白いクリスタルボウル

増田朋美

白いクリスタルボウル

その日もあまり天気の良くない寒い日であった。冬が寒いのは当たり前であるが、冬は寒くて嫌だねえと多くの人が言うものである。本当は、人間というものは、いろんなものを嫌だとか辛いとか言い、実はそんなに強いものでは無いのかもしれない。

その日も、水穂さんのもとへ米山貴久くんが、手伝いにやってきていた。着替えの世話、食事の世話、憚りの世話など、貴久くんは、何でも手際よくこなした。話す能力を失っているので、口にすることはできないが、不平も不満も何も言わなかった。

「いつも、水穂さんの世話をしてくれてありがとうございます。水穂さんもあなたに世話をしていただいて、喜んでいると思います。」

ジョチさんが、水穂さんに布団をかけてやっていた米山貴久くんに声をかけた。貴久くんは、首を横に振った。彼のコミュニケーションは、首を縦に振るか、横にふるかのみである。

「ただ、毎日毎日、嫌がらないで水穂さんの世話をしてくれるのはいいんですが、少し所得を得ることを考えたらいかがですか?みどりさんが働いていると言っても、二人で暮らしていくのには、不十分なのでは?」

ジョチさんがそう言うと、

「そんな事言ったら可哀想ですよ。話せないのですから、一般企業に就くことは、難しいのではありませんか。それよりも、彼のできることを、応援してあげることのほうが、大切なのではないでしょうか?」

布団に寝ていた水穂さんがそういう事を言った。

「そうでしょうか。働き方などをうまく工夫すれば、介護施設などで働くこともできるのではないかと思ったのですが、それは無理ですかね。」

ジョチさんはそう言うが、水穂さんは、

「無理なことを、無理やりやらせたら、可哀想ですよ。」

と言った。

「そうですねえ。ただ、一生懸命やってくれるので、手に職をつけてもいいのではないかと思いましたが、それは無理と言うことですかね。」

「ええ、日本では、障害者への支援が足りなすぎです。」

ジョチさんと水穂さんが、そういう事を言い合っている間、貴久くんは、縁側の床を濡れ雑巾で拭いていた。その時、パトカーがけたたましいサイレンを鳴らして、製鉄所の前の道路を走っていった。

「なにか事件が起きたんでしょうか?」

水穂さんがそう言うと、

「そうみたいですね。なにか通り魔事件でもあったのかな。なんだか大きな事件のようですが。」

ジョチさんもそういって、スマートフォンを取り出した。そしてニューズアプリを開いてみると、

「臨時ニュースをもうしあげます。今日午前、精神障害者支援センターほのぼのにて、利用者の男性が、窓から転落しているのが発見されました。この施設では、一ヶ月前から、同じような転落死体が、二人見つかっており、警察は、職員の女が、眠っている間に窓から突き落としたとして、彼女を逮捕しました。」

と、アナウンサーが、疲れた顔をしてそう言っていた。急に貴久くんの表情が変わる。

「支援センターほのぼのって、みどりさんが働いている施設ですよね?」

水穂さんがそう言うと、

「ただいまあ。大変な事になっちゃったわ。あたしたちは、ただ事故として、利用者さんが窓から落ちたしか知らされていなかったから、こんな事になって大変なことよ。」

と、貴久くんの奥さんである、米山みどりさんが、製鉄所に戻ってきた。

「大丈夫ですか?大変な事件があったようですが。」

ジョチさんがそう言うと、

「ええ、まあ施設はすぐ立ち直ると思うけどね。でも、怖かったわ。警察がいきなり入ってくるんだから。いずれにしても、あたしたち職員も利用者さんも、警察の捜査が入るんで、しばらく出勤できないわよ。」

みどりさんは言った。

「一体どんな事件が起きたんですか?僕達は、何も知らなかったので、そのような事件があったとは気が付きませんでした。」

水穂さんがそう言うと、

「ええ、あたしたちも、始めは単に窓から落ちただけだと思っていたんですよ。それが相次いで三人の人が落ちてなくなったので、これは警察に通報しようということになって。それで、警察の人が、私達を含めて、職員全員に話を聞いたところ、菅美樹という人が、犯行を認めたために捕まったのよ。」

みどりさんは、大きなため息を付いた。

「まさか、美樹がそんなことするなんて思いもしませんでした。彼女はとても熱心に仕事してたし、利用者さんだって、彼女を信頼していたのに。なんで、眠っている人を、窓から落とすなんて。まあ確かに、美樹は、よるに勤務することも多かったけどね。」

「はあなるほど。確かに、住み込みの精神障害のある方ですと、強い睡眠薬を飲んでいる方も多いでしょうから、多少のことでも目が覚めないかもしれませんね。」

ジョチさんがそういった。

「そうなんです。あたし信じられません。なんでも、精神障害があって、生きていても意味がないと思ったからやったと供述しているなんて。それなら、あの相模原の事件の犯人と同じじゃないですか。」

みどりさんは憤るように言った。

「そうですね。ですが意外にも、その女性と同じ考えを持つ方は多いと思います。特に、精神障害を扱うとなると、そうなりやすいでしょう。」

ジョチさんは、みどりさんをたしなめるように言った。それを聞いて隣に座っている貴久くんがとても悲しそうな顔をして、座っているのが見えた。

「あなたが悪いわけではありませんよ。あなたは一生懸命働いてくれているじゃありませんか。その、女性がしたことは、決して正しいことではありません。だから、彼女のしたことを、評価してはなりません。」

「そうですよ。誰でもその事件の犯人の女性と同じだと思ってしまうことこそ、究極の偏見なのではないでしょうか。」

ジョチさんも水穂さんも、そう言って貴久くんを励ましたが、彼は落ち込んだままであった。

それから数日の間、テレビや新聞では、精神障害のある人を、三人殺害した女性の事で持ちきりになった。彼女の生い立ちや、勤務態度などが、詳細にテレビで語られた。でも、彼女、菅美樹が、なぜ利用者三名を窓から放り投げて殺害したのか。その動機は、いくら警察が調べても判明しなかった。

そんなある日。

今日も米山貴久くんが、水穂さんの世話をしにやってきてくれることになっていた。どういうわけか、貴久くんの奥さんであるみどりさんもやってきた。二人いれば余計に助かるということであったが、みどりさんは、警察の捜査が長期化し、施設が閉鎖してしまったと言った。利用していた精神障害者の人たちは、別の施設に移ったり、自宅で過ごしたりしているのだと言う。確かに、ほかの施設に移れる人はまだ幸せな方だ。家で過ごしている人たちは、これからも世間からは白い目で見られ続けることだろう。そんな事を、水穂さんと一緒に話していると、突然製鉄所の玄関である引き戸がガラッと開いた。

「おい、お前さんたちの中でさ、車を運転できるやつはいるか?」

そう言っているのは杉ちゃんだった。杉ちゃんという人は、何を言うにも前触れもなく、単刀直入に言ってしまうくせがある。こんにちはとか、そういうご挨拶は一切杉ちゃんの中では存在しないのだ。それと同時に、失礼いたしますという声がした。

「涼さんですね。」

音に敏感な水穂さんが、すぐそういった。

「おい!もう一回言うぞ。涼さんを、警察署まで送ってやってくれ。タクシーの運転手に根堀葉掘り聞かれるのは、涼さんは嫌なんだって!」

杉ちゃんがでかい声でそう言うので、みどりさんは

「私が行きます。」

と、急いで立ち上がり、玄関先へ行った。確かに、玄関先には杉ちゃんと、白い杖を付いた、古川涼さんがそこにいる。

「富士駅に行ったら、偶然涼さんと鉢合わせしてね。タクシーでいこうとしていたんだけど、あまり運転手にどこに行くとか、話すのが嫌だというのでね。なんでも、警察にいる容疑者の精神状態を、調べなきゃいけないんだって。」

杉ちゃんという人は、本当になんでもペラペラ話してしまう人だ。涼さんが、目が見えないなりに恥ずかしそうな顔をしている。

「いいですよ。あたしが、運転していきますから、涼さん乗ってください。」

みどりさんは、自分の車に涼さんを案内した。ついでに僕も行くよと言って、車椅子の杉ちゃんまでもが、乗り込んでしまった。みどりさんは、じゃあ行きますねと言って、警察署へ車を走らせてくれた。警察署の前で二人を下ろすと、多分涼さんが連絡してくれてあったのだろう、警視の華岡が、玄関前で待っていた。

「やあ、どうもどうも来てくださってありがとうございました。全くねえあの、菅美樹が、警察は素人ばかりで、話を聞いてくれないというものですから、だったら、話を聞く専門家に、来てもらったほうがいいと思ったんです。」

なるほど、そういうふうに、涼さんが招かれたのか。

「ここはぜひ、彼女と話をして、なぜあのような凶行に及んだのか、ちゃんと聞き出してやってください。」

華岡は、涼さんの手をとって、警察署の中へ入れた。杉ちゃんも、車椅子を動かしながら、中に入ってしまった。みどりさんは、杉ちゃんを手伝うという名目で入らせてもらった。

「ええ、ですが、華岡さん。僕はあくまでも、治療者なので、彼女の話を聞き出すということは、できないかもしれません。それでもよろしければ。」

と、涼さんが言うが、

「いやいやあ。だって、専門家でしょ。俺達よりは、ずっと、話を聞くことだって長けているでしょうし。俺たちでは、犯行の理由話せと言っても、何もいいませんもの。警察なんてね、でかい声だして、話せ話せと共用するしかできません。」

と、華岡は申し訳無さそうに言った。なんだか、警察って、意外にそういうところは苦手なのだろうかとみどりさんは思った。

「今、接見室につれてきましたからね。ぜひ、話をしてやってください。」

華岡は、三人を接見室と書かれている部屋に案内した。

そこに、菅美樹がいた。確かに、みどりさんが、見慣れている顔ではあるんだけど、みどりさんは、日勤が中心で、彼女は夜勤を中心にしていた人物であるので、こうして対面したのは、はじめてだったかもしれない。

華岡が、涼さんを椅子に座らせた。みどりさんは、その隣にたった。杉ちゃんは、入口近くで、車椅子のままでいた。

「はじめまして。僕は、古川涼と言います。資格は、あはき師、心理療術師ということになっております。」

涼さんは簡単に自己紹介をした。

「顔を見ることはできませんが、お話を聞くことはできます。菅美樹さん。なにか、困っていることや、欲しいものはありますか?」

涼さんがそういうと、美樹は、

「何もありません。」

と、小さい声でいった。

「それでは、他の方とお話が重複するようで申し訳ないのですが、事件の事を少し教えて下さい。あなたは、支援センターほのぼのの職員だったんですね?」

涼さんがそう言うと、美樹は小さい声で頷いた。

「どのような勤務をしていましたか?」

涼さんに聞かれて、美樹は、

「主に、夜勤を中心に、住み込みで利用している方の、世話をしていました。住み込みで利用している方は、重い精神障害がある方が多くて、食事とか、布団に寝ることが、自分でうまくできない方も多いので、それを世話するのが、私の仕事でした。」

と、答えた。その言い方が、なんとも冷たい言い方で、これで本当に、世話をするかかりなんだろうか、わからなくなるくらいだった。

「利用していた、障害のある方、あなたが、殺害した三人の方は、一体どんな人物だったんですか?重大な精神疾患がある方々ですか?」

みどりさんは、三人の名前を正確に記憶していたわけでは無いが、彼らがここに来る前は、ちゃんと生活ができていたということは知っていた。三人とも、大学生とか、そういう職種だった。失恋を経験したり、近親者の死亡だったり、成績が下がって叱られた事でひどく落ち込み、そのまま、薬ばかり飲んでしまったことで、日常的なこともできなくなってしまったということは、知っている。精神の薬というのは、体を動けなくさせてしまう傾向が強いので。それで結局、寝たきり状態の、だめな人たち、ということになってしまうのだ。

「ええ、みんな、精神障害者手帳を取得していて、ある人は、宇宙人が襲ってくると言ったりしていました。私は、それを止めるのに、非常に手間がかかりました。」

美樹がそう言っているのを聞いて、みどりさんは、思わずえっと思った。なんで、そう彼女たちをまるで人形のように扱うのだろう。彼女たちだって、人間だということは、美樹も知っているはずなのに。

「それで、あなたは、何を確信しましたか?」

涼さんに聞かれて、美樹は、

「ええ、長らくこの仕事に耐えるのには、彼女たちの話をできるだけ聞かないことだと言うことがわかりました。彼女たちは、薬を飲んで、落ち着くしか無い人達だし、どうせ、社会に出ても、順応できないから、ここにいるので、私がその人達のせわをしてやっているんだと思うことで、この施設で働くことができると思いました。」

と答えた。

「なるほど。なぜ、そのような答えに行き着いたのでしょう?なにか決定的な事項でもありましたか?」

涼さんがまた聞いた。

「ええ。初めの頃は、彼女たちの言っていることを、聞いてあげようと思ったんです。ですが、そればかりしていると、自分が疲れて仕方ない状態になりますので、私は、彼女たちの話を聞かないことにしました。」

「ちょっとまってよ!美樹さんは、そんな事言っているけど、利用者さんたちは、どんな薬よりも自分の話を聞いてくれる人がいてくれるのが、一番幸せだと言っていたじゃないの!」

みどりさんは、美樹の言葉に思わずそう言ってしまった。みどりさんは、いくらメチャクチャな事を言ってくる障害者であっても、それは大事なことだと信じ続けて働いてきた。

「何を言っているの。あたしたちは、彼女たちの話を聞く仕事じゃないわよ。そんなこと言ったって、自分が保てなきゃ、あの施設では働けないわよ。常識で考えられない、世間で捨てられた喪失感ばかりを口にする利用者ばかりを相手にして、あたしのほうが、聞かないと思わないと、とてもいられないわよ!」

美樹は、みどりさんに言った。

「あんこさんは、でぶでぶに太っているから、心の底に優しい気持ちがあるんでしょうけど、あたしには、そんなものないわよ。あたしは、彼女たちとは線引きをして接しないと、あの仕事は、続けられない。」

みどりさんは、それを聞いて頭に来てしまった。

「そうですか。わかりました。あなたは、そう思っているんだったら、そう思うんでしょう。それで、利用者さんを窓から突き落として殺害しようと思ったきっかけに結びついてしまったわけですね。」

涼さんは静かに話を続けた。

「ああ、あれは、頼まれたんです。」

「誰に!」

美樹がそう言うと、みどりさんは思わず言った。

「利用者さんたちによ。もう生きていたくないって、手紙には書いてありました。それで私は、のぞみを叶えてやろうと思って、お願いを実行しただけのことです。だって、いいじゃないですか。もう施設を出て暮らすことはできないんですから。それなら私が消してしまったほうがいい。そう思ったんです。」

確かに、利用者さんたちが死にたいと思ってしまうことはあるかもしれない。でも、それを実行させてしまうことは、みどりさんを始めとして、援助者にはしてはいけないことだった。みどりさんは少なくともそう思っていた。

「変なやつだな。」

と、杉ちゃんが言った。

「そういうやつは、事実は事実だと思えないから、そうなっちまうのかもな。」

杉ちゃんの言うとおりでもあった。事実に感情を込めては行けない事は、みどりさんも知っていた。

「それでは、死にたいと、利用者さんから頼まれて、それで、窓から落として殺害したということで、間違いありませんか?」

涼さんに言われて、美樹はぶっきらぼうに

「はいそうです。」

と頷いた。みどりさんは、美樹のような人に、精神障害者を援助することは絶対にできないなと思った。みどりさんは、逆に施設というものは、利用者さんたちを救うことはできないのではないかと思った。それは、きっと、一人ひとりに寄り添って、話を聞いてやるような、態度をとらないとだめなのだろう。

「わかりました。それが、今回の事件の原因なんですね。」

涼さんは、いくつか美樹に質問をしたと思われるが、美樹は、何を答えたのか、みどりさんは全くわからないのだった。美樹は、その仕事をするのにはあまりに冷たすぎる。

「涼さんってすごいですね。」

帰り際のタクシーの中でみどりさんは言った。

「何がですか?」

そう聞かれてみどりさんは、

「あたしたちが、聞けないことだって、何でも聞けちゃうんですから。美樹さんがあんな事考えていたなんて、あたしは、なんにもわかりませんでした。同僚でさえもわからなかったことが、なんで、そんなにわかってしまうんですか。」

と、聞いてみた。

「ただ、事実は事実であるってことを、知ってることじゃないの?」

杉ちゃんに先に答えを言われてしまって、涼さんは、そうですねとだけ言う。

「お客さん着きましたよ。」

運転手に言われて、三人はタクシーをおろしてもらった。そして、只今戻りました、と言って、製鉄所の中へ戻っていった。ちょうどその時、竹村さんが来ているのだろうか、クリスタルボウルの音が、ゴーン、ガーン、ギーンと鳴り響いていた。みどりさんが、そっと部屋の中へ入ると、竹村さんの隣で、米山貴久くんが、それを一生懸命眺めているのが見える。

「あたしも、こんなところでめげちゃいけないわ。」

みどりさんは、小さな声で言った。

「貴久くんだって、目指すものを持たせなくちゃね。」

そういう彼女は、米山貴久くんにとって大事な人であることに間違いなかった。






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白いクリスタルボウル 増田朋美 @masubuchi4996

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