夜に溺れる

灰緑

第1話

 夜に溺れる


 わたしは時々、夜に溺れてしまう。

 夜を口に押し込められ、苦しくて目を覚ますと、首元には密度が高い湿度が巻きついている。


 九月の半ばを超えて十七の夜、夢を見るなど夢のように感じながら目を醒ました。意識が体の奥底から闇夜に誘われて階段を登り、わたしはそれをどこか他人事にように傍観していた。

 窓際から少し離れた場所に引かれた布団の上で、わたしは静止したまま呼吸を繰り返す。

 ちりちりと水が鳴る。

 開けたままの窓の隙間から漏れ入る薄い音たちは、重なり合うが自重に耐えきれずに崩れ落ちて、わたしの手前の床に大半は消えて行った。


 いくばくかの時間が身体の上を滑り、わたしは現実とかろうじて接続した。

 布団の四角からは離れずに、布地に残した熱を足裏に感じながら立ち上がった。窓ガラスの向こう側、湿った外の世界が、わたしの視界に漂う。高層マンションから見える濡れた夜の道路。その末端は暗闇に食われていて、生命のような光を放つ車がその中に消えていった。


 閃きのような思考を繰り返す無邪気な意識がいるようだ。

 だが自我が薄い今、わたしは無防備な裸のようなものだ。このままだと、意思の力で閉じ込めていた過去の記憶が、一斉に暴れ出してしまうだろう。


 だが飲み込まれてしまえば快楽になることも、わたしは知っている。

 内と外を隔てる窓ガラスに、わたしの輪郭がかろうじて映る。

 窓ガラスには格子状に鉄線が埋め込まれていて、まるで亡霊のようにわたしは囚われている。


「ねえ、これどう思う」

 彼女は自分の意見を下地にひく訳でもなく、ただわたしの声を聞きたいの、と言いたげに尋ねてきた。彼女が手に持つ赤いワンピースは、密度が高い生地で形作られていて、人を包む前から人体の膨らみをいみじくも表現していた。赤色はバラというより石楠花を想像させた。表参道の一等地にあるこのブティックは彼女のお気に入りだ。

「いいと思うよ」

 わたしに向けられたワンピースの袖口をはらりと捲り、裏地の色を確かめた。表地の赤よりも控えめだけど、摩擦が少ない滑りは上質で、わたしの指の腹は潤う。

 彼女は同意したように、小な顎を数センチ沈めて続けざまに唇を開いた。

「そう思うよね。わたしもそう思う」

 確認というより感覚の重ね合い。

 親密さが距離で表せるなら、ゼロより少しだけ多い数ミリ。

「試着してみるの?」

 いい、と彼女は言った。どちらの、いい、か分からずにいると、振り返ってレジカウンターに向かう後ろ姿が明確な答えだった。

 会計を済ましてわたしの元に戻ると、本当にそう感じてくれていたような、お待たせ、を呟いて、ワンピースが入った黒い紙袋を小さく上げた。


 ブティックの入り口で傘を包んでいる半透明のビニールを脱がせた。湿った風が顔中を撫でていく。雨を確認することもなく、外に出て黒い傘を開いた。

 土曜日の明け方からぐずった空は、前触れもなく機嫌を直したかと思うとすぐにそっぽを向く。そんな日は、大泣きはしないが雨は夜まで降り続く。傘にぶつかる雨音はさりげない伴奏で、歩く二人の舞台を艶やかに彩った。

「ねえ、知ってる? 服の買い物に付き合える人って少ないんだよ」

 隣を歩く彼女は傘を肩にかけて、裏側の赤を見つめていた。

「え、でもみんな友達とかといくんじゃないの」

 わたしの答えを聞いた彼女は、傾いた傘を水平に戻した。

 彼女の濡れた靴底がアスファルトを叩く音は、角が取れて聞こえた。

「あれはね、一緒に行って別々に見ているだけ。そうゆうふりをしているだけ。本当に他人に良いと言える人は少ないの。友達でも恋人でも、本当に相手が見えている人は、ほんの少しだけ」

 そうなの、と無意識に呟いて傘を上げて、自分の顔が見えるように彼女を見つめた。

「本当に見えている人はね、感情を重ねて、輪郭が合わさっても反発しない人。だけど決して溶け合わない人。いままでに会ったことある? わたしはなかった。だからあなたは特別かもしれない」


 大型トラックが水を引き千切る音が鳴り、急激に灰色の会話が遠のく。

 赤い四つ目の後部ライトは何度か点滅を繰り返し、やがて暗闇に消えていった。無防備なわたしの意識は、過去の侵入を許してしまった。

 わたしの心は支配され、おそらく抗することができないだろう。

 喉の内側に爪を立てて掻きむしりたい衝動にかられ、沈黙していた首筋の湿度は勢いを取り戻しそうだった。

 せめてもの身体的緩和を求めて布団を離れ、ガラス窓の手間、数十センチに近づいた。

 手を掛けて窓を大きく開く。

 風は吹いていないが、冷やされた空気は室内に流れ込み、皮膚の温度は僅かに落ち着きを取り戻した。

 あの声が聞こえた。

 分かりきった結末を頭の片隅に描きながら、伏せられて埃が被っている写真立てに意識を向けた。長い間、目にしていない写真、だがいつでも心の中で正確に描写できる。

 わたしの周りは忘れるべきだと言う。そして、時間は優しいと吐く。だが忘れることは存在を永遠に失う行為だ。灰色で苦しめる記憶でも、わたしは抱きしめる。


「あれ。これ」

 彼女はわたしが差し出したワインボトルのラベルを人差し指でなぞりながら、しかし、言葉の戸惑いとは裏腹に、声はどこか弾んでいた。

「さっき、駅ナカのお店で見つけて。フルボディのワイン、好きじゃなかった?」

 ええ、そう、と答え返して、彼女は続けざまに、そう来たか、と感心したように唸った。

「どういう意味」

「つまりね、」

 彼女はリビングの床の上に置いてあったトートバックから、赤いボトルを取り出した。机の上に置かれたボトルの銘柄は同じものだった。

「ふふ、これで、何度目」

「ええと、多分、四度目」

「はずれ、五度目」

 ちょっと残念さを表に装っていたが、一枚捲ると、気恥ずかしさが詰められていることを隠さない彼女は、頬をワインのように赤らめた。わたしの顔も熱くなった。

「偶然をおこせるわたしたちは、必然な存在ってことかしら。どこの世界にいても重なり合えるかもしれない。そう思わない?」


『ねえ、今日はどうしたの? そんな顔をして』

 雨音が寄り集まって束になり、外の空気が震え始めた。温度は一段と下降したようだった。

「そう? 普通だよ」

 既に落ちたわしの意識は当然のように答えて、さらに唇を動かした。

「なんだか、久しぶりのような気がする」

『夜になると人は寝る。だから世界に漂う人の意識が薄まって、わたしは話しかけることができる』

 しっかりと覚えている、永遠に恋い焦がれる声はどこまでも身体の中で広がっていった。

 わたしは飲まなかった五本目の片割れを思い出して、キッチンに取りに向かった。あの日を思い出して軌跡をなぞるようにテーブルの上に置く。

『あら、まだ残っていたの』

「そう。今日まで残して置いたのかもしれない」

 乾燥しきったコルクが割れそうで、静かにオープナーを突き刺した。開いたワインボトルの赤い香りは、瞬く間に湿った空気に染み込んでいく。香りは感情を揺さぶり、断片的な蒸し暑い夏の記憶が浮かび上がった。

 溺れたあの夏。

 ワイングラスを取り出してテーブルに二つ置いた。片方に注がれた濃縮たる赤は、夜の暗闇を吸収して黒く染まって見えた。

 闇夜に潜むわたしだけの亡者に向けてワイングラスを傾けた。


 まだ夜は世界を支配していて、わたしは溺れ続けている。

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