恐幻奇業『死怨の徒花』

「終わった、か……」


 荒い溜息が連続する。すっかり元の暗さと静けさを取り戻した橋を認め、風海小乃葉は未だ実感のない勝利を確かめるように呟いた。あの女は、紫苑と名乗った姑獲鳥のあやかしは、たった今自らが討ち滅ぼしたのだ。けれども満足感の類は微塵程にも湧いては来ない。身体を満たすのは虚脱感。肉体的な疲労以上に精神的な疲労が顕著であった。そしてなにより、幾らあやかしとはいえ、人の形をした存在を人生で初めて手に掛けてしまったという事実が、今更になって彼女の胸に後悔のしこりを残していた。


「しょうがねえよな、喧嘩吹っ掛けてきたのは向こうだ」


 自分の行いは、きっと。元とはいえ退魔師があやかしを討ち滅ぼすのは当然の摂理。それも向こうから積極的に襲ってきたのだから、こうなることは紫苑と名乗ったあの姑獲鳥のあやかしとて、承知の上での結末の筈。


 だというのに、どうしてこんなにも心が薄暗いのか。風海小乃葉は己に問う。


「……あいつ、悪いヤツには思えなかったから、かな」


 祖父は毎夜のように言っていた。あやかしとは人の心の隙間にいとも容易く入り込み、恐怖を喰らっては肥大する人類の敵であると。例外はなく、皆悪なのであると。繰り返し、繰り返し、幾度となく、譫言うわごとのように繰り返していた。


 それがどうだ? あの女に邪気はあったか?


 確かに先程までの死合は嘘偽りのない本物だった。劣る者が命を奪われ、優れた者が生き残る。そんな不毛に過ぎる原始的な争い。けれどもその命のやり取りに、果たして憎悪や憤怒の類は付随していただろうか?


 いいや、違う。自分はずっと困惑の渦中にあったが、少なくともあの女が憎くて退魔の光を放った訳ではない。あの女もきっとそうだ。むしろあの女は楽しんでいた。楽しみ、笑っていた。心の底から命のやり取りが楽しいのだと、笑って果てたのだ。


「ったく、ワケ分かんねぇ。……まあ、いいさ。どうであれ、殺したのはオレだし、死んだのはアイツだ」


 さて、どうしたものかと風海小乃葉は思案する。紫苑は自らを門番だと自称していた。つまり今の彼女は、この朱雀門とやらの閂を力でこじ開けた蛮族だということになる。少なくともこの先に棲まう流れ着いた者達から決して歓迎されることはないだろう。この先に進むということは、闇夜の影に光を求めるようなもの。

 かといってもう一度この橋を渡って引き返したとて、先に待つのは貧食どんしょくの闇。結局、どちらに進んだところで闇からは逃れられぬのだ。


「だったら、堂々と胸を張って死へと向かうべし、か。……ッ!」


 いっそどうにでもなってしまえと、半ばやけっぱちの蛮勇ひとつを友として、一寸先に広がるさらなる闇へ踏み入れようと、風海小乃葉は暗がりにそびえる紅白の朱雀門を睨み付けた。その瞬間だった。全身の産毛が逆立つような、形容し難いいやな感覚を覚えたのは。


「何処、行くってのさぁ! あたいはまだまだ元気だとも!!」


 その言葉の主が何者か、などという疑問は最早無粋とすらいえる。殆ど本能が鳴らす警鐘に従って、風海小乃葉は前方から側方へ、自らの向かうべき進路を定めて地面を蹴った。

 跳躍――今しがた、風海小乃葉の肉体があった空間に乱れ刃の煌めきが踊る。


「テメェ、生きてたのかよ?!」


 暗闇に浮かび上がる深紫の人影を認め、風海小乃葉の表情が驚愕に彩られる。


「死人に口なしさぁ! あたいはまだ喋れるし、当然お前さんもまだ話せるだろう? つまりあたいもお前さんも未だ健在ってことじゃあないかい?」


「どうやって生き延びたかって聞いてんだよ! 橋全体を覆うように矢を放ったんだ。避けるとこなんてなかっただろうが?!」


 少なくともあの破魔矢の奔流は避けられるようには出来ていなかった。どれほどあやかしの身体能力が優れていたとしても、第一射を辛うじて躱し、体勢の崩れたあの状況から本命の一斉射は避けられる筈もない。その為に橋という狭い領域に彼女を誘い込んだのだから。


「くす、くす。人間ってやつぁどいつもこいつも頭が固くてしょうがないねぇ。困ったら居もしない神を頼んで空を仰ぎ見るってのに、てんで世界の広さには気が付きやしないんだからさ」


「ちっ……! 何が言いたいんだよ!!」


「だからぁ、言ってるだろう? 。都の空は良いよ。太陽なんぞに邪魔をされることもない」


 そんな紫苑の言葉と共に、ばさりばさりと何かの音がした。まるで餌に群がる公園の鳩たちが、突如として現れた犬の鳴き声に驚いて一斉に飛び立った時のような、空気を叩く翼のはためきの音。それはきっと、風海小乃葉という名の人間と、紫苑という名の人間の姿をしたあやかしのみが並び立つ、重力の井戸の底には似つかわしくない自由への賛歌。


「こうして、あやかしとしての本当の姿を他人に晒すのは何時ぶりになるかねぇ」


 故に、紫苑は解放するのだ。表層の人の身に茫々たる空が似合わぬというのなら、深層に眠るあやかしとしての真の姿を解き放つまで。


「……それがアンタの、本当の姿ってワケかよ」


 ごくり、と風海小乃葉の喉が鳴る。彼女の視線の先に映るもの。それは翼だ。世界に存在するどんな鳥の両翼よりも遥かに巨大な怪鳥けちょうの翼。紫苑の纏う和服と同じ、つややかな深紫の羽毛に覆われた人には存在しない獣の部位。それが、紫苑というあやかしの背中から雄大な程に現出したのだ。


「くくっ、本当の姿なんてものは誰にだって存在しないのさ。さっきのあたいも今のあたいも全部あたい。ただ、少しばかりお前さんが見る角度を変えたってだけの話さね」


 人に翼の生えた存在。殆どの人間は、そう聞いたのならキリスト教の世界観に描かれるような純白の天使を思い浮かべるであろうか。けれども翼を背負った紫苑から漂う印象はむしろ真逆。匂うのは禍々しさを伴った純然たる妖気。噎せ返る程の妖しさが、あの翼から――否、あの紫苑という名の姑獲鳥のあやかしから止めどなく噴き出しているのだ。

 彼女の哲学めいた言葉の真意がどうであれ、少なくとも退魔師と敵対するあやかしという面だけを抜き出したのなら、紛れもなく今の彼女は真となるのだろう。風海小乃葉は紫苑の一挙手一投足すら見逃すまいと、より鋭く眼光を尖らせる。


「お前さんが、現代に生きる退魔師の意地ってヤツを見せてくれたんだ。なら、あたいもそいつに応えてやらなくちゃあいけないと思ってね」


「はっ、余計なお世話此処に極まれり、ってな」


「相変わらず、つれないねぇ。……ちょっとお前さん、決着の前にお姉さんとのお喋りに付き合っておくれよ。いいかい、お前さん。姑獲鳥って怪鳥の御伽噺は、元は大陸から伝わった伝承でねえ。読み方も違う。コカクチョウって言ってね、夜な夜な人の赤子に危害を加える邪悪な怪鳥のお話で、その正体は死んだ産婦の怨念だとも言われてるんだ」


「はあ? 今更、改まって手前の背景をべらべらくっちゃべる段階でもなけりゃ、ましてやオレらはそんな間柄でもねえだろ」


「良いじゃないのさ。お前さんにはないのかい? 自分の得意なことや長所を見せびらかしたいだなんて欲。あたいらあやかしよりも、よっぽど人間の方がそういう欲に塗れていると思ってたんだけどねぇ」


「さあね。少なくともオレは興味ないね。アンタのことも、見せびらかしたいだとか、そういうのも」


「じゃあもーいいよ。あたいが勝手に好き勝手喋るから。さて、姑獲鳥という伝承は元々大陸のものだという話はしたけど、一方でこの日の国にも似たような伝承があったのさ。それが産女。難産で死んだ女の怨霊が化けたものだと言われてる」


「要するに、混じったって言いたいんだろ。よくある話だ、そういうのって。アンタらあやかし共のお家芸だ」


「なんだ、しっかり聞いてるじゃないの」


「ちっ…………」


「くわばらくわばら。ま、それはそうとしてお前さんの言う通り、ふたつの伝承が混ざり合ってコカクチョウの怪と産女の怪は、姑獲鳥というあやかしとして同一視されるようになったって訳さ」


「民俗学のセンセーにでもなったつもりかっての。昔、居たよな。遠野物語っつってこの国の伝承を学問的に捉えようとした偉い学者サマが。ある意味、アンタらにとってもオレらにとっても、そんな連中が一番の商売敵だったりして、な。……ま、いいや。で、何が言いたいんだよ」


「さっきお前さんはこれをあたいらのお家芸だって言ってたけど、あたいに言わせりゃむしろそいつはお前さん達のお家芸さね。何にでも名前を付けなきゃ気が済まない。なんでもかんでも自分の知っている体系に落とし込んでは、それだけで全て理解したのだと言って憚らない。いやはやなんとも、滑稽、滑稽。くくっ。世界ってのは、お前さん達が思ってるよりもっと単純で――故に複雑怪奇に広がってるというのにねぇ」


「だから、何が言いてぇって聞いてんだよ。良いんだぜ、オレは。アンタがどれだけ疾く飛び回ろうと、それより疾く撃ち抜くだけだからな」


「ふぅん。じゃ、最後にお前さんにひとつ質問だ。どうして、人間はそうなんでもかんでも理屈を付けて体系的に名前を付けなきゃ気が済まないんだと思う?」


 風海小乃葉は思案する。どうしてこんな禅問答にも似た、くだらない戯言の応酬に自分が付き合っているのかを。そんな言葉には付き合わず、光の矢で彼女の脳天を撃ち抜けばそれで戦いは終わるのだ。けれども彼女はそれが出来ないでいた。


 何故か。そんなことは決まっている。


「……怖いから、だろ」


 そうだ。怖いのだ。オレは紛れもなく恐怖を抱いている――――。


「大正解。西洋風に言うんだったらザッツライ……だったっけ? ま、いいや。人間ってのは臆病だからね。なに、臆病は悪いことじゃない。恐怖を認めて退けることが勇気であって、最初から恐怖を恐怖と認めないのはただの阿呆のやることさ」


「人間は知らないってことに最も恐怖する。だからそういう不定形の恐怖に対して、あやかしだなんて名前を付け、形を与えて対処できるものにした、だろ? 先代からそう聞いたよ」


 風海小乃葉が紫苑に対して攻撃を加えられない理由は単純明快。彼女は恐怖しているのだ。あやかしとして、真の姿を顕にさせた紫苑のことを。

 彼女はかつて祖父が語っていたことを思い出す。あやかしという存在は、往々にして人に近い姿をしている者の方が強大なのだと。そうであるのなら、真の姿を現したこの紫苑という姑獲鳥のあやかしの実力は如何ほどなのか。少なくとも先程までの攻防で殆ど手の内を明かしてしまった自分では及ぶまい。

 それを本能で理解しているから、彼女は気丈に振る舞いつつも、内心ではその決着の瞬間の訪れを先延ばしにしたいと願っていた。あわよくば彼女の語り口から、底知れぬ姑獲鳥というあやかしを未知から既知に変える為のいとぐちが転がっているのではなかろうか、と。

 所詮、自分は少し変わった芸当の出来る人間に過ぎぬのだ。自嘲気味に風海小乃葉の口元が暗がりに歪む。


「――匂う、匂うよ。お前さん、今怖がってるだろう? ああ、言わなくてもいいさ。匂いは決して嘘を吐かない。そして吐けない。恐怖ってヤツは何より甘美で、そして何より人間らしい。醜さも、気高さも。人を人たらしめるのは恐怖。人の全ては畏れから生まれるんだよ」


「けっ、知ったような口利きやがって。人間でもねえくせに」


「そいつはお互い様だろう? お前さん達はあやかしでもないのに、あやかしっていうのはこういう存在だって決め付けるんだから。ま、そいつをしてくれなかったら、あたいらは此処には存在してないんだけど、ね。……さ、前置きはここらにしておこうかねぇ!」


 いよいよ、来る。紫苑の握る仕込み刀の切っ先が再び光る。彼女は一体何を行おうとしているのか。風海小乃葉の四肢に通う全神経が研ぎ澄まされる。


 そうして次の瞬間、紫苑は刀をへと突き立てた。


「あたいらあやかしは、お前さん達の恐怖が姿形を成したもの! れど我らが姿はまことにあらず! 恐怖の源流は未知に有り! さあさあ知らぬ者共、畏れたまえよ! 誘わんとするは我らが根源!! 迷い込むは我らが隣人!! おのが恐怖に溺れることなく、荒唐無稽こうとうむけいな御伽噺を祓いて闇夜を照らしてみせよ!!」


 それはきっと、詩。風海小乃葉が退魔術を現出させる為の起点として紡いだ詠唱のように、紫苑もまた目の前の敵に語りかけながら、同時に世界の理を歪める為に言葉を届かせようとしているのだ。


 ――『アレ』は、まずい。


 風海小乃葉は悟る。紫苑は何かをしようとしている。その何かがはたしてどのような行いなのかは分からない。あやかしという存在はあまりに途方もなく、想像すら及ばない。けれども、『アレ』の発動を許してはならぬということだけは彼女にも分かる。

 本能が、この世界に人間が生まれ落ちたその瞬間から今日に至るまでに培ってきた種としての恐怖が、『アレ』だけは止めねばならぬと叫んでいるのだ。

 故に、風海小乃葉は光の破魔矢を生み出し、そして射る。先程までの慎重さは毛ほどもなく、されど胸に宿した恐怖の感情はより強く。


「遅いよッ!! さあ、お前達! 出番だよッ! 呪い殺せ!! 恐幻奇業きょうげんきぎょう死怨しおん徒花あだばな』!!」


 だが、彼女の行いは無為に終わる。或いは漠然とした恐怖など抱かず、最初から攻撃の手を緩めなければ、紫苑の行おうとしている何かだけは止められていたのかもしれない。しかし、もう遅い。彼女は終えてしまったから。詠唱を、風海小乃葉というひとりの人間を、姑獲鳥という一匹のあやかしが持つ恐怖の源流へと誘う術の詠唱を、終えてしまったから。


 恐幻奇業。それこそが、あやかしの宿す真なる恐怖――――。

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忘れ路の言ノ葉 霜月遠一 @november11

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