退魔術『結界』
一閃、暗がりに風切りの音が響き渡る。紫苑の振るう刃の軌跡は愚直なくらい真っ直ぐに。風海小乃葉という存在を侵食せしめんと振るわれた。その一振りには躊躇も情けも伴わない。けれども同時に殺意や敵意の類も匂わせない。刃の輝きに宿された感情はただひとつ。無邪気さだ。例えるならば、幼子がごっこ遊びで木の枝を剣に見立てて誇らしげに振るうような、無垢で汚れのないそんな無邪気さ。彼女は心からこの死合を楽しんでいる。そう、風海小乃葉は結論付ける他なかった。
しかし紫苑の得物は棒切れなどではなく真剣だ。無論、深く斬られたのなら死に至る。彼女の握る刃の冷たく無機質な煌めきは現実なのだ。けれども同時に、何処か浮世離れした紫苑の醸し出す楽しげな雰囲気もまた現実。それらの相反する現実がふたりの間で渦を巻き、風海小乃葉はどうしてか自分と紫苑のやり取りを俯瞰的に見ているような、そんな不思議な感覚に襲われる。
ひゅう、と風海小乃葉の顔の直ぐ側で音が鳴った。一寸、あと一寸。今しがた自分が避けた大振りの剣閃は、あとほんの僅かに反応が遅れていたのであれば、風海小乃葉という存在の魂を肉体ごと根こそぎ刈り取って、夥しい量の鮮血が闇を紅に塗り潰していただろう。
「よく躱した! 人間ってのは訓練しないと危機に対して身を竦ませることしか出来ないからねぇ! やっぱりお前さん、此方側の奴さんだね!」
「アンタ、マジにやるのかよ?! 避けなきゃ死んでたんだぞ?!」
「そりゃあ殺すつもりでやってるからね! こいつを抜くってこたぁそういうことでしょうよ!」
そして、二撃目。宙を切り裂いた刃の切っ先を再び風海小乃葉へと向け、紫苑は袈裟に斬り上げるように彼女の肢体を追い詰める。手段を選んでいる暇はない。迫りくる死の暴風から逃れられるのであればなんだっていい。そんな風海小乃葉の短絡的な思考は、この一撃を回避するという点のみに関しては正解だったといえるだろう。
風海小乃葉はその場に崩れ落ちるようにして身を伏せ、袈裟の一撃をまたも寸でのところで回避する。はらり、と舞い落ちるのは刃の齎す死の煌めきに誘われた数本の髪の毛。それが地面に落ちるよりも疾く、紫苑は刃を三度眼下の女へと向けるのだ。即ちこの一連の戦いにおいて、風海小乃葉の取った回避行動は、自ら逃げ場を失うという大罪に等しい結果を産んだのである。
「そいつは悪手極まりないね!! 貰ったよッ!!」
避けられない。言葉と共に垂直に振り下ろされた切っ先を双眸に映し、風海小乃葉は最早逃げ場などないということを全身で理解する。
故に彼女は、応戦する。逃げられぬのであれば、戦う他ないのだから。
『――結界。影なる者一切を排し、邪を別つ光壁と成せ』
それはきっと、
刹那、紫苑の刃が彼女を襲う。彼女の放った言葉など意に介さないとでも言いたげに、紫苑の一撃は終焉を齎さんと無慈悲に風海小乃葉目掛けて振り下ろされる。
狙いは当然、心の臓。肉体の中心、魂を宿す器。人が人である限りは変わることのない生命の循環が回帰する場所。そんな急所を貫こうとして、紫苑の刃は火花を散らした。
「――――っ?!」
そう、火花を散らしたのだ。最早語るべくもなく、火花とは人体との接触によって発生する光ではない。
明らかな、異常。仕込み刀から両腕に伝播する感触は、少なくとも爽快感を伴った人斬りのそれではなかった。まるで、硬い鉄の棒を同じくらいの硬さの壁に思い切り叩きつけたような――――。
「ちぃっ!」
舌打ち、そして木製の橋を両の脚で蹴った音が連続する。目の前の不可解に対して紫苑の取った行動は、一旦下がって様子を伺うことであった。自分は攻勢に出ているようで、この小乃葉という女は虎視眈々と反撃の機会を伺っていたのではなかろうか。そんな本能に近い場所からの囁きに従って、紫苑は守勢へと回る。
あやかしは人の恐怖によって生まれ、それを貪り食らう存在だ。言い換えれば、何者よりも人の持ちうる恐怖を知り尽くした存在とも言える。だからこそ、分かるのだ。この女は決して窮地に立たされてはいないと。今の彼女からは、この風海小乃葉という女からは、間近に迫った死に対する恐怖が塵芥程にも匂わなかったのだから。
「こいつを爺ちゃんから習ったときは、あやかしなんて殆ど居なくなった現代の世で何時誰に対して使うんだ、なんて思ったけどよ。まさか、使う日が来るなんてな……サイアクな気分だ」
ぶつぶつと恨み節を呟きながら、風海小乃葉はゆらりと立ち上がる。
そんな彼女の言葉を一言一句噛み締め、紫色の姑獲鳥は想う。
――嗚呼、間違いない。
この女は生きている。鼓動を刻み命を燃やして生きているのだ。我らがあやかしの敵として。あやかしが忘れられるよりも遥か以前、宿敵として常に我らの前へと立ち塞がった退魔師達と同じ輝きを背負いながら。彼女は未だ、確かな実体を伴って存在している!
「――く、ふ、ふふ。あっはっはっはっはっはっ!!」
なんと歓ばしいのだろうか! なんとも心震えるではないか!
湧き上がる歓喜を隠そうともせず、紫苑は天蓋を仰いで高らかに笑う。
「なんなんだよアンタは?! 急に笑い始めやがって、気持ち悪ぃ!」
それは風海小乃葉の嘘偽りのない、純粋な感情。要するにドン引きだった。
「ふふ、悪かったよぅ。うら若き乙女に気持ち悪いってのは酷いじゃあないか」
「ツッコミ待ちか? ツッコミ待ちなんだよな?!」
「うーん、あたいとしては突っ込まれるより、
彼女の言葉の意味はいまいちよく分からなかったが、きっと分からなくていいことなのだろうと風海小乃葉は本能で悟る。
「お前さんのさっきのアレ、
「……敵に手の内をむざむざ晒すのは馬鹿のやることだぜ」
「相変わらずつれないねぇ。ま、いいさ。あたいが勝手に喋るから。陰陽術ってのは古代中国の陰陽道に起源を持つ呪術の一種。あたいが生まれたのはもう少し後の時代だから直接は知らないが、
「…………」
風海小乃葉の沈黙は、言葉にならぬ肯定を意味していた。
彼女の使役する退魔術はその中でも結界を軸にした術である。結界とはつまるところ『内と外』を別つ概念。ウチとソト、ハレとケ、そして人とあやかし。人は、とりわけこの国の人間は、古来より物事を単純明快な境界線で分断することによって村社会の秩序を守ってきた。それは間接的に人の生み出したあやかしに対してもやはり有効な概念であり、悪しき者の踏み込めぬ神聖なる社や、神聖な札によって閉じられた封印の間などといった、昨今の創作物にもよく見られるこれらのシチュエーションは、『内と外』の結界によって別たれた人とあやかしの最たる例といって差し支えないだろう。
「しっかし、あたいらの使う妖術や精神的な攻撃だけじゃあなくて、よくもまあこんな鉄の塊まで防ぐもんだと感心するよ。お前さん達のそれ、物理的な衝撃に対しては結構脆い筈だったんだけどねぇ」
「爺ちゃん……先代にしこたま鍛えられたからな。こんな力、今更使うことはないって思ってた」
「人生塞翁が馬さね。何が起きるか、何が役に立つかなんてのは、終わりの
「だったら――こいつも役に立てないとな」
風海小乃葉の双眸に宿された色は蒼だった。瞬間、ぼう……と彼女の左手の上に蒼い光の奔流が立ち上る。それはあたかも荒れ狂う海の如く、そうでなければ橙よりも熱く静かに迸る炎の如く、手の上で無作為に渦を巻いていた。彼女が今抱いている感情をそのまま投影した蒼い光の奔流は、彼女の両手に掴まれ細く引き伸ばされて柱となる。
「なんだいなんだい、その蒼いのは。捏ね繰り回して、まさかお粘土遊びをしようってんじゃないだろうね?」
「はっ、それよかもう少し刺激的だと思うけどな。……アンタ、もう一度だけ確認しておくぞ」
「ふぅん?」
「アンタ、マジにやるんだよな?」
ぞくり、と紫苑の背筋に視えぬ何かが奔り抜けた。それはきっと、快感。ただ日々を生き、外より訪れる者など滅多に居ない退屈な朱雀門の守衛としての生活では、決して得られぬ生と死のせめぎ合いの中でしか味わうことの出来ないひりつき。
応えなんぞは決まっている。にい、と口角を歪め、紫苑はたったひと言を叫ぶのだ。
「勿論だとも!!」
「だと思ったけど、さ。アンタ、まともじゃねえ。まともじゃあねえよ……!」
「まともだぁ? そんな何処の誰が決めたかも分かりやしない足枷に繋がれたままなんざ、あたいは真っ平御免さね! まともに生きて何が楽しいってんだい!!」
まともに生きて、何が楽しいのか。その言葉がどうしてか、質量を伴ってがつんと風海小乃葉の脳を揺らし、彼女の深層に近い場所を目掛けて猛進しようとする。間違いない。この言葉は、オレにとっての劇毒だ。風海小乃葉はかぶりを振るう。
「……っ! なら分かったよ!! 誰かに向けて使うことは初めてだから、どうなったって知らないからな!!」
寸でのところでその言葉を己の内から追い出して、彼女は毒の残り香を上書きするように叫ぶのである。するとその雄叫びに呼応して、彼女の握る光の柱がその勢いを一段と増した。柱は螺旋状に渦を巻き、禍々しさと美しさが同居した名刀のような鋭利さを伴って紫苑へと向けられる。
風海小乃葉の敵意の視線が射抜く先。相対する紫苑は負けじと仕込み刀を構えて思考する。果たして、あの女は何をしようとしているのか、と。
見たところ、あの柱は本質的には先程自分の一撃を防いだ結界と変わらない。内と外とを別つ退魔の概念をどのように出力しているかという違いだけだ。壁として展開させるか、柱として現出させるか。となればアレは彼女にとっての武器だろう。形状的に槍であろうか。武器ならばむしろ都合が良い。丸腰の人間を一方的に刀で切り伏せるというのはどうしたって気が引ける。彼女が自ら舞台に登ってきたというのであれば、これはもう一切の言い訳を挟む余地のない同条件の殺し合いにならざるを得ないのだから。
「さあ、行くよぉ!」
そこまで考え、紫苑は次に自分が取るべき行動が何かを悟り、疾風の如く駆け出した。からん、と乾いた下駄の音を置き去りにして。
敵の得物が槍であるのなら、今此処でこうしてのんびりと間合いを取っている場合ではない。得物を伴った戦いにおいては、如何にして己が得物の強みを最大限発揮できる制空権に敵を置くかが肝要だ。刀と槍とでは当然後者の方がリーチが長い。即ちこの状況は風海小乃葉の懐に潜り込み、槍の強みを封じることこそが定石。それが彼女の下した結論だった。
一歩、二歩、そして三歩。橋の端々、彼我の距離は約十五メートル。あやかしとしての身体能力を以てすれば斯様な距離は三歩で充分。そう目算を立てて疾走し、橋の中腹、二歩目に差し掛かった辺りで紫苑は形容し難い奇妙な感覚に襲われる。
――なんだい、これは?
あたかも、世界が静止したような。いや、違う。動いてはいる。動いてはいるが、思考以外の全てが高密度の水飴の中を泳いでいるかのように時間の流れが極限まで遅くなっているのだ。
まさか、これが風海小乃葉という女が行使した退魔術による現象だとでもいうのだろうか。否、きっとそれは違う。もしそうだとしたら、このような絶好の隙を晒しているというのに、それを見逃す道理がない。彼女もまた自分と同じく時間の流れの影響下にある。毅然とした炯眼で此方を睨みつけ、両の手に握った槍の先端を自分に向けて――――
槍? あれは本当に、槍なのだろうか。たった今、紫苑の脳裏に過ぎった疑問はある種の根本的な問い。強烈な、目眩にも似た違和感。普通、槍はあのような持ち方はしない。端と端をそれぞれ握り、身体を開いて肩の高さで構えるなんて。
あの構えは、まるで――――。
殆ど、同時だった。抱いた疑問の答えに紫苑が辿り着いたのと、風海小乃葉が『
『――結界。影なる者一切を穿ち、邪を払う光矢と成せ』
刹那、世界は速度を取り戻す。否、紫苑の思考の速度に彼女の肉体が追いついた。彼女の思考だけが通常の何倍もの速度で独り歩きをしていたのだ。脊髄に蓄積された彼女の戦闘経験が、彼女自身が冒した致命的なミスを修正する為に。
疾走する紫苑は全身の神経に向かって横に飛べと命令を下す。勢いを殺し切れなくとも良い。無様に地面を転がり、お気に入りの和服を土埃で汚すことになったとしても、今の自分が向かうべき場所は直進ではない。何故か。決まっている。自分は既に、風海小乃葉の敷く制空権の下に置かれているから。
「喰らえ――ッ!」
瞬間、轟と風切りの音が鳴り響く。風海小乃葉の呟きを合図にして、蒼い光の奔流が、彼女の両の手から放たれた光の矢が、先程まで紫苑の頭部があった空間を削るように貫いた。
「ちっ……外したかよ!」
――避けなければ、死んでいた。
その事実を視界の端で認め、紫苑は自分の判断は間違っていなかったのだと安堵し、ひゅうと口笛を鳴らす。彼女の生み出した得物は槍などではなかった。あれは矢だ。退魔の結界によって構築された光の矢。なるほど、確かに闇を祓う破魔の矢というのは、如何にも我々あやかしに身体能力の面で大きく劣る人間の叡智ということか。
けれど二度目は許さない。種は割れたのだ。紫苑はほくそ笑む。弓矢の有効射程は確かに脅威だ。しかし弓矢はつがえて放つまでにどうしたって時間を要する。その隙こそが致命的。初撃で自分を打ち倒すことができなかった時点で、もはや勝敗は決したも同然。
そう思いながら、再び風海小乃葉へ襲いかかろうと立ち上がる。その瞬間だった。
「でも関係ねぇ! 一発で当たらねぇなら避けられねぇくらいブチかましてやるよ!!」
紫苑が目の当たりにした光景は、一面の蒼だった。風海小乃葉という存在を守護するように、彼女の周囲に浮かぶ無数の蒼い矢。その切っ先の向かう先は全て橋の向こう側。つまり彼女は今から言葉通りの行いに及ぼうとしているのだ。
逃げる場もない程の光の奔流を一斉に放ち、紫苑という存在を退魔の嵐によって飲み込んでしまおうと。
「――最高だねぇ!!」
けれども直前、風海小乃葉は紫苑のそんな言葉を耳にした。楽しむ状況ではない筈なのに、楽しめる余裕などない筈なのに。そんな疑問を拭えないまま、一斉に放たれた光の矢は橋全体を蒼色に染め上げた。
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