第7話 俺と先輩の休日。(後半)


 それから先輩と移動してやって来たのは、おしゃれなカフェだった。

 一人では入れないような店内に俺は思わず足がすくみそうになったが、隣にいた先輩が俺の背中を優しくエスコートするから足は立ち止まらなかった。


 カウンターで注文をしたあと、『俺が持ってくるから空いてる席取っておいて』と告げられて、店内へと足を進める。


 奥のテーブル席が空いていたため、そこに腰を下ろした。


 ……のは、よかったのだが。


(先輩が優しくエスコートしてくれたからって何だよ……! なに、ちょっとそこにきゅんとしちゃってるんだよ! たしかに今、女装してるけど、だからといって男が好きなわけじゃないし恋愛対象は女子だもん! あーもうっ……)


 思わず、深いため息をついた。


「矢野く──…」


 しばらくして先輩がやって来て、ハッとしたあと、


「…朝陽ちゃんお待たせ」


 何事もなかったかのようにニコニコと微笑みながら席に座る。


「……先輩、今のは危なかったですよ」

「うん、ほんとだね。少しでも気を緩むと矢野くんって呼んじゃう。癖って危ないね」


 そんなことを話していると、「あっ、ここ空いてるよ。ラッキー」と女子の団体が斜め横に座るから、ここはもはや危機的状況で。


「今は、絶対に気をつけてくださいね」


 もう一度念を押すと、


「うーん、気をつけるね」


 自信なさげな軽い返事が返ってきて。


 ほんとに大丈夫だろうかと心配になる。


「じゃー食べようか」

「は、はい」


 ちらっと女子の団体を確認したあと、目の前に置かれていた、ほかほかと湯気が上がるハンバーグへと手を伸ばす。


「んー、おいしい」


 ひと口食べれば、思わず頬が緩む。


 すると、くっくっくっと引き笑いが聞こえるから顔を上げて、


「な、なんですか」

「いやーだってさぁ、見た目と食べ物があまり一致しないから……今すっごい女の子じゃん、朝陽ちゃん。それなのに食べてるのそれだし」


 先輩が言いたいことは、分かる。


 見た目がこんなんだから食べるなら普通、先輩が食べているパンケーキを俺が食べるはずだと。


 でも俺は、


「今お腹の気分がこっちだったんで……」


 言い訳みたいになっているのが恥ずかしくって、ハンバーグを口に放り込む。


「いや、うんっ……ふっ、くっくっくっ…」


 そんな俺を見て、まだ笑いを堪えるから、


「ちょ、先輩、笑いすぎです……!」


 女子の団体に聞こえないように顔をずいっと寄せて小声で言うと、


「だってさぁー、矢野くんが……っ」


 気を抜けば、ほらまたやっぱり名前が戻ってるし。


「あっ、先輩! また名前……」


 だからこうして注意をすると、


「あー、ほんとだ。ごめん」

「もう……ほんとに気をつけてくださいね」


 女子の団体に俺が女装してる男だってバレるのだけは御免だ。


「じゃー、名前呼んじゃった罰としてこれひと口食べる?」


 先輩が頼んだのは、いちごソースのかかったパンケーキ。甘い匂いが漂って、食欲を誘う。


「……どういう罰なんですか」


 俺が文句をついてみるが、


「まあまあ、いーからいーから」


 と、他人事のように軽い返事をしたあと、フォークで刺したそれを「ん」と俺に向けた。


「……な、なんですか」


 ギョッとして、声が上擦ってしまう。


「あーんしてあげようと思って」

「……遠慮しておきます」

「いーからいーから」

「……」


 なにがいいからなのかさっぱり分からない。


 この状況に困惑して、固まっていると、


「ほら早く、いちごソース溢れる!」


 なんて先輩が急かして、さらにグイッと口にフォークを寄せるから。


 食べないわけにはいかなくなって。


 パクリッとひと口食べる。


「どう?」


 少しわくわくしながら俺を見つめる先輩。


「……おいしい、です」


 悔しいけれど、いちごソースのかかったパンケーキはめちゃくちゃおいしかった。


「うん、よかった」


 目を細めて微笑んだ。


 その表情に、思わず胸がぎゅっとする。


「ねぇねぇ今の見たぁ? 彼氏さん、彼女にあーんしてたよ!」

「見た見た! めーっちゃラブラブだねぇ!」


 不意に女子の団体の弾む会話が俺の耳に流れてやってくる。それはもはや、恋愛話をしているようなもので。


 この周りに男女でいるのは、俺たちくらい。だから当然、その話題の中心にいるのも俺たちで。


(……うわー、なんか恥ずかしい……。)


 顔を見られないように、少しだけ俯いた。


「矢野くん、どーしたの?」


 俺を心配したのか、先輩に声をかけられる。


 先輩にもさっきの会話聞こえてたのかな。いやでも、聞こえなかったかもしれないし。


「あ…いえ、別になにも……」


 とにかくここは話題を変えよう。


「せ、先輩…は、甘党なんですか?」

「え? …あーうん、かなりね。だから甘いものには目がなくてさー」


 と、その合間にひと口食べる。


 おいしそうに、頬張ったあと、


「ここ、気になってたんだけど女子が多くて俺一人じゃ行けなくてさぁ」

「へぇ、そうだったんです…ね……」


 納得しそうになった俺の頭の中のレーダーがピコンッと何かを察知して、急速に手繰り寄せられる記憶。


「……もしかして先輩が俺に言ったあの言葉ってここに来るためだったんじゃ……」

「やだなぁ、そんなわけじゃん」

「ほんとですか?」

「ほんとほんと。俺、嘘はつかないから」


 どうなんだろう。先輩が嘘をつくとは思えないけれど、冗談ならいくらでも言う人だ。


「神に誓って約束するよ」

「……なんですかそれ」


 まるで子どもじみた言い訳で丸め包められそうになる。


「とにかくね、俺、矢野くんと来れてほんとによかったと思ってるよ」


 と、嬉しそうに微笑む先輩を見て、嘘はついているようには見えなかった。


 だから、それ以上何も言えなくて。


「そ、そうですか」


 俯いて、唇を結んだ。


 女子にひそひそと何かを言われるのは気になるけれど、今俺、女装しててよかったと心底思った。


 なぜならば、熱くなった首も耳も隠すことができているから。


 今の俺は、きっと全身真っ赤だ。


お昼を食べ終えたあと、店内を出る。


「はーっ、お腹いっぱい」

「俺もお腹いっぱいです」


 カフェのハンバーグって大したことなさそうって思ってたけど、その概念が覆るほど本格的でおいしかった。


「矢野くんハンバーグ食べてたもんね」


 そう言ったあと、また思い出したようにくっくっくっと笑い出すから、


「ちょ、先輩……!」

「ごめん。だってあまりにもさっきの矢野くんとハンバーグがミスマッチすぎて……っ」

「〜〜あのときはどうしてもハンバーグ食べたい気分だったんです…! ていうか、この格好だからって食べ物まで変えるつもりとか毛頭ないですし!」


 女装が趣味だといっても、食べ物や意識全部を変えるつもりはない。見た目は違うけれど、中身は俺自身だ。


「いや、それは分かってるんだけど……」


 俺の言葉を聞いても、笑うのだけはやめなくて。


「俺は──…」


 感情に呑まれそうになったとき、


「矢野くんが可愛かったから」


 突然現れた言葉によって頭の中は白く抜け落ちて、


「………へ?」


 思わず、気の抜けた声が漏れる。


「あのときの矢野くんがあまりにもおいしそうに頬張るから可愛くて、何度思い出しても笑っちゃうんだよね」


 先輩は一体、何を言って……


「笑うって、おかしかったから…ですよね」

「あー、違う違う。笑っちゃうっていうのは思い出して微笑ましいからってこと」


 ……ん? 微笑ましい?


「それくらい矢野くんがハンバーグ食べてる姿が可愛くてさぁ」


 と、なかなか終わりそうになくて。


「それにあの女子の話聞いた? 俺たち周りから見たら恋人に見えるんだって」


 その言葉を聞いた瞬間、ビビッとアンテナが立ち上がり、やばいと思った。


「ちょっ…先輩、ボリューム落としてください……っ」


 いくら俺たちが男女に見えるからって言ったって、どこで誰が俺たちを見ているか分からない。


「だってさぁ、あの女子たちも羨ましがってたよ。あーんされててラブラブだねーって。矢野くんがよっぽど可愛く見えたんだろうね」


 おまけに〝可愛い〟を連発するからさすがの俺も羞恥心に駆られて、


「……先輩、もう勘弁してください」


 俺の方が先に白旗を上げる。


 今までだって可愛いと言われたことは何度もあった。男子にも女子にも。

 嫌いな言葉の代表となるほどに〝可愛い〟って言われるのが嫌だった。


 それなのに夏樹先輩から可愛いと言われると、なぜこんなにも恥ずかしくなってしまうのだろうか。


「矢野くん、顔真っ赤だよ」

「た、ただ暑いだけ、です…っ」

「そっかぁ。たしかに今日暑いもんね」


 どんなに言葉を誤魔化しても先輩には気づかれている気がして。俺が言葉を言うたびに墓穴を掘っているような感じさえした。


「矢野くんさぁ、女装してるときの服装ってどうしてるの?」


 しばらくして、先輩がそんなことを聞いた。


「あー……」


 いつかは聞かれるだろうと予想していたからそこまで驚くことはなかった。


「あれは、姉のおさがりです」


 率先して言いたいことでもなかったけれど。


「矢野くんってお姉さんいるの?」


 すれ違う人のことなど気にも留めない先輩は、いつもの呼び方に戻っていた。


 指摘しようかと思ったけれど、やめた。俺も、先輩に〝朝陽ちゃん〟って呼ばれるの慣れないし、むしろ違和感だったもんなぁ。


 だから、それは気づかないフリをして。


「はい、三つ離れた姉が……」

「へえ、そうなんだ。ひとりっ子に見えたけど、ねーちゃんいるんだね」

「はい……」


 苦い記憶が蘇ってきて、思わず顔を歪めると、


「どうしたの?」


 すぐに気がついた先輩が尋ねてくる。


「俺、小さい頃からこの顔で、姉が俺に女物の洋服を着せ替えて遊んでたみたいで……その頃は俺も楽しくて喜んでたみたいなんですけど……」


 母さんたちから聞いた話だから、実際俺が楽しんでたのかは不明だが。


「俺、女顔がコンプレックスなんです。中学のときは男子にも女子にも可愛いって言われてて……」


 好きで女顔に産まれたわけじゃないのに、子どもは顔を選ぶことはできなくて。


「姉が着なくなった洋服をなぜか俺にくれたんです。そんなときに自分に自信を持ちたくて、女装……してみたんですけど、そしたらたくさんの注目を浴びて……」


 べつにモテたいとかそういうわけじゃなく、ただ単に自分に自信がほしかった。


「女装してるときだけは、なんか自信がつくような気がして……女顔がコンプレックスなのに、女装して自信がつくって変な話なんですけど」


 俺にも分からない。


 なぜ、女装をしたときは自信がつくのか。


「うん、そっか。そんなことがあったんだね」


 先輩の口からは優しい声が落ちる。


 その瞬間、ハッとして、


「あっ、すみません! 俺の話なんてつまらないですよね……」


 俺ってば、なに自分の過去の話してるんだろう。先輩、返事に困ってるじゃん。


「えーっと、あのっ……」


 必死に違う話題を考えていると、


「ううん、つまらなくなんてないよ」


 ふいにその場に立ち止まる先輩。


 つられて俺の足もピタリと止まる。


 ゆっくりと、顔をあげると、


「矢野くんが今、話してくれたこと、ほんとは言いたくないことだったんでしょ。それなのに俺に話してくれた。つまらないわけないじゃん」


 胸がぎゅっと熱くなる。


「だから、話してくれてありがとう」


 のどの奥が、目が、じんわりと熱くなる。


「…っ、夏樹、先輩……」


 女装は誰にも認められないと思っていた。

 バカにされると思っていた。


「矢野くんの過去を話してくれて嬉しかった。ありがとう」


 先輩は、受け止めてくれた。


 否定せず、俺を肯定してくれた。


「……先輩……っ」


 唇を、きゅっと結んだあと、


「……ありがとう、ございます」


 俺は、目線を下げた。


 涙が滲んできそうだったから──。



 ***



「じゃあ俺、降りますね」


 駅のホームにトンッと足をつける。


 振り向くと、先輩は席から立ち上がってドアの前で俺に手を振る。


「また学校でね」


 ドア越しに俺と先輩がいて。


「は、はい」


 ──プシューっとドアが閉まり、ゆっくりと電車は進んで行った。


 ふわりと夏の風が吹き、俺の髪(ウィッグ)が横へ攫われる。


 首の熱を奪って、名残り惜しくて。


「……寂しいなぁ」


 なぜか少しだけ、そう思った。


 帰り道は、足が重たくてなかなか進まなかった。


 ──ブブーっ…


 五分ほど歩いたところで、スマホが鳴る。


 誰だろう? 母さんからかな。


 かばんの中からスマホを取り出すと、電話の相手は、さっき分かれたばかりの先輩だった。


「もっ、もしもし…!」


 緊張のせいで声が上擦ってしまう。


『あー、矢野くん。今、大丈夫?』

「だ、大丈夫ですけど……」


 スマホ越しの先輩の声は耳に響いて、少しどきどきする。


「先輩は、何か忘れ物とかですか?」

『そうそう。すっごい大事なこと忘れててさぁ』

「なんですか?」

『今日の矢野くん、すっげー可愛かった』

「………へっ?!」

『それだけ。じゃーまた学校で』


 ──プチッ。すぐに電話は切れる。


「えっ、はっ、ちょ……っ」


 待って待って、今のなに。どういうこと。先輩の大事なことってそれを電話で言うこと? いやっ、その前に俺、可愛いって言われるのがコンプレックスって言ったのに……


 なんだ、この感じ。身体の中から響くような心臓の音。まるで外にも聞こえているみたいで。


「……なんで俺、こんなにどきどきしてるんだ?」


 〝可愛い〟がコンプレックスだったはずなのに。


 先輩に可愛いと言われても傷つくどころか、むしろ──。


「ぅわあぁぁぁぁ……」


 ──どきどきして、恥ずかしくなる。


 そんなふうに思ってしまったんだ。

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