最終章 顔

第19話 再生

 晴れた暖かい日の老人ろうじんホーム。

 応接間おうせつまのソファに、やせたミチエが座っていた。前には施設しせつ職員しょくいんがいた。

「えっと、それでその後入院しました。医者に栄養えいよう失調しっちょうって言われました。お金なくてアパートも戻れなくなっちゃって、同じ病室びょうしつの鈴木さんにこちらの施設しせつを紹介してもらったんです。住み込みで働けてキャリアもいらないって」

「大変でしたねえ。うちは給料あんまり出せないけど大丈夫?」

「あ、大丈夫です。他に行き場ないし」

 住める場所があれば、またネットで『仕事』ができるし。

「うちはまだ軽度けいどの人しか受け入れてないからよそよりは楽だし、やってもらうのはお手伝い的なことになるけど、正直結構大変だと思う。大丈夫?」

「あ、はい。大丈夫です」

 ネットの『仕事』でお金たまったらすぐやめるつもりだし。

 

 老人ろうじんホームのリビングは、明るいバルコニーにめんしていた。まどからは明るい光が差しこんだ。

 入居者にゅうきょしゃ高齢者こうれいしゃは、日向ひなたぼっこをしたり、食事をしたり、テレビを見たり、思い思いにすごしていた。手足てあしがうまく動かない人や、食事がうまく取れない人は、職員しょくいんにケアされていた。

 ミチエはモップでゆかをみがいていた。

水橋みずはしさん、掃除そうじ終わったら7時までにおむかえの車出してくれる?今日はデイサービスで、外からも利用者さんが来るから」

「あ、はい」

 ああ、もう時間ないよ。

 ミチエは急いで床をみがいた。すると近くにいたおばあさんに声をかけられた。

「いつも掃除してくれてありがとね」

「え、あ、はい?」

 ミチエはどうしていいかわからず、おどおどした。

 人からまともに感謝されたのはいつぶりかな。


 多目的ホールで、おじいさんやおばあさんが、職員しょくいんのピアノに合わせて歌を歌った。

「きーらーきーらーぼーしーよー」

 ミチエは部屋の隅でぼんやり様子をながめた。

 みんなしわくちゃ。髪は白いか、そもそもない。おばあさんなのかおじいさんなのかわからない人もいる。ブスどころの話ではない。

 あんな顔でみんなよく平気だな。

 けれど、みんな無邪気むじゃきに笑って、歌を歌い手を叩いている。

 ピアノを弾く職員しょくいんが、ミチエに声をかけた。

水橋みずはしさん、チェロできたんだっけ」

「え?あ、はい。ちょっとなら」

 大学時代、オケ部でチェロを弾いていたヨシナガに、少しだけ教えてもらったことがあった。

「古いチェロがあるんだけど弾いてみない?」

 職員しょくいんが、部屋のすみのほこりをかぶったチェロケースをゆびした。

「え?あ、えっと」

「わあ。ミチエちゃんのチェロ聞きたい」

 おじいさんやおばあさんがはしゃいだ。

「えっと、はい、じゃあ弾きます」

 ミチエはいそいそとチェロを準備し、ピアノの横で構えた。

「じゃあ弾くね」

 職員しょくいんがピアノを弾くのにあわせて、ミチエもたどたどしくぎこぎことチェロを弾いた。

 うわ、下手なチェロだな。

 ミチエは自分でそう思った。

 だが、みんな手を叩いて喜んだ。

「ミチエちゃんうまいうまい」

 ミチエは照れてうつむいた。

 

 台所で、職員しょくいんがあわただしく食事の準備をしている。

 ミチエは皿を洗ったりシンクをふいたりしていた。

「ミチエちゃん、手が早いねえ」

「え?ああ、昔バイトでやってたんで」

「ねえ、悪いんだけど作るの手伝ってくれない?今日はデイサービスの日で人が多いの」

「え、でも私料理が苦手で……」

「簡単なスープ作るだけでだから。ね。お願いできないかな」

 職員しょくいんは焦っていた。ミチエは断ると悪い気がした。

 

 リビングの大きなテーブルに、おじいさんやおばあさんが座り、ミチエや職員しょくいんたちが配膳はいぜんをした。

 食事の中に、ミチエの作ったたまごスープがあった。

「わあ、おいしそう」

 おじいさんやおばあさんがそう言うが、ミチエは心臓がどきどきして痛くなった。

 どうしよう。絶対まずいに決まってる。

 職員しょくいんが、目の悪いおばあさんの肩を軽く叩き、話しかけた。

「佐藤さーん、スープを口に運びますけど大丈夫ですか?」

「大丈夫大丈夫」

 職員しょくいんはスープをスプーンですくい、おばあさんの口に運んだ。

 ミチエは職員しょくいんを止めようと思わず一歩踏みだした。

「おいしい」

 おばあさんは無邪気に笑った。

 ミチエは動きを止めた。

「今日のたまごスープおいしいね」

 他のおじいさんやおばあさんも笑顔で口々に言ったので、ミチエは涙をほろりとこぼした。

 職員しょくいんはびっくりして、

「ミチエちゃんどうしたの?」

「すいません。何でもないです」

 ミチエは目をこするが、涙が後から後からこぼれた。

 

 休憩室きゅうけいしつのソファで、ミチエが声を殺して泣いていた。

 休憩室に心配そうな職員しょくいんたちがぞろぞろと入った。

「大丈夫?みんな心配してたよ」

「すみません。すみません」

あやまらないで。それよりご飯にしなよ。若いのにやせすぎだよ」

「そうよ。食べたら元気が出るよ。たまごスープ持ってきたから」

 職員しょくいんがたまごスープのうつわをミチエに差し出した。

「でも利用者りようしゃさまの食事を食べるわけには」

「いいって。あまりものだし。食べな食べな」

 職員しょくいんがみんなミチエに言った。

 ミチエは職員しょくいんたちの顔をまじまじと見た。

 みんな美人なわけじゃない。それに若くもない。はっきり言えばただのおばちゃんだ。

 でもほっとするほど優しい顔をしている。

 ミチエはこの人たちの顔が好きだと思った。

 ミチエはたまごスープをひと口すすった。

「おいしい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る