俺はその部屋から逃げ出した。

ビーグル犬のポン太

第1話 その部屋には幽霊がいた

 いた。


 リビングの隅で、おっそろしい形相の女がこちらを睨んでいる。


「いやぁ、ここはリフォームもされていて、この家賃ですから、オススメですよ」


 業者のおっさんが、ニコニコ顔で言う。


 で、女を見る。


 黒い髪は肩まで伸びているがボサボサで、目は見開き血走っている。右の黒目は上を向き、左の黒目は下を見て、口は半開きだが、それは歪な笑みにゆがんでいるからだ。首を傾げるように左に倒しているが、折れてるんじゃないかと思うほどに曲がってる。


 つまり、この女はこの部屋で、首を折られて死んだという事……?


「お祓いも終わってますから、大丈夫だと思うんですけどね」


 おっさんの説明に、まだいますよ、と答えていいものかと苦笑した。


「目黒駅まで徒歩二分で、一LDKで、家賃六万円ですからね。すぐに埋まっちゃいますよ」


 他の人が入っても、すぐに出て行くことになりそうだ。


『……なんでわたしが……不公平だ……許せない……お前も死ねばいい……』


 不気味な女は、ずっと俺を見て呟いている。


 これはひさしぶりにキタなぁと感心する。


 でも、幽霊だから大丈夫だと思った。


「じゃ、ここに決めます」


 笑顔の俺に、笑顔のおっさん。


 ギョロリと目玉を動かして、俺に焦点を合わせてニタリと笑う女。


 部屋から出て、真っ昼間だというのにはっきりと見えるほど強い霊の存在をおっさんに教えてやる。


「いましたよ。俺、見えるんで」


 彼の笑顔が固まりました……。


「え? まさか……え?」

「いましたよ。すっげぇ、睨んでました」

「……借りるの?」


 窺うような視線のおっさん。


「借ります。いやぁ、六万は魅力です。普通は倍以上でも厳しいですもんね!」

「そ……そうだよ! 安いにはそれなりの理由があるもんさ!」


 おっさんの表情が明るくなったものだから、おめぇが言うなと脳内でツッコんでおいた。


 おっさんの事務所へと向かう途中、彼の知る情報はどの程度かと気になる。あの不気味な女とこれから付き合っていかねばならず、情報は欲しい。相手を知りつつ無干渉こそ、事故物件で生活をする俺の掟である。相手もそうであれば、最高なのだが……あの様子ではしばらくは絡まれるかもしれない。


 質問してみる。


「殺人事件でしょ?」

「お! すごいですねぇ! さすが見えてるだけありますね!」


 おっさんは、俺が借りるものだから笑顔である。


「でも、恐くならないの?」


 一応、念押ししてきた。


「恐くないというより、慣れちゃって……ほら、あそこの交差点」


 俺が指差した交差点を、おっさんも見る。


「男の人……二十代かなぁ……その人が道路の真ん中で交差点を歩く人を捕まえようとしてますね。捕まったら……多分、靴が脱げたりとか、転んだりして……信号が変わっても動けないとか……? 車のほうが乱暴な奴だったらアウトかもしれませんねぇ」

「……あの交差点で、私、靴が脱げたことあるよ……クラクションをすっごい鳴らされたんだけど、なぜか脚がすくんで動けなくて……他の人に助けてもらったことあるよ」

「信号が変わりそうな時に、無理に通るのは止めたほうがいいですよ」

「そうだね……でも、そんななら危ない目にあう人、もっと出るんじゃないかな?」

「幽霊の脚がグチャグチャに折れて、身体もなんかベコベコですね。動きがモッソリです。だからなかなか捕まえられないみたいですね」

「……」


 おっさんの事務所が見えてきた。株式会社ルーム検索という社名だ。


「で、さっきの部屋、どんな殺され方だったんです?」


 おっさんは、交差点の方向を眺めたまま歩いていて、俺の声に驚いて躓くとキョロキョロとする。


「いや、それは余所見してるから」


 俺の指摘に、「あはははは」と笑うおっさんは照れていた。


 事務所の玄関口から中に入り、若い女性社員が俺に挨拶をしてくれる。応接スペースに通され、丸テーブルを挟んで書類を持ってきたおっさんと向かい合う。


「あそこ、二〇歳の大学生だったと思うんだけどね……パパに住まわせてもらってたみたい。で、大学でも仲の良いカレシができて、パパにバレて……大喧嘩でって事らしいんだけど、これも聞いた話だからねぇ」


 パパというのが、父親を指さないことくらいは理解できる。


「何年前です?」

「三年前」


 まだホカホカかよ……。


 てことは、まだまだ怨みつらみ妬みが強いのね……。


 書類に記入する俺に、おっさんが質問をしてきた。


「これまでも、似たようなとこに?」

「え? ああ、そうですね。今の部屋、前の住人が首吊った状態でずっと俺を見ていますよ。害はないから無視してますけどね」

「……いっちばん、キョーレツだったのは?」


 おっさんは興味をもったらしい。


 こんな俺でも恐怖を覚えたあの部屋が、イッチバンだ。


 あれは大学入学の時に借りた部屋だ。その部屋は、古い家を壊して建替えたマンションの一室だったのだが、位置がピンポイントだったのだろう。


 デブい中年男が、椅子に全裸で縛られた女の子を延々と刃物で切りつけていた。運悪く、深夜一時から四時という時間限定で現れるので、下見の時は嫌な空気だなというくらいしかわからなかった。


 殺人鬼のデブキモ男と、犠牲者の女の子が、セットで現れるという恐ろしい物件……。


 毎晩、寝ていると女の子の悲鳴、泣き声、助命の叫びで目が覚める。


 そして午前四時まで、きっちりと一部始終を見せつけられるのだ。最後は、女の子を殺したデブ男が、自分の頸動脈を切って終わりというもので、俺でも一週間で限界だった。知り合ったばかりの奴らを頼って部屋を渡り歩き、引越し先を決めて逃げた。今では、女の子を見捨てて逃げたようで後悔している。


 でも、これがあるので、今日の物件程度はゴキブリが出るくらいにしか思わなくなった。


 そういうことを話してやると、おっさんは露骨に嫌な顔をしていた。聞くんじゃなかったという表情である……。


「保証人は、お父様かな?」

「あ、いえ、叔父です。両親は他界してまして……連絡はいれて許可をもらってますんで、電話して確かめてください」

「あ、そうなの。じゃ、これで管理会社に提出します。礼金、敷金は無料だけど、うちへの紹介料は月末までに振り込んでください」

「はい。六万ですね? この口座?」


 用紙の控えを見て尋ねた俺に、おっさんは安堵で大きく頷いた。


 あの部屋を、決めることができたという表情だと思えた。


 幼い頃から幽霊を見ることができる。会話もできる。


 子供ころは、何もないところで――周りの奴らからしたら、何もないところだから、そこでビビったり、驚いたり、恐がったりする俺を周囲は苛めた。学校の体育準備室に閉じ込められた時は、発狂して病院に運ばれたりもした。なにせ、顔を潰された女が、ずっと俺にまとわりついてきたのだ。


 子供の頃だ。


 泣き喚き、意識を失っても仕方ないだろう。


 夜は特に霊たちの活動は活発になり、弱い奴らも見えてしまう。ほんとうに夜は嫌だった。


 しかし、変化が起きる。


 高校一年の、学校行事のキャンプでのことだ。心霊ツアーという肝試しイベントがあったのだが、本当にそこが心霊スポットだったので、学校のいい加減さに呆れた。調べて安全なところを選べと文句を言ったが、お前は皆を怖がらせて楽しいかと怒られた。


 イケメンの訴えなら、女の子たちが味方してくれたかもしれないが、残念ながらブサメンで、好かれてはいなかったので、俺は一人、悪者となった。


 池をぐるりと一周するというものだったが、うじゃうじゃといた。一番、危険な奴は、池の上に浮かんでいて、周りの幽霊を集めて従えて苦しめて楽しむような悪霊だった。


 何も知らない幸せな奴らが、何も知らないでいられるようにと祈りながら、気付いていないフリで参加するしかなかった。


 そこで、お坊さんの幽霊がいたので、おもわず声を掛けてしまった。


「何でだよ!?」


 驚かれた。


 いや、こっちも驚いたんだ。だって、お坊さんなのに幽霊になってるんだから……。


 彼曰く、この池の悪霊の親玉が、人間を引きずらないように見張って、守っていると言った。


「幽霊はな……死んでも成仏できない恥晒しみたいなもんなんだ。だから、あんまりジロジロと見るな。人に見られたくない」


 お坊さんの忠告に、俺は謝罪と感謝をして離れた。


 それからだ。


 幽霊を前より恐く感じなくなったのは……。


 それでも、気持ち良いもんじゃないし、中には本当にキッツいのもある。それでも、引っ越し先に選んだ部屋の女幽霊は、おっぱいのふくらみが白装束の上からでも明らか……じゃなくて、ぶつぶつと睨む不気味さを我慢すれば何の問題もない程度だ。


 あれは幽霊だった。


 悪霊は、見た感じヤバすぎてすぐに分かる。


 引越しを終えて、荷物を箱から出していく。


 衣類さえ片付ければ、あとは必要な順にダンボールを開いて出せばいいだけだ。大事な通帳や印鑑は、本棚の引き出しにしまった。それからテーブルの前に座椅子を置く。その正面にテレビではなくモニターを置いた。ゲームはほとんどしないが、ストリーミングで映画やドラマを楽しむのが好きなんだ。


 ノートパソコンはテーブルに置き、灰皿を用意した。iQOSをポケットから取り出し、ホルダーに煙草を差込んでスイッチを入れる。


 背伸びして、煙草の煙を吸い込みつつ視線を感じた方向を眺めた。


 目が合う。


 俺は、気付いてないよというフリをした。


 蕎麦を食べたいと、スマートフォンで蕎麦屋を探していると、耳元で囁かれた。


「許さない」


 はいはい……生きててごめんね。


 だが、嫌われると攻撃を繰り返されるので、機嫌を取ることにした。一度きりの場所なら問題ないが、ここは我が家だ。喧嘩はまずい。


「あぁあ……カノジョに捨てられ、寂しい一人暮らしかぁ」


 いかにも悲しんでいるという声と表情で発した。


 こういう幽霊は、相手が幸福だとドンドンとやる気を出してしまう。なので、不幸を演じればいいのだ。


「会社も潰れそうだし……転職もキツいのかなぁ……いいことないかなぁ」


 しばらく、くどくどと愚痴を吐き続ける。真実に嘘を織り交ぜ、不幸を演出していく。たとえば、俺の両親は交通事故で亡くなってしまったのだが、頭おかしい奴に強盗で入られて俺の目の前で殺されてしまったという事件に変わってしまった。また他には、友人に騙されて貯金を失ったことになっている。


 客観的にみれば、俺はとんでもなく不幸だ。


 ここで、ずっと隣にいられるもんだから、まだこれでも不幸が足りないかと考え、次はどんな作り話をしようかと悩んだ。


 ところがである。


 しくしくしくしく……。


 泣き声が聞こえてきた。


 思わず、女霊を見てしまう。


 ソイツは、不気味だった顔がコロリと可愛い女の子へと変貌していて、さらにハラハラと涙を流していた。


「な……な! 何!?」


 予想外の出来事に、考えなく声を発していた。


 女霊が、目をパチクリとさせて俺を見つめ、口を開く。


「え? 見えるの?」


 俺は、彼女とこうして関わり合うことになったのだ。



 ―・―・―



 長澤葵という名前の幽霊は、死んだ時は二十一歳だったそうだ。


 彼女は、俺の愚痴から――嘘なのだが、それから俺がとんでもなく可哀想に思えて、泣いてしまったらしい。


 いい幽霊だ……。いや、いい幽霊の定義は分からないが、彼女に関してはそう思えた。だから俺は、コンビニで線香を買ってきて、「嘘をついてゴメン」と断りを入れて灰皿に置く。どうしてか、幽霊の皆さんはこれを嗅ぐと心が休まるらしい。


 落ち着きを取り戻した彼女は、こうなった経緯を教えてくれた。


「母は再婚で、その相手がとてもイイ人だった……と思ってたんだけど、でも、どうやら違ってて……その人、わたしをそういう目で見ていたのね……母の目があったから変なことはされてなかったんだけど……」

「カレシができて、この部屋でクリスマスケーキを食べていたの。その日はカレシを優先したんだぁ……そうしたら、部屋にお父さんがやって来て、カレシは逃げ出しちゃって……お父さんに首を絞められて……意識を失ったら……パっと明るくなって、倒れたままのわたしを、わたしは見てたの」


 葵さんのお父上は、格闘技を趣味でやっている人で体格が良く、自分じゃ逃げられなかったと彼女は項垂れる。


 熊みたいな男を想像し、そんな男が怒り狂って部屋に来たら、俺でも逃げてたと言ってカレシをフォローしておいた。


「優しいね」


 彼女は、俺をそう評した。


 そんなことがあり、毎日が忙しく過ぎていく中、帰れば出迎えてくれる幽霊がいるという日々に慣れてくると、なんだか複雑である。可愛い女の子だけど幽霊で、同棲とは違う。もちろん、触ることなどできやしない。それでも、帰れば「おかえり、シュウくん」と言ってくれる葵さんの声に癒されている自分がいる。


 キツい仕事の疲れも、幽霊のおかげで癒されていると言えば信じてもらえないかもしれないが、本当なのだ。


 仕事は嫌いだ。したくない……ニートやひきこもりができるお金が欲しい。


 そもそも、引っ越そうと決めたのは仕事……異動のせいだ。


 千葉の支店から、本社勤務になったのは昨年の十月。これまでは船橋から溜池山王まで通っていたのだが、半年もして我慢できなくなった。


 満員電車にである。


 というのも、それまでの千葉支店は自転車で五分だったのだ。で、ゴールデンウィークに引っ越したのである。


 溜池山王駅と赤坂見附駅の中間にあるビルの五階に、俺の所属する課のオフィスがある。


 本社営業部の首都圏二課を預かっているのだが、みんな、よく働く。俺みたいなナマケモノが、こんなところで課長をしていていいのだろうかと自問する毎日だ。正直なことを言えば、千葉支店のほうが良かった。のんびりとできたし、うるさい上役はいなかった。で、これを人に話せば笑われるし、本社への異動をイヤイヤした的な嫌味を言うのかと嫉妬されるので、もっぱら愚痴は幽霊相手に吐いている。


 葵さんは、聞き上手で俺の愚痴を……本当の愚痴を親身になって聞いてくれる。だからかもしれないが、俺は本当のカノジョが欲しいと思った。


 幽霊じゃない相手……葵さんのような、優しいカノジョが欲しいと願う。


「いいんじゃない? 応援するよ!」


 幽霊に応援されるのは初めでだ!


 恋人を作るには、まず出会いというスタートが必要だ。これにはいろんなパターンがあるが、俺は職場でこれを求めるのは不可能であると思う。たしかに若い女の子達はいるが、俺は彼女たちの上司になる。なんとなく避けるべきだと思えた。


 同年代の女性達は既婚もしくは、お断りすべき強い御方ばかりである。


 ふんわりとした、優しいカノジョが欲しいのだ。


「は? 何? 早く決めなさいよ! 晩御飯くらいで悩むな!」


 みたいなお叱りを受けたくない。


 隣の課を束ねる新見課長のような、強くて怖い人は絶対に無理だ。


 一日のほとんどを過ごす職場には希望がない。


 では外……になるんだろうが、しかしナンパなんてしたことがない。そもそも、こんなおっさんが声をかけたら、笑われるに決まっている。


織羽オバネ課長」


 考え事をしながらパワーポイントで資料作成していた俺は、怖くて強い一課の課長である新見さんに呼ばれて背筋を伸ばした。一課の課員たちは、彼女にドヤされていない日はないというほどの猛者だ。まあ、でも一課は今、成績がよくないので、新見さんの気持ちもわからんでもない。


「午後一、空いてます? ちょっとミーティング希望」

「……三〇分くらいなら。二時から部下の同行があるんで」

「じゃ、お願い」


 スタスタと去る彼女の背を眺め、カッコいい女性だなと羨む。スタイル良く姿勢もいいので凛とした印象を受ける。性格がキッツいから、損をしていると苦笑してしまった。


 再び、パワーポイントの画面を見る。グラフの数値を説明するテキストを短く、分かりやすく考えて打ち込む。


 あらゆる製品の中間材料を取り扱うメーカーの営業である俺達は、まさに様々な企業が顧客となるので、本当に皆、忙しく働いている。俺はナマケモノだから、人に仕事をつけるのではなく、課全体で顧客を抱えるというやり方に変えて、交代で有給取ったり、皆で定時に帰ったりと、なるべく勤務時間が短くなることに思考を巡らしている。なので、部下たちの営業に同行して、さっさと決めてしまうのも仕事を減らすために大事なことである。見極めを早めにしておかねば、しなくてもいい仕事をズルズルと部下がすることになり、その時間は膨大だ。


 馬鹿らしい。


 海水淡水化素材の新製品を紹介するパワーポイント資料と、レジュメを作成してパソコンから離れる。ログオフして、欠伸して、首を揉んで煙草を吸おうと喫煙スペースへと向かった。


 ちらりと時計を眺めたら、正午を少し回ったところだった。


 一課の連中は誰もオフィスにはおらず、うちの連中はぽつぽつと資料作りをしている。外に出ている奴らに、午前の成果を確認してから飯にするかと決めて、喫煙スペースの隅に立つ自販機へとパスモをタッチさせる。


 ブラックのコーヒーを買い、iQOSを取り出す。


「織羽課長も、それにしたんですねぇ」


 部下の山田が現れた。


「俺はずっとこれだよ?」

「あ、そうでしたっけ? そういえば、喫煙スペースにいるの珍しいですね」


 彼は紙煙草をくわえて、火を点けた。


「あんまり吸わないからなぁ」

「そうそう……あずまの奴が、二ツ橋物産の担当部長とアポが取れたと言ってましたよ。同行してくれるんですよね?」

「しますよ。俺の仕事は、皆の代わりに頭を下げて、許してもらうのが仕事ですから」


 納入日を一日、間違って伝えていて謝罪に出向かないといけないのだ。不幸中の幸いで大きな損害は出ていないらしいが、されたほうの立場で考えれば、リスケを強いられて大変に違いなく、怒られても仕方ないことである。


 煙草を吸い、コーヒーを飲み、そういえば新見さんは何の話し合いをしたいのかと考えた。


「じゃ、お先にメシに行きます」


 山田が出て行き、俺は残る。


 新見さんのお誘いの理由を悩み、次に出会いをどこに求めるかと考え、新見さんにまた戻った。


 噂によると、彼女は会員制のお見合いクラブに入っているらしい。つまり、結婚を前提にした出会いを斡旋するというものだ。


 容姿に自信ない俺とすれば、そういうところに頼るのが確立高いかもと思った。


 あとで、新見さんに教えてもらおう。



 ―・―・―



「織羽課長んとこ、どうして成績いいの?」

「……すみません」

 からまれるのかと表情を固くした俺だったが、アッハッハと笑った新見さんに救われた。

「別に嫌味を言うつもりじゃないって。うちさぁ、モチベーション低いみたいでダラダラ仕事してるから、見習わせてもらおうかと思って」


 毎日のようにガミガミとされてモチベも何もあがるものではないだろう……。


「新見課長、まず叱りまくるのやめたほうがいいと思いますよ」

「……仕事しないで給料もらおうなんて舐めてるよね」

「いや、それはそうなんだけど、だからといって成果出せと怒られても、凹む一方ですよ」


 コーヒーを啜る音が重なる。


 十人が入ればいっぱいとなるミーティングルームで、俺と彼女は向かい合っている。


 ガラガラなんだけど、彼女の圧で居心地が悪い……。


「お友達ごっこをするつもりはないんですけど――」


 俺は言葉を選ぶ。


「――それでも人と人が一緒になって働くのが組織なんで……管理職は管理するだけじゃ足りないんでしょうねぇ……て千葉にいた時の上司に言われましてね……」

「精神論は嫌い。いい大人が、キツいのは嫌? もうバイトでもしなさいって感じ」


 バイトで生活できんから、みんな、仕方なく社蓄になるんですよ、なんて言っても笑われるだけだな。


「ま、具体的にやってることは、同行してさっさと結論を出すってことですかね。短期、中期、長期の判断を俺がしちゃって、皆で担当企業をフォローする。そうして、無駄なことはしないってことです。値引きや条件なんかもいちいち報告書をだしてもらう必要なくなったんで早いですね。商談の議事録残しておけば、揉めることなんてそうそうないと思うけどなぁ」

「その判断の責任、取らされるよ。皆、自分で責任を取りたくないから、会議や書類が多いの」


 一理ある。


 でも結局、誰かが取らないと前に進まないし、俺は早く帰りたいし、早く数字をあげて楽になりたい。月末を笑顔で迎えたいのです。


「それはまあ、仕方ないですねぇ。それが俺の役目なんで。正直、本社は窮屈で……暇な支店に行けるなら、泥も被りたいもんすよ」


 げんなりとして言った俺に、新見さんは信じられないという顔をしていた。


 千葉が懐かしい。


 営業本部長という偉い人がすぐ上の階にいるだけで、こうもピリピリするのかと思う。


 皆、上を見て仕事をしてしまう。


 だから、いらない書類ばかりを作って、帰宅が午後十一時なんてことも……。


「わたしにはそんな勇気ないなぁ。飛ばされたくないから」


 黒髪をかきあげ苦笑する新見さんを見て、こういう人だったかなと首を傾げた。もっとこう、ツンツンとした感じをオフィスでは受けるのだが、それはもしかしたら、部下に舐められまいとするがゆえかもしれない。


 こう言っちゃなんだが、彼女は確かに仕事ができるが、反面、社内の評判は微妙だ。特に同性から嫌われている。


 提案力や折衝力など、俺はお金を払ってでも教えてもらいたいほどだ。彼女ほどのスキルがあれば、もっと楽ちんができると思う。


 ああ、スキル……嫌いな言葉を使ってしまった……。


「新見課長、今度、うちの課員達の営業に同行してもらえません? かわりに、そちらの課のモチベコントロールを手伝いますから。よその課の課長ってなら、言えない愚痴もこぼれてくるかもしれないし……」

「ありがと……助かります」


 姿勢を正して、ペコリと頭をさげられて、俺は目を丸くする。


 でも、顔をあげた彼女は真面目な顔で言った。


「わたしの悪口、言った奴は許さん」


 だから……ギスギスしてんじゃね?


 俺は頬杖をつき、訊きたいことを尋ねた。


「そうだ。新見課長、お見合いクラブって高いですか?」


 ガタ!! と派手な音がして、席から腰を浮かした新見さんが固まっている。


 椅子は後ろに倒れていた。


「……なんで知ってるのよ?」


 ドスのきいた声である……。


 もしかして、みんなが知ってるなんて、本人は知らないのか?


「噂になってますよ」

「……広めた奴を見つけて殺す」


 幽霊よりも恐いのは、人間なんだなぁ……。


「別にいいじゃないですか。紹介してくださいよ。俺も入りたいです。カノジョ欲しい。結婚を一回はしてみたい」

「わたしは別に入ってないの! 知り合いが行ってるから知ってるだけ! 織羽課長、人気あるから社内で探せば?」


 ツンとして言われ、椅子を直す彼女を眺める俺は困る。


「そんな恐ろしいこと……できませんよ。モテないだけならいいんですけどね。ほら、噂になって、贔屓してるみたいになると困るじゃないですか? それに声をかけたり、誘ったりで、人事部にセクハラだと訴えられたら、職を失います……」

「ふぅん……じゃ、知り合いから聞いて、申し込み先とか教えてもらっておく……社内メールは見られてるから……個人の番号教えて」


 こうして、新見課長とプライベート携帯の番号を交換した。



 ―・―・―



 六時に、オフィスが入るビルを出て、さっさと地下鉄の駅へと向かう。満員電車という表現はぬるいと思う。これはもう電車ではなく、人を運ぶ檻だ。


 ギュウギュウの状態で、女の人に当たらないようにと右手で吊革を握り、左手を右腕にかける。手を下にぶらさげたままの奴は、素人である。一目で、初心者もしくは旅行者だと分かる。


 こわいんだぞ、痴漢は。


 男も、女も、痴漢被害に泣いているのだ……。


 目黒で地上に出て、スーパーに寄る。お高いのだが、近くにはここしかない。わざわざ探すのが面倒で、この店で済ませている。


 時間こそが大事なのだ。


 これは、社会人になって痛感する。


 油断していると、ダラダラと過ごし、明日もまたあるとなって、気付けばまた同じ朝を迎える。


 こうして人は、老いていく。


 年齢を重ねていくにつれ、生活が変化し、肉体もそれに合わせて変貌する。抗うように、ジムに通い、エステに通う俺たちのような中年はでも、何もせずぽっこりお腹になる人達に比べればマシだと自分を慰める。


 その顔で、エステとかマジきもい……。


 過去のカノジョに、別れ際に言われた一言だ。


 いいじゃないか!


 イケメンになろうというんじゃない! これは周囲への配慮だ! 俺みたいなブサメンが、そのまま外を歩くことでどれだけの害悪を撒き散らすか……学生時代の迫害は、それはもう凄まじいものがあった。


 ともかく! サラダパスタだ。


 今日はサラダパスタの胃だ!


 冷蔵庫の中を脳裏に描き、足りない材料をスパパパと選んで買い物かごに入れる。ついついスモークチーズを買ってしまった……。


 買い物袋をぶらさげ、玄関を開けた俺は、ニコニコとした幽霊のお出迎えを受ける。


「おかえり、お疲れだね」

「ただいまぁ」


 ご飯も、お風呂も、あっちも用意できない同棲者だが、間違いなく俺の癒しになっているのだ。


「へぇ? お見合いクラブ?」

「そう……日曜日、行ってみることにした。ネット申し込みは済ましたけど、面接やらいろいろあるらしい。書類も出さないといけないし」


 サラダパスタのトマトを咀嚼し、水を飲んだ俺はフォークでパスタをクルクルと絡めとる。


「どんな人たちが来るの?」

「わからないんだけど、でも真剣に相手を欲しがってる人だと思うから、早いと思うねぇ。俺も三十四だし……カノジョいない歴五年だし……」


 葵さんは、俺がお供え物として差し出したパスタの香りを嗅いでいる。それだけで、幽霊は満足できるらしい。


「そこで、シュウくんにピッタリな人を見つけて紹介してくれるって感じ?」

「そう……多分。まあ、きっとそうだと思う」


 行ってみないと、こればっかりはわからない。


 ただ、わからないのは新見さんのせいだと言うと悪いかもしれないが事実だ。


 彼女はどうして、まだカレシができていない?


 ピッタリの人を見つけてくれるなら、相手にとっても俺はピッタリのはずだ。つまり出会えばすぐにお付き合いがスタートし、仲良くなるのではないか?


「で、見つかったら結婚するの?」


 葵さんが、もうお腹いっぱいだとお供えのパスタを指差す。俺は食べ終わった皿と一緒に運びキッチンに立つ。カウンターキッチンで洗い物をしつつ、考えた末に答えた。


「するよ。したいなぁ……葵さんみたいな優しい人と結婚生活をしたい」


 照れる幽霊は初めてだ……。


 思えば、この部屋に下見で入った時、おっそろしいのがいるなと思ったものだが、それはどこにいった? 今、目の前で白い顔は白いままだけど、パタパタと両手で顔を仰ぎつつ隠して俯き、キョロキョロとする幽霊……。


 生きてるうちに、お会いしとうござった……。


 そういえばと思いつくが、彼女の前では声にはしない。


 彼女を殺した父親は当然、捕まっているものと考えていいだろう……お母さんは? どうなったんだろうか……。


 この部屋に、娘さんいますよ。


 こんなに穏やかな幽霊の葵さんを前に、お別れをちゃんとさせてあげればと思うのは人が良過ぎだろうか。


 ついには、照れてこちらに背中を見せている葵さんを眺め、調べてみようかと思ってしまった。


 お見合いクラブの事務所には昼くらいのアポだから、午後からは興信所を探して相談してみよう。



 ―・―・―



 オフィスにて。


 金曜日の夜……ナマケモノの俺もたまには残業をする。いや、仕事ではない。部屋ではできない調べ物をする。なにせ、葵さんがいるから見られるとマズい。


 目黒……大学生殺害事件……犯人は父親。


 検索エンジンであがったものは、どれも違うものばかりだった。


 三年前の事件なのに?


 違和感を覚えて、しばらく悩む。


 葵さんが、俺に嘘をつくメリットなどない。


 たしかに、人を騙そうとする悪い幽霊もいるが、葵さんはそんな風には見えない。


 節電とかで、残業時間となると照明の数を減らされ、通路はもう真っ暗だ。見れば、階段の方向へと伸びる通路の壁に、男が一人、浮かんでいる。


 幽霊だ。


 こんな時間までいたことないからわからなかったが、随分と前からそこにいるようだ。


 俺を見ている。


 無視した。


 世の中、幽霊だらけである。


 幽霊という呼び方が正しいか否かわからない。宗教的に考えると、魂があの世にいけないまま現世に留まれば幽霊だ。成仏できないとは仏教的だが、魂は仏に成れなければ、この世界で、生きる者達を見続けなければならない。


 そりゃあ、ひねくれもすると思う。


 それでも、何がきっかけになるか本当に不思議だが、葵さんのように突然におだやかになる可能性があるのかもしれない。でもそれは、仏的なものとは違う。


 キーワードを変えて、何度か試した結果、その記事は現れた。


『父親に首を絞められた大学生が重体――東京都品川区中大崎一丁目のマンションで、女子大生が意識不明の重体となり病院に搬送された』

『女子大生は東朋大学医療救急センターに運ばれたが、意識は戻らず』

『女子大生は首を絞められており、事件性あり』


 このWEB記事は、毎朝新聞のものだ。


 意識不明の状態というのは、意識がなく生命の危機という意味だと解釈すると、死んでないということになる。ここで俺は、葵さんの言葉を思い出した。彼女は確か、倒れた自分を見下ろしていたと言っていた。


 ふと視線を感じて、顔をあげると目の前に男がいた。目を見開き凝視してくるソイツは、とても馬面である。パソコンやデスクを無視して立っている男は、瞬きせず俺に言う。


「仕事かよ、こんな遅くまで」


 シカトだ。


 あっち行け、うぜぇ。


「お前、死相が出ているぞ」


 死んでるお前に言われたくない。


 無視していても、幽霊は話しかけてくる。


「一緒に死のうぜ。カカカカ……楽になれるぜ」


 カカカカカ……カカカカカ……。


 呪いをかけられている最中らしい。


 こういう性格の悪い幽霊のほうが、実は圧倒的に多いのだ。葵さんだって、かなりこじらせていたし……。


 調べものを続ける俺は、うるさいこの幽霊に苛立ちを覚えて作業を止めた。


 帰ろう。


 椅子を蹴るように立ち上がり、パソコンをシャットダウンして鞄を手にした俺は、衣装掛けへと向かう。その後をずっと幽霊がついて来る。


「お前が仕事してる時間、他の奴らは楽しんでるぜ」

「遅くまで仕事、仕事……嫌になるよなぁ」

「お前より楽して、稼いでる奴らが世の中にはたくさんいるんだぜ」

「妬めよ……そいつらを許すな」

「あの女……生意気にも課長とか言われてるぜ。女のくせに生意気だよなぁ」


 ……こいつ、新見さんのことを言ってやがるな?


「はん……女は男のいう事に黙って従ってればいいんだよ。どうせ馬鹿なんだから」

「感情で動く奴の下で仕事なんてできねぇっての」


 俺は上着を着て、くるりと振り返った。


 幽霊と正対する。向こうは、もちろん俺が自分を見えているとは思っていない。


 腹が立ったので、言ってやった。


「ダサいな、お前。そんなんだから、死んでもこんなところでグチグチ言ってんだろ。生きてた時も、ロクな奴じゃなかったんだろ」


 幽霊の驚く顔は、笑える。


「うるせぇよ。死んだんだろ? 人間様に迷惑かけねぇように、はしっこでウジウジしてろ、カス」


 耳に不快な高い音が鳴った。


「ひぎぃいいいぁああああああ!!」


 幽霊が叫ぶ。胸を掻きむしるような動作をするが、透明なのでスカスカと無様だ。


「負け犬。お前、自殺か? だせぇな。クソだっせぇな。んで俺たちに嫉妬か? お前みたいなクズはな、死んでもクズなんだってお前が証明してるわ」

「ぐぞぉおおお! グゾ! ぐぞぉおおおお! 違う! 違うちがう! チガチガチガチガチガチガ――」


 俺は怒鳴る幽霊を無視して進む。そいつをすり抜け、そのまま出口へと向かいながら言い放つ。


「未練タラタラだな、お前。それなのに人間を見下してるんだな。クソ虫が」


 幽霊の咆哮を背に受けた。


 階段へと向かう途中で新見さんと出くわした。出先から帰社してきたところらしく、書類を抱えて足取りが重い。いつもなら、挨拶をして別れるのだが、あの幽霊がフロアで罵詈雑言を俺に浴びせている。


 俺は彼女から、ひょいと書類の入った茶封筒を取った。


「お疲れ様です。飲みに行きません?」

「え? わたしと?」

「たまにはいいでしょ? お見合いクラブのお礼もしたいし」

「あ! あれはたまたま! たまたま知り合いがいて! 知ってただけなんだからね!」


 彼女はクルリと反転して、俺の隣に並ぶ。


 しめしめ……。


「ちがうって! 入ってないの! 入っているのは知り合いで! わたしは入ってないの!」

「はいはい……」


 フロアの幽霊は、まだ悔しがっていた。


 ソイツを残して、俺達は下へと向かう。


 俺はともかく、新見さんにはお守りを持てと言っておこう。夜も仕事、するだろうから……。


 適当に選んだ居酒屋で、入った後になって新見さんに文句言われるかと思ったが、気取ったところは苦手だからここがいいと喜ばれた。


 二人でカウンターに並んで座り、しばらく飲み食いした頃、彼女の歪んだ主張が言葉になった。


「独身カレシ無し女はね。三十過ぎたら終わりよ」


 新見さんは、ジョッキを片手に断言する。とてもこじれた考えではないだろうか? 三十歳を越えても、素敵な人は五万といるはずだ。つまり彼女は、自分に相手はいないのを、年齢のせいにして誤魔化しているのである。


 断言できることがある。


 新見さんは、キツいから、カレシできない。


 言えないけど……


「男はどうして、若いオネーチャンばかりが好きなの? ねえ?」

「……俺はべつに」

「嘘言うな! はい! はい!」


 挙手をする彼女を、俺は焼き鳥の串で示した。

「どうぞ、新見さん」

「質問! ここに二十歳の好みストライクの女の子がいます。そして三十歳の好みストライクな女の子がいます。あんたはどっちを取んのよ?」

「……二十歳」

「ほら! ほら! 嘘つきがいた! 嘘つきがいました!」


 酔っぱらうとめんどくさいな。


 もう、ビールだけで五杯はいったか?


「すみません、黒龍をくださぁい」

「はいよ!」


 勝手に日本酒を頼んだ彼女は、大根サラダを取り分けてくれる。こういうところは気がきくなと思った。


「新見課長も、二十歳のイケメンと三十歳のイケメンから求愛されたら、二十歳を取るんじゃないの?」


 反撃してやる。


「いいえ……わたしは顔で選びません。ちゃんと仕事をしていて、誠実な人がいいです」

「仕事してれば、アルバイトでもいいの?」

「んなわけないでしょ。派遣も無理。将来が恐い」


 金だ。女は男の財布に恋をするのだ。


「キモデブで年収一〇〇〇万と、イケメンで契約社員の年収三〇〇万、新見課長はどっち?」

「……苦しい選択肢ですぅ」


 日本酒が運ばれてきた。


「あと、モツの煮込み、ください」

「はいよ!」

「あと、同じ日本酒を彼にも」

「はいよ!」


 俺、酒は弱いんだけどなぁ……。


「新見課長、クラブでいい人は見つかりました?」


 質問した俺に、彼女は首を左右に振る。


「わたしは年齢ではじかれてしまいます……三十二歳、メーカーで管理職……付き合いたい?」


 相手によるわ!


「会ってみないと、わからないですよねぇ」

「男も女も、人気あるステータスの人たちに選択権があるわけ……で、私はかなり譲歩した条件で申し込みしているんだけど、会う人、会う人……全く駄目」

「ちなみに、条件はどんな?」

「年収四〇〇万円以上で、わたしよりも身長高くて……年齢は同じから十歳上まで可。住まいは東京、神奈川、千葉、埼玉……親と別居」

「それでいないんですか?」


 意外と控えめだと思える……年収一〇〇〇万とか言われたら、遠慮なく笑ってやろうと思っていたのに。


「私は、結婚しても仕事はする。今の会社でなくても……別にいいと思ってる。とにかく、結婚したい!」


 心の叫びだ。


「もうね! 正月や盆は恐怖! マリちゃん、カレシできたの? まだ? だめよ? 選り好みしちゃぁ……みたいな親戚のババどもの嫌味、両親の期待……妹家族の幸せオーラ……だからわたし、結婚したい!」


 切実だ……。でも、俺とは違う理由だ。


「新見課長ってさ、そんなんで結婚して後悔しないすか?」

 

 睨まれた。

「男の三十四歳と、女の三十二歳の深刻度は、二歳の差どころか太陽と地球くらいに違います」


 そういうもんかもしれない……。


 トーン! という音がして、卓上に日本酒のコップが空となって置かれる。


「おかわり、くださいーい!」


 めんどくせーのに捕まってしまった……。


 いや、俺が誘ったんだが……。


 でも、あの恐いやり手課長に、こんな一面があったとは意外だ。


「織羽課長、飲んでる?」

「はい、頂いてます」

「よし、明日は土曜日だし、とことん飲みましょう」


 あのクソだせぇ幽霊のせいで、えらい事になった……。



 ―・―・―



 クソ頭痛い……。


 土曜日の昼になり、ベッドから這い出る。かろうじて帰宅し、葵さんに応援されて着替え、歯磨きをして倒れた記憶が蘇る。


 風呂に入る。


 二日酔いはないが、頭痛はする。


 お手上げを、二日酔いとはよく言ったもんだ。


 風呂から出て、冷蔵庫から水を取り出し飲みながら座椅子に座る。葵さんが、「大丈夫?」と心配してくれているのだが、笑いを我慢している表情なのは気のせいではない。


「シュウくんも、ハメを外すことあるんだねぇ」


 可愛い笑顔です。


 しばらく悩む。


 彼女に、会社の幽霊のことを話してやりながら間を繋ぎつつ、別のところで頭を使う。


 訊くべきか?


 葵さんの、実家の住所を……。


「葵さんて、この部屋から出れるの?」


 唐突に話題を変えたので、彼女は目をパチクリさせる。そして、悩んだ。


「出ようと思ったことがないから、わからない」

「試してみる?」


 よろよろと立ち上がる俺を、助けようとしてくれた彼女だったが、肉体のない彼女と俺は、重なるように交差した。


 葵さんが、表情を消す。


「馬鹿……だよねぇ。私、死んでるのに……」

「いや、ありがとう」


 玄関のところまでは、彼女も来ることができた。問題はこの先だ。


 俺は風呂からあがった時にジーンズとシャツに着替えていて、靴を履くとマンションの共用廊下に出た。そこで彼女を待つ。


 葵さんは、ふわ、ふわ、と進み、廊下を出る直前で、弾かれたように後ろへと飛ばされた。


 駄目か……。


 地縛霊とか呼ばれる幽霊と、葵さんは一緒なのかもしれない。


 住所を尋ねると、俺がそこに何をしに行くのかと説明をせねばならず、それが彼女にとって望むことか分からない。


 幽霊である葵さんは、ここに留まっていると、母親にも知られたくないかもしれない。


 成仏できていないってのは、幽霊にとって恥だと、お坊さんの霊から聞かされているから、心配してしまう。でも、彼女はずっとこの部屋なのかと考えると、やはり、おせっかいかもしれないがお母さんを探して連れて来たいと思う。


 考え込む俺を、葵さんが怪訝な表情で見つめてきた。


 俺は、葵さんが好きな恋愛映画をレンタル店に借りに行くと伝え、彼女の固い表情を解す。


 ストリーミング配信されていないのが残念だ……。


 それにしても、どこにでもいるような女の子が殺されて、幽霊になっている……。


 世の中は、理不尽だ。



 ―・―・―



 正式にお見合いクラブに申し込みをした俺は、担当の桧山さんという男性スタッフから三人ほど勧められた。


「大手企業にお勤めなので、織羽さんは人気出ると思いますよ」


 爽やかな好青年の彼に、そう言われると自信が持てるから不思議だ。それにしてもだ。


 ……年収がとびぬけてなくとも、務める先でも変わってくるのかと驚きだった。


 そんなことで評価されたくないと思いつつも、でも、紛れもない現実なのだと納得した。一方で、新見課長は女性だから、どこに務めていようなど関係ないのかと気の毒に思えてくる。


 渋谷駅近くのクラブを出て、スマートフォンを操作する。


 興信所と打ち込み検索をかけると、いくつか出てきた。


 画面をスライドさせながら、どこがいいかと悩んでいると、インパクトがありすぎる事務所が現れる。


 小丸阿比留探偵事務所。


 人ごみの中で笑ってしまい、注目を浴びてしまった……。


 オマルアヒルと読める。


 住所は、横浜の伊勢佐木町だった。


 東横線で往けばいいかと、ここに頼む気になっている自分に呆れた。



 ―・―・―



「えー? 浮気調査じゃないの?」


 小丸阿比留探偵事務所の所長である男は、俺の依頼内容に難色を示した。


「浮気調査がしたい。依頼を変えてちょーだい」

「……いえ、浮気を疑う相手がいません」

「じゃ、出直し――」


 所長は後頭部を遠慮なく、加減なく殴られて悶絶する。


「すみません。この男は無礼というか、変なんで許してください」


 受付兼事務って感じの女の子が謝罪してくれた。


「この女性の、実家を調べてください。近況などもわかれば助かります。お金はちゃんとお支払いしますから」


 とりあえず、手付金の十万円をテーブルに置く。


 所長が受け取るより早く、事務の女の子がサっと奪う。


「お受けしますぅ」


 女の子の笑顔……。


 所長の舌打ち……。


 変な事務所である……。



 ―・―・―



 変な探偵事務所があったと、帰宅して葵さんに話した。


 うんうんと楽し気に笑う彼女は、どうして探偵事務所に行ったのかと尋ねてきた。


 ……失敗した。


「いや……これから、お見合いクラブで紹介されるでしょ? ちゃんと調べてもらおうと思って」

「ひどい! シュウくんを見損ないました!」


 怒られました……。


「そんなの最低だよ! いくらなんでもひどい! シュウくんて、そんな人だったの?」


 いや、嘘なんですとは言えないのが辛い。


「いや……その……詐欺とか多いとか聞いたもんで……」

「詐欺?」

「結婚しようとなって、お金が必要だとか言われて、出しちゃうと逃げられるみたいな……」

「……うう……でも、ひどいと思う」

「ブサメンは不安なんです」


 晩御飯の冷やし中華を啜り、お供え物の同じものを葵さんもクンクンとして、ほんわかとしている。


 この、ほんわぁとしている葵さんが可愛い。


「でも、シュウくんはブサメンじゃないと思うけどなあ。どうして、そう思うの?」

「最低な学生時代を聞きたいすか? キモがられ、嫌わられ、好意をもった相手にそれがバレて、キモいと言われた心の傷を……そんなでもなんとかできたカノジョも、やっぱり我慢できないなんて言われて捨てられたことも……」

「ごめん、聞かない。でも、シュウくん、ブサメンじゃないと思う」


 彼女は、いたって真面目な顔である。


「シュウくん、素敵だと思う」


 ドキン……としてしまいます。


 幽霊なんですよ……。


 どんなに可愛くて、優しくても、葵さんは幽霊なんですよ……。

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