忘れ路の言ノ葉
霜月遠一
終幕、そして始まり
終焉とは移ろいゆく季節のように朧気で、されど吹き抜ける風の如く唐突に。
ゼロ年代中期、秋。この日、この瞬間、ひとりの女に訪れたものは形のない終焉であった。
訪れた、という表現には些かの語弊がある。彼女は自らの歴史に自らの手で幕を降ろしたのだから。とはいえ、死んだ訳ではない。女――
それは彼女の、何処にでもいない異端者としての一面。彼女以外の誰ひとりとして知らぬもうひとつの顔。
退魔師――それが彼女の裏の姿だ。世に蔓延るあやかし共を打ち払い、人の世を悪鬼羅刹の魔の手から護ることを生業とする一族。その末裔こそが他ならぬ風海小乃葉という女の影の姿。
平安の時代から続くそんな一族の使命、影の領域における日の国の平穏の担い手としての宿命。その一切を、彼女は今この瞬間、終わらせたのだ。
「……終わってみれば、なんだか呆気ねえな」
そりゃそうか。退魔師を辞めたとて、昨日までと物質的に何かしらが変わった訳ではないのだから。そんなことを何処か皮肉混じりに独りごち、風海小乃葉は自らが生まれ育った京都の街をぼんやりと歩いていた。周辺に
ひと度賑わいを離れれば、そこに広がるのは息苦しい閉塞感だけ。虚ろ、空疎、がらんどう。此処には何もない。何もないからこそ、孤独が一層と際立ち、それが形のない息苦しさとなって身を縛るのだ。そう感じてしまうのは、今の自分をこの空虚に重ねてしまっているからなのだろうか。風海小乃葉は唐突に立ち止まり、鼠色の曇天を仰ぎ見ながら肩を落とす。
この世界において、自分はどうしようもなく独りぼっち。表の風海小乃葉に友人と呼べる間柄の人間はいない。どうしても馴染めなかったのだ。同年代の女のように連れ立って遊びに出かけたり、誰々が好きだなどと恋愛に現を抜かしたり。そんな何処にでも存在する『普通』に対して、どうしても馴染むことが出来なかった。
住んでいる世界が、位相が違うのだから。退魔師として日常の裏側を識るからこそ、世界から何処か浮いているような感覚が、自分の居るべき場所は此処ではないという観念が、常に付き纏っては彼女に溶け込むことを許さなかったのだ。
では、裏の風海小乃葉は独りではないのか。それもまた、否である。正確には、つい先日までは独りではなかった。祖父がいたからだ。幼き日に両親を事故で喪った風海小乃葉を引き取り、十八という年齢になるまで自分を育ててくれた祖父が。
そんな祖父が、先日亡くなった。いつも早くに床に入り誰よりも早く目覚める祖父が、その日はどうしてか朝食の時間になっても姿を現さない。それを不思議に思い、起こしに向かった風海小乃葉が見たものは、布団の中で既に彼岸へと旅立ち冷たくなっていた祖父の抜け殻であった。医者が言うには死因は心筋梗塞であったという。享年は八十九。現代の平均寿命が約八十であることを思うと往生といって差し支えはないだろう。なんてことはない、長寿の国であれば世界中何処を探しても簡単に見つかるような老体の末路に過ぎなかった。
そんな祖父の死が哀しくないかと問われたのなら確かに哀しみはある。風海小乃葉にとって、祖父は厳しくも優しい唯一の肉親であったのだから。無論、育ててもらった恩もある。喪失感は拭えない。
けれども、それと同時に風海小乃葉が抱いた握りこぶし程の大きさの感情は、ある種の安堵であった。ほっとしたのだ。祖父が死んで、自分を縛り付けるものがいなくなったという事実に、彼女は不謹慎を自覚しつつも安堵を禁じ得なかった。
「……爺ちゃんは、幸せだったんだろうか」
祖父の晩年をなぞるように思い出し、風海小乃葉は小さく漏らす。彼女にとっての祖父をひと言で表すのなら、正義感が服を纏って歩いているような人、であったろうか。それくらい彼女の祖父は曲がったことを嫌い、困っている人を見かければ見て見ぬ振りを決して良しとせず、例え自分が損を被ろうとも世の為人の為に尽くすような人。少なくとも彼女にとっての祖父とはそういう男であった。
だからこそ彼は戦い続けた。一族の宿命に抗うようなことはせず、
されど彼女は、ともすれば自分というものを二の次に置いた祖父の生き方に疑問を持った訳ではない。世の為人の為に戦い続けた祖父のことは尊敬しているし、少し前までは自分自身も祖父から教わった退魔の術を用いて彼の後を継ぐのであると信じて疑うこともなかった。
では、果たして何が彼女の根幹を揺るがしたというのであろうか。
簡単だ。そも、退魔師という存在が、もうこの世界には必要なくなってしまったのだから。
「あやかしの正体は恐怖……。言い換えればそれは目に視えないものを信じる気持ち……。けれども人は強くなりすぎた。科学の発達が、人から信じる気持ちを失わせた、か」
かつて風海小乃葉は祖父にあやかしが何処から来てどうして人を襲うのかと聞いたことがあった。その時の祖父の言葉を思い出し、風海小乃葉は無意識の内にそれを繰り返す。
あやかしの根源は恐怖。人は知らぬからこそ恐怖する。闇を、夜を、死を恐怖する。それらには形がない。形がないから、人は何より恐怖する。だから人は願った。せめて暗闇に形があれば、と。そんな純然たる生への願いが不定形の恐怖にあやかしという肉体を与えて顕現させたというのだ。
幼い彼女にはなんだかそれが可笑しく思えて仕方がなかった。祖父の話が事実であるのなら、人があやかしに襲われるのはまさしく自業自得ではないかと。けれども祖父は優しく諭すような口調でこう言ったのだ。「人は痛みに弱いから、縋れるものがあるのならその正体が何であれ縋ってしまうものなのだよ」と。幼い風海小乃葉にはその言葉の意味がいまいちよくは分からなかったが、今ではその意味がよく分かる。
何故なら彼女の祖父もまた、あやかしという存在に縋らなければ生きてはゆけぬ人間であったから。
――この百年あまりで世界は、少なくとも日本という国はあまりにも大きく様変わりしてしまった。夜の暗闇は街灯やネオンの光によって行き場を無くし、死は医療の発達によって完全ではなくとも、ある程度は人がコントロール出来る領域へと成り下がった。それでもまだ、祖父の若かりし頃は目に見えぬあやかしなどといった事象を、形はどうであれ信じ恐れる者は少なくなかったのだろう。故に強大なあやかしは数こそ減らしたものの以前として跋扈し、それに伴い退魔師という存在の価値は揺るがなかった。或る意味、影の世界は均衡していたのだ。
その均衡にとどめを刺したのは九十年代中期、パーソナルコンピュータ――即ちインターネットの一般家庭への普及であった。かつては飛脚が何日も掛けて一枚の文を遠方へ届けていたというのに、今ではパソコンどころか手のひらサイズの携帯電話ひとつがあれば、何処にいようが瞬間的に他者と繋がることの出来る時代だ。つまり人は物質的な接触に依存せずとも他者と繋がることが出来るようになったのである。時間や空間などに縛られることのない、余計な一切を介入させることのないコミュニケーションによって、人は人だけで生きていけるようになったのだ。人は恐怖を、目に視えぬものへの恐怖を、殆ど完全に、克服した。克服し、忘れてしまったのだ
その結果、あやかしという存在がどうなったのかは最早語るべくもないだろう。九十年代に流行した第二次オカルト・ホラーブームの存在は、或いは人によるあやかし達への勝利宣言のようなものだったのかもしれない。それは穿ち過ぎかもしれないが、少なくともこの時代からあやかしという影の領域は居場所を完全に剥奪され、光満ちる世界の王者である人類種を楽しませる為の単なるエンターテイメントとなってしまったことだけは事実と言わざるを得ない。
端的に言ってしまえば、現代の世はあやかしなどという存在が生きてゆくにはあまりに難しい時代なのである。いたとしても人の脅威には程遠い、虫けらが如く弱々しい残り香のようなあやかしだけ。
怪我人や病人がいなければ医者など必要ないように、或いは犯罪もトラブルも何もなければ警察などいなくても良いように、当然の摂理として退魔師は必要とされなくなっていった。かつてこの国には多くの退魔師がいたという。けれども時代を経るにつれ、人が恐怖を克服するにつれ、彼らは次第に数を減らし、影の世界から表の世界で生きることを余儀なくされた。きっとそれは良いことなのだろう。人は安寧の揺り籠の中で生きてゆけるようになったのだから。そして退魔師たち自身も、同時に命脅かされることなく防人の使命から解き放たれたのだから。
だが、彼女の祖父は。風海小乃葉の唯一だった肉親だけは、どうしてもその呪縛から解放されることはなかった。彼はずっと信じ続けていたのだ。今あやかし達は雌伏の時に甘んじているだけであり、いずれ彼らは再び人に牙を向くことを。長年最前線であやかし達と戦ってきたということは、即ち何よりも濃厚な恐怖の精髄に、誰よりも長く浸かっていたということに他ならない。簡単に生き方を変えることは出来なかったのだろう。祖父は人の為に身を捧げ、闇の住人と鎬を削るというアイデンティティの檻から抜け出すことが最後まで出来なかったのだ。
爺ちゃんは、毅然と恐怖に対して立ち向かっていたようで、本当は誰よりも奴らを恐怖していたのかも――――。
だからこそ風海小乃葉は、風海という退魔師の一族の末裔は、祖父の四十九日を皮切りに、長らく続いてきた戦いの歴史に終止符を打つと決めたのだ。現代に退魔師は必要ない。居てはならないのだ。そうでなければ、きっと祖父は――爺ちゃんの魂は、一生解き放たれることがないまま彷徨い続けるに違いない。そんなのは、あんまりではないか。
「でも、だからって……これからオレはどうすりゃいいのかねぇ」
はぁ、と再び深い溜息が漏れる。目を瞑り、風海小乃葉は立ち止まってそんな風に呟いた。退魔師という身分を捨てる。その選択が誤ちであるとは思わない。祖父を思ってのことだけではない。どうにせよ今の時代は必要とされない以上、この仕事で食べてゆくことなどは出来ないのだから。
けれども彼女自身、半分は影の世界で生きてきた人間なのだ。祖父がそうであったように、生き方というものはそう簡単に変えられるものではない。同年代の少年少女は自らの将来を憂い、悩み、故に努力を積み重ねて進学や就職という選択に至っているのだろう。されど自分にはそれがないのだ。表の世界に積み重ねてきたものが何ひとつとして存在しない。何処までも広がる草原に、裸一貫で放り出されたようなもの。此処ではもう、忘れ去ると決めた退魔師としての影の自分は、塵芥程にも役には立たないのだから。
これから、どう生きてゆけばいいのだろう。胸の真ん中に穴がぽっかりと空いているみたいな、言いようのない孤独感はひたすらに。忘れ去った半身の代わりは、果たして何処にあるというのだろう。目を瞑っていると、この世界の孕む重力に存在が希釈され、段々と薄く、ゆっくりとこの身が宙へと拡散してゆくような錯覚を覚えてしまう。恐怖と安らぎが奇妙に同居した感覚だった。
なんて、バカバカしい。センチメンタルはオレなんかには似合わない。言葉にならぬ言ノ葉を、その胸の内にて空虚に響かせ、風海小乃葉は振り払うように歩き出し、再びその双眸を光へと晒そうとする。
――きっと、そんな不安と忘却が、彼女を此処へと導いたのでしょう。
「……は? なんだよ、此処……っ?!」
次の瞬間、彼女の視界に映った光景は先程までとは全く異なっていた。脈絡のない夢のような遷移。がたん、ごとんと揺れる箱の中。しゅう、ぽう、と断続的に鳴り響く汽笛の音。
風海小乃葉はたった今、見知らぬ蒸気機関の列車の中に。
終焉は、唐突に。されど、始まりもまた、唐突に――。
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