埠頭のある街/デラシネ

詩縞隻

埠頭のある街/デラシネ

 夜半は潮の匂いで満ちている。小雨が暗幕に薄いベールのように重なり、並び立つ俺と彼を巻いた。肌で触れる気温は冷たいが、コートの中はぬるい。煙る視界の向こう側、細い風の吹く先では、埠頭に連なる赤白のクレーンがライトに照らされ現代美術の展示めいて鎮座。巨大な無機物にこびりついた静けさが、空疎をサルベージし続ける。

「この街の人間は四六時中潮風に浸かっているのか」

 気が狂いそうだ、と呟けば、「全くその通りだ」と彼が同意した。

 海沿いには赤煉瓦の建造物が並び、俺たちはその間に敷かれた遊歩道を南へ向かって歩く。ステンレスの簡素な看板に『記念公園』の文字。細かい字で詳細な説明が書いてあったが、微塵も読む気にならない。傾斜のついた看板の上を雨粒が隙間なく流れては光り、流星の様相を呈する。極彩色に染まる。歴史ある工場跡らしい煉瓦の壁に、場違いな飲食店のネオンがさざめいていた。光。


 光。猥雑なネオンが車窓を裂く。

 俺と彼は夜行バスに乗ってここまで来た。カーテンを閉め、絞られた光源の下で本の頁を繰る。ごたついた駅周辺を抜け、バスが高速に乗るのを振動で感じ取った。不規則な生活に起因する慢性的な眠気に揺られながら、隣に座る彼の肩にやおら指先で触れてみる。第一関節、第二関節までを滑らせ、静かに掌をあてると、生ぬるい体温が皮膚を透過して伝う。彼の大きな体躯を狭い座席に縫いとめたまま何時間も移動するのは得策ではなかったな、と今更ながら思う。息を長く吐く。手を置いたまましばらく静止していると、やがて彼の伏せられた瞳が持ち上がり、俺を捉えた。彼のレンズに逆さに映る他人の像が、網膜で交錯する瞬間について想いを馳せる。火星の春を見に行くような心持ちで。

 彼は何を思ったのか、無言のまま片手でポケットを探り、個包装のチョコレートを一粒差し出してきた。互いの一連の行動に大した意図は含まれていない(と思う)が、とかく彼のふるまいは常に正解であるように思われた。俺は金色の包み紙を二秒ほど眺め、ほどき、甘い欠片を舌の上に乗せる。体温で溶けて、崩れていく。彼も同じ味を口に含んでいるのを見た。煙草が吸えない時だけ買っている安い菓子を彼がいつ記憶したのかは知らない。あまい。ミルクと油脂と砂糖の味だ。

 読みかけの本を閉じ、膝に引っかかる薄い毛布の上に置く。鞄からミネラルウォーターの入ったペットボトルを一本取り出して二人で一口ずつ回し飲む。俺たちを運ぶ長方形の箱に身を委ね、流れの一部になる。瞼を下ろし、シートの微かな振動に沈めば、俺と彼を隔てる何かが消えるような気がした。

 あと一時間もすればこのバスは大きな橋を渡る。瞼の裏では時空がゆっくりと完璧な黄金螺旋の一筆を描き、窓外の絶景と謳われる景色ですら、必要ない。


 *

 街灯も疎らな黒い海沿いを歩き続け、ようやく宿泊先が見えてきた。リゾート地、林立する高級旅館の間隙、場違いに挟まった外壁の汚れきったビジネスホテル。看板を照らすライトが一つ切れている。建物の名前で検索をかけると、候補に『事件』の文字が現れ、真偽は確かではないが宿泊費が安いのは事実だ。灯のない海がすぐそこに広がっているせいで夜の茫漠を視界一面に突き付けられる。途方に暮れて立ち尽くす一方通行の看板に反射する赤い信号機のライトが、誘蛾灯めいて生々しく点滅していた。

 自動ドアを潜る。

 ドアと床の隙間には、翅の捥げた蝿の死骸が転がっていた。

 暗い、無人のカウンターの前に立つ。傍に置かれたメダカの水槽が白いライトに照らされ、切り取られたようにクリアな質感を湛えている。備え付けられた薄い板状の端末に日付と名前を入力すると、ようやく奥のドアから不健康そうな痩身の男が現れ、重たいプラスチックのキーホルダーがついた鍵を置いていった。鍵は三つがひと纏めになっていて、それぞれシールが貼ってある。裏口の鍵、ロッカーの鍵、客室一三〇一号室の鍵。男がドアの向こうへ消え、静寂が霧のように立ち込めると、水槽の濾過装置の音だけが延伸する時間の象徴として取り残され、空間そのものが水で満たされた錯覚を起こす。海が近いせいだ。湿った夜が肌に纏わりついて鬱陶しい。濡れたコートの裾を払い、奥歯を噛んだ。

 ひとまず、カウンターに侘しく置かれた古い電子レンジのコンセントを、埃を払って慎重に挿した。近くのスーパーで買っておいたプラスチック容器に収められた冷たい弁当を押し込む。三十円引きの赤いシールが商品名を覆い隠していた。オレンジの光に照らされながら、ターンテーブルが回転する様子をじっと観察する俺、を見下ろす彼、を斜め上方から冷ややかに傍観する蜘蛛、尚も振動し続ける水分子、対岸、水槽の魚は眼を開けたまま寝る。チン、と間抜けな音がして、各々視線が散る。

「暗いホテルだ」倉庫みたいな、と冷たい床を靴裏で擦りながら彼が言う。

 俺は頷く。「刑務所みたいだ」

「入ったことあるのか?」逆光でわかり難いが、彼は薄笑いを浮かべているようだった。

「無い」

「あっちの方が快適かも」

「入ったことがあるのか」

 無い、と肩をすくめる彼の足元に、長い影が伸びている。


 客室へ向かうエレベーターは、肩が触れるほど狭かった。錆びついた粗悪品めいた振動と共に指定した三階で停止、どういう訳か階段の踊り場で扉を開くため、結局段差を上らなくてはならなかった。妙な設計のホテルだ。歩く度に廊下に響き渡る靴の音、鍵が立てる小さな金属音が神経質に鼓膜を震わせる。

 一三〇一号室は廊下の最奥、角部屋だった。建て付けの悪い金属製のドア、値段の割には広いツインルーム、旧式の給湯ポット、バスルームはやや窮屈、喫煙可。冷たい窓辺に寄ると、波の音がした。湿って重くなったコートを椅子の背に引っ掛け、半ば崩れるようにベッドに腰掛ける。そのまま横になりたい気分だったが、「まだ寝るなよ」と彼が言うのでどうにか留まる。まだ寝ないさ。

 隣に腰掛けた彼の身体へ体重を預けると、線路沿いのフェンスに生気なく垂れ下がる蔦の葉を想起した。同時、俺の手からすっかり中身の偏った弁当が取り上げられる。彼は腕を伸ばして壁際の小さいテーブルをベッドに引き寄せ、カップ麺(スーパーで98円で売っていた)と並べて置いた。湯沸かしポットに中途半端に残っていたミネラルウォーターを全てあけ、蓋をしてスイッチを入れる。一連の作業を手際良くこなす彼の指先を目で追い、その軌跡をなんとなく記憶する。

「湯、足りるかな」彼が間の抜けた声で言う。

「濃いくらいが美味いんじゃないか」豚骨、と大きく印刷された容器を爪でなぞる。まだ学生だった頃のことを思い出した。講義の終わりに業務用スーパーへ寄って、一番安いカップ麺を二、三買っては狭いアパートの一室で食った。夏のスコールみたいなロック・ミュージックで部屋を満たして、酒も煙草も彼の時間も、必要なものは全て詰め込んだ。溺れるように一日を使い切った。ソファに仰向けになった時に見る換気扇の隙間から斜めにまっすぐ差し込む陽、埃の匂い。ガラス球に包まれた照明の光が並んでいる。

「適当言うなよ」

 自分の喉から、は、と笑いが喉から溢れ、ガラス球が割れた。適当か。急に腹が減ってきて、酒を、と机上に視線を走らせたが、そもそも買ってきていない。ほんの数秒前まで何も口にしたくなかった。天井を仰ぐ。簡素なLED電球の明かりは、室内全体を照らすには光度がやや足りていない気がする。カーテンを引けば厚い雲、海上は芒洋と暗く、舵取りを放棄した俺は彼の声が生み出す波形に揺蕩い流れていく。腑に落ちる感覚がした。遠く聞こえる波の音、窓一枚隔てた内側でポットの湯の茹だる音が近づいている。冷たい波が引き、熱された泡が昇り、飽和してスイッチが切れる。透明になった指先で俺と彼は、同時に箸を割る。

 

 *

 乾燥機は回転を続けている。一階、エレベーターの隣、階段直下のデッドスペースを利用した狭い空間は簡素なランドリールームになっていた。並んだ洗濯機や乾燥機に、一様に貼られた古い『最新式』のシール。三角形の部屋の隅には細長い振り子の柱時計が無理矢理押し込められ、そのせいで空間はアンバランスに歪んでいた。最初は時計の存在に気づくことさえできなかった。一定間隔で鈍い金色の振り子を振り続ける時計は、零時丁度になっても静まり返ったままで、まるで根を下ろした樹木のようだ。時間を刻む機械でありながら時間に対してあまりに無関心のように思えたが、零時は過去にも未来にも無数に存在しているのだから関心がなくても不思議ではないな、と思い直す。彼は部屋で寝ている。彼と俺が一緒に居るのも、居ないのも、特別ではない。白いシャツが回転している。彼のことを考えると、唐突に斜陽が目に浮かぶ時がある。落日の熱を、光を、彼の体温の中に見出す瞬間がある。俺はその度に帰巣する鳥のように彼の傍へ潜り込み、鼓動と体温を確認した。情緒は大きく下方に振れ、追い立てられては触れ、繰り返してきた。眼前では振り子が音も立てずに揺れている。一秒間隔で差し迫る得体のしれない感情に気づかないふりをする。

 

 日暮れが頭上に重い。目を開けると、焼けたアスファルトを踏むスニーカーの靴紐が、茶色く濡れていた。さっき水溜りを飛び越えようとして、半歩足らなかった。狭い住宅街で育った子供は海辺の広い空を知らない。雨の匂いと排気ガスの匂いが入り混じった午後五時半の空気に酔う。

 子供は真っ赤な金魚を、手の中に隠して運んでいる。指と指でまるい器をつくって、水を少し掬って、慎重に歩く。車がすれ違うのに苦労する細い道路、ポストの置かれた十字路を抜け、公民館のすぐ近くにある、砂場とブランコしかない簡素な公園を目指す。

 子供は俯いたまま、しかし上空で黒い雲がいつもより早回しで流れていくのを感じていた。今通り過ぎた家は来月引っ越す。土地が悪いんだ、と言う。だから空気も水も、人も悪いらしい。

 アスファルトに浮かぶ『通学路』の白い文字。右折。雑草だらけの無人の公園に入ると、塗装の剥がれたブランコの上からカラスが飛び立った。そのまま奥へ向かえば、額縁みたいな、ひび割れたコンクリートの枠が見えてくる。無機質に区切られた砂場の内部は湿気を含んで固まりかけていた。子供は縁を跨ぎ、砂の上に立ち、靴が汚れるのも構わず足で耕すように穴を掘った。やおら屈む。穴の底に、魚を横たえようとする。存外力強く蠢く薄い鰭を片手で押さえつけ、器用にのばし、もう片方の手で砂をかける。上からゆっくりと、湿った砂をかけていく。輝く鱗が汚れていく。魚の腹部は肥大し、奇妙な形に歪んでいた。病気じゃないかと疑った。薄く伸びた皮を裂けば濡れた死が溢れ出る。想像というより確信だった。この世で最も正しい行動をしているような気がしていた。砂を掬ってはかけ、繰り返しているうちに、赤い身体は徐々に見えなくなっていく。雨が降る前に、と思う。指の間から砂が絶えず落ちていく。ブルーグレイの濁る眸を見下ろしながら、同時に上空から誰かに見られているような気がした。鰓は力無く開閉を繰り返している。

 

 金属が落下する、けたたましい音で我にかえった。

 音は近くから聞こえた。俺は足元を見、次いで手を見、服のポケットを探った。鍵を落とした音に相違なかった。しばらく視線を彷徨わせ、柱時計のすぐ側にようやく見つける。三つの鍵が重なったキーホルダー、そのうちの一つには一二〇一号室と書かれている。

 流石に客室へ行くのは気が引けた。代わりにフロントからほど近いロッカーの扉を開く。一二〇一のシールが貼られたロッカーの中からは、飲料水のボトルが一本出てきた。五五〇ミリリットル。青い半透明のキャップ下部、リングが千切れている。開封済み。それだけだった。

 ロッカーの扉を閉め、鍵を柱時計の前に戻す。なんとなく後ろ暗い気分になって、指で触れた部分をシャツの端で拭った。乾燥機から衣服を取り出し、『最新式』のシールを剥がして棄てる。古いシールは粘着部がこびりついて汚い。

 

 *

 目が覚めると、隣に彼は居なかった。空になった弁当やカップ麺のゴミが机上に重ねられている。備え付けの小さなゴミ箱に二人分は収まり切らない。ベッドから降り、それらを適当に端に寄せ、煙草に火をつける。昔から直感で雨を察することができた。

 不可視の引力に寄せられ、蜘蛛の巣が引っかかったクレセント錠を開け、バルコニーへ出る。足元には海鳥の乾き切った白い糞がへばりつき多くの虫の死骸が転がっていたが、気にならなかった。

 眼前には海が広がっている。コンクリートの堤防に縁取られた四角い海だった。彩度の低い寒々しい色を湛え、しかし、と思う。吹き付ける潮風に、自然、目を細める。

 海上の曇天、しかし広かった。その広大さに救われた。

 しばらく景色を眺めたり、目を閉じて波の音を聞いたりしていた。煙草は二本吸った。部屋に戻り、備え付けのコーヒースティックを湯に溶かして飲んだ。顔を洗って身なりを整え、簡単な部屋の清掃までして、結局、再び布団に潜り込む。今度は陽が高くなるまで寝ていた。

 二度目に起きた時には、彼は正しくそこに居た。

「出掛けてたのか」

「ああ、」彼はコンビニの袋からミネラルウォーターのボトルを取り出した。五五〇ミリリットル。「雨降ってた」

 彼の手からボトルを抜き取り、蓋を開ける。薄いブルーのリングが千切れて下に落ちた。間違いなく新しい。

「まあ、水くらいサービスしてくれるホテルも多いけど」彼は徐に冷蔵庫を開け、入ってないよな、と小さく零す。

「此処は安いからな」

「周りが高すぎるんじゃないか? 隣の旅館なんか最低でも二万からだったぞ」

「周りは『旅館』だ」大きく『ビジネスホテル』と印字されたキーホルダーを持ち上げる。部屋に備え付けられた小さなテーブルではビジネスにも向いていない気がするが。

「昼飯どうする?」彼は濡れた傘をベランダで振る。雫がガラス窓に張り付いて流れていった。

「果物とか」近くにファーストフード店があるのは知っていたが、油の匂いを想像するだけで胸が悪くなった。

「病人みたいなこと言うなよ」彼が口許を緩める。俺が平常通りであると、彼は安堵するらしい。

「魚」ブルーグレイの眸を幻視した。平常通りに。

 じゃあ寿司だ、と踵を返して彼はドアへ向かう。俺も傘と財布と鍵だけ持って、ついて行く。スーパーに行くんだろうな、とあたりをつける。県道沿いにあった筈だ。

「コンビニ行く時に図書館見つけたんだが、あれって市民以外でも借りられるのかな」

「本屋じゃ駄目なのか」

「ちょっと違う。それに、買うと荷物になる」あんたみたいに、と彼が指したベッドサイドには既に、俺の本が三冊積みあがっていた。

「ハードカバーは置いてきた」

「当たり前だろ」彼は呆れた声で言った。

 重いドアを押して廊下へ出る。どこまでも殺風景なホテルは、宿泊客への心遣いが少しも感じられない。狭いエレベーターを使わず階段でフロントまで降り、外出の際は、と書かれた紙が貼られたポストみたいな箱に客室の鍵を預ける。俺も彼も張り紙を最後まで読んでいない。相変わらずクリアなメダカの水槽に見送られながら揃って自動ドアを潜る。

 

 髪が外気に触れて揺れる。風は湿って重い潮の匂いを濃くしていたが、雨には打たれなかった。灰色の雲と雲の合間には抜けるような青が覗き、円を描いてゆっくりと鳶が旋回していた。彼が折り畳み傘を振り子みたいに揺らしながら、さっきまで降ってたんだけど、と言う。俺はアスファルトの上に光る水溜りを眺め、そうだろうな、と返す。彼との外出は快い。雨が降っていない方がいいに決まっている。

 昼間に見る記念公園は芝生の緑と赤煉瓦が淡く調和して牧歌的な絵画のようだった。昨日は気づかなかったが、すっかり葉だらけになった若い桜の樹が同じような姿形で並んでいる。

「今年は結局、桜を見なかった」樹の本数を数えながら、彼に話しかける。桜の下に梶井基次郎のような鮮烈な情景は描けず、褪せた雪柳の残骸が力無く項垂れるのを眺めた。花弁に触れると雫が弾ける。

「こないだ見ただろ。ライトアップの夜桜」

 沈黙が横たわる。記憶を辿ってもそんな洒落た景色を見た覚えがない。

「公衆電話の」彼が言葉を継ぎ足す。

 ああ、と喉から声が漏れた。


 ここに来る少し前、俺と彼は郊外のアウトレットモールで一つずつスーツケースを買った。それから、あてのない旅行(逃避行と言った方が正しいかもしれない)に必要な最低限の準備を済ませ、モール裏にある整備された駐車場を横断し、そこで公衆電話が一つと、取ってつけたように桜が一本植わっているのを見た。長方形のガラスの箱には蛍光灯の白い光と一匹の生きた蝿が封入され、一昼夜散り続ける薄い花弁を雪のように照らし出していた。俺はどうしようもなく、それを眺めていたい衝動に駆られた。立ち尽くす俺を一瞥し、彼は一人駐車場端の自販機へ歩いて行った。俺は微かな羽音を聞きながら新品のスーツケースに凭れかかり、煙草を吸った。しばらくして彼が帰ってくる。自販機で売っている飲料の中で一番安い、ミネラルウォーターのボトルを持っていた。次は南へ行こう、と彼は言った。彼の言葉は常に正解であるように思われた。今年花を見たのは一本だけだ。


「国内にある樹はほとんどクローンらしいな」彼が葉桜の下を歩くと、頭が枝に当たりそうだった。花が咲いていたら埋もれて見えなくなっただろう。

「ああ」花が終わった桜は途端に独特の物憂さと生命力を孕む。冬の乾いた質感は遠く、一様に夏の湿った匂いを纏う。「何処でも同じだ」

「北の方も散ったかな」「まだ咲いてる」「見てもないのに」

 公園の一番端、県道との境に一際大きな煉瓦造りの建物が見えた。明治時代に建てられた紡績工場の一つを改装して市が図書館にしたらしい。墓標のように並ぶ金属製の看板が歩いているだけの俺に向かってあらゆる知識を囁きかける。昨日は雨と乱反射するネオンで掻き消えていたが、今日は注意を傾ける余裕があった。

 隔てた長い時間を感じさせる厚い門扉をくぐる。外観は古いが、図書館の中は新しい建物特有の匂いがした。大きな窓からは薄い陽の光が差し込んでいる。印象派の絵画のような公園を一望できる場所に数脚の椅子が置かれているが、誰も座っていない。貸出カウンターには職員が一人。何処もかしこも空疎な印象を受ける。この街の気質か、平日の真昼間だからか、或いは俺に穴があいている。

 彼は入館するなり、奥の低い棚の方へと向かっていった。雑誌や新聞、コピー機が並んでいる。彼の向かった棚の対角線上には大きな本棚がビル群のように立ち並び、それぞれ番号が振り分けられていた。俺は『9』と書かれた棚へ近づく。背表紙に貼られたラベルへ視線を落とす。日本文学は『910』、詩歌は『911』、ハードカバーの詩集を端から抜き出し、頁を繰る。百を超える詩集の中から一冊を選び、棚から一番近い窓辺の椅子に座る。隣の席には誰かが置き忘れた飲料水のボトルがあった。

 そして此処にも、水槽がある。

 柱の影になる位置にひっそりと、円柱の水槽が置かれている。緑に透ける水草を掻き分け、赤い、花のような鰭を翻しながら金魚が顔を出した。俺はすぐに視界から外し、彼の居る方へ目を向ける。開けた窓辺の休憩スペースからは館内の様子がよく見えた。彼は新聞を含む逐次刊行物を手当たり次第、出鱈目に捲っている。本を借りに来た訳ではないらしい。俺は手にした詩集の、黒い表紙をひらく。

 

 *

 第九章 Déraciné《根無草》

 

 汽水が満ち

 プランクの常数hを描く街

 は元型アーキタイプに近い

 細分化され

 同時多発的に発生する

 過去

 及び未来

 平衡接続のX軸

 魚眼に像を結ぶ

 埠頭、

 雲上、

 並び建つ不可視の尖塔

 巡礼するデラシネ

 

 第 章 

 

 ばいばい。

 子供の声に眠りを害される。

 バスは細かく振動を続けている。雨粒の張り付いた窓の向こう、暗い夜に蛍光灯のスポットライトを浴びた老人が手を振っているのが見えた。いつの間にかインターチェンジの停留所に停車していたらしい。目的地まではまだ遠い。声を発した子供は俺の丁度真後ろに座っているようだ。座席に膝立ちになって、冷たい窓に額をこすりつけている。子供のすることは大体同じだ。見なくても分かる。

 やおら車体が動き出し、後方へ流れる、微笑み、老人の左手、半円を描く軌跡。すぐ後ろの座席から再び生まれる声。ばいばい、と舌足らずに繰り返す幼い言葉は窓外へ音として届くことはない。鼓膜を介さないまま、内と外で同じ言葉が行き交っている。彼等の喉から発せられる、隔絶を知らない未熟な別れで車内は飽和する。バスは沈み、水底を這うように終点へ向かって移動を続ける。波の音がしている。魚の尾は爛れ落ち、指先は濁っていく。

「四六時中潮の匂いがする」気が狂いそうだ、と呟けば、彼は全くその通りだ、と同意した。

「錆びちまいそう」彼の声はほとんど吐息のようで、俺は深く酩酊する。

「錆、」

 彼の手がカーテンを閉じた。

 光が遠く過ぎ去っていく。乗客はひっそりと静まり返り、眼を開けたまま眠りにつく。

 俺と彼は互いに瞼を下ろすことができる。絡まった記憶をほどき、黄金螺旋の一筆に融ける。あおい錆と潮の味がして、

「あぁ、そうか」

 

 第十章 巡礼

 

 巡礼なのです。

 あなたは夏をランタンに詰め、星を照らして廻っています。夏以外の季節が一周するまでの前に、やりたいことがたくさんありました。腕時計の針はゆっくりと左回りに動いています。黒い葬列が見えます。あなたは彼らの進む先とは逆を目指します。

 はっきり言って、あなたの試みは間違いであると思います。あなたは時計を巻き戻し、逆行することができます。

 今、カラスの群れが後退しました。球体の星にも(不思議なことに)果てはあって、いつまでも冬が居座っています。

 あなたはそこへ、夏を届けに行くのです。

 

 *

 館内に人は少なかったが、併設されたカフェから数人がテイクアウトのカップを持って行き来していた。統一されたモダンなデザイン、学習塾のような半個室のテーブル、漫画やPCが並べられた一角。想像がついた。この場所は長期休暇の時期や夕方になると子供が増え、途端に騒がしくなる。幸い今は雑音がほとんど無い。静かな方が好きだ。子供は嫌いだ。

 しばらく開けた空間と人の流れを眺めていると、やおら閉架書庫の扉から職員が一人、スーツケースを引き摺って出てきた。見るからに新品の、大きなスーツケースだった。困惑した様子で貸出カウンターの職員と会話を交わし、やがて二人とも奥の部屋へ引っ込む。隙間。無人になる。

 厭な感じがした。

 俺は立ち上がり、足早に彼の元へ向かう。腕を引き、図書館の外へ出る。彼の手から新聞が数部落ち、池から水鳥が飛び立つような騒がしい音が立った。灰色の紙面にはいつだって『事件』の文字が踊り、水槽の中でブルーグレイの眸が一斉に動いたのも、扉をくぐった直後、背後で耳をつんざく悲鳴が聞こえたのも、きっと幻覚だ。

 

 幻覚だ。1:1の曇天と晴天をかき混ぜるように、魚がゆっくりと旋回している。聴覚は海鳥の声を拾う。

「盗んだ?」彼は薄くなった歩行者用路側帯の上を歩きながら訊ねた。

「盗んだ」手の中の詩集には、蔵書印があった。滲んだ黒いインクの中に辛うじて街の名前が確認できる。急いだために持ったまま出てきてしまった。「ここの住民じゃないから、どうせ借りられなかった」

「これは罪のうちに入らない」彼は俺の手から本を抜き取り、数頁捲った。

「お前が決めるのかよ」「当たり前だろ」

「なあ、」

「何」

「この街、前にも来たことあるか?」

 彼は笑った。笑い方があまりに綺麗で、その一瞬は呼吸を忘れた。

 図書館を内包する公園から出て県道沿いに歩くと、近隣住民や物流トラックの運転手が利用するスーパーがあった。大きな看板が立っているから遠くからでもよく見えるが、近づいてみると潮風に曝され建物のあちこちに褐色の錆が目立ち、駐車場に放置されたカートには蔦が這い、車止めは苔むし、停車する数台の乗用車がなければ廃墟のようだった。

 静かだった。徐に彼が、土地が良いんだ、と言う。だから空気も水も、魚も良いらしい。俺にはいずれの良し悪しも分からない。

 その日はもう何もする気が起きなかった。昼飯の時間にしては随分遅くなったが、インスタントの味噌汁と一緒にパックの寿司を買ってホテルで食った。確かに美味かった。

  

 *

 メダカが一匹、ガラスコップの中で透明な鰭を揺らしている。夜になるまで俺たちは本を読み漁ったりテレビを見たりバルコニーで煙草を吸ったりした。少ない荷物を纏めて、明日には発てるよう準備した。メダカは彼がシャワーを浴びている間に、フロントの水槽から持ってきた。陽の落ちたホテルは相変わらず陰鬱で、この魚は広い水槽の中、水面付近で藻に絡まって白く変色した個体の傍でただじっとしていた。そいつを部屋に備え付けてあったコップで掬った。鈍かった。

 水槽代わりのそれをベッドサイドに置いて、ランプで照らす。

「死にそうだな」彼は濡れた髪を適当にタオルで拭いてから、ツインのベッドの片方に腰掛けた。

「まだ生きてる」

「これは金魚より弱い」それを聞いて、手の中に閉じ込めなくてよかったな、と思う。

「昔、メダカをジッパー付きのビニール袋に閉じ込めて、鰭を顕微鏡で覗いたことがある」丁度こんな風に、裏からライトで照らして。

「何が見えた?」光源を挟んで彼が透けるような気がした。

「血」レンズが引き絞られる。無色の赤血球を観察する。生きている尾鰭は透き通って流れている。死んだ尾鰭は濁って静止する。「透明だった」

 彼が俺を呼んだ。対岸へ渡り、斜陽の温度に崩れる。

「そいつは埋めなかったのか」彼はなんでも知っている。

「ちゃんと水槽に戻した」殺した金魚は卵を抱えていた。後から知った。

「次は何処へ行く」彼は掌で影を作り、ガラス内部の魚に夜を与えた。

「何処でも同じだ」

 俺は彼を細胞に染み入る水のように感じているが、一度も彼の中を覗いたことがない。知らなくても困らない。

「まだ花が咲いてるところを探すか」

「今度は夏から逃げるのか」俺にとって夏、とは学生の頃のアパートの一室だった。ロック・ミュージックで飽和した狭い水槽。建物の名前で検索すれば、候補に『殺人事件』の文字が現れ、真偽は俺たちだけが知っている。フラッシュバックを撚り合わせてできた現在いまは時計の振り子のように毎秒揺れている。

「あついの嫌いだし。あんたもそうだろ」

 俺はまた、彼の体温と鼓動を確かめる。急に可笑しくなってきて、気づけば肩を揺らして笑っていた。

 

 翌日、チェックアウトするために鍵をポストみたいな箱に返却した。中身の詰まった重いスーツケースはロッカーに置いてきた。水槽はすっかり濁って、大量の死骸が浮いている。カウンターの上には空になった飲料水のボトルが転がっていた。五五〇ミリリットル。開封済みの飲料水は迂闊に口をつけない方がいい。

 

 *

 目の前の親子が一眼レフのデジタルカメラを覗き込んでいる。

 バスや新幹線を乗り継ぎ、新快速電車のボックス席へ落ち着いた頃にはもう陽が傾いていた。俺は不規則な生活と寝不足による睡魔に抗いながら、詩集の頁を繰る。チョコレートを一つ食う。彼から水を貰う。蓋を開けた瞬間、雫が一滴落ち、蔵書印が滲んだ。遠ざかる街の名前が読めなくなっていく。

 窓外には赤く染まる待合室、青いライトが照る踏切、川面に浮かぶ白い灯りが現れては消え、残像ばかりが尾を引いた。俺はベッドサイドに残したままの魚について想像を巡らせる。火星の春を見に行くような心持ちで。

「もう死んだと思うか」「まだ生きてる」「見てもないのに」

「それより、」

 あまり荷物を増やすなよ、と囁く彼の表情かおは、光を透過してよく見えない。透明だ。

 

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