第2話 その部屋から逃げ出した。

 ナマケモノであっても、最低限の仕事はする。


 そして、新見さんとの約束も果たす。


 何気なく、彼女の課の人たちと会話をする機会を設けて、いろいろと世間話を交えて確認していくと、間違いなく、新見さんは部下から嫌われている。


 理由は分かりやすい。


 うるさいからだ。


 あれをしろ、これはどうなった? まだできてない? 馬鹿? アホ? やる気あるの? いい大人が何をしてるの? などなど……。


 新見さんは確かに一流の営業だろうと思うけど、他の人に自分水準を求めちゃ駄目だ。無理だ。新見さんには、新見さんしかなることはできない。


 で、その報告かたがた、食事に誘ったら、酒の席になってしまった。


「明日は土曜日だからね。今日は驕るから」


 遠慮したいと思っても、できないことも世間にはある。


 赤坂見附駅近くの居酒屋『はな』は、彼女と初めて一緒に飲んだあの日と同じ店で、今日もここだ。


 広くはないが、大将が店内をぐるりと見渡せて、奥さんがちょこまかときびきび働く。料理は間違いなく美味しいと思う。


 おススメの刺身盛り合わせ五種に、出し巻き卵、ホルモン焼きを頼みビールジョッキをぶつけ合った。


「……ぬぐ……んぐ……ぬぐぐ……プッハー!」


 もう半分ほどない……新見さんのビール。


 ジョッキ大だぞ。


「で、うちの可愛い部下たちは何でやる気でてないのか分かった?」


 ビールを飲んでご機嫌の彼女に、正直に話す。


「新見課長を嫌ってるからです」

「……」


 ジョッキを左、箸を右に、笑顔は固まり黙った彼女。


「あれは深刻ですねぇ。課長が一人で頑張ればいいんですよ、みたいなことまでほざいてたのがいましたよ」

「……誰?」

「黙秘します」

「教えて」

「知って、どうします?」

「殺す」


 とりあえず、日本酒を勧めて宥めて、まずは彼等の努力を認めてあげたらどうかと言った。確かに、努力をしても成果が出ないと意味がないが、承認欲求が強い人の場合は、それが相手への批判、攻撃に繋がるケースが多々ある。


「新見さんも承認欲求強そうだから、ぶつかり合うと収拾つかないでしょ」

「承認してほしい……誰か、わたしを好きだと言って……」

「……お見合いクラブ、どうすか?」

「会ってくれる人が少ない……そっちは?」


 俺は加入一か月ほどで、四人と会った事を伝えた。その内、二人の感触が良く、迷っているとも。


「一人は家政婦見習いの三十歳。笑顔が可愛いんです。もう一人は保育士で、子供好きだと言ってて……どうしました?」


 真顔の新見さんは恐い。


「けっ! ビッチどもめ……どうせ東亜電工の名前に惚れてるんでしょ。一部上場、株価も高い……福利厚生もしっかりしてる……サイテーの女たちだわ」


 ひどい言いようである。


 黒龍の一合が到着し、刺身を肴に新見さんの飲む速度があがる。


「それ、さっき俺が言った新見課長の部下と一緒……もろ攻撃してる」

「ふん……騙されて、悲惨な結婚生活を送ってくださいな、織羽課長」


 ひどい……。頑張って、らしくないことまでして手伝っているのに……。


 箸を伸ばし、旬の鯛を頂こうとしたが、ごっそりと奪われていった。


 わさび醤油をつけて、鯛の刺身を一気食べした新見さんは、日本酒をグイっといく。


「ひどい……」


 茫然と眺めた。


「他にはもう会わないの?」


 と、彼女。


「いえ、他にも何人か待ってくれてまして……日曜日はだいたい順番に会ってまして――」

「はいはい、もう聞きたくないでーす」


 また、デロデロに酔っぱらうんだろうなと、日本酒をグイグイと飲む新見さんを眺めた。



 ―・―・―



 運命の出会いかもしれない。


 お見合いクラブを通して、その人と出会った。


 高橋加奈さん。


 二十四歳の美人さんで、結婚相手には真面目で仕事をちゃんとしている人を望むらしい。相手への条件は、子供好き、真面目、年収五〇〇万以上の三つだった。


 お互いに写真を見て、会いたいとなって今、会っている。


 最初はお見合いクラブの面談室みたいなところで話をして、よければ連絡先を交換して外で会うが、会う度にクラブに報告をする義務がある。これは仕方ないルールだ。


 上野の美術館を一緒に楽しみ、ふらりと散歩して別れたのだが、会話も空気もピタリと合う。いや、俺に彼女が合わせてくれる。


 まるで、葵さんではないか!


 そして、次第に俺たちは会う回数が重なっていった。


 こうなると、クラブからはそろそろ、どうでしょうか的な打診がくる。


 どうしようかと迷い、お供え物のプリンにご満悦の葵さんに尋ねてみた。


「いい人なんでしょ? シュウくんがそう思う人なら、きっとそうだよ」


 ニコニコと笑顔だが、ちょっと寂し気なのは、やはり幽霊だからだろう。


 彼女はもう、誰かと恋はできないのだ。


 この部屋に、ずっといるしかない。


 どうやったら成仏してもらえるかなんて、俺なんかに分かるはずもない。


 なんか、相談しづらくなってしまった。


「どうしたの?」


 首を傾げる仕草がまた可愛い。


 うーん……幽霊じゃなかったら、絶対にエロいことをしようとして嫌われるに違いない。つまりだ。彼女が俺を良い人だと言ってくれるのは、彼女が幽霊だからだ。……んな事を考えていると、ムラムラしてきてしまった。


 そう、実はこの部屋に引っ越してきてから、この部屋では一度もヌいていない。


 できるか!?


 ずっと彼女がいるんだ……。


 切実に、カノジョが欲しいと思う。


 サイテーな奴だ……。



 ―・―・―



 小丸探偵事務所の、事務の女の子から電話があった。


「お世話になってます。長澤葵さんのご実家、わかりましたよ」


 依頼してから、一か月以上は経過している。


 料金が心配になり、先に尋ねた。


「いくらになりました?」


「調査費用と経費で、十五万円と消費税ですね~」


 高いのか、安いのかわからないが、男の独り身で酒もギャンブルもしないので貯蓄は苦労なく増えてて、支払うのは抵抗がない。それに、葵さんの為ならばとも思える。


「事務所に行けば? 振り込み?」


「お伺いします。所長は他の仕事ですんで、わたしがお伺いします」


 あの変な奴の立ち位置がなんとなく理解できた。彼は雇われ所長で、事務だと思っていた女の子のほうが立場は上なのだ。


 横浜の事務所から、職場まで来てくれるというので、オフィスが入るビルの正面にあるカフェを指定して、午後三時で約束をした。


 あの事件の後、葵さんの家族がどうなったのか……もし、仮に彼女にとってよくない結果ならば、俺は知らないフリをしようと決めていた。まあ、良い結果というのは想像が難しい。それでも、お母さんだけはなんとか無事でいてほしいと思う。


 事件のせいで、まともな生活ができなくなっていたらと思うと、葵さんも浮かばれないじゃないか……浮かんでるけど……いや、浮かばれていないから、部屋にいるのか……ややこしい。


 考えるのをやめた。


 デスクのペン立てからボールペンを抜き取り、スケジュールに訂正を入れる。午後四時の予定をキャンセルだ。パソコンのメールソフトをダブルクリックして、人事部の武藤くんに断りを入れておく。


 営業部の管理職として、応募者向けのインタヴューを受ける予定だったのだが、それよりも葵さんを優先した。


 来週の火曜日なら、時間は合わせるからと謝罪するメールを送り、昼食に出ようと席を立ったところで、新見さんの部下である手塚啓介に呼び止められた。


「織羽課長、ちょっとよろしいですか?」

「メシ行くんだけど、行く?」

「行きます」


 なんだろうかと訝しみながら、スマートフォンの振動で上着の内ポケットから引っ張り出した。


 メッセージで、商談結果の報告が入っていた。山田からで、新見さんが同行してくれていたはずだと思い内容を確かめると、逆浸透膜をうちから購入してくれるという返事を先方から得たとのことだった。


 すぐに金勘定をしてしまうのは悲しい性だが、来期の数字も確実に見えたと安堵する。


「いい事、あったんです?」


 手塚の問いに、大きな取引がおたくの課長のおかげで決まったと教えてやった。


「うらやましいよ。あんなやり手の課長がいてさ……うちなんて、課長が俺だから、皆が苦労してるわ……はははは! はは……どした?」

「……たしかにすごいのは分かるんすけど、要求されることが高くて、疲れますよ」


 エレベーターに乗る。


 一階がすでに押されていて、上の階から乗っていた先客に会釈してドアの近くに立った。


 どこかで見たことある顔だ……。


「蕎麦、食べたい……今日が休みなら、ビールをチビリに蕎麦をズルルといけるんだけどなぁ」


 俺のぼやきに、先客が反応した。ひょろりと背が高い品の良い初老の男性である。


「蕎麦、好きか?」


 肩越しに振り返り、誰だっけかと思いながら愛想良くする。


「ええ、蕎麦は好きですねぇ」

「君、営業の二課だったね?」

「織羽です。首都圏二課です」


 なんとなく、えらい人じゃないかと予感がある。


「ああ、千葉から来た……ひとつ、よろしく頼むよ」


 なんで俺が知られてる?


「工場が泣くくらい注文取りたいですねぇ」


 俺の返答に、相手は笑った。


「蕎麦、股木庵が美味いぞ」


 エレベーターが一階に到着し、俺は『開』ボタンを押して端に断つ。


 先客が、片手をあげて先に出て行った。


「誰だっけ?」


 俺の呟きに、手塚が教えてくれる。


「専務です……課長、自分とこの役員の顔、覚えましょうよ」

「……もう覚えた」


 あぶねー!


 あんた、誰ですか? とか訊いてたらとんでもない目にあってたわ!


 股木庵……。


 手塚が、スマートフォンで探してくれていた。


「この裏手っすね。いつも表通りばかりの店に入ってたから知らないや」

「じゃ、行ってみよう。そして、明日以降は近寄らないようにしよう」


 えらい人と、鉢合わせになるのはつらい。


「そっすね」


 手塚も、同意してくれた。


 裏手の道に出る第三出入り口から外に出て、手塚の案内で歩くと、その店はあった。個人でやっている古い店のようだ。暖簾をくぐり、ガラガラと昔懐かしい扉を開くと、カウンター席にテーブル席がある。迷わず、カウンター席についた。ガラガラなのは、目立たない場所にあるからかもしれない。


「盛り蕎麦」

「俺も、同じものをください」


 俺の注文に合わせた手塚は、おしぼりで手を拭きながら口を開く。


「織羽課長、下半期スタートの時、人事がいつもやる異動の希望……俺、織羽課長の課で働きたいと書くつもりなんで、口添えしてもらえません?」


 俺は、こういうズルイ奴は嫌いではない。しかし、新見さんの部下である彼が、隣の芝生は青い的なものでこっちに来たがっているのはお見通しであるし、逃げの姿勢であるのもわかっているから、苦言をぶつけることにした。


「お断りしまーす」

「なんでですか?」


 ブスっとした彼に、おしぼりで手を拭きながら答えてやる。


「俺のとこで働いて、俺が君に要求する仕事がキツかったら、今度は違うとこに行くか?」

「……そんなんじゃないすよ」

「新見課長の下は、とても勉強になると思うぞ。俺なんかより、ずっと勉強になる上司だ。鍛えてくれるし、叱ってくれるし、ケツもってくれるだろうさ……好かないという感情先行で、新見課長の価値を決めつけているなら、それは間違いだと思う」

「……説教すか?」

「そだよ。違うように聞こえるか?」

「まさか、織羽課長に説教されるとは思いませんでした。俺が、新見課長の部下だからですか?」

「ズケズケとそういう質問をする事はイイ事でもあるし、危ういね。あのさ、俺達、ずっと今の会社で働けると思う?」

「え? リストラあるんすか?」

「いや、そんなの耳に入ってないけど……でも、大きな企業が次々と傾く中、うちは特別で、この先もずっと安泰だって、誰が決めた? そうならないように努力して結果を出さないといけないけど、でも、他人事じゃないよね……だから、そうなった時、他の会社でもやっていけるだけの力量ってのがいると思うよ。俺も、君も……。手塚はまず、新見課長の下で、しっかりと結果を出すのが先じゃないの?」


 無言。


 俺も無言。


 しばらくして、蕎麦が出てきた。


 ツヤツヤとして、のど越しが良さそうな蕎麦だ。箸で掴むと、抵抗なくひと呑み分がすくえる。


 ずっずっ……。


 こういう美味しい蕎麦、葵さんにも食べさせてあげたいなぁ……。


「織羽課長……でも俺、新見課長みたいな営業は無理です」

「俺も無理。だから、俺は彼女にはなれない……まずはそれを認めたから、張り合わなくて済んでるかも……ずっずっ」


 ここの蕎麦はうまい!


「俺、営業、向いてますかね?」

「知らないよ。でも、向いてなければできないってことはないだろ。自分が何に向いてるなんて、わかって始めるラッキーな奴はこの世の中、ほんのわずかだろ」

「そんなもんすかね」

「そんなもんだろ。新見課長だって、営業、向いてないと思ってたりして……」

「まさか! 自信の塊ですよ!」


 確かにそう見えるかもしれないが、でもあれは……自信の無さの裏返しなんだよ。


 日本酒飲んで、恋人がほしいと酔って泣き出した彼女を知っている俺には、そう思えるんだなぁ……。


 もちろん、手塚には言わない。


 新見さんに、怒られるのが間違いないからである……。


「新見課長も、織羽課長も、三十代で課長職でしょ? うちでは出世組ですもんね……俺みたいなできない奴の苦しみは分からないんですよ」


 まあ、転職組の三十四歳で課長は珍しいかもしれない。


 これ以上は望めないでしょうな……。


 しがみつこう……大過なく過ごせる日々を望む!



 ―・―・―



 午後三時前。


 少し早くそのカフェに入った。カウンターで注文し受け取るスタイルは、スタバのせいなのかもしれない。どこもかしこも、これである。ドトールが先か? などと思いつつ空いている対面式のテーブル席を見つけて座った。


 スマートフォンが震える。


 上着の内ポケットから取り出し、メッセージを確認する。


『加奈です。今度、ご飯を作りに行ってもいいですか? 結婚を前提にお付き合いしたいので、料理の腕前、知って欲しいんです』


 デレる。


 男を捕まえるには、胃袋を捕まえろという言葉があるらしいが、これの事かな? それにしても、よくもまあ俺を選ぼうと思ってくれてるもんだと感心してしまった。


 自分で言うのもおかしいが、取り柄は幽霊が見えることぐらいで、他は探さないと……いや、見つけられない。


 身長……人並み。


 性格……どこにでもいるだろう。


 容姿……顔は自慢じゃないがひどいと思う。


 貯蓄……これかもしれない。


 貯金の額を訊かれた時は驚いたが、結婚する相手がどれくらいの貯金があるか大事だと加奈さんは言っていた。家を買うにも、車を買うにも、子供の教育にも、大事なことだと力説された。そして自分はこれくらいと指三本を立てていた。

 三十万? と尋ねたら笑われた。


「一桁、上です。少ないですけど」


 照れた顔も可愛かったなぁ……。


「織羽さん、お待たせしました」


 顔をあげると、例の事務の女の子がペコリとお辞儀を返してくれる。書類封筒を差し出され、対面に座った彼女はコーヒーを啜り、報告してくれる。


「詳細は、書類を見てもらえればわかると思います。うちの所長、スケベで変態で不真面目ですけど、仕事だけはちゃんとさせてますので、安心してください」


 安心できない言われようだと苦笑し、書類を取り出し眺めつつ彼女の説明に耳を傾けた。


 長澤葵さんは、母親が再婚する前は木村葵さんという名前だった。そして現在は、両親は離婚し、葵さんのお母さんは木村姓に戻っている。まあ、当然だろう。父親のほうは裁判の結果待ちだが、自供し反省していることから量刑はいくらか軽くなるのではないかと補足説明がされた。


「木村文乃さん、葵さんのお母さんは横浜にお住まいですね。ご実家が緑区にありまして、そちらに現在はおられます。あの事件の後、意識不明だった葵さんは病院で亡くなられ、福千寺で……お墓の場所も、書類の通りです――」


 お参りしよう。いや、そこには彼女はいないのだが……気持ち的にだ。


「お母さんのご住所もその通りで、今は近くのスーパーでパートをされていますね。お訪ねになるなら、そちらに伺ってからのほうがすれ違いにならずに良いと思いますよ」


 高齢の両親――葵さんにとっての祖父母と、文乃さんの三人暮らしで、弟――葵さんの叔父さんが近くで農業をされているのか……。


 俺は、お金の入った封筒を事務の女の子に渡し、領収書をもらって別れた。


 カフェの空調はギンギンに冷えていたので、外に出るとめちゃ暑く感じる。陽射しが熱い! 封筒をかかえ、上着を脱いでオフィスへと帰る。


 盆休み、葵さんの実家に行ってみようか……。


 帰る実家なんて、俺にはないしなぁ。



 ―・―・―



 事件は、週末に起きた。


 七月も最後の日曜日……高橋加奈さんが、俺の部屋にご飯を作りに来てくれたのだ。夕食をと言ってくれた彼女に、悪い男になりかねない欲望まみれで溜まりまくっている俺は、昼食でとお願いした。


 彼女との時間は平穏だった。


 問題は、彼女が帰った後である。


 加奈さんが部屋にいる間、葵さんも当然いるのだが、前半と後半でガラリと態度が変わった。


 分岐点は、俺がマヨネーズを買うためにコンビニへと出掛けた時だ。


 帰って来ると、おっそろしい形相の葵さんが、加奈さんの背後でシネシネコロスゾというオーラを発していたのだ。クリクリとした可愛い目がその時は窪んで真っ黒となり、口は怒りに震えて噛みつかんばかりであった。


 俺が帰宅したと気付き、葵さんはコロリといつもの顔になったが、怒っていた。


 食事をして、お茶を飲んで……る間も、目が怖かった……。


 加奈さんを駅まで送り、部屋へと戻った時に、どうしてしまったのかを訊いた。


「何があったの?」


 葵さんは、こう返した。


「あれは、絶対にやめたほうがいい!」


 ここからは、葵さんの証言が真実であればという前提になる。


 高橋加奈は、俺が部屋を出てすぐ、室内をいろいろと探したそうだ。そして、本棚の根元にある引き出し棚の中から、印鑑や鍵、通帳などを引っ張り出してどこかに電話をかけたらしい。


『もしもし? もってるよ。本当にすっごい溜めてる。まっかせて! 絶対にモノにするから! うんうん……わかってるって。』


 こんな事を言っていたらしい。そこで葵さんが、こりゃいかんと思い、攻撃モードに切り替わり加奈さんを呪い、彼女は悪寒や震えで、周囲を窺い何事かと脅え始めた。


 そこに、俺が帰ってきたのである。


「シュウくんに、コンビニから出て帰る時に、お茶を淹れて待ちたいから絶対にメッセージしてとかお願いしてたのも、部屋の中を探ってたの知られたくなかったからなんだよ!」


 葵さんは、憤りのあまり、ふつうの顔なんだが黒い血管がビシビシと浮き出ては消えると繰り返していた。


 ほんわかモードと、おっそろしいモードの境にいるって感じで、俺に懸命に訴えてくれたのだ。


 でも、俺はどうもそれを信じられなかった。


 駅で、別れ際、ほっぺにチューをされたからではない!


 だんじて、そうではないのだ!


 あの高橋加奈さんが、天使のような、優しさと気配りと料理の腕前を持つ彼女が、まさか俺を騙そうだなんて……そして電話の件だが、俺との結婚を決意したとも受け取れるではないか……たしかに、通帳を勝手に見たりとかされたのが本当であるなら、それはショックなのだが、過去、騙されてきたのかもしれない。


「シュウくん……私が嘘を言ってるって思ってる?」


 いやいや、そういうわけではなく、加奈さんの行動は悪意あってのものじゃないんだよ的なことを伝えた俺は、葵さんに呆れられた。


「恋は盲目になるって、シュウくん見たらよくわかるわぁ」


 嫌味を言うようになってしまわれましたか……。


 とにかく、そんな事があったもんだから、葵さんはことある事に高橋加奈だけはやめとけと言ってくる。


 こういう事を相談するべき相手が、こうも言い張るので、俺とすれば相談できる相手が無しとなったわけで、どうすべきかと悩んでいるうちに、暑い夏はますます激しさを増し、ひぃひぃと暮らす中で、盆休み前となっていた。


 新見課長が、休みを前に誘ってきた。


 高梨加奈さんのことを、相談する相手を新見さんにしてしまうのはどうかとも思ったが、でも他におらず、俺は彼女と居酒屋『はな』に入ったのだ。


「黒龍、二合でぇ」

「はいよ!」


 高橋加奈さんの件を相談したら、日本酒を頼んだ新見さん。


 もっと酔わないとやってられないって事か?


「ショックだよ。織羽課長に、そんな相手がいて、そんな事を相談できる女友達までいたなんて……モテない君だと思ってたのに……」


 そっちがショックなんか……。


「その女友達とは、本当に何もないの? もしかして、好かれてるんじゃないの?」


 葵さんの事は、女友達だと説明している。


「いやぁ……嫌われてはないと思いますけど、逆に針がフってるとも思えないですよ」


 だって、幽霊だからね。


「だったら、その女友達が、カノジョ候補が人とそういう会話をしてたのを聞いてしまったのは、意外と本当なんじゃないの? あ、でも、ガールフレンドっていう曲知ってる?」

「アブリルさんですか?」

「さんをつけるな……あれみたいな感じがする。男友達にカノジョができて、突然に自分の気持ちに気付いて気に入らん的な……」

「え? あれってそういう歌なんですか?」

「そうよ。ポップな感じだけど、内容は女のいやぁなところが出まくりみたいな」


 ショックだ。


 俺は日本酒の酌をしてやり、お返しを受ける。イカの沖漬けを食べ、日本酒をチビリとすると、ふわりと香りが口内に広がり、苦味と甘味が舌と鼻を喜ばしてくれた。


「これ、旬なんで味見をどうぞ」


 大将が、スズキの刺身にシマアジもひと切れつけずつてくれた。


 話してみると、新見さんは一人でちょくちょくとここに出入りしているようで、大将夫婦と仲良くなっていた。そう言えば、店に入った時に大将の奥さんが、今日は二人ですねなんて声をかけてきてたっけ……。


「織羽課長は、どっちを取るの?」

「どっち、とは?」

「紹介してもらった人なのか、女友達なのか……」


 幽霊を選択するのは如何なものか……。


 つまり、一択しかないのだ。


「そりゃあ、紹介してもらった人ですね。結婚してみたいんで」


 新見さんは、だったらそうするしかないじゃんとぶっきらぼうだ。そして続ける。


「でも、珍しいね。男の人で結婚願望て」

「ま、カノジョは欲しいです。で、俺も三十四だし、いろいろと考えもするわけです。それに、両親が死んでるのが関係しているのかもしれませんけど、こう……家族っていうものを意識しますねぇ」

「わたしは両親も健在だけど、家族ってのをとっても考えてますよ……一緒に考えてくれる人がいないだけで……」

「……お見合いクラブ、どうなんです?」

「もっと条件を下げたほうがいいて言われた……五十代もOKとか? バツイチ、バツニ、バツサンもどんと来いとか? 大きな子供がいても構わないとか? こんなんなら、これまでの男で決めておくんだった……」


 現実が、ここにある……。


「これまでのカレシは、駄目だったんです?」

「結婚を考えた人はいたけど、むこうは全く考えてなくってさ……ま、世間の男ってのは、それが普通でしょうよ。でも、ムカつくのは、わたしと別れて一年後に、二十二の小娘と結婚したってこと……デキ婚よ。わたしん時はゴムを二重にするような奴だったのに」


 えげつない話だ……てか、二重にして気持ちいいか?


「二重て、全くイケなさそうですけどね」


 新見さんが、意外だと溢す。


「織羽課長って、下ネタ平気なのね?」

「普通、女の人がNGじゃないすか?」

「女子会て知ってる? 男みたいな女子ばっかよ」


 新見発暴論始まる……か。


「……下ネタばっかて事です?」

「エロメスばっかで、男の話、あれが良かった、こうされて良かった、あんな事があってサイコーだった……て、独り身のわたしを見て、あ、ごめーんて……泣ける!」


 ひがみが、暴論の原因であるようだ。

 日本酒がなみなみと注がれていたコップが、空となる。

 それから俺は、愚痴に付き合い、酒に付き合いながら、一応はアドバイスらしきものをもらった。


「その女友達と、紹介してもらった子、どちらを信用するかでいいんじゃない?」


 それからもしばらく、飲み、飲み、飲み続け、二人ともにタクシーで帰宅を選んだ。混雑する電車は暑く、酔ってフラフラの今はそのぬるさで悪酔いしてしまうかもしれないと思ってのことである。


 後部座席で悩み、タクシーを降りても考える。エレベーターに乗り、三階に到着してもまだ決めかねていた。


 玄関を開ける。


「おかえりぃ。お疲れ、シュウくん」


 笑顔の葵さん。


 うん……ここは、彼女がああまで言い張った事実を信用しよう。



 ―・―・―



 俺は翌日、お見合いクラブに電話をして、高橋加奈さんにお断りを入れた。


 だからだろう。


 その日は、ずっと加奈さんからメッセージで、電話をしてもいいか? 会えないかと連絡が入った。まあ、家に訪ねて来られても、インターフォンでお断りをすればいいかと気楽に考える。


「大丈夫……ストーカーしてきたら、家にあげてあげなよ。私が恐がらせてあげるから」


 葵さんの心強い支援もあって、盆休み一日目が終わる頃には、心配はいらないと思うようになった。


 盆休み二日目。


 電車に乗っている。


 東横線だと遠回りになるので、渋谷まで出て田園都市線を使った。


 横浜は不思議なところだ。都会なんだが、田舎である。北部は、まさに田園だ。長津田駅で電車を降りた俺は、教えられた寺まで歩くことにした。駅から十五分も歩けば到着できる。長津田駅の南口から外に出て、まっすぐに二四六号線を目指す。その沿線下り方面に寺があるはずなのだ……が、やはり慣れない場所は困る。地図で見るのと、歩くのでは微妙に誤差があり、グーグル先生に尋ねながら、最終的には人に教えてもらった。


 途中、仏花を買う。


 アスファルトの照り返しが厳しい。


 駅から少し歩けば、畑や田んぼが広がる光景は千葉にいた頃以来だ。二十三区はたしかに緑溢れる大都市だが、人の手が入っていない自然はこうして離れないと目にはできない。山々は力強く緑に染まり、蝉の鳴き声は夏真っ盛りだとつきつけてくる。タオル生地のハンカチで良かった。葵さんが、出掛けるならそっちにしろと言ってくれたのだ。


 汗を拭いやすい。


 山門が見えて来た。


 貯水池はカラカラに干上がっていて、コンクリートは火傷しそうな程に熱そうだ。


 探偵事務所からもらった墓の場所が記された見取り図を、バッグから引っ張り出して歩く。


 途中、水道があったので桶を借りて、水をわけてもらうことにした。寺の水は、井戸水を汲んでいるらしく蛇口をひねると気持ち良いくらいに冷えた水が流れ出した。


 花と水の入った手桶、柄杓、バッグといった持ち物の俺は、ずらりと並ぶ墓石に挟まれた細道を進んだ。人が交差するのも難しい幅だが、こんなところが賑わっているわけもなく、眩しい陽射しに目を細めながら歩く。


 何度か、手桶を地面に置いて見取り図で場所を確認する。


 葵さんの墓が、見えてきた。


 あれだろう。


 その前に、女性が立っている。


 年恰好から、もしかしたらと思い、喉を鳴らした。


 五〇過ぎと思われる女性が、近づく俺に気付く。


「こんにちは」


 挨拶をすると、怪訝な表情ながら会釈を返してくれた。しかし、俺が葵さんの墓に用があるとばかりに立つと、まじまじと見つめてくる。


「あの、どちら様で?」

「葵さんの友人です」


 俺の返答に、彼女は目を見張った。


「お参りさせて頂いても、よろしいでしょうか?」

「どうぞ」


 譲ってもらい、水を周囲に軽く撒いて、バッグから線香を取り出す。すでに火の点いた蝋燭があったので拝借した。


 墓石は、蒸発する水で陽炎の中に立つかのようだ。


 手を合わせる。


 葵さん、君をどうやったら成仏させてあげられますか?


「あの、葵とは?」


 女性の問いに、俺は墓から一歩、後退する。


「お母様ですか?」

「ええ、そうです」

「……笑わないで、聞いてもらえますか?」


 彼女は、パチパチと瞬きをした。


「俺は、霊感が強いのかどうかわかりませんが、霊が見えます」

「ああ……もう、そういうのはお断わ――」

「目黒駅近くのマンション、三〇三号室に今、住んでいるんです」

「……」


 葵さんのお母さんは、視線を落とした。


「葵さん、そこにいるんです。まだ……」

「……」

「とても素敵な、お嬢様ですね? 今日……ハンカチはタオル生地で持っていったほうがいいよと……言ってくれたんですよ」


 ジーンズのポケットから、汗に濡れたタオル生地のハンカチを出して、汗を拭う。ジリジリと焦がすかのような陽光のせいで、止まらない。


「優しくて、可愛くて、でも……まだ、あの部屋から出られないんです」

「……私が信じると?」

「いえ、ただ……もし信じてくれるなら、部屋に来ませんか? 彼女、あそこから出られないんですよ」


 葵さん墓の前で、向かい合ったまま見合う。


 蝉が一斉に鳴き声を止めた。


 ここで、彼女は口を開く。


「そうね……今日、この場所で会ったのも、もしかしたら……」


 葵さんが、年齢を重ねたらこうなるのかと思えるほど、人の良い笑みを浮かべたお母さんに、俺は花を手渡した。



 ―・―・―



「お帰りぃ、シュ……」


 俺が、葵さんのお母さんを先に部屋へと入らせると、正面奥に立つ葵さんが固まる。


「彼女、正面にいます。見えます?」

「いいえ。でも、いるんでしょうね……なんか、そんな感じ……」


 ゆっくりと、室内を確認しながら進むお母さんと、葵さんが交差する。手を伸ばして、母親に触れようとした葵さんは、自分をすり抜けリビング窓へと近づいたお母さんに振り返る。


「シュウくん……」


 葵さんの声は、お母さんには届かない。


「葵さん、お母さんに伝えたいこと、ある?」


 俺の問いに、二人が振り向く。


 年齢の差が、表情の違いだと思えるほど、似ていた。


 泣きそうな葵さんと、笑うお母さん。


「織羽さん、葵はなんて?」


 俺は、葵さんの言葉、そのままに伝えた。


「お母さん、恨んでなんかいないよって……言ってます」


 お母さんの笑顔が、歪む。


「……お母さんの幸せを壊して、ごめんなさいって……」


 葵さんのお母さんは、その場で膝をついた。



 ―・―・―



 その日、葵さんのお母さんと、葵さんの通訳を終電までした。二人は俺を介して、これまで交わせなかった時間を取り戻すように会話をした。


 よく俺なんかを信じてくれましたねと、お母さんに伝えると笑われた。


「お墓に来て、あの部屋に住んでるって……詐欺や悪戯にしては手が混んでるわよ。それに、普通は家に訪ねてくるもんでしょ?」


 家に行く前に、あそこで会えて良かったと思う。


 もしかしたら、葵さんの為に、神か仏が情けを示したのかもしれない。彼等はとてもいい加減で、怠惰で、傲慢だけども、気が向いたように、こんな奇跡を起こしたりするもんだ。


 そう、強く思えたのは、お母さんを目黒駅まで送り部屋に戻った時だった。


 葵さんは、半透明になっていた。


 俺は、何事かと慌てたが、彼女は泣き笑いをする。


「シュウくんが、ここに住んでくれて、とても嬉しかった。ありがとう」


 お別れなのだと、直感で分かった。


「葵さん、生きてる君と会いたかった。好きです」

「未練残るからやめて……」


 笑顔で涙を流した彼女が、足先からゆっくりと消えて行く


 消えていった。


 俺は、とても幸せな気持ちと寂しさで、瞼を閉じる。


 溜めていた涙が、こぼれた。



 ―・―・―



 盆休み、最終日。


 スマートフォンの電源を切りっぱなしで、レンタルしてきた映画や、ネットで買った本を読むばかりの休みも終わりだ。葵さんとの日々があったから、俺はすっかりインドア派になってしまっている。


 明日から仕事かと、晩飯を作ろうとキッチンに立った。


 ピンポーンと、インターフォンが鳴る。


 高橋加奈さんだったら居留守だと決めて、インターフォンのカメラが送ってきた映像を見た。


 お見合いクラブの、俺の担当をしてくれている桧山さんだった。


「どうしました?」


 問うと、彼は「ああ、良かった」と言って続ける。


「電話にもお出にならないから、高橋さんとトラブってるのかと思って……彼女から連絡があっても、出ないでくださいね」


 電源をきっているから、連絡はつかないに違いない。


「ああ、はい。それは大丈夫ですよ」

「そうとうにこちらにも連絡が入ってて……ちょっといいですか? 話をさせてもらっても」


 俺は、迷惑をかけているという後ろめたさもあって、玄関を開けた。


 笑顔の桧山さんが、右手に持ったものを突き出してきた。


 一瞬で身体が痺れ、次に激痛が全身を襲う。立っていられないとはこの事で、声もでない。息を吸おうと口を開き、壁に背中を打ちつけ倒れた。


「ったく、手間取らせやがって」


 桧山さん……が、俺の両手を後ろに回し、ガチャリと何かを嵌めた。手錠か何かだと思う。そのまま部屋の奥まで引きずられる俺は、玄関に現れた微笑む加奈さんを見た。


 ガチャリと、玄関が閉じられる。


「もう最悪。プライド、ガタガター」


 加奈さんが、スタスタと本棚へと歩み寄る。そして、引き出しから通帳や印鑑を取り出し、バッグから財布を引っ張り出す。


「暗証番号、言え。そのほうが俺達も楽だ。お前も助かる。どうだ?」


 桧山……さんはもういらない。


 そういうことかと、今更のように理解する。


 桧山は、金を持っている男を加奈にあてがい、加奈は男と仲良くなって金を頂戴していた。


 ところが、俺が断ったもんだから、金を取ることができずにいた……どうやって金を奪っていたか知らないが、結婚詐欺みたいなもんだろう。


 黙っていると、加奈に右頬を殴られる。


「おめーみたいな奴にチューしてやったのに断りやがって、この馬鹿」


 葵さん、こんなのに騙されていた俺は本当に馬鹿です。


 桧山が、後ろ手に手錠を嵌められた俺の背後にしゃがんだ。そして、左の人差し指を握る。


 嫌な予感しかしない。


「ユウ、タオル、持って来い。おっさん、喋るか?」

「……お金はあげるんで、離してくれません?」

「馬鹿か? 喋るのが先だろ」


 わかっている。


 喋ったら、俺は殺される。いや、どちらにしても、銀行窓口が開く時間になれば、殺される。今、生かされているのは、コンビニのATMで引き出したいからに違いない。何軒、回ってそうするのか知らないが、これをすると決めた段階で、金を手に入れさっさと消えるつもりなんだろう。


 加奈はユウと呼ばれていて、彼女は風呂場からハンドタオルを持って来た。


 なんていう悪戯だろうか。


 葵さんがいれば、助けてくれていたかもしれないのに、彼女はもう、成仏していないのだ……。


 俺はどこまで運がないのかと情けなくなる。


 免許証やら、クレジットカードやらを財布から抜き取るユウを眺め、どうするかと悩んでいると、桧山が言った。


「おい、口にタオル、突っ込め」

「や――」


 口にタオルを突っ込まれ、不安で心臓が激しく鼓動した。


「一本目!」


 ボギリ。


 人差し指を、反対側へと折り曲げられ、俺は激痛に叫んだが声は出ない。汗が噴き出て、吐き気で胃液が喉を昇ってくる。タオルを外され、咳込み胃液を吐き出した。呼吸ができず、口を開いて必死で息をする。苦しく、痛くて涙がこぼれた。


「二本目、いきたいか?」


 ブンブンと首を左右に振る。


「二本目、いきまーす」


 桧山の声に、キャハハと笑ったユウがタオルを俺の口に押し込む。抵抗したが、頭を殴られ背中を蹴られ、押さえつけられ無理に入れられる。


 バギバギという音と、焼けるような痛みで意識が飛びそうになる。身体が激しく震え、頭痛に目を開けていられない。


「言え」


 タオルを取られ、後頭部を平手で叩かれる。


 涙で歪んだ視界が、一瞬で暗くなった。


 照明を消されたと思ったが、それは彼等ではなかった。


「なんだ?」


 桧山の声。


「どうしたの? ねえ、あんたがしたの?」


 ユウが、俺の髪を掴む。


「ちが……ちがう」


 俺じゃない。


 ゾクリとする。


 室内の気温が一気に下がった。


 カツン……カツン……と、何か軽いもので金属を叩くような音。


 生臭い風が、窓も玄関も閉じているのに、流れる。


 照明が、点く。


 仁王立ちしていた桧山が、突然、ユウを見て目を見開く。


「おま! お前! 誰だ!」

「はぁ? あんた、何言ってんの?」

「化け物! くそ! なんだこれは!」


 桧山が、ユウから後ずさりをして離れた。


 それを見て、首を傾げた女は、次の瞬間、リビング窓に映る自分の姿を見て驚くことになる。


 髪は足先まで伸びた黒で、指の爪は長く伸びて曲がっている。白い肌には、黒い筋が蚯蚓のように浮かび上がり、ドクンドクンと脈打っている。しかし顔は、皮膚が剥がれて蛆虫の湧いた顔は見ていられない。


「来るな! 殺す!? お前、何なんだよ!」

「なに? これ何? わたし? わたしなの?」


 自分の顔を触り、リビング窓に映る女も同じ動作をすると脅えたユウは、何者かを恫喝する桧山と喚き合う。


「化け物! くそ! 触るな!」

「わたし? 嘘よ! こんなの嘘!」


 ユウが、弾かれたように振り返る。


 玄関を開け、外に飛び出した彼女を、追うように桧山が足を踏み出す。


「やめろ! お前! 全部、ばらすのか!? やめろ!」


 会話がかみ合っていない。


 桧山は、キッチンの包丁を手に、ユウの後を追って行った。


 そこで、ガチャリと手錠が外れる。


 俺は、ふうふうと息を吸い、吐きながらスマートフォンを手に取る。左手の人差し指と中指は、何かに触れただけで激痛が走る。


 右手だけだと、こうも使いづらいのかと痛みと苛立ちで叫んだ。


「くそ! 痛い!」

「シュウくん、ごめんね。遅くなって」


 その声に、俺はハっと振り返った。


 誰もいない。


「葵さん?」


 返事はない。


 スマートフォンの電源があがったと同時に、電話が鳴った。


 驚いて見ると、新見課長からの着信だ。右手だけで操作をした。


『もしもーし! ずっと電源きってて、ど――』

「新見課長! けーさつ! 救急車!」


 俺は叫んでいた。



 ―・―・―



 結婚詐欺を繰り返していた今村裕子と、桧山大輔。


 今村裕子は、目黒駅に駆け込み、電車が入ってきたというのに線路へと飛び込んで死亡した。


 桧山大輔は、道路の真ん中で、手にした包丁で自分をめった刺しにして死んだ。


 俺は、二人が仲間割れをしたと証言した。


 でなければ、面倒なことになるからだ。


 左指二本の骨折は、地味に痛い。


 パソコン操作が困難極まり、職場ではお荷物だと皆に笑われる。そして、お見合いクラブに登録していたことが広まって、男たちからは同情され、女性社員たちからは、相手に自分はどうかとアピールされるという嬉しい誤算があった。


 でも、俺は新見課長の睨み顔が恐くて、社内で相手は選ばないという掟を自らに課している。


 あの時、俺を助けてくれたのは間違いなく葵さんのはずだ。でも、彼女はあれから現れない。部屋に帰っても、姿は見えない。俺の力が消えたのではないのは、オフィスに居座る男の幽霊は見えるし、いろんなところで、あちこちに幽霊を見るからだ。


 新見課長と、居酒屋『はな』のカウンターで並び、この不思議な体験を話した。


 俺がこの部屋に越してきたら幽霊がいて、彼女と仲良くなり、彼女のお母さんを探して部屋に連れてきたら成仏してもらえたみたいで、だから彼女は、二人に殺されかけたところを助けてくれたのだと。


「ふぅん……わかった。織羽課長の女友達って、その幽霊ちゃんでしょ?」

「……そうです」

「織羽課長、その幽霊に惚れてたんだねぇ」


 日本酒を飲みながら、こんな会話をしているもんだから、大将も奥さんも俺たちが酔っぱらったと思い、黒龍のおかわりを頼むと、日本酒と水を同時に出された。


「可愛い幽霊だったんですよ」

「ふぅん……ライバルが幽霊かぁ」

「……ライバル? 何のです?」

「……その幽霊ちゃん、成仏させてくれたからじゃなくて、織羽課長を好きだったから、助けたんでしょ? きっと」


 ニコニコと無言の新見課長は、俺に酌をしてくれる。


 気味悪いなと思いつつ、それを受けてお返しをした。


「幽霊ちゃんに、会いたかったな」


 新見さん……それは、おっそろしいモードの葵さんを知らないから、言えることですよ。


 ただ、最初はあれだけ怖い顔をしていた彼女が、成仏できたことで、世の中の幽霊は本来、成仏したがっているのではないかと思うようになる。


 だから俺は、もしかしたら、彼女も助けることができるかもと考えていた。


 ずっと気になっていた人が、いる……。



 ―・―・―



 夏も終わる頃、俺はあの部屋に入った。


 管理する不動産屋に話をして、向こうも事故物件だと分かっているうえに、人が入ればすぐに出て行くということから、俺の話をいくぶんか信じてくれたようで、一夜だけという条件で許可をくれた。


 一夜で十分だ。


 絶対に、現れるのだと確信している。


 文京区の、古いマンションはあの頃のままで、懐かしいなと感じつつ、玄関のドアを閉めた。


 時計を見ると、もうすぐ現れる時間だ。


 俺は、線香を用意していて、この香りで霊が落ち着いてくれたらと期待していた。


 一Kの間取り。


 少ししか住んでいないけど、強烈な記憶となって俺の頭の中にある部屋だ。


 しばらくすると、部屋の隅に、それは現れる。


 闇の中で、壁を背に立つ俺は、ゾクリとする感覚に身震いする。


 裸の太った男が、細い刃物を持って、俺に背を向けて現れた。たるんだ腹は、後ろからでもわかる。そして、血と尿の匂いが濃くなった。


 女の子の悲鳴。


 俺は、位置を変えた。


 男は、懸命な顔で刃物を動かす。女の子の身体に、刃を滑らせながら息を荒くしていく。ふうふうとダンコ鼻をふくらませ、口をだらしなく半開きにして涎を垂れ流しながら、全裸で女の子を前にしゃがんでいる。


 彼は、彼女の太腿へと刃を滑らせ、幾本もの赤い線をつくっていた。


 女の子は、黒髪を振り乱し喘いでいた。痛みと羞恥で、悲鳴と鳴き声を交互に発する。脚を開かされた格好で椅子に固定され、両手は背もたれに回され縛られている。


 変態め……。


「いや、いや……やめて……やめてください」


 デブが、彼女の懇願を無視して、乳房に刃の先端を突きつけた。プツリと皮膚を破ったそこから、血がするすると流れ、白い柔肌を濡らした。


「おい、もうやめろ」


 声をかけて、線香に火をつける。


「ずっと、ここでそうやってるのか?」


 デブが、俺を見る。


 それは脅え、恐怖し、だが助けを求めるような、すがる目だ。


「女の子を解放してやれ。望みがあれば、言ってみてくれ。できる事はするから」


 男は、口をパクパクと開閉し、女の子を痛めつける手を止めた。それで、彼女が俺を見る。


 挑むような、睨むような、どうしてそんな顔かと訝しんだ時、彼女が口を開いた。


「邪魔をするなぁ! 今! サイッコーにいいとこなんだよぉおおおお!」


 叫んだ少女の目が窪み、肌に黒い血管が浮き出る。生きているように脈打ち、膿のような涎を撒き散らして、悪臭と声を発する。


「この男は絶対に手放さなぁあああい! 脳みそ、痺れるくらいにキッモちイイことしてんだぁああ!」


 老婆のようなしわがれた声だ。


 聞くに耐えない類の声だ。


 デブ男が、頭を抱えて口を開く。


 金切り声が、口の動きに遅れて吐かれた。


「きいぃいいああああああああ!」


 すりガラスに爪を立てた時のような、肌のざわつきと激しい悪寒に襲われる。


「ぎぃいいあああ! ぎぃいいああああああ!」

「邪魔をするなぁあああぁあああ!」


 俺は、その部屋から逃げ出した。

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俺はその部屋から逃げ出した。 ビーグル犬のポン太 @kikonraku

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