ヒトガミと慣習と誓いと……

 その晩、バジリスクのある慣習が敢行された。

 『優越者達』と呼ばれる慣習だ。火に照らされた砂利道にバジリスク居住区の者達が一斉に並ぶ。その中には試験を終えた賢たちの姿もあった。


「さて皆さま。毎年恒例、優等祭がやってまいりました。今年の新兵たちは大変実力が高く、試験の結果も大変良い物となっているのは掲示板にて皆さまご存じのことでしょう」


 居住区を統括する新田幸三にった こうぞうが白い法衣を羽織り、台座に座って言葉を発していた。


「しかし、そんな年でもいや、そんな年だからこそ、出来損ないも品が悪い。

 残念なことにとても低い結果を残した者がおります。言うまでもありませんね?」


 心臓が跳ねると同時、賢は下を向いた。恥ずかしいわけではない。事実を告げられ、悔しさに顔を歪ませる。


「しかし、今回の試験は初期段階のもの。次の試験では成績を上げることを期待して、我々が彼の背中を押してあげましょう。みなさん、彼をここに」


 手を2度叩く音が夜闇に響く。それと同時に聞こえてきたのは、賢にとってなじみ深い声だった。小さなころからずっと聞いてきた、最近では煩わしいと感じることもあった声だ。


「にい、さん?」


 思わず賢は顔を上げた。何が見えるわけでもないのに、顔を上げずにはいられなかった。


「この者は今回の成績最下位であった立花賢君のお兄さん、立花真たちばなまこと君です。彼は幼いころに父親をヒトガミに殺されて以来、ずっとこのように呪詛を吐くだけになってしまいました。どれだけ辛かったのだろうと私は深く、彼に同情してしまいます。

 私はこのような辛い者を見ていられない。ですので、今日は立花賢君の後押しだけではなく、彼のお兄さんの新たな旅立ちも目的としています」


 何を言っているんだ。率直に賢はそう思った。幸三の言葉に一切の嘘はない。立花真の経歴に、偽りはない。だが、兄の新たな旅立ちとはどういうことだ。兄がそんなことを望んだとは到底思えない。


「優しすぎます、新田様」

「無限の苦しみからお兄様を解放してあげましょう」

「兄の旅立ちを機に、弟は更なる飛躍を目指す。なんとも感動的な話だ」


 周囲から次々と感嘆の声が上がる。誰一人として幸三の言葉に疑問を投げる者はいない。


「では、夜も深まってまいりました。ヒトガミも、灯りに引かれ結界の周囲を巡っていることでしょう。立花真さん、何か言いたいことはありますか?」


 真に拡声器が向けられた瞬間、呪詛は止んだ。周囲の盛り上がりも、うってかわって静けさに呑まれた。ゆうに300を超える視線が集まるなか、真は拡声器を口に当てた。


「賢、バカな兄で悪かった。あとは頑張れよ」


 極めて短い謝罪と激励。たったそれだけで涙が頬を伝った。

 兄さん、名前を呼ぼうにも、嗚咽で声が出ない。


「最期の最後に弟への応援! 優しい、そして強い兄弟愛!

 感動します。私はこの兄弟に涙を禁じえません! ここまで感動させてくれた彼に、私は一振りの剣を授けようと思います。

 彼が結界の外にでても生き延びることができるようにと強く念を込めて!」


 幸三は抜き身の剣を真に渡し、結界の一部を開いて真を外に出した。

 結界の内部から見える外の景色には、たいまつと剣を両手に持った真が2頭の鳥型のヒトガミと対峙していた。


「立花君、お兄さん死んじゃうよ……」


 涙を堪えたような声で昼間の試験時に計測球を大きくしろと提案した西園寺美香が状況を伝えてくれた。賢は歯軋りを何度も繰り返した。

 何もできない、そのことが酷く惨めだと思った。


「おっと! 爪を掻い潜り刃がヒトガミの腹に突き刺さった!」


 拡声器の声はセール開催時のスーパー開店直前のように騒がしい観戦客の耳を強くうつ。その度に喚声が沸き、より一層騒がしくなる。


「あ! あー! 捕まってしまった! どうする立花真!」


 その声に賢は騒ぎの方を振り返る。やはり光景は何も見えない。ただ、音は聞こえる。骨の噛み砕かれる音、声にならない叫び、骨が千切られ、血の滴り落ちる音。


「クルァァァァン!」


 そして、勝利を宣言するようなヒトガミの声。2つの羽音が同時に遠ざかった。

 隣で美香が嘔吐する気配がある。惨い《むごい》光景なのだろう。だが、見なくてよかったとは思わない。

 賢は必死になって吐き気をえていた。彼の脳内で音だけで構成された映像は、実際のそれよりも数段凄惨なものだった。


「父親の無念を晴らせなかった立花真、ご逝去です」


 若干の空白を挟み、幸三がそう告げた。がっくりと賢の膝が折れた。しかしそれは幸三の言葉を聞き、絶望したからではない。

『生きろ、そして幸せになれ』

 最後の断末魔のような叫びの中にそんな声が聞こえたからだ。


「お兄様とお父上の無念。頑張って晴らしてくださいね」


 ばらばらと足音が散って行く中で、賢は肩を叩かれ、そう言われた。声の主は幸三だ。真剣な声ではない。どこか小馬鹿にしたような声。それを聞いたとき、賢の脳内で何かが切れた。

 気づけば、拳が前に出ていた。


「お前……」

「威勢はいいじゃないか」


 幸三は握った賢の拳を離し、鼻を鳴らして去って行った。それを見送る背後で歩み寄ってくる気配があった。


「立花君」

「西園寺さん……」

「教官が明日の訓練は無理して来なくていいって」

「そうか」


 じゃあね、と言って美香が去っていく。心に寂しさが訪れた。食われる光景を直接見たわけではない。けれど、心にぽっかりと穴が開いたように空虚な感情が心の大半を占めた。


「立花さん、ですね? 遺体はどうしますか?」

「……残っている部分全部ください」

「わかりました」


 賢は上半身だけが入っていると言われた箱を持ち、ゆっくり、ゆっくりと家への道を歩いた。途中何度も転び、そのたびに中で液の揺れる音がした。


「ただいま」


 家に入り、すぐ左の扉の取っ手を押し込む。脳内に条件未達成の文字が浮かぶ。

 その扉の前の床に手を置けば、若干埃をかぶったご飯が置かれている。

 その瞬間、賢の感情は爆発した。全力で扉を叩き始める。


「出て来いよじいちゃん! 兄さんが死んだんだ! 最後くらい俺達で見送ってやろう!」


 中から返事は来ない。生活音すらも、聞こえては来ない。それでも賢は扉を叩き、兄が死んだことを叫び続けた。何度も何度も、自分自身に言い聞かせるように。

 数分後、扉を叩く音は聞こえなくなった。賢は足を曲げ、扉にのしかかるようにして体を沈ませていた。


「兄さんが、死んだんだよ……」


 嗚咽混じりの声は、もはや声を放った本人にしか理解できない音として放たれていた。


 夜が更け始めた頃、賢は眼を覚ました。

 昨晩はそのまま寝てしまっていたらしい。体のあちこちが痛むのを無視して賢は体を持ち上げた。足に箱が当たる。それが兄の遺体が入ったものだというのを思い出すまで一秒もかからない。

 すぐにそれを持ち上げ、庭へと埋めた。


「兄さん……」


 兄はヒトガミに殺された。あの幸三の口ぶりだと父もヒトガミに殺されているらしい。昨晩、心に空いた穴から殺意が漏れ出てくるのを賢は感じた。


「でも、兄さんが死んだのはヒトガミの所為だけじゃない」


 そうだ。あの慣習がなければいい。あれがなければ兄さんはここに居続けた。

 いや、それだけじゃない。抗う力だ、力があれば、兄さんはもしかしたら結界の外に出ても生きていたかもしれない。


「……強くなってやる。ヒトガミを殺せる位強くなって、バジリスクで人の上に立って、あの慣習を失くす。両方やって――」


 部屋に彫られた母からのメッセージと兄の最後の言葉が甦る。


「――幸せになる。2人の分まで幸せになる! 絶対に、絶対にだ!」


 見ててくれよ、兄さん、父さん。

 決意を白い瞳に秘め、賢は玄関の扉を開いた。飯は、食べる気になれなかった。

 足を踏み出し、朝の陽ざしの中、バジリスクの本部へと、賢は歩いていく。

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