イニージオ~名もなき魔法~
小町
第1話 運命の風
「君の世界で一番綺麗だったものは何?」
冷たい鉄の扉の奥にいる女は「星。」とだけ答えた。
果てしなく続く暗闇と1枚の扉、その奥にいる女、己の足を縛る鎖が世界の全ての少年ーーハルにとっては当然理解できるものではなかった。
ハルは星について質問を繰り返す。返ってくる言葉にピンと来るものは少ない。そのことに苛立つこともあったが、5年以上繰り返したやり取りにもはやそんな感情は湧き起こる訳がない。
「もう寝る時間ですよ。」
彼女の言葉だけがハルにとっての時間の概念。横になるが眠気はない。
生まれてから眠りに落ちたことは1度もなかった。横になったままの頭から「星」が消えない。何がそうさせたのかは分からないが、そうゆうものなんだろう。ハルは心の底から星が見たいと願った。しかも、1人ではない。
名前も知らない女とだ。扉の奥から彼女の気配が消えそうになるのを感じてハルは口を開いた。
「いつか一緒に星を見よう。」と。
彼女は黙ったままそこにいる。口を開いたと思うと、何かがこみあげてきたように嗚咽を漏らす。ハルには分からなかった。なぜ、泣くのか。何の意味があるのだろうか。ハルはただ黙って待っていた。答えが返ってくるのを。
「絶対に見せてあげる。お姉さんが叶えてあげる。約束よ。」
女は震えた声で呟いた。2人は扉を隔てて約束した。星を見ると。
6年後
暗闇に包まれた少年の世界に運命を大きく変える風が吹いた日。
扉の奥で女が誰かと話している。こんなこと初めてだった。好奇心から扉に張り付くように耳を澄ます。何を話しているかは分からない。
「今までごめんね。」
女の一言だけが鮮明に耳を刺した。なんとなく自分に言っているのだろう、そう思わせた。胸が痛く感じたのは気のせいではないだろう。
「少年、下がっててね~。」
危機感を感じさせないおっとりした声だったがハルは逃げるように扉から離れる。
「
「
永遠に開くことはないと諦めていた扉が勢いよく開いた。
扉を開けたであろう風にハルは吹き飛ばされる。その瞬間、明るい光が暗闇の世界に流れ込んだ。
「離れてって言ったのにー。」
長髪の男?が怒ったように入ってくる。
「僕はメンデル。外の世界に連れていってあげるよ。」
メンデルは自分に外に行こうと促している。突然の出来事、いや、初めて人に会ったことに驚いた。自分の顔すら知らないからだ。
願い続けたものがようやく叶おうとしてしてる。しかし、足を前に出すことができなかった。震えて仕方なかった。疲労からではない。今までそんなことはなかったから。この時初めて、自分の足に纏わりつく鎖の意味が理解できた。重さも感じない、違和感もない。そんな鎖の意味が理解できたんだ。
歯がガタガタと鳴り響き全身が震える。生まれて初めて恐怖を感じていた。
ここから出ることを願い続けた。しかし、出たところで一体何になるんだ、ここが僕の全てなのに。その思いに反応して鎖が精神的な重圧を与えていた。
「んー?それはもう君には必要ないものだね。」
「
メンデルの持つ棒の一振りで鎖が砕け散った。
その瞬間、足が驚くほどに軽くなった気がした。実際は変わっていないのに。胸につかえが取れた。
「もう一度聞くよ。君は選ぶことができる行くか、行かないか。もう君を縛る物はないんだ。」
メンデルが差し出した手を取る。
「行きたい。僕は行きたいよ、外の世界に。」
「そうこなくっちゃね。」
メンデルは笑って返した。
「さ、箒に乗って!」
ハルはかつてないほどに軽くなった足で新しい一歩を踏み出した。が、その足は箒ではなく扉の先に向かった。仰向けになった女がいたからだ。
息を呑む。
「待ってください。」
メンデルはハルに手を引かれたまま黙っていた。
「お姉さん、僕外に出れたよ。約束守れるよ。見せてくれるって言ったじゃないか。」
彼女は何も言わない。メンデルも何も言わない。
「ねえ、ねえってば…。答えてよ。いつもみたいにさ。」
いくら声をかけても、揺さぶっても答えは返ってこない。
「死んでるよ。」
「死んでる?死んでるってなんだよ!」
込み上げてくる感情が一体何なのか分からないまま、メンデルに掴みかかり行き場のないものをぶつけてしまう。メンデルはまた何も言わない。
「答えてよ。メンデルさんは…。」
「眠ったんだよ。もう目覚めない。」
メンデルはそう言いきった。「死」が何かその時初めて知った。彼女は教えてくれなかったから。永遠にも感じられる静寂が流れる。
「行こう。君はまだ先に進むことができる。」
メンデルは血が出るほどに下唇を強く噛みしめていた。
目の前にいる彼女を置いて行きたくなかった。寸前まで抱いていた希望や期待と感情はすでに消え去ってしまった。彼女が自分のすべて、この世のすべてだったからだ。「星を見て。」彼女は最期そう言ったらしい。
「一緒じゃないと意味がないよ。」ハルは心の中で嘆いた。でも、それが彼女の願いだったからだ。それを無下にすることなんてできないからーー
「進むよ。僕は。」
「それじゃあ、行こうか。」
メンデルは改めて箒に乗るように促す。ハルは俯いたまま後ろに乗る。
「しっかり捕まっててね。振り落とされないように。」
ハルは振り返らなかった、後ろを、彼女の方に。
2人を乗せた箒は吸い込まれるように消えた。ハルは思わず目を閉じる。
「目を開けて。上を見てごらん。」
言われるがままに目を開ける。目の前に広がる一面の暗闇。
でも、あそことは違った。そこには数えることすらできないほどに無数の光で埋め尽くされていたから。一瞬、全身が震えたのを感じた。でも、さっきとは違い恐怖からではない。いや、ある意味の恐怖とも言えるかもしれない。直感的に分かってしまったんだ、これが彼女と約束したもの、自分が夢見た景色だと。
「これが星なのかい?」
「そうさ、これが星だよ。」
メンデルの言葉で自分の直感が正しかったことを確信した。
あり得ないほどに心拍数は上がり続ける。心臓から流れ出る血液は全身を燃やす勢いで巡っている。うるさいくらいの鼓動音が頭に反響する。
声にならない声が漏れ出てしまう。
「泣いてるのかい?」
メンデルの言葉でようやく自分が涙を流していることに気づいた。
生まれて初めて流した涙は止めようとしても止められなかった。いや、止めたくなった。あの日、彼女が流した涙の意味が分かったような気になっていたからだ。見たこともない世界、彼女の死、星、膨大な情報量からハルは大の字になって草むらに倒れた。
朦朧とした意識の中でもう二度と会えないであろう彼女を想った。
「星は綺麗だったよ。」
イニージオ~名もなき魔法~ 小町 @bun2g
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