1-3 目覚め
研究棟の一階にある療養室のベッドでハレは目を覚ました。右手で目を擦りながら、左手を突いて起き上がろうとする。手を開いてベッドにつけようとするが手首から先の感覚がまるでない。どういうことだ。ハレは左手に目をやる。
「・・・え?」
左手首から先が無い。そうだ、発火の中に飛び込んで談話室の彼に手袋をつけた。そうだ、燃えたんだ。僕の左手は。・・・彼はどうなったんだろう。
ベッドから降り、床に足をつく。よかった、足はついてる。扉まで歩いて行ったところで、その扉が開いた。
「きゃっ!ハレ君?」
この学校の療養士だ。この国では治癒士と療養士は区別されている。
「すぐに先生たちを呼んでくるわね!座って待ってて」
ハレが一言も発することなく、療養士は廊下を走っていった。
数分後、神楽、ショール、そしてフォルトが入ってきた。
「ハレ君、気分はどうかしら。2日も眠っていたのよ」
「ええ、悪くありません。でも落ち着かない感じがします」
「それはしょうがないことよ。あなたはそれだけの体験をしたわ」
神楽は優しく言った。透き通った声がハレの動揺を諫めてくれるようだ。
「ハレ君、君の勇気は称賛に値する。君の行動は他の生徒教員では成しえなかったことだ」
ショールは髭を撫でながら言った。
「いえ、後先考えずにした行動だと今は反省しています」
「君のその謙虚さは美徳だよ。では、事後処理があるので失礼するよ」
髭を撫でながら、ショールは療養室を出ていった。
「さて、ハレ君」
フォルトはハレの正面に座る。深い紅の目に見つめられ、ハレは少し緊張する。
「緊張することはない。君がやったことはなかなかできることではない。私は何百年も生きているが、君のような行動ができるのは極少数だ」
フォルトは微笑んで見せる。緊張をほぐそうとする彼の心遣いがハレの張り詰めた感じをほぐしてくれる。
「左手を見せてくれるかい?」
「ええ、どうぞ。自分でまじまじ見るのは初めてですが」
ハレは左手、があった箇所を差し出して見せる。手首から先には確かに、手のひらはなかった。断面は黒く炭のような色をしている。まるで鋭利な刃物で切り落とされたかのような垂直できれいな断面は、鎮火服の効果を如実に証明している。
「痛ましいことだね。若人の体が失われてしまうのは。本当に済まない」
フォルトはハレの左手に手を添え、頭を下げた。
「いえ!フォルト様のせいではありません。自分で選んだことです」
ハレは恐縮し、左手を引っ込めようとする。しかしフォルトは手をつかんで離さない。左手に額をつけ、拝むような姿勢をとる。
「フォルト様?」
顔をあげたフォルトの表情は薄暗く、曇っている。
「残念だが、君の左手はもう戻ることはないだろう。外界へ行ってしまった」
「フォルト様!それは・・・!」
神楽が取り乱している。外界?なんでここで外界の話が出てくるんだろう。
「どういうことですか?」
「フォルト様!あなたはひどく取り乱しておられる。ご自身の発言の意味を分かっておいでですか!」
神楽は声を張り、フォルトに詰め寄る。
「神楽先生、外界って―――」
「ハレ君は静かにしていなさい。これは大人同士の話し合いです」
神楽の目は鋭く吊り上がり、フォルトをまっすぐに見つめている。見上げられたフォルトは目を逸らし、浮かない顔だ。
「私は、彼にはすべて話してもよいと思う」
「いいえ、そうは思いません。少なくとも彼には荷が重すぎます」
「ではどうする。彼の左手には何らかの報いがあってもよいのではないか」
「それは本当に報いでしょうか。まさか彼を神にでも―――」
神楽が「神」と言った瞬間、療養室は赤く燃え上がった。フォルトを中心に円形に炎が燃え広がっている。ハレは床を踏んで消そうとする。消えない、違う、これは火ではない。熱くはない、触れない。
「驚かせてすまないね、ハレ君。これは私が見せている幻だ。すぐに消そう」
フォルトがパンッと手拍子をすると、瞬く間に炎は消え、療養室は平静を取り戻す。フォルトと神楽は互いに向かい合い、視線を交わしている。神楽の頬には汗がにじんでいるようだ。
「君こそ、取り乱しているようだ。神楽」
フォルトは落ち着きを取り戻している。反面、神楽はひどく取り乱した様子だ。
「神楽、それこそ言ってはいけない。君は言葉の重みの順序を間違えているようだ」
「・・・大変申し訳ありません。取り乱しました」
神楽は跪き、謝罪を口にする。耳が赤く染まり上気している。
「ハレ君、今のやり取りは忘れてくれ。大人でも取り乱すことはあるのだ」
フォルトは微笑んだ。つられてハレも微笑み返す。
「今日のところはゆっくり休むといい。明日からは教育庁の再建が始まる。君にも働いてもらわねばな」
フォルトはハレに微笑み、神楽を一瞥し、療養室を出ていった。
「神楽先生、大丈夫ですか」
フォルトが出て行ってからしばらく、神楽は跪いて動かなかった。否、動けなかった。「神にでもするおつもりですか」という言葉が口から出るところだった。その事実は神楽の動きを抑えるのに十分な出来事だった。この国では神は絶対なのだ。神にするなど、人が神になれるという事実など、絶対に口にしてはいけないことなのだ。神楽はその禁忌を犯しかけた。これは5大府でも一部の人間でしか知りえないことなのだ。
「神楽先生?」
ハレは心配そうに神楽に声をかけ続ける。彼も動揺している。神楽が動揺していることはハレへと伝わり、先ほどの発言の信ぴょう性を高めてしまう。早く、早く落ち着かなければいけない。落ち着いて、彼に今後の話をしなければならない。
神楽は大きく息を吸い、止め、吐いた。自らの動揺をすべて呼吸へ乗せ、掻き出すかのように。大丈夫、落ち着いた。神楽は立ち上がり、ハレの向かいへ座る。ハレがこちらを覗き込んでいる。ひどく動揺して心配して、何が起きているのかわからない、という表情だ。
「ごめんなさいね。取り乱して。起きたばかりなのに疲れたでしょう」
神楽の声はいつもの透き通った音に戻っていた。
「いえ、先生こそ大丈夫ですか?」
ハレの声はか細い。いつもの真の通った声とは違い、震えている。
「ありがとう。落ち着いたわ。これからの話をしてもいいかしら」
ハレは頷く。
「残念だけれど、教育庁の宿舎と28名の生徒たちは失われてしまったわ。残りの12名は各地の分所に配属され現場で教育を受けることになったの。ハレ君の場合は左手が失われてしまったから、力仕事のある鎮火府は難しいのだけれど」
神楽はハレの左手に目をやり伏し目がちになる。
「治癒士も調査士も、繊細な作業が求められるから難しいわね。農産士、防火士のどちらから選ぶことになるわ」
神楽は目を伏せたままそう言った。左手をじっと見つめ、離そうとしない。フォルトもそうだったが、どうして僕の左手にそんな価値があるのだろう。ハレは不思議だった。神楽はハレの視線に気づいたのか、すぐに姿勢を直した。
「今決めなくてもいいわ。明日には正式な配属式があるから、それまでに決めなさい」
神楽は席を立ち、扉へと向かう。取っ手に手をかけたところで振り返り、ハレを見た。
「あなたが無事に還ってきたこと、うれしく思うわ」
そう言い残して、神楽は療養室を出た。
一人残されたハレはベッドに仰向けになり、左手があった場所を見つめる。本来であれば、もっと取り乱すのではないだろうか。だって自分の一部が切り取られた様に無くなったのだ。どうしてこんなにも冷静でいられるのか。―――やめた。
ハレは布団を頭までかぶり横向きになる。考えることをやめたいときの彼の癖だった。目をつむり、眠りに落ちるのを待つ。そういえば、彼の左手はどうなったんだろう。夢現の中、思い出す。炎に消えた彼の、左手。あれは確かに持ち帰ったはずだ。睡魔が襲ってくる。どうしたんだっけ、誰かに渡したんだっけ。そこでハレの意識は途切れた。
神様のいない国 立花僚 @lemeriod
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