第11話 体育祭。(前半)


 ◇


 体育祭当日。青空が広がり、暑かった。


 短距離走や長距離走、玉入れなど。たくさんの競技が終わり、午後からは借り物競走などが始まる。


「次はー、パン食い競走です。選手のみなさんは、グラウンドに集まってください」


 放送部のアナウンスで、一斉にグラウンドに集まる。もちろん俺も。

 高校に入って初めての体育祭。当然だけど、男子しかいなくて、共学校より熱気がすごい。


「あ、矢野もパン食い競走だっけ」

「……ちょっと鳥羽。きみってやつはほんとに失礼だよなぁ」

「うそうそ。冗談だよ」


 はははっと笑ったあと、靴紐が解けているのに気付いてかがむ鳥羽。


「それより今日、暑いね。体育祭日和だ」


 見上げると、日光があまりにも眩しくて思わず目を細めて、


「……俺、早く日陰に戻りたい」


 うんざりして思わずため息が溢れる。


「矢野は色白だからなぁ。肌焼けたら服着るとき大変だもんね」

「ちょっと、そういうことここで言うのなしだから!」

「みんな体育祭に夢中だから聞いてないって」

「もう〜……他人事だからってよく言うよ」


 鳥羽とそんなくだらないやりとりをしている間に、パンッと音が鳴り第一走者がスタートする。


 そしてあっという間に俺の順番が回ってくる。意外とパンを口で掴み取るのが難しくて、みんな苦戦していた。おまけに昼食後ということもあり、走ることすら困難で。俺も、パンをくわえるのにはかなり時間がかかった。


「おつかれー」

「うん、鳥羽も」


 タオルで額の汗を拭う。


 それにしても暑くてのどが乾いたなぁ。


「俺、飲み物買って来るけど鳥羽何かいる?」

「え、いいの? じゃあスポドリで。あとでお金渡すよ」

「うん、分かった」


 おでこからハチマキを取って、自販機に向かった。


 鳥羽はスポーツドリンクで……俺は、うーん……俺も一緒でいっかなぁ。


「──あれ? 矢野くん」


 かがんで飲み物を掴んでいると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえて。


「…あっ、先輩」


 振り向くと、そこには夏樹先輩がいた。


「矢野くん、さっきパン食い競走してたね」

「うっ……。み、見てたんですか」

「うん、もちろん」


 あー、恥ずかしい。俺がパン食いの苦戦してたの先輩に見られてたなんて、穴があったら入りたい。


「さっきの矢野くんの一生懸命な姿、可愛かったなぁ」


 公共の場で軽々とそんなことを言うから、


「ちょっ、先輩、何言ってるんですか……!」


 周りに人がいないか確認する俺。


「んー、だって可愛かったから?」

「いやっ……そういうことじゃ、なくて……」


 先輩の言葉にいちいち意識してしまう。


 そのせいで忘れようとしていたことが思い出されて、先輩の顔を見るとブワァッと顔が熱くなる。


 〝好きな子だから〟


 数週間ほど前の記憶が、頭の中に浮かぶ。


 先輩にとって俺は……


「なにー?」


 ──ハッとして。


「…い、いえ、なんでもないです」


 慌てて目を逸らす。


「ふーん、そっかぁ」


 ──ドキドキ…


 なんで俺、先輩の言葉にだけ動揺するんだろう。


 恥ずかしくて、俯いてしまう。


 あれからずっと先輩にどうやって接したらいいのか分からなくなって、距離を開けてしまう。

 きっと先輩は気づいているかもしれない。


「─あっ、矢野くん前髪あとついてる」


 おもむろに告げられた言葉に動揺して、え、と顔を上げると、すぐそばまで近づいていた手に気づき。


 うわっ、やばい……っ!


 思わず、ぎゅっと目を閉じる。


 ──ふわりと前髪に触れる小さな波。


「パン食い競走、頑張った証拠だね」


 優しく、丁寧に動く指先から、熱が伝って、


「っ」


 恥ずかしくなって、息を飲む。


「今回は分からないかもね」

「な、なにが…ですか」

「タケに言ってたよね。一年が勝つって」

「あ、あれは……」


 弁解をしようと恐る恐る顔を上げれば、綺麗な瞳が俺を捉える。


 ──ドキッ


 な、なんだこの、動悸。


 全然、おさまらない。


「矢野くん?」


 どうして俺、先輩にどきどきするんだろう。


「あ…えっと、なんでもない…です」

「ほんと? でもなんでもないって顔してないけど」


 動揺するなんておかしい。意識するなんておかしい。


「あのっ、ほんとになんでもないですから!」


 俺は、女子が好きなんだ。男子は恋愛対象ではない。


 きっと、鳥羽に聞いた言葉を意識してしまっているだけで先輩のことに対してどきどきしてるわけじゃない。うん、絶対にそうだ。


「矢野く──」


 すると先輩の足が一歩、俺に近づいて。


「次はー、借り物競走です。選手のみなさんは、グラウンドに集まってください」


 その瞬間、先輩の声を遮るようにアナウンスが入る。


 あれ、でも今……


「先輩、今何か言いかけて……」

「あー…うん、それは今度でいいや」


 言葉を濁した先輩は、鼻先を掻いて、


「じゃー俺、次借り物だから行くね」


 いつものように微笑んだ。


 どきどきはする。緊張もする。


 けれど、俺は、


「が、頑張ってください」


 いつも先輩には、助けられてばかりだからと、たまには俺だって先輩の力になりたくて応援した。


「敵同士なのに応援しちゃっていいの?」


 すると、少し先の方で立ち止まった先輩がそんなことを言うから、


「え、あっ、ほんとだ……」


 武田先輩にあれだけ言ったのに、敵の応援するなんて俺ってばなにをして。


「でも、ありがとう」

「えっ……?」

「俺、すごい頑張っちゃうから」


 少し離れたところで、先輩が言う。


 その姿は、俺よりも背が高くて頼り甲斐があって憧れるような、先輩の後ろ姿だった。


「……顔、あっつ……」


 火照った顔を冷ますように買ったばかりのスポーツドリンクを頬に当てた──。


「遅かったね」


 しばらくして鳥羽がいるテントに戻ると、すでに借り物競走は始まっていた。


「……ちょっとトラブルがあって」

「トラブル?」

「う、うん……」


 目を明後日の方へ向けてその場を凌ぐ。


「ふーん、そっか。なんかよく分からないけど、これありがとう」


 どうやら嘘は気づかれていないみたいだと、安堵する。

 パキッとキャップを開けて、ごくりとひと口飲んだ。


「ふう……」


 さっきの動悸は、もう消えていた。


 何だったんだろう? 暑くて体調が悪かったのかな。それとも先輩に……いや、考えるのはよそう。きっと、気のせいだ。


「あっ、あれ、先輩じゃない?」


 鳥羽の声にハッとして前方を見ると、紙を掴んだ先輩がピタリと固まっていた。


「どうしたんだろう」


 ……あっ、そういえば生徒会の雑務のとき。


「な、なんか体育祭実行委員が無理難題を書くって言ってた」

「無理難題?」

「う、うん。好きな人とかタイプとか」

「うわー、それ男子校で書くやつじゃないじゃん」


 共学校ならあり得るけれど、男子校で好きな人とか暴露しちゃう人なんて絶対いないのに。体育祭実行委員は盛り上げようとそんな紙を用意するのかも。


「じゃー、それが当たったとか?」

「ど、どうなんだろう」


 もしかして、ほんとに一番答えにくい回答を引いちゃったとか?


「あー、なんかキョロキョロし始めた」


 鳥羽が先輩の実況を始めるから、意識を目の前へ戻して。


「……ほんとだ。何を探してるんだろう?」

「矢野じゃないの」


 いきなり鳥羽がこっちを向くから、ギョッとして、


「な、なんで」

「仲良いから?」

「だったら生徒会みんなが候補に入るでしょ」

「あー、それもそっか」


 なんとか危機を凌いだ俺は、安堵の息を吐く。


 ──が、その矢先、


「あっ、先輩こっち来る」


 鳥羽の言葉に驚いてグラウンドを見ると、たしかにズンズンとこちらへ向かって来ている姿が視界に映り。


「えっ、な、なんで……」


 もしかして俺? いや、その考えはおかしい。なんで俺なんだよ。自意識過剰すぎる。もっと他にいるじゃん。鳥羽とか他の人とか……


 俺以外の人ってことは誰なんだろう。


 ──ズキッ


 胸に鈍い痛みが走って、思わず先輩から目を逸らす。


 なんで俺、今ズキッて……意味が分からないんだけど。それとも、先輩が誰かを呼びに来たことに対して傷ついたの?


 あーっ、どっちにしてもなんかもやもやする。この感情は一体……


「矢野くん、ちょっと来て」


 すると、突然俺の名前を呼んだ先輩の声に、パチンッと目が覚めたようで。


「えっ……」


 俺が、呼ばれた……?


 な、なんで。


 瞬きを繰り返すと、テント前には先輩の姿があった。


 ──ええっ、お、俺……?!


「矢野、呼ばれてるよ。早く行ってあげれば」


 鳥羽がポンッと俺の肩に手をついたが、いまだ信じられなくて。


「え、俺……? ほんとに?」


 鳥羽を見たあと、先輩にも目を向ける。


 嘘なんかひとつもついている様子には見えなくて。

 けれど、さっきのことといい好きな子と言われたこたもあり少しだけ気まずいが、今は体育祭。


「矢野、ほら早く行けって」

「あ、ああ、うん……」


 鳥羽に促され仕方なく立ち上がると、靴を履いた。


 クラスメイトや他のクラスから、かなりガン見される。二年の先輩がここにいたら目立つのは当然だ。そうじゃなくても先輩は、髪色が明るいからどこにいてもすぐに分かる。


 おまけに先輩は、ピアスもしているから少し不良に見えなくもない。まあ、実際の先輩は全然そんなことなくてすごく優しい人なんだけど。


「一緒に来てもらっていい?」


 あちこちから歓声が聞こえて、うるさくて。


 けれど、低くて落ち着きのある先輩の声は、なぜかするりと耳に入り込む。


「今、ですか……」

「うん」

「俺で間違いないんですか? 呼び間違いとかだったら……」


 注目を浴びていて、恥ずかしくなった俺は目線を下げる。


 けれど、先輩は。


「ううん、矢野くんで合ってるよ」


 恥ずかしがるそぶりひとつも見せずに、堂々と逞しくて。


 たった一言それだけなのに、鼓動がうるさくなった。


「えっと……」


 先輩の言葉に動揺して、口の中が急速に乾いていく。


 借り物競走中の生徒は、次々とお題の答えを持って行ったり人を連れて行ったりしている。


 刻々と時間は過ぎてゆく。


 時間は待ってはくれない。


(……こんなときに俺は何を悩んでいるんだ……っ)


 先輩はいつも俺のことを肯定してくれる。拒絶したりしない。軽蔑だってしない。

 敵とか味方とか、恥ずかしいとか、どきどきするとか。そういうのは今、関係なくて。


 先輩が俺を必要としてくれるなら、俺だって力になりたい…!


「わ、分かり…ました」


 勇気を振り絞って声を出した。


「よかった」


 すると先輩は、ホッと安堵したような表情を浮かべていた。


 ──断らなくて、よかった。


 素直にそう思ったんだ。


 それから先輩と並んで歩き出すと、


「うえーい! 頑張れ、矢野!」

「ひゅーひゅー!」


 などと背後で騒ぎ出すクラスメイトたち。


 あーもうっ、ほんとにうるさい……!


 振り向いて一言文句でも言ってやりたかったけど、今俺の心にそんな余裕はなかった。


 ──どうして呼ばれたのか。


 そのことで頭はいっぱいだったからだ。


「おーっと次のゴールは、二年三組の夏樹孝明選手!」


 アナウンスが盛り上げるように声を張るから、周りからは大歓声。まるでどこかの球場にいるような気分になって、少し居心地は悪い。


「お題を確認させていただきますね」


 ゴールで待ち受けている審査員が、先輩の手から紙を受け取る。


 な、なんて書いてるんだろう…


 武田先輩たちが言ってた、好きな人とか好きなタイプとかなのかな。


 えっ、でも先輩が俺のこと好きなんてありえないし……!


 いやでも、この前、駅前で一緒にいた女の子(俺)のことを好きな子って言ってたし。


 も、もしかして──…


「じゃあ、確認させてもらいますね」


 カサカサッと四角く折り畳まれた紙を開く。


 俺は、どきどきが止まらなかった。


 この場で〝好きな子〟だと断定されるのが少しだけ怖かったからだ。


「お題は──…」


 ……ああ、いよいよだ。


 ゴクリ、と固唾を飲む。


「〝一番仲良い後輩〟とのことですね」


 予想していた言葉とは似ても似つかないものが聞こえてきて、え、声を漏らした俺は、当然ポカンと固まった。


 好きな人ではなく……一番仲良い後輩?


「この場合、本人ではなく相手にお聞きしますね。てことで、まずはきみのお名前お聞きしていいですか?」


 と、マイクを向けられるから、


「……あ、えっと……矢野、朝陽…です」


 呆気にとられながら、ぽつりぽつり名前を呟く。


「じゃあ矢野くんにお聞きします。ずばり、夏樹先輩の一番仲良い後輩ですか?」


 またズイッとマイクを向けられるから、


「あ、えっとー……」


 なんだ、この状況。審査員が判断するんじゃなくて連れて来た相手に確認するのか?!


 これ、公開処刑レベルだよっ……!


 なんて返せばいいのか迷って、恐る恐る夏樹先輩へと顔を向けると、ニコッと微笑まれただけで。


 〝好きな子だから〟


 数週間ほど前に生徒会室で答えた先輩の声が頭の中にこだまし、赤面する。


 そんなことを言われてからどうやって先輩に接したらいいんだろうって分からなくなっていたけれど。


 よく考えてみたら先輩は俺のことを困らせるような人ではない。からかうことはあっても嘘はつかない気がする。

 だからきっとあれは、俺が女装していると気づかれないためにわざと〝好きな子〟だと言ってみんなに女の子であることを印象づけたのかもしれない。


 それに、〝一番仲良い後輩〟として呼ばれたなら俺のことをそういう対象として見てるわけじゃない気がする。


 だったら今、俺がするべきことは──


 グッと拳を握りしめて、顔を上げて。


「はいっ。一番、仲良い後輩だと自負しています!」


 マイクで拡張された俺の声は、グラウンド中に響いた。


 自分に自信がなくて、自分の顔がコンプレックスで自信をつけるために女装をしていた俺が、まさかこんな人前でそんな自意識過剰なことを言うなんて思っていなかった。


 全身から炎が吹き出しそうなくらい恥ずかしくて、今すぐ逃げたくてたまらなかった。


「はい! じゃあ二人は仲良い先輩後輩ということでお題は成功です。ゴールへどうぞ」


 けれど、先輩が俺を肯定してくれたから今度は俺が先輩の力になりたいと思った。


 ほんとに、ただそれだけだ。


「じゃー行こっか」


 恥ずかしいやら照れくさいやら、お互い顔を見合わせて笑った。

 外野からはいえーいいえーいと歓声が漏れて、大熱狂の嵐。


「矢野くん、ありがとう」

「い、いえ、こちらこそ……」


 二人して、足を揃えてゴールテープを切ったのだった。

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