迷い込んだ理由

「あやかし、だと……?!」


 たらり、と一筋の汗が風海小乃葉の額を伝う。それはきっと結晶だ。緊迫と焦り、そして胸の内を這いずり回る不定形の恐怖。それが紫苑と名乗った女の言葉に背中を押され、確かなものとして彼女の中に芽吹いたのだ。

 風海小乃葉の小さな拳が無意識の下で強く握られる。表情は固くこわばり、瞳は敵意によって鋭さを増す。視線の向かう先は当然目の前の紫だ。対する紫苑は飄々と笑みを崩すこともなく、先程と変わらない態度で風海小乃葉の問いに答える。


「ああ、そうだとも。姑獲鳥というのはね、夜な夜な赤子を母親から奪い去っては自分のものとして育てるだなんて伝承と共に語られてきたあやかしさ」


「はっ、要するに人攫いかよ。ろくでもねえ」


「んもう、酷いこと言うじゃないか。あたいはちょっと子供が好きなだけだよう」


「アンタの性癖なんざどうでもいいっつの……。で、此処は何処でどうやったら帰れるワケ? 知ってんだろ、アンタ」


 あやかしは退魔師にとっては駆除すべき人類の敵。けれども目の前の女から敵意の類は感じられなかった。どころか特有の肩にのしかかるような重苦しい感覚――風海小乃葉はそれを妖気と呼んでいる――も彼女からは匂わない。それが却って不気味だと言う他なく、肉体と精神とそれぞれの疲弊も相まって可能であるのならば今すぐ此処を立ち去りたかった。何より風海小乃葉はもう退魔師などではないのだから。


「くすくす、せっかちだねえ。もう少しのんびり会話を楽しんだってバチは当たらないだろうにさ」


「煩いな……いきなりオレは訳分からねえところに連れて来られて困ってんだよ。とっとと家に帰してくれ」


「しょうがないねえ。じゃ、出血大サービス。お前さんの疑問にこのあたいが答えてしんぜよう」


 いちいち癇に障るおどけ方をする女だ。風海小乃葉はそんな風に思うも、努めて露悪感を表に出さぬように彼女の語りへと耳を傾ける。


「此処はわすみやこ。その名の通り忘れられた者達が流れ着く、此岸と彼岸の狭間にある場所さ。……あたいの後ろ、見てみなよ」


 決して警戒は解かずに、風海小乃葉は紫苑の指差す方向へと視線を向ける。暗闇に閉ざされた帳の先、朧に浮かび上がるのは――門、であろうか。紅白に彩られた巨大な門。それそのものが小さな城のようにそびえ立ち、風海小乃葉達が現在立っている橋から続く道をせき止めていた。


「あれは都の朱雀門。この忘れ路の都はあたいらあやかしにとって全盛期だった平安の都を模して造られたのさ。西洋風に言うならイミテーションだ。あの先には忘れられた者達が暮らす都が広がってるってわけ」


「忘れられた者、ねぇ」


「そうとも。人間って連中はどいつもこいつも流行り廃りに敏感で、自分で生み出したってのにすぐ色んなものを忘れちまう。特にあたいら、あやかしってのは人の恐怖によって生まれた存在だろう。忘れられるってのは生き死にの円環から外れるってこと。だから忘れられた者は生きとし生ける者の為の現世うつしよに留まることが許されず、だからといって死した魂の安らぐ場所である幽世かくりよに向かうことも許されない。そんな忘れられて行き場のないカワイソーな魂が流れ着く掃き溜めがこの世界」


 ひとつ、風海小乃葉の中に長らく存在していた疑問が晴れた。祖父や紫苑が言うようにあやかしという存在は人の恐怖によって生まれた存在だ。そこに疑いは今更ない。けれども消えた彼らは果たして何処へ向かったというのだろう。塵のように大気へ溶けて消えたのか。人が知らぬだけで、彼らもまた人と同じように老衰して死んだのか。それとも力がなくなってしまっただけで今もなお人の世の裏側でひっそりと過ごしているのか。その答えがいとも容易く、あたかも学校で習う新しい数式と同じくらいの緊張感で語られたのだ。


 そこまで考えて、風海小乃葉の思考はもうひとつの疑問へと辿り着く。この世界が、この空間が、忘れられた者達の流れ着く場所というのが真実であるのなら。


「……だったら、オレも忘れられて流れ着いたとでも言うのかよ」


「そうなんじゃないのー? よっぽどのことがない限りは、そうじゃない恵まれたやっこさんが流れ着くことなんてないんだから」


 あっけらかんと、紫苑は肩を竦めて無責任に答えてみせた。彼女にとっては文字通り他人事であるのだろうが、風海小乃葉にとっては、そうなんじゃないの、なんてひと言のみでは到底納得できることではない。


「言っとくけど、別にあたいが連れてきたワケじゃないから、諸々あたいにぶつけられたってご愁傷さま以外の言葉は掛けてあげらんないよ。勿論、お前さんが次に問うであろう質問の答えも生憎持ち合わせちゃいない。此岸と彼岸は盆を除けば一方通行だろう? それが成り立つってのに、狭間の世界と現世とが自由に行き来できる道理は何処にもないってことさ」


 つまり彼女はこう言いたいのだ。帰る術など最早ない。諦めて現状を受け入れろ、と。だからといって、はいそうですかと現状を受け入れることが出来るほど、風海小乃葉は素直な女ではなかった。

 彼女の眉間に皺が寄る。苛立ちと不安とが綯い交ぜになった表情を浮かべ、無意識の内で己が服の裾を握りしめていた。


「そう神妙な顔しなさんな。ほら、住めば都って言うだろう? さっきあたいは此処を掃き溜めっていったけど、此処は慣れれば案外良いところだとも」


「……慰めてるつもりかよ」


「どっちかっていうとからかってるんだけどね。……冗談さ、そんなに怖い顔しなくなっていいじゃないの。けど、不思議には思ってるよ」


「不思議? 何をだよ」


「此処は忘れられた者の迷い込む場所って言ったろう? だから人間が迷い込むことなんて本当は滅多にないんだよ。人間って連中は群れていなくちゃなんにも出来ない『群』の生き物だからね。此処に迷い込むくらい誰からも忘れられた希薄な人間なんてものは、とっくに生き物としては破綻してるんだよ。自己の存在すら繋ぎ止めていられない奴さんが望むことは、往々にして死か思考停止の停滞か。お前さんみたいに帰りたいって思える人間は、そもそもこんなところには来ないのさ」


 くすくす、と鼓膜に響く不愉快な笑い声を無視して、彼女は自己の内面へと問いかける。このあやかしに突き付けられた、自分は本当に帰りたがっているのかなどという命題についてを。その問いに対しては早い段階で答えが出た。端的に言うのなら、はっきり言って自分が何処に居るのかなんて事項に興味はなかった。そも、自分は退魔師であるという生き方を捨て、今までの自分を忘れ去ろうとしていた人間なのだから。


 ――ああ、そうか。自分は、オレは。自分そのものを忘れてしまおうと願ったから。


「おや、おや。どうやらその合点がいったって顔は、自分がどうして迷い込んだのか分かったって感じかい?」


「……ちっ、お陰様でな」


 確かに、この忘れ路の都などという場所に迷い込んでしまった理由は、きっとある種の自業自得。消えてしまいたいだとか、今までの自分はなんだったのかだとか、そんな如何にもな思春期特有のセンチメンタルと、自身にとっての重大な決断が重なってしまったが故の不慮の事故。どうせ心は往く宛もない根無し草なのだから、何処に行き着こうと大差はなかった筈。

 否、それでもなお。自己の内面にて未だ漂うひと片の矜持が、或いは退魔師であったという残り香が告げる恐怖への暗示が、このあやかし蔓延る忘れられた者の流れ着く世界を、どうしたって受け入れ難いと叫んで止まぬのだ。


 そんな風海小乃葉の心境を見透かしたように、紫苑は笑う。口角を歪め、先程よりも鮮烈に、おどろおどろしく、壮絶に。明確な意思を伴った笑みだった。そのように思わざるを得なくて、風海小乃葉の背筋にぞくりと形容し難い感覚が奔り抜ける。

 この感覚を、風海小乃葉は知っていた。まるで昔、祖父に連れられて初めてあやかしと呼ばれる存在に触れたときのような――。


「さ、あたいはお前さんの疑問をひとつ答えてやったよ。この世界の原則は等価交換。目には目を、刃には刃を。商い人の売る果実が欲しければ銅銭を、愛が欲しければ献身を。だから今度は、あたいの質問にひとつ答えてもらおうかね!」


「オレの何を知りたいってんだよ」


「決まってるさ。どうしてお前さんは、。正確には驚いちゃあいたね。でもその驚きはあやかしって言葉の意味が分からないだとか、お前は何を言っているんだとか、そういうのじゃあない。こんな状況で初対面の別嬪べっぴんさんに自分はあやかしだなんて言われたら、普通優先されるべき感情は恐怖や疑念さ。でもお前さんにはそれがなかった。おっと、自分で自分を別嬪だなんて恥ずかしいヤツだ、なんて茶々は野暮だからおよしよ」


「……だったらどうだってのさ」


「くくっ、もう薄々は気が付いてるんだろう? お前さんがあたいの自己紹介を聞いて、いの一番に抱いた感情の名前、当ててみせようじゃない」


「……………………」


「敵意さ。あやかしって存在が自分ら人間に仇をなす連中だって、そいつを知ってなくちゃあ、あんな反応にはならない。お前さん、迷い込む以前からあたいらあやかしのこと、知ってたんだろう? そしてあやかしのことを知っている人間なんてのは凡そ限られる。……お互い腹の探り合いはここいらで終いにしないかい?」


 ごくり、と風海小乃葉の喉が鳴る。一度は紫苑の独特の雰囲気に飲まれて霧散しかけた筈の緊張感が、しかし気が付いた時には蘇り、ふたりの間の約七メートルという距離を塗り潰していた。


「さっき、あたいはこう言ったね。知らぬ者同士が出会ったのなら、まずはお互いの名前から、と。なればこそ、もう一度名乗らせてもらおうか! あたいは紫苑! 姑獲鳥のあやかしにして、お館様からこの朱雀門の守護を任された門番さね! お前さんがこの門を通るべき人間かどうか、見極めさせてもらおうか!!」


 瞬間、風切りの音が鳴る。紫苑が掲げた番傘を畳み、徐に虚空へと薙いだのだ。続けて鳴り響いたのは、からんからんと乾いた木と木がぶつかり合う音。片方は今自分の立つ古ぼけた橋だろう。もう片方は何の音か。風海小乃葉は紫苑のことを睨みつけて、そして識る。彼女が先程まで番傘を握っていた右腕に、銀色が一本の糸のように煌めいていることを。


「かっこいいだろう、仕込み刀って奴は。あやかしってのは感情で生きる存在。だからどいつもこいつも、浪漫って奴を愛してやまないのさ!」


 然れども、この銀色は犍陀多かんだたに与えられた釈迦よりの慈悲などではない。無慈悲に輝く彼女の刃は風海小乃葉を、退魔師という生き方を捨てた筈の女を捉えて離さぬのだ。


「ちっ、結局こうなるのかよ……!」


 風海小乃葉が迷い込んだ原因は、きっと他ならぬ自分自身が自分のかつての生き方を、そして長らく紡がれてきた一族の使命を忘れ去ろうと否定したから。けれどもこうして流れ着いた先の世界で、結局自分は退魔師として振る舞うことを余儀なくされている。


 ああ、なんて皮肉なのだろう。忘れようとしたからこそ、よりその存在を強く想わなければならないなんて――。


「さあ、今宵は宴だよ! 此処は悪いところじゃあないが、如何せん娯楽が少なくてねぇ! 切った張ったを楽しもうじゃないのさ!」


 この瞬間、風海小乃葉は自分の胸の内で燻るように産声をあげた感情に気が付くことはなかった。紫苑という名のあやかしが高らかに歌い上げるように名乗りを挙げ、秘めたるおのが得物を顕にさせて、今まさに死合が始まらんとする刹那の刻に、彼女が抱いた感情の名は。


 きっと、高揚だった――――。

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