コトのミコト ~はじめに言ありき~

宇佐美充

第1話

はじめにことばがあった。

言は神と共にあった。

言は神であった。


ヨハネ福音書


【序章】


彼女がその洋館を訪れたのは、年の瀬も押し迫る冬至の日のことだった。


アッシュに染めたショート、前髪は左右非対称にカットされ、右目はほとんど隠れている。左耳には聖母マリアの銀のピアス。


小柄で華奢に見えるが、幼い頃から幾つもの武術を習ってきた。

鍛え抜かれた身体は鋼のような筋肉をつくり、美しく引き締まっている。


着ている制服は彼女が通う高校のものだ。

薄いピンク色のジャケット、胸元には赤いリボン、幅広のブリーツが入ったチェックのスカート。

都内北部、名の知れたキリスト教系の進学校でありながら比較的校則はゆるい。



肌を刺すような寒風が吹きすさぶ夕刻、彼女―唐沢 言カラサワ コトは豊島区要町の旧江戸川乱歩邸の程近くへとやって来た。そして、枯れたツタが絡む、白壁の屋敷の中に消えた。


窓から射し込む夕陽に照らされ、屋敷内にはわずかに明るさが残っていた。

ほのかな物の輪郭をたどり、コトは住む者を無くして廃墟と化した屋敷の探索を開始した。


#任務内容

【豊島区要町の廃洋館・旧華族・安藤邸内に巣食う怨魔おんまを殲滅せよ】


これが真言密教の総本山高野山から、コトの父親が宮司を務める山吹八幡宮に通達された任務だった。


玄関ホールの床に落下したシャンデリア。

ガラス片を避けながら、コトは屋敷の奥に向かった。


中央廊下の壁には、屋敷の主とその家族の肖像画が複数、飾られている。

だがそのどれもがズタズタに引き裂かれていた。

そして、リビングに通じる扉には赤黒い血の跡がべったりと…。


―もしもこの不気味な場にコトと同じ年頃の少女が一人立たされたなら、きっと誰もが悲鳴をあげて一目散に逃げ出すはずだ。


いや、平静を装っているがコトもまだ十七歳になったばかり。

心のどこかに恐怖はある。強い意志の力でそれを押さえつけているだけだ。


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その時すでに、コトの背後には、禍々しい瘴気を発する化け物が姿を現していた。


真っ白なふわふわとした毛並みのポメラニアン―だが燃えるような赤い目と、腹に空いた穴から這い出てくる無数のムカデを見れば、この世のものでないことは明らかだった。


屋敷で飼われていたペットなのか、あるいは屋敷が放つ怨念の力に引き寄せられたのか。

陰陽師が怨魔と呼ぶ死霊は、コトの白い首筋に狙いを定め、喰らいつかんとしていた。


しかし、気配を察したコトは少しも動揺することなく、両手の指を絡み合わせて印を結び、真言を唱えた。


「オン アグナイェ スヴァーハー」


コトの胸元に現れた小さな火は、瞬く間に猛炎に包まれたハリネズミの姿に変わり、怨魔に襲いかかった。


「オン シュダ シュダ」


コトの声に応えるようにハリネズミは激しく回転し、宙に炎の車輪を描きながらポメラニアンに体当たりした。



ポメラニアンはおぞましい断末魔をあげて、瘴気となって空中に霧散し、消滅した。


それを見届けると、ハリネズミはブルルッと身を震わせ、得意げな表情で言った。


「フンッ、ウォーミングアップにもなりゃしねえ」


「あいつはザコよ」


「だったらわざわざオイラを呼び出すなよ」


表情たっぷり、身振り手振り多め、流暢にしゃべるハリネズミ。

はたから見れば奇妙なことだが、コトは当たり前のように言い返す。


「油断してると、また痛い目にあうよ」


「この屋敷の親玉はどんなヤツだ?」


「中震クラス…瘴気を隠しているから、強震クラスかもしれない」


「ほー。強震級か。久しぶりに血がたぎるぜ」


そう言うと、ハリネズミはくるりと一回転し、姿を消した。



「くっ…」


ハリネズミが去ってしばらくすると、廊下を行くコトの太ももに‘何か’が触れた。

静電気に似た軽い衝撃を覚えた後、コトは急な倦怠感に襲われた。体が重くなり、力が入らない。


しかし自分の太ももに目をやっても特に外傷などは無い。やがて気だるさも薄れた。ぬぐえない不審を抱きながらも、コトは歩みを進めた。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§


リビングに入った途端、コトの表情はにわかに強張り、明らかな緊張の色をうかがわせた。


怨魔の中には瘴気を完全に隠し、自らを絶無と呼ばれる状態に置き、気配を消す者もいる。


だがそれは限られた高位の怨魔だけがなせる業。大抵は、どんなに必死に隠しても漏れる。

どろどろとした、黒い、怨念。光を憎み、生ける者を呪う、おぞましい毒があふれ出てしまう。


リビングにもそんな、見えない呪毒が充満していた。

その呪毒を感じ取ったコトは、心の内で、経験から得た鉄則を自らに言い聞かせていた。


この先は、どんな小さな異変も見逃してはいけない。

一瞬の判断の遅れが命取りになる。

警戒のレベルを数段引き上げ、五感を研ぎ澄まして進む。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§


アーチ型の扉を開けてダイニングに入った直後、扉の裏に隠れていた男が椅子を振り上げ、コトを襲った。


「うらあっ!!」


身を反らし、椅子をかわすと、コトは瞬時に男の腕を取って後ろにねじり、床に押さえつけた。


黒の細身のスーツに先の尖った革靴、街の繁華街でよく見かけるホスト風の男はうつ伏せに倒れ、苦悶の声をあげた。


「ぐあっ! お、折れる! 腕…折れるから! やめて…やめてください…!」


「じっとして。動くとほんとに折れちゃう」


肘関節をきめながら、コトは室内の様子を見回す。

そして不自然に動かされた柱時計に気付くと、ホスト男を放り捨てるようにして歩き出した。


その少女は、柱時計と壁のわずかな隙間に隠れ、座り込んでいた。


すすり泣く声が聞こえぬように懸命に掌で口を押さえる少女に、コトは落ち着いた静かな声音で語りかけた。


「大丈夫だから目を開けて」


少女はコトの言葉に素直に応じ、固く閉じた目をゆっくりと開いた。

そして驚いた様子でコトに問いかけた。


「唐沢さん…?」


「私を知ってるの?」


「わたし内田奈緒…今年の夏まで同じ学校だった。わたし…退学しちゃったから…」


「…あ。…たしか…バスケ部の? でもなんで、こんなところに?」


「彼が…いつもホテルばっかりだから…たまには違うところでって…。

でもそしたら…! 唐沢さん! ここ、絶対ヤバいよ! 早く逃げないと…みんな、殺されちゃう!」


「怨魔の領域は、入るのは簡単、でも出るのはすごく難しい。ホテル代わりに使うなんて刺激的過ぎるよ」


「…なんで、そんなに落ち着いてるの!? ここバケモノだらけなんだよ!」


「うん…知ってる」


コトの視線は内田奈緒の右手薬指の指輪、雪のように白い石に向けられていた。

白い石が宿す気高く勇ましい力、その波動に気を取られ、ほんの一瞬だが、コトは鉄則を忘れ、警戒を解いてしまった。


コトが気配を察した時、すでにその女はホストの背後に立っていた。



コトの油断はほんのつかぬ間、一瞬の判断の遅れを招いた。


そしてその一瞬は、女がホストの命を絶つには十分過ぎる時間だった。


紫色の着物に派手な帯、結い上げられた髪にはべっ甲や銀細工のかんざし。白塗りの顔、目には黒いアイライン、目尻と唇は朱く塗られている。


京都祇園を歩く芸妓のような装いの女は、コトに向かってにやりと微笑み、ホストの耳に息を吹きかけた。

たちまち、電気ケトルが噴き出す湯気のように、ホストの身体から凄まじい勢いの蒸気が立ち昇った。


同時にホストはみるみる干からびていき、最後はミイラのような状態になってその場に倒れ、息絶えた。


「うあぁ…あぐ…」


突然の惨事に、内田奈緒は言葉を失った。

恐怖と驚きと悲しみと…押し寄せる様々な感情。混乱し、ただ獣のような唸り声をあげた。


リビングに入るや否や即座に感じ取った、剥き出しの憎悪の塊。

背筋が凍るような、どう猛で残酷な怨念―あの呪毒を発していたのは紛れもなく、目前の着物の女だ。


確信を得たコトはすぐさま真言を唱えた。


「オン シュリマリ ママリ マリ シュシュリ スヴァーハー」


再び現れる、炎に包まれたハリネズミ。


だが先ほどの見た目とは少し様子が違う。背を覆うハリは長く、太く、たくましくなり、炎の色は紅ではなく、墨のように黒い。


「おいおい、いきなり明王にすがるのかよ。ほんとにそれほどの相手なのか?ビビってパニクってんじゃねーだろーな」


悪態をつくハリネズミを無視して、コトは内田奈緒を取り囲むようにして地に円を描いた。


続けて、指を閉じて揃えた手で、空中を縦横に切るような仕草を見せ、すばやく幾つもの印を結んだ。


「臨める兵、闘う者、皆陣を張り、列をつくり、前に在り…臨兵闘者皆陣列在前…臨兵闘者皆陣列在前…」


真言を唱えたコトは内田奈緒を睨み付けるようにして見据え、告げた。


「これまでの災難はその石が守ってくれた。でもあの怨魔には効かない」


「…石…って?」


「その指輪の石…雪水晶ね」


「…死んだおばあちゃんにもらったの。でもこの石、名前なんてあったんだ…」

「目には見えないけど、あなたは今、結界の内にいる。何があっても絶対にここを動かないで。結界から出たら、命の保障はできないわ」


向き直り、コトは射抜くような目で着物の女を見つめ、‘慧眼けいがん’の術を使った。


ある程度の力を持つ怨魔であれば、敵に手の内をさらさないために、ここぞという時までは自分の力を隠す。


隠された力を暴くために、陰陽師は慧眼と呼ばれる術法を使う。


無心になる-すなわち、肉体はこの世にとどめたまま、魂だけをあの世に送ることで、第三の目、あの世からこの世を見る目を開く。


だが慧眼はとても危険な術法だ。


まず、術の行使そのものに相当の霊力を必要とする。霊力はあらゆる生き物が持つ根源的な生命エネルギーであり、これが尽きれば、死は免れない。


さらに一歩間違えたら、あの世から魂を呼び戻せなくなる。そうなれば、いずれ肉体は滅びる。これもまた術者に訪れるのは死のみだ。


しかし、それだけの危険を冒してでも陰陽師は慧眼の術を用いる。


なぜなら、あの世から見れば、この世はほとんど静止した世界。


千分の一秒の速度で現れる事象を解析し、わずかな違和感、些細な不審点から怨魔の本性を鑑定し、特有の力を探り当てる。それにより、怨魔討滅の糸口を掴むことができるからだ。


コトもまた、今まさに着物の女の秘めた力の本質を見極めようとしていた。


たちまちコトの瞳の毛細血管は弾けて切れて、白目は紅く血走る。


コトの目頭より血が流れ…その一滴が頬を伝い、床に落ちる。


たったそれだけの時の間に-コトにとってはその千倍の時が経っているが-、コトは着物の女の正体を悟った。


ホストの耳には、着物の女が吐き出した透明な細い糸が何本も突き挿れられていた。


女はその糸を使ってホストの生気を喰らい尽くしたに違いなかった。


蜘蛛くも…か」


コトの呟きを聞いた着物の女は、眉を吊り上げ、下唇を噛み、怒りに身を震わせた。


そしてコトを食い入るように見つめ、憎悪のみなぎる声を発した。


「…あたしを見たのか? お前さん…何者だぃ?」


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廃洋館内の構造は、事前に把握していた。

コトはダイニングを抜けて、階段があるはずの方向に走った。


「逃げんのか!?」


「二階のテラスに行くのよ」


「テラスで紅茶でも飲むつもりか?」


「屋敷の中は見えない糸が張り巡らされてる。さっき、私の太ももに触れたのは、奴の糸だった」


「見えない糸?」


「あいつは呪い神。たぶん、この土地の土蜘蛛に憑かれた死霊よ」


「の、呪い神…だと!!」


階段を駆け上がり、テラスに出たコトはすぐさまスカートのポケットから数枚の紙片を取り出し、四方に張りつけた。


これは、陰陽師が戦いを有利に運ぶための技のひとつだ。


霊府と言われる札で囲われた空間は聖域となる。

聖域内には霊道れいどう-地上と天を繋ぐ道-が現れ、神仏の加護を増幅する。


陰陽師は真言を唱え、神仏の神通力を借りて魔を祓う。

しかし、陰陽師は神を降ろすのみで、自身が直接、神仏より力を与えられる訳ではない。


式王子、式神、識の神…呼び名は様々だが、陰陽師は自らが使役する鬼神に神仏を憑依させ、神通力を顕現する。


コトの式神はハリネズミだ。


「まさかほんとに強震級の怨魔が現れるとは…な。それも呪い神だ。お前ひとりじゃ、勝ち目はえぞ」


「でもやるしかない。応援は来ないから」


「なんだと! どういうことだ? 強震級以上の討滅は、最低でも五人編成が決まりだろ」


「そんなこと、私に言われても知らないし」


「おい、とっとと逃げるぞ!」


「私が逃げたら、彼女は殺される」


「ただの同級生だろ! 友達ですら無(ね)え! クモ女にくれてやれ!」


宙で体をまるめたり、伸ばしたりを繰り返し、イラつきを全身で表すハリネズミ。

だがコトはそんなハリネズミには目もくれず、一心に烏枢沙摩うすさま明王を称える祈りをうたった。


「天上にあっては太陽、中空にあっては稲妻、地にあっては祭火。心の内にあっては憤怒、思念、霊感の火。存在する一切のものの炎であるアグニよ、我に力を」


ハリネズミが発する炎はさらに激しく燃え上がった。

それは、神降ろしの成就-コトの祈りに応えた烏枢沙摩明王が、式神であるハリネズミに乗り移ったことを意味した。


「来るわ…覚悟はいい?」


明王の神通力を得たハリネズミは態度一変、もはや怖いものなど無い、天下無敵の気分で言い放つ。


「尻の穴からクモの糸を根こそぎ引っ張りだしてやるぜ!」


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