午前四時

樺島

午前四時



トランクの中にはりょうちゃんがいる。




街灯の中に、ぼんやりと車が浮かんでいる。薄汚れたファミレスの窓越しに見るそれはなんだか頼りなく、お子様ランチのおまけについて来るちゃちなおもちゃみたいだった。私の手元では、飲むタイミングを失ったメロンソーダのコップが汗をかいている。


店内には、私を含めて六人しか客はいなかった。小太りなスーツ姿の中年男が一人、若い女の二人組に、妙齢の男女が一組、そして私だ。深夜のファミレスはしずかだ。ごくごく絞ったボリュームで流行りのポップスアレンジが流れているほか、時々カップとソーサーのぶつかる音が小さく聞こえるだけで、何もかもがとても緩慢に見える。女の店員がときどきやってきて、空のウォーターグラスがないか見回っては消えて行く。店員も、他の客も、みんなどこか気怠げで、ぼうっと眺めていると別の世界の人たちみたいだ。古くて画質の荒いスクリーン映画みたい。私は今年で二三になるので、世間では年若い女にあたるのだろう。けれど私自身はもう長いこと、自分を八十歳の老婆のように感じる。




「もうどうしようもないんだよね」


少女たちの片方が言った。国道に面したこの店はばかげて広いくせにテーブル同士の間隔が狭いので、斜め前に座る彼女たちの会話は筒抜けだった。声が湿っぽく、上半身がぐわ、ぐわん、と不規則に揺れている。どうやら酔っ払っているらしい。


「勝手に泣けちゃうの」


白に近いほど明るくした髪を、かき混ぜるようにして顔から払いのけている。酔っ払いじみた仕草から覗いた顔が、思いの外あどけなかった。まだ10代なのかもしれない。ふんだんにフリルのついた少女趣味な赤いワンピースを着ているが、そこから伸びた剥き出しの手足は枝のように細く日に焼けているためにどこか少年じみていて、なんだかアンバランスだった。


「わかるよ。涙腺にぐわーっ、て入ってくるんだよね」


向かいの少女が言った。黒い艶やかなボブカットに、三角形のヘアピンがやたらめったについている。ふっくらとした白い横顔。


「あの甘い声で"君はきっと世界で一番ステキな女の子"って言われると、もうどうしようもないの」


ふりふりの方が言う。ボブカットは細かく頭を上下させて、「ベンジーはね」とよくわからない相槌を打った。頭が揺れるたび、蛍光灯の灯りを受けてヘアピンがきらきら光った。


ベンジー。奇妙な女の二人組からよく知った名前が出てきたことに私はこっそり驚いた。昔よく聴いたアーティストの愛称だ。さっきの歌詞は、確か「ガール」だ。「ガール」なら私もよく聴いていた。もう、ずいぶん昔の話だけれど。




小テーブルに座っている中年の男が、コーヒーのおかわりを注文している。店内はこんなに広いのに、ぽつぽつと全員が近くに座っているのはふしぎだ。雨埃で汚れた窓の外は黒々として、スクリーンに隔てられたみたいに遠く、非現実的だった。なんだか宇宙センターにいるみたい。私はちょっと想像する。このファミリーレストランは一つの大きな宇宙船で、私たちはみんなめいめいの罪のために宇宙に追放されたのだ。たとえば少女たちは学校を燃やしたかどで、私は骨壷を盗んだかどで。


ばかばかしくなって、私はもう何本目になるかわからない煙草を咥えて火をつける。まさか墓泥棒がこんなところでメロンソーダを飲んでいるなんて、実際のところ誰も思わないだろう、と思いながら。




街灯に照らされたあの車のトランクの中にはりょうちゃんがいる。正確に言えば、りょうちゃんだったものがいる。でもそれは春子にとってであって、私にとってではない。春子にとってはりょうちゃんだったもので、私にとってはただの骨だ。


午前三時には勤務が終わるという春子と、四時にここで落ち合うことになっている。携帯電話のディスプレイで時間を確認すると、三時二十分を少し過ぎた頃だった。つまり、私がりょうちゃんの骨壷を掘り起こしたのは、もう二時間も前になる。一時間以上もメロンソーダの一杯でファミレスに居座っているなんて、二三歳にもなってまったく笑ってしまう。




春子。


二十余年の人生において、私は一体何度その名前を呼んだだろう。初めて出会った時、私と春子は小学四年生だった。それは、やや田舎の住宅都市にあるにしてはこじんまりとした小学校で、一学年に三クラス程度、学級人数も三十に満たなかったはずだ。毎年クラス替えはあったけれど、小さな校舎内でたいていの顔はみな既に知っていた。四年生にもなるとクラスメイトになったことのない子供の方がめずらしく、クラス替えの興味はもっぱら担任の先生がだれかということなのだった。だから教室に足を踏み入れて、春子を見つけたときの感情は今でも忘れられない。実際、私が春子を見つけたのだ。あの、退屈で倦んだ薄暗い箱の中で。春子は色の白い、華奢で美しい子供だった。夢を見つめるような一重まぶたとややわし鼻気味の丸い鼻筋、そして赤くぽってりしたくちびる。


私たちはすぐに二人組になったけれど、まるっきり似ていなかった。たとえば、春子は潔癖な子供だった。真面目で、宿題を忘れることもなく、それなのに勉強は苦手らしかった。春子は愛想のない子供だったのに、不思議と人気者だった。運動が得意で、休み時間になるとたくさんのクラスメイトに誘われて運動場へ走っていった。春子は大なわとびが得意だった。よどみない線で描かれたふくらはぎで駆け出して、まるで動物のように滑らかに飛んだ。


私は運動が嫌いだった。嫌いだったし、運動嫌いの子供らしくどんくさかった。春子が大なわとびを器用に飛ぶのを、私はいつも、校庭の階段に腰かけてみていた。私は外遊びが嫌いだったが、春子は自分が外で遊ぶたびにきちんと私を連れていくのだった。一緒に飛べば大丈夫、と春子は言った。でも私は、ぐるぐると回さて蛇のようにのたうち回る縄の中にはらはらしながら飛び込むのはごめんだった。それよりも、その獰猛な縄と、その周りで甲高く叫びまわる同級生たちを、汚れない清潔な牡鹿のように駆けぬけていく春子を見つめる方がよかった。校庭の階段は灰色のコンクリートで、ひんやりと冷たくて太ももの後ろが気持ちよく、見ているのは別に苦痛でもなかった。それに休み時間終了5分前の校内放送がなれば、同級生たちの輪から当然のように抜け出して、春子が私の方へ走ってくるのを知っていた。


例えば人間が愛と恋と友情とをしたり顔で区別したがる生き物でなかったなら、これを恋とも呼んだかもしれない。






真夜中の墓地は恐ろしく嫌な感じがした。それは幽霊を予感するような寒気のせいではなく、単純に、夏場、土の多い場所特有のむっとした夜の湿気の匂いのせいだった。ひどい熱帯夜で、肌にまとわりつくTシャツが不快だった。草木が茂っているために蚊が多く、耳元で嫌な音を立てて飛び回るので、何度も舌打ちをした。結局の所、私はすっかり怖がっていたのだった。その墓地に来るのは三度目で、一度目はお墓お参り、二度目は下調べだった。下調べ。墓泥棒の下調べなんて全く馬鹿げたことだろう。


私は音をたてないように、ひっそりと歩いた。土は湿ってやわらかかったので、足を踏み出すたびに靴底でしわりと沈んだ。沈むたび、黒々とした土から甘いにおいがする。腐葉土、という言葉が頭に浮かんだ。落ち葉が積もって腐った栄養豊富な土のことで、花を育てるのに適していると昔生物の授業で習った。森の中や雑木林の土を裸足で踏んでごらんなさい、とその先生は言った。やわらかくて、なるほど花や木の育つ素敵なベッドだとわかりますよ、と。もしこれが腐葉土なら、この下で骨が眠っているなんてちょっと変な感じだ。腐ることなく燃やされた人の骨が、つまりは春子の恋人の骨が、素敵なベッドで眠っているなんて。


夜の墓地はそれだけで不気味だった。墓石が暗闇の中で均等に、並んでいるというだけで。脇から胸の下に向かって汗がどんどん流れていく。幽霊が怖いのか不審者が怖いのか墓守に捕まるのが怖いのか、よくわからなかった。光源は手元の小さな懐中電灯だけだったので、当然墓地は暗かった。あとは通りの方で、街灯が豆みたいな大きさで光っているだけだ。不便だったが、何せ墓泥棒なのだ。贅沢は言っていられない。


それでも下調べが功を奏したのか、暗闇の中で目当ての暮石は案外簡単に見つかった。墓石に掘られたその文字を、私は一つ一つ、確かめるみたいに触った。澤村家之墓。




りょうちゃんであるところの澤村亮介は、春子が始めて赴任した精神科の入院患者さんだった。三回、会ったことがある。見上げるほど背が高いのに身体はひどく痩せているために、なんだか栄養失調の枯れ木みたいだった。真夏だというのに霜降りグレーのスウェットを着て、くるぶしまで覆う重たげなジーンズを履いたりょうちゃんを見ながら、私は家のマンションから見える、白い、貧相な街路樹を思い出していた。要するに、春子が紹介したいという男を私はしっかり値踏みしようとしていたのだ。りょうちゃんは眠たげな一重まぶたに薄い唇をしていて、ゆっくりと、こんばんは、と言った。若々しいしゃがれ声で、なんとなく見た目通りの声だと思ったことを覚えている。


その年も酷い猛暑で、熱中症のニュースが途切れない夏だった。春子はりょうちゃんにほとんど怖いくらいめろめろだった。片時と離れていられないのだと言うかのように、私に紹介する間さえぴったりとくっついていた。


「底抜けに優しいひとなの」


その日の帰り道、春子は私にしみじみとそう言った。その声は本当に静かで、春子がどんなに盲目的にりょうちゃんを愛しているのかをかえってはっきりさせた。


「優しすぎて心が壊れちゃったんだと思う」




春子が言うところの「底抜けに優しいひと」であるりょうちゃんは、けれど、私にはあまりいい人に思えなかった。会ったことのある三回のうち、三度目にりょうちゃんは私にキスをした。三人で流行りのアクション映画を観た帰りに立ち寄ったカフェスタンドで、私たちはトイレに立った春子が戻るのを待っていた。


「春子のこと愛してる?」


私はりょうちゃんに聞いた。その日はりょうちゃんにとって二週間に一度の外泊許可が下りた日で、春子がりょうちゃんの外泊申請日に合わせて有休をとったのだった。春子はなぜかりょうちゃんをしょっちゅう私に会わせたがった。でもそれは、恋人を含めて私と親しくしたいというのではなく、単にりょうちゃんを病院外の人間と交流させたかったのだと思う。りょうちゃんは三回自殺未遂をしていた。一度目は飛び降りて、二度目は手首を切って、三回目はベルトで首をつって。その結果りょうちゃんは学生時代から精神病棟に入退院を繰り返し、友人関係と呼べるものはおろか社会経験もほとんど持っていないらしかった。春子はたぶん、「底抜けに優しい」りょうちゃんが、人間と接することにびっくりしないように、慣らしてやりたかったのだろう。でも私はりょうちゃんという人物に、軽薄さを感じていた。優しすぎて心が壊れたのではなくて、繊細すぎるだけのように見えた。ナイーブで、自分のことしか見えない子供みたいに。だから確かめたかったのだ。りょうちゃんがどんな人か。


押し当てられた貧相な男のがさがさの唇は、押し当てられると思ったよりやわらかくて、ぶよりとしていた。


「すごく」


事態が飲み込めずに反応の遅れた私の目をしっかりと見つめながらりょうちゃんは答えた。カウンターの若い男性店員が、レシート番号三六一番の客を呼んでいる。椅子の後ろを、小さな子供が駆けていく。


「すごく愛してる」


私が何も言えないうちに春子が戻ってきて、りょうちゃんの真意はわからないままうやむやになった。お手洗いすごくきれいだった、と言いながら座る春子のために、りょうちゃんが椅子をやや引いてあげるのを、ぼんやりと眺めた。その後カフェで話したことを、私はよく覚えていない。ただ、テーブルばかり見つめていたような気がする。テーブルには、三人分の紙コップが並んでいる。春子とりょうちゃんはココアを、私はアメリカンを注文した。紙コップにはホットドリンクが冷めてしまわないようプラスティック製の白い蓋がついており、蓋を外さないまま飲み口から飲める仕様になっていた。化粧気のない春子のココアの蓋は綺麗だけれど、私のアメリカンの蓋には赤色の口紅のあとが付いていて、何だかそれはとても汚いものに見えた。


カフェスタンドを出て駅へ向かう道で、結婚しようと思っている、と、その日二人は私に告げた。りょうちゃんは白いがさがさの唇で、春子は桃色の頬で。いつの頃からか少しふっくらとして、もはや動物のようではなくなった身体を包む薄桃色のワンピースはスクエアネックにビーズ刺繍が散りばめられていて、ショートボブのために露わになっている春子の白い首によく似合った。幸福そうな春子。私はキスのことを春子には言わなかった。




いい人ではないと思う、と私が言えないほどに、春子はりょうちゃんを見つめていたのだ。愛があふれてそこらじゅうびしょ濡れにするような目で。


でもりょうちゃんはある日突然飛び降りて、死んでしまった。約束ごと春子を置き去りにして。まだ肌寒い春の初め。




「グラス交換いたしましょうか」


ウェイトレスがやってきて言う。思い出から現実に戻りきれず、私は反射的にうなずいてしまう。彼女は水浸しのメロンソーダはそのままに水の入ったコップだけを片付けると、新しいものと取り換えてくれた。テーブルにグラスを置いた腕に、ピンクのヘアゴムが引っかかっている。とても鮮やかなショッキングピンクだ。アメリカのティーンエイジャーみたいだ。


「ごゆくりどうぞ」


ウェイトレスはちょっと見とれてしまうほど心のこもらない調子で言うと、踵を返して遠ざかっていく。少し離れたテーブルで、スーツの男が彼女を呼び止めたのが見えた。たぶんまた、コーヒーのお替りだろう。




りょうちゃんが死んだのは春先のことだったが、私がそれを知ったのは、もっとずっと後のことだ。


「いつかこうなると思ってたの」


例年より遅い梅雨入りで、大通りに対して開かれた大きな窓ガラス中、雨に濡れた喫茶店で。春子はそう言った。りょうちゃんが飛び降りてから、もう二ヶ月が経っていた。


りょうちゃんは外出許可を取ったその足で、歩道橋から飛び降りたのだという。結婚を決めた後、生真面目な春子は婚約者の入院する勤務先に退職届を出し、春から小さなクリニックに転職していた。春子のいなくなった病院で、りょうちゃんは突如外出許可を取って、そのまま死んでしまったのだ。春子の声が拍子抜けするほど穏やかだったので、私は春子にどんな言葉をかければいいのかわからずに、ただ黙っていたように思う。春子は生クリームのたっぷりとのったウィンナコーヒーを、私はやっぱりメロンソーダを注文していた。昼下がりの喫茶店は雑然として騒がしかった。ほうぼうで、お年寄りや若者がしゃべっている。


「りょうちゃんはいつか絶対に死んでしまうから」


喫茶店は冷房が効き過ぎていて、昔から寒がりの春子はカーディガンを着てもなお指先の色が悪かった。レモン色のカーディガンから覗いた指先は紫色をして、白っぽく乾燥していた。人さし指に深いささくれがあり、そのめくれてちぎれかけた細い皮膚を、もう片手の指で何度もひっかいていた。


「結婚したら、お墓が同じになるでしょう。それで結婚しようと思ったの。骨になってからはずっと一緒にいられるように」


「…」


「結婚前に死んじゃうなんて、誤算だったな」


春子はぽつりとつぶやいて力なく笑うと、ウィンナコーヒーにそっと口をつけた。その笑い方があんまり寂しげだったので、気丈な口調とはうらはらに春子がどれだけ苦しんでいるのか分かり、私は心臓の下あたりを、ぎゅっと握られたような気がした。ずいぶんと顎の骨がくっきりとして、そげた頬にまつ毛の影が落ちている。子供の頃みたいに痩せた春子は、でも、やっぱりもうちっとも動物のようではなかった。私は春子のささくれを見て、それから自分のメロンソーダの鮮やかな緑色を見た。そして春子を愛してるか聞いた私に「すごく」と答えた、りょうちゃんの低い声を思い出した。りょうちゃんを見つめる春子のことも。そして、大縄跳びに向かって駆けだしていく、遠い日の春子の背中を。


春子。夢見るようにロマンチックな奥二重のまなざし、雪ん子みたいに白い肌、赤くて厚い唇。私の「世界で一番素敵な女の子」。


「りょうちゃんの骨、取ってきてあげようか」


気付いたときにはそう言っていた。春子はハンカチのように白い顔で、私の方をゆっくりと見た。どうして自分がそんなことを口走ったのか、今でもわからない。でも、春子と目が合った瞬間にはもう、私はそれを決めてしまっていた。




携帯のディスプレイを確認すると、表示時刻は三時五十七分だった。もうすぐ約束の時刻だ。おなかの底がふわふわとして落ち着かず、私はなんとなくメロンソーダをストローでかき混ぜた。グラスの外側についた水滴が、振動を受けていくつもテーブルに落ちていく。斜向かいの少女たちはおんなじことを繰り返し喋っている。ベンジーの歌は刹那的でやさしいのだ、とかなんとか。眠たいのか酔っぱらっているのか、声はいよいよ大きく舌ったらずになっていて、ちょっとひどいありさまだ。


「あたしもきっと一番ステキな女の子って言われたい」


ボブカットが言う。


「わかる」


「でもほんとはベンジーじゃなくてもいいんだよね」


「言ってくれたらそれだけで好きになるよね」


ふりふりの少女が強くうなずく。うなずくたびに額が机にくっつきそうなほどがくんがくんと頭を振るので、その拍子に耳にひっかけていたイヤホンが落っこちた。向かいのボブカットが素早く手を伸ばし、ふりふりの耳にイヤホンを差し入れる。見ると、二人は一つのイヤホンをそれぞれ片耳にあてて、一緒に音楽を聴いているらしい。私は思わず微笑んでしまう。


春子と私もずっと前、一緒に音楽を聴いたりした。でも春子の好きな叙情的なバラードを、私はいいと思わなかったし、春子は春子で、私の好きなロック・ミュージックには少しも心動かされないらしかった。春子にもベンジーの「ガール」を聞かせたことがある。春子は笑って「よくわかんない歌ね」と言った。一つのイヤホンを分け合って聞いていることが、どうしてあんなに誇らしかったのだろう。私たちはそのころ高校生で、めいめい別の学校に進学していた。中学校まで当然のように同じ学校へ通っていた私たちは、会う約束をしなければ会えなくなるのだと初めて知った。春子の制服はグレイのウールに深緑と臙脂のチェックが入った英国風のプリーツスカートで、風に揺れてもまだ重たげだった。少しずつ、動物みたいじゃなくなっていく。それでも春子が私にとっての「ガール」だった。


新しいタバコに火をつける。口紅はすっかりはげ落ちて、フィルタには唾液の跡以外残らない。




その瞬間、突然大きな音がした。


「失礼いたしました」


なんとなく音の方へ目をやって、私は心臓が止まりそうになった。どうやらウェイトレスの女がグラスを落としたらしい。通路の真ん中にしゃがみこんで、透明の破片を拾っている。けれど私の目は、その後ろからこちらに向かって来る人影に釘付けだった。それは紛れもなく春子だった。どうしてか、春子が本当に現れたことに私は動揺していた。ほっとして心が揺れたのか、失望して心が揺れたのか、自分でもよくわからない。わざわざこんな時間に待ち合わせて、春子が来ないわけないのに。


「後ろすみません」


そう言って、かがみ込んだウェイトレスの女の後ろをすり抜けるのが見える。割れたグラスで汚れた床をものともしない春子のミュールが小さな破片の一かけを踏む、ぱきんという音が聞こえた気がした。こんなに離れていて聞こえるわけがないけれど。磨かれた床材の上で、飛散った破片と水がきらめいた。


春子は私を既に見つけていたらしく、小走りで駆け寄ってくる。春子のミュールが固いフローリングに当たる小さな子気味よい音が近づいてくるにつれ、一瞬止まったはずの私の心臓が、次はどんどん大きく波打っていく。春子はあっさりと私の向かいに腰かけた。まるで昨日ぶりのランチの約束みたいに。


「ごめんね、遅くなっちゃった」


春子は座るなりそう言って、いかにもくたびれたというように眉を大きく持ち上げた後、すぐににっこりと笑った。白いワンピースに、薄いカーディガンを羽織っている。カーディガンはかぎ針編みで、襟にパールのピースが縫ってある。綺麗にブローされた髪は、とても夜勤明けには見えない。まるでデートだ。私はあわてて煙草を灰皿に押し付けた。


「片付けがなかなか終わらなくて」

「いや、そんなに待たなかったよ。」

立ち上がって伝票に伸ばしかけた私の手を、春子が手を重ねる形で制する。わずかに触れた手のひらが思いがけず温かかったので、私は意味もなく動揺した。春子の方ではファミレスのエアコンですっかり冷やされた私の手を冷たいと思ったかもしれない。

「夜勤明けでおなかぺこぺこなの。何か食べてもいい?」




春子の注文したグラタンが来るのを待つ間、春子は今日の夜勤アルバイトについて喋った。りょうちゃんが亡くなってからも春子はクリニック勤めを続けたが、その後すぐに以前勤めていた病院の夜勤アルバイトも掛け持ちし始めた。かつてのように精神科の看護師として。


「高橋さんって覚えてる?師長お気に入りの」


春子は奇妙に落ち着いて明るい。いっそ痛々しいほどに。


「あの患者さんにいじわるな人?」


「そう!あの人。今日プレイルームでね、患者さんのことすごくどなりつけるの。ひどいのよ、みんなの前でわざと怒ってるの。傷つけようとして」


「嫌な人だね」


「そうなの。ちょっと離れて戻ってみても、やっぱり嫌な人って嫌な人ね。ちっとも変わらってなくて」


あまりにも饒舌なので、春子の心がここにないことが、却ってありありとわかった。


春子の全身がりょうちゃんの骨を探している。私がどこかに持っているであろうりょうちゃんの骨を、舌と声帯以外のあらゆる神経と心の全部で以って、感じようとしている。

ウェイトレスの女がグラタンを持ってきて、春子の前に置いた。

「ごゆっくりどうぞ」

やっぱり心にもない声で言う。おいしそう、と呟いて、春子がスプーンを取る。

「車にあるよ」

ウェイトレスの女がすっかり遠ざかるのを待って私は言った。

 春子は動かなかった。反応がなかったのではなく、本当に動かなかったのだ。グラタンにスプーンを差し入れたまま、ぴたりと止まった。曇った鈍色のスプーンに反射した蛍光灯がちらちら揺れる。その光が眩しくて目を細めた瞬間、私は不意に、春子の手が震えているのだと気がついた。私は伝票を取って立ち上がる。もう一秒でも、春子に気丈な振る舞いを指せるわけにはいかなかった。

「出よう」






ガラス製の重たい扉を開けると、たちまち夏の夜気が押し寄せてきた。むっとして息苦しいほどの温度に、私たちは突然、現実に引き戻されたような気持になる。


「外っていやね。もうお店に戻りたい」


春子が笑いながら言う。笑おうと決めて、それで笑ったのだとわかった。


「ほんと」


私も意志的に笑顔を作る。実際全く同感だった。店に併設された野外駐車場には、相変わらず私の車両がぽつんと一つあるだけだ。春子が本当に望むなら、今すぐ店の中に引き返したってよかった。安全な宇宙センターの中で永遠に暮らしたっていい。りょうちゃんのいる車は窓から見えるのだから、春子だって安心だろう。宇宙センターの中で春子が幸せに一生を終えれば、私が一人で外へ出て、りょうちゃんの骨と一緒に春子を埋めてあげればいいのだから。でも春子はそうしない。絶対に。


 運転席のそばに立ち、キーを差し込んで勢いよく回す。車はがこんと音を立ててロックを開けた。その音は、なんだか現実を決定的に変えてしまった音に聞こえた。もう後には戻れないのだ、と思う。


「ここにいるの?」


振り向くと、春子は怖いくらいの無表情だった。街灯の下で浮かび上がった顔は白く張りつめて、瞳が暗く光っている。私は首を振った。


「揺れで割れると困るから、毛布を敷いてトランクに乗せてあるの」


春子が微かにうなずいた。私は先立って車の後方へ歩く。私たちは、もう後には戻れないのだ。それなのに、私たちが立っているのは同じ場所ではない。春子も私も、めいめいで、後戻りできないところまで来てしまったのだ。それでもよかった。春子一人だけを荒野へ行かせずに済むのなら、私は地の果てまで行ったってよかった。何度だって骨壺を盗みにいく。車両の後ろへ回り込んでトランクの前に立つと、車越しファミレスの明かりが見えた。店内はオレンジの蛍光灯にこうこうと温められて、闇の中に浮かんでいる。マッチ売りの少女が見た幻みたいだ。一瞬、無意識にあの少女たちを探したけれど、車体に隠れて見えなかった。


「あけるよ」


言って、私はそっと、トランクに触れた。

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午前四時 樺島 @mnn_lsk

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