忘れ路に至りて

「なんだよ……これ……っ?!」


 風海小乃葉が目を開けた先には見知らぬ世界が広がっていた。今までの自分を捨てて新たな自分に生まれ変わるなどといった比喩的な意味では決してない。文字通り、一面が知らぬ光景へと塗り替わっていたのだ。


 否、知らぬという表現は適切ではない。彼女は今長方形の薄暗い箱の中、等間隔に並べられた二人がけの椅子の最後列に座っている。少し頭上へ視線を移すと紐で編まれた網棚が、左右へ視線を移すと高速で後方へ流れてゆく霧がかった風景が。そして鼓膜を体の芯から震わせるがたんごとんと何かが揺れるような聞き覚えのある断続的な音。


「列車、か……?」


 これら断片を撚り合わせ、彼女は現在自分の居る空間が何処かの列車内であると結論付ける。時折揺れる音に潜むしゅうしゅうといった吹き出る湯気に似た音は列車の呼吸、即ち蒸気機関の駆動音であろうか。

 しかしそれが分かったところで、疑問の焦点が現在の居場所に対する謎から、何故斯様な場所に自分がいるのかという疑問へと移り変わるだけであった。誘拐か、幻覚か、それとも自分は夢遊病の類を患っており、知らぬ間に自ら乗車したとでもいうのだろうか。この状況を説明する為、風海小乃葉の脳裏に次々と可能性が浮かぶも確信に至る根拠は見つからない。


「……っ! おい、誰かいないのか!」


 ならば、探せばいい。彼女の住む場所は決して都会ではないが、日に数本の列車しか運行しないような僻地にあるわけでもない。他の車両を探せばひとりくらいは乗客がいるだろうし、線路を走っている以上、端の車両まで歩けば必ず車掌がいる。何より知らぬ場所でじっと座り続けて恐怖に抗うよりは遥かに良かった。

 そう思い立ち列車の進む側のドアを開け放とうとして、風海小乃葉は現在の自分がどのような状況に置かれているのかを思い知ることとなる。


「開かない……?」


 そう、扉が開かないのだ。どれだけ力を込めようがびくともしない引き戸はあたかも空間に固定されてしまったかのよう。反対側の車両へのドアも同様に開く気配を微塵も見せはしなかった。

 自分はこの車内に閉じ込められてしまったのだ。理解が現実へと追い付き、風海小乃葉の表情に宿されていた焦りの色が一層深くなる。我が身に何が起きているのか。この場所は果たしてなんだというのか。どうせ答えなど見つからないというのに、まるで玩具を壊してしまった子供が奥底では直らぬという現実を知りながらも、どうにかくっつかないかと無駄な足掻きを繰り返すように、彼女の思考は堂々巡りの為に極限まで加速してゆくのだ。

 そんな思考の果て、彼女は遂にひとつの疑問へと到達する。視線がゆっくりとドアから外されて、恐る恐る向かった先は――車外。深い霧に覆われた窓の外には、時折何かの輪郭が朧気にゆらめくのみであり、その先に広がる光景を識ることは叶わない。だからこそ、が気になって仕方がないのだ。ごくり、と風海小乃葉の喉が鳴る。


 


 列車は走る為に走るのではない。自らに乗り込む人や貨物を運ぶ為に走るのだ。なればこそ、この終わりの見えぬ直線の旅路もいずれは終着駅へと辿り着く。


 なんだよ、恐れることなんてないじゃんか――――。


 自己を奮い立たせる言の葉を紡ごうとして、しかし唇はきつく結ばれたまま、音を伴わない言葉は空虚に胸の内を行き交うのみ。

 駅に着いたのなら降りて居場所を確認し、自力で帰るなり警察等の助けを借りればいい。そんなことは分かっている。けれども彼女は端くれとはいえ退魔師であった女。だから、識っている。この世に不思議なことなどありはしないなどと、社会一般にて培われ広く根を張る常識が脆い硝子でしかないということを。

 古くは東北から関東にかけて語られる迷家マヨヒガの伝説。ゼロ年代中期の昨今においてはインターネットの匿名掲示板を騒がせた「きさらぎ駅」などという都市伝説。一般人にとってのこれら虚構のエンターテイメントが、しかし実際には表社会に滲んでしまった影の表層であると識っているが為に、風海小乃葉は、忘れ去った筈のもうひとりの彼女は、半ば本能で確信していた。


 自分はきっと、しまったのだと。


 ぷしゅう――なんて場違いで、間の抜けた音なのだろうか。気が付けば列車は静止し、そんな音を伴って、密閉された黒い箱の扉がひとりでに開いて外界へと繋がった。きっと駅に着いたのだろう。ようやく閉塞から抜け出せるというのに、どうしてか風海小乃葉はむしろぎゅっと胸を鷲掴みにされたような息苦しさを覚えていた。


「ああ、もう! なにを怯えてるってんだよ! オレは! こんなもんちゃっちゃと出て、とっとと帰りゃ済む話じゃねえか!」


 蛮勇か、はたまたやけくそか。彼女のそれは雄叫びというよりはむしろ悲鳴に近く、反響すら伴わずに霧の中へと溶けてゆく。

 そして一歩、彼女は列車の外へと降り立った。未知の領域、不可思議の世界へと。


 ――――何も、起こりはしなかった。


「はは、なんだよ。別にどうってことはないじゃんか……」


 逆に、自分は一体何が起きると思っていたのであろうか。まさか斯様な場所に落とし穴や地雷の類が眠っている筈もない。アームストロングが月面に遺した偉大なる飛躍の足跡でもあるまいし、たった今彼女は列車から一歩を踏み出しただけであるというのに、どうしてか風海小乃葉の胸の内はやり遂げてやったという気持ちでいっぱいだった。

 それでも一歩は一歩だ。少なくとも彼女は走る檻からは解き放たれた。こんな訳の分からない場所に連れてきやがって。そんな気持ちに従って、彼女は意味もなく振り返り、黒光りする車体を睨みつけようとして、しかし気が付いてしまう。


 そこに、何もないという現実に。


「は…………?」


 彼女の振り返った先には何もなかった。ある筈の列車も、線路も、空間でさえ。物質の痕跡は何処へ。無彩色の暗闇だけがすぐそこまで迫っていた。まるで巨大な怪物が大口を開けて今か今かと自分を飲み込もうとしているかのように。少なくとも、この闇はきっと触れてはいけない危険な黒。風海小乃葉にはそう思えて仕方がなかった。

 だから、走る。故に、疾走する。闇から逃れる為、ひたすらに。振り向きもせず一直線に。何処へ? 決まっている。闇のない方へ向かうのだ。光へ、風海小乃葉の瞳が捉えた、遥か前方にて仄かに輝きを放つ一筋の光芒へ。あの光が果たして何の光なのかは風海小乃葉には分からない。けれども人が光へ進もうとするのは本能なのだ。他の生き物が火という原初の炎を畏れ、しかし人だけがそれを畏れず自らの力へ変えたように。人は光によって導かれ、光なくしては生きられぬ生き物なのだから。


「何をそんなに急いでいるんだい、お嬢さん?」


 そして彼女は、辿り着く。迷い込んだ先の世界、徐々に迫りくる深淵を抜け、光芒へと辿り着いた風海小乃葉を迎えたものは――飄々と靡く、低い女の声だった。


「はぁ……っ! はぁ……っ! 誰、だ……?!」


 あの路地を離れてから初めて触れる他者の気配に、風海小乃葉が抱いた感情は安堵であった。息も絶え絶えに、風海小乃葉は周辺を見渡して声の主を探そうとする。同時にあのまとわりつく深い闇が何処にもないことを認めると、一瞬だけほっと胸を撫で下ろした。


「はは、こっちだよこっち。橋、渡ったとこだよ。外から人間が迷い込んでくるなんて、何時ぶりのことだろうねぇ」


 自分はどうやら巨大な橋の真ん中に立っていて、声の主は渡った先の暗がりにいるらしい。自分の置かれた状況を把握して、風海小乃葉は呆れとも怒りともつかぬ溜息を禁じ得なかった。

 訳の分からないまま謎の列車に閉じ込められ、ようやく降りられたと思えば訳の分からぬ暗闇に飲み込まれそうになって。そうかと思えば今度は何処かの橋の真ん中に立たされている。あまりに脈絡のない状況の変化だ。一体全体自分と世界に何が起こっているというのか。渡った先の女性にひとつ残らず問い質してやろうと、半ば八つ当たりのような決意を抱えて風海小乃葉は橋を行く。


 真夜中のような暗がりの中では声の主の顔付きや衣服などの詳細は分かりそうにもない。分かることがあるとすれば、彼女は橋の柵にもたれ掛かって何やら上機嫌に鼻歌を唄っているということだけ。その様は何処か待ち人を待つ年頃の女性の気楽さそのもので、しかしどうしてか風海小乃葉には、この女性の纏う雰囲気には常人のそれではない威圧感にも似た刺々しい匂いが滲んでいるように思えて仕方がなかった。


「おっと、悪いけど一旦そこで止まって頂戴な。外の言葉ではなんて言うんだったかな。そうだ、ストップだ。ストップ、ストップ。くす、くす」


 自分の言葉が余程可笑しかったのだろうか。女性はくすくすと喉奥でくぐもった笑いを響かせながら、ゆらりと背中を柵から外して風海小乃葉への方へと寄ろうとする。 


「おい、アンタ。此処は一体何だ。知ってるんだろ、全部教えろ」


「おや、おや。随分と不躾じゃないのさ。あたいとお前さんは初対面。知らぬ者同士が出会ったのなら、まずはお互いの名前から。違うかい?」


「ちっ……風海小乃葉だよ」


 お互いの名など交わしたところで役には立たない。そう思いながらも必要以上の悪印象を植え付ける必要はないのも事実。風海小乃葉は渋々自らの名を口にして、それと同時に女のことをじろりと一瞥する。周辺の暗闇にようやく慣れた彼女の瞳は、先程よりも克明に女の姿を映し出す。


「小乃葉、ね。覚えたよ」


 奇妙な格好の女。それが風海小乃葉の女性に対する第一印象だった。奇妙、といっても道化師のような奇抜でユーモアに溢れた格好という訳ではない。艷やかな紫の色無地に、幽玄に舞う蝶の柄があしらわれた帯。結われた髪の毛には簪が光り、日が照っている訳でもないのに色無地と同じ色の番傘を携えて、女は風海小乃葉へ妖しく笑んでいた。

 なるほど、和装だ。それも文句の付けようがない程に。祇園の街を歩く浮かれた観光客が着るそれとは違ってごく自然に馴染んでいる。馴染んでいるからこそ、奇妙なのだ。今は歴史や文化より利便性の時代。好き好んで着付けに時間のかかる和服を普段から着ている人間など限られるのだから。


「なにさ、あたいのことジロジロ見ちゃってさ。顔、何か付いてる?」


「……別に。それよりオレは名乗ったんだぞ。アンタの名前なんてこれっぽっちも興味ないけど、先に礼儀を持ち出してきたのはアンタだ」


 風海小乃葉は考える。けらけらと人懐っこく笑う目の前の女に、格好以上の不思議な点はない。自分の警戒は杞憂でしかないというのだろうか。女の見せる朗らかさの奥に潜む深海にも似た妖艶さは、果たして気の所為だとでもいうのだろうか。問答の末、彼女の発する空気に飲まれ、思わず肩の力を抜こうとしたその瞬間であった。


「つれないねえ。ま、いいや。あたいは紫苑しおん。かつては姑獲鳥うぶめと呼ばれた――あやかしさ」


 ぞくり、と全身の産毛が逆立つような感覚。風海小乃葉は確信する。この橋は、この空間は、人の侵してはならぬ領域であることを。

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