いた喉を酷使し、声を張り上げる。

「そんな未来など、存在しない!」

 エンキは僕の言葉を、僕を、否定する。拒絶する。

「君は帰るべき場所がないと言った。でも、本当は帰りたいんだろう?」

 それでも僕は、あきらめない。直線的に、ただ進む。

「何を馬鹿なっ!」

「だって君は、最後まであの木工室を制圧しなかったじゃないか! あれだけの能力者を下に従えているのなら、制圧するのは簡単だったはずだ!」

「……ぐっ⁉」

 コンパスの描く半径が、急に狭まった。僕と彼の距離が、近くなる。

「そんな円の中にひきこもってないで、いっしょに木工室へ戻ろう! エンキ!」

「黙れ黙れ! ジュリのいない木工クラブに戻って、何の意味があるんだ!」

 円の半径はいまや一メートルとなっていた。

 盾にしていた三角定規が、負荷に耐えられず、砕けて消えた。

 僕は素手で、彼の聖域に押し入ろうとする。

 見えない壁が僕を拒み、傷つける。

「くそっ! どうして半径が……‼」

 エンキが毒づく。それには僕が答えた。

「そのコンパスの成す半径は、使い手と敵の、心の距離――つまり、君と僕の心の距離――そうだろ?」

 半径の長さは、ずっと揺れ動いていた。ある時は長く、ある時は短く。

「ああ、確かにそうだ。だがなぜ今、半径が短くなっている⁉ 俺はこんなにお前のことを憎んでいるのに‼」

 使い手でさえ困惑していた。だが僕には、その答えがわかる気がした。

「たとえそれが敵意でも、僕らは本音で語り合っている! だから、心の距離が近づくんだっ‼」

 ぐいっと僕の拳が、エンキに近づく。

 また半径が短くなったのだ。

「やめろやめろ! 近づくな! 俺はお前のことが大嫌いなんだ!」

「じゃあ僕も嫌ってやる! だけど僕は、君と同じように、ジュリのことが好きだった!」

「な、何を――⁉」

 エンキが驚きで目を見開く。

「だから僕は――友として、敵として、君を殴る‼」

 ついに半径はゼロになった。

 傷だらけの拳が、エンキの顔を殴りつける。それと同時に、コンパスを放棄して殴りにかかったエンキの拳が、僕の頬にヒットした。

 僕ら二人はそのまま静止し、それからドウと音を立てて大の字に倒れた。

「もう、やめにしようぜ……」

 僕はつぶやいた。

「それは、彼女が悲しむからか?」

 エンキが問う。

「いや、僕がやめたいからだ」

 僕は、僕の言葉で答えた。

「それなら、しょうがないな」


     ◆◇◆◇◆◇


 こうして、私立筆箱学園の戦乱に幕が下ろされた。再び平和な学び舎に戻るには、かなりの労力と時間を要するだろう。

 一度崩れてしまった輪は、なかなか元に戻らないものだ。

 だけど、いつかきっと――


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円と直線、ときどき三角。 美崎あらた @misaki_arata

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