第6話 俺と先輩の休日。(前半)
◇
どこか昔の遠い記憶。
それを俺は、思い出すのが嫌いだ。
けれど、記憶から消えることはない。
『矢野ってすっげぇ可愛い顔してるよな!』
……やめろ、やめろ。何も言わないでくれ。
『矢野くんって女の子より女の子みたい』
……あー、もう嫌だっ。
耳を塞ぎたくなったそのとき、
──ピピピッ…
つんざくようなうるさい音で、俺は目が覚めた。
カーテンの隙間から溢れる光が眩しくて、思わず目を細める。
「なんだ、今の夢か……」
むくりと起き上がり、スマホのアラームをOFFにした。
なんとも目覚めの悪い朝。おかげで汗が滲んでいた。
「はぁ……嫌な夢見た……」
最近はあまり見なかったのに、久しぶりに過去の苦い記憶を見たせいで、自信は底をつきかけた。
あーあ。学校行くの憂鬱だなぁ……
スマホの時間を確認すると、六時過ぎ。ここから駅まで十分もあれば着くから余裕だ。
「……あれ、ちょっと待って。今日って……」
目を凝らしてスマホに表示されている日付を確認すると、今日は土曜日。学校が休みの日だ。
なーんだ。今日、学校じゃないじゃん。昨日、アラーム解除するの忘れてた。休みの日は八時まで寝ようって決めてたのに。
「よし、二度寝しよう」
そう思って、また布団に潜り込む。
──が、
「ああっ、だめだ! 寝れない!」
さっきの夢が原因で目は冴えて、二度寝どころではなかった。
せっかくの休日だというのに最悪な始まりに、振り回される。
「……うーん、とりあえず起きるかぁ」
どうせベッドでゴロゴロしたって嫌なこと思い出すだけだ。顔洗ってさっぱりして、ご飯でも食べよう。
ふあーあ。あくびをひとつしたあと、重たい身体を無理やり動かした。
「あら、朝陽。おはよう。今日は早かったのね」
顔を洗ってリビングに向かうと、休日なのにいつもの時間に起きた俺に母さんは驚いた。
「うん、アラーム間違えてセットしちゃったみたいで…」
「そうだったの。でも、休みの日も早起きするといいことあるわよ、きっと」
早起きしたらいいことある、か。
目覚めが最悪だったあれはどう受け止めればいいのだろう。
「……そうだといいけど」
期待しないことにした。
食パンをトースターで焼いて朝食を準備する俺は、このあとの予定を頭の中で考えた。
家にいてもゴロゴロするだけだし、図書館にでも行ってみる? いやでも、そんな気分にもなれないし……
「──あっ、そうそう!」
思い出したように声をあげた母さんは、
「このあとお友達とランチに行って来るんだけど」
「あー、うん分かった」
「お昼ご飯大丈夫そう? 何か作ろうか?」
「適当に食べるから大丈夫だよ」
母さんはパートで働いている。基本、土日は休みの日が多い。父さんは、土日関係なく働いているから俺が休みの日の朝は、あまり見かけない。
軽く朝食を済ませてから、また部屋に戻った。予習でもしようと教科書とノートを広げてみるが、全然集中できなくて放り投げた。
それから何もしないでぼーっとしていると、どうやら俺はうとうとしてしまったらしい。
「朝陽ー、お母さん行ってくるね」
母さんの声で意識がハッとした俺は、
「あー、うん気をつけて」
椅子に座ったまま返事を返す。
玄関に向かった音が聞こえたあと、バタンッとドアが閉まった音がした。
「あーあ……今日、どうしよう……」
キャスター付きの椅子で移動して、カーテンを開けると、そこは青空が広がっていた。
いい天気だなぁ。こんな日にずっと家の中でくすぶっているのはもったいないなー。
──矢野ってすっげぇ可愛い顔してるよな!
頭の中で、また嫌な言葉がリピートされる。
「あーもうっ、いい加減忘れたいのに……!」
俺は、女顔がコンプレックスで。
中学の頃に言われた言葉が今でも残っている。そのせいで自分に自信がもてなくて、何をやるにも後ろ向き。
けれど、女装をしているときだけは自分に自信が持てる。
だから──…
「久しぶりに女装……してみようかなぁ」
椅子に全体重をかけるように背もたれて、ぐーっと腕を伸ばしたあと、立ち上がった。
クローゼットに隠すようにしまってある姉からもらった女物の洋服。それほど多くはないが、クローゼットの半分を占めていた。
ウィッグはロングの一種類のみ。特にこだわっているほど女装に手をかけているわけではないため、ロングをその日の気分で下ろしたままか結んだりしている。
化粧は、もちろんしていない。女顔なためか肌は綺麗な方だ。それに化粧まで気合いを入れてすると、それはそれで気持ちが悪くなるため素肌のままだ。
「……うん、久しぶりのわりにはいい出来」
鏡の前でおかしなところはないかチェックする。
どこをどう見ても、女子だ。
白のTシャツに黒ワンピースを重ねただけの、何ともラフな格好。そこまで肩幅があるわけではないため、これが男だと気づくのはまずないだろう。
……あっ、でも例外が一人だけ。
「そうだ。夏樹先輩に連絡どうしよう……」
ここで大事なことを思い出し、ハッとする。
〝次に女装するときは俺の前だけにして〟って言ってたよなぁ。
断ることもできそうだけど……約束を破ったら、〝お仕置きとしてキスする〟って……いや、さすがにそれは嘘だって言ってたし……
でも、もし先輩が嘘じゃないと言ったら……
「あー、もうっ、仕方ないなぁ……っ」
ベットサイドに置いていたスマホを取って、個人メッセージができるアプリを開く。
「えーっと、なんて言おう……今日女装するので夏樹先輩も来てください……? いや、なんでそんな強制的みたいな……うーんと……」
打っては消し打っては消しを繰り返して、ようやく完成したのは。
【今日、女装しようと思っています。
夏樹先輩に連絡しようかしないか迷ったんですけど、例のお仕置きが怖かったのでとりあえず連絡だけしました。
来なくても全然構いませんので。】
意外と長文になってしまったなぁ。でも、まあいっか。
送信ボタンを押して、かばんを用意するとその中に必要最低限の財布と応急セットを入れた。
──ブブーっ
「えっ、早……っ!」
一分もしないうちに夏樹先輩から返信が来る。
【絶対行く。】
え、絶対……じゃあ来るんだ。
すると、さらに追い討ちをかけるように一件通知が入る。
【何時にどこに?】
何時に……うーん……
「十三時くらい…に駅広場…ですっと」
送信すると、ものの数秒で返信があり。
【わかった】
と、簡潔的なものだった。
自分が連絡したとは言え、さすがに女装をそう何度も見られるとなると。
「ちょっと恥ずかしいなぁ……」
鏡に映る自分を見て、姿は女子そのものだったから。
***
待ち合わせ時間より五分ほど前に駅前広場に着いた。あたりを見渡すが、夏樹先輩の姿はまだなさそうだ。
「今、着きました…っと」
すれ違いになったら面倒なことになりそうだからと、真っ先に連絡をする。
──ブブーっ…
すると、メッセージではなくなぜか着信で。
【着信 夏樹先輩】
と、スマホに表示されていた。
「はっ、はい、もしもし……」
初めての先輩との電話に少し緊張して、声が上擦った。
『矢野くん、今どこー?』
「えっ、俺ですか……今、駅前広場ですけど……先輩はどこに……」
『あー、俺は──…』
スマホの向こう側で、がやがやと何やら騒がしくなり声が聞き取りにくくなる。
「あの、夏樹先輩……」
もう一度声をかけると、『──あっ!』弾んだ声がスマホから流れてきて、
「矢野くん、みーっけ」
楽しげな声がふたつ聞こえた。
ひとつはスマホからで、もうひとつはこの場所から。
「……あっ、先輩」
スマホを耳に当てながらあたりを見渡すと、少し離れた場所で俺の方へ歩み寄る夏樹先輩が映り込んだ。
夏休みと同様、ラフな格好なのにすごくおしゃれで一際目立っていた。
「矢野くん、お待たせー」
と、俺に手を振ってくるからつられるように手を振り返す。
「わっ、見てあの女の子。すっごい可愛い」
通りすがりの女子がボソッと呟いた。
その言葉によって俺はあることを思い出し、すぐに手を下げた。そして顔も俯いた。
「矢野くん、どうしたの?」
そんな俺に困惑して、先輩は声をかける。
俺は今、女装をしている。
それなのに先輩と会うとどうしても普段のままの自分だと錯覚しそうになる。
「あの、先輩……その、矢野くんっての人前ではやめてもらっていいですか?」
先輩は、俺のことをいつも通りで呼ぶ。
それを他の誰かに聞かれたら俺が女装している変なやつだと疑いをかけられる。
それだけはどうしても避けたかったから。
「え、なんで?」
「なんでって……えっと俺、今…女装してて、だから……」
頭の中で考えながら言葉を紡ぐが、緊張のあまり言葉は滑らかに現れない。
中途半端な言葉だったが、先輩は意図を汲み取ったのか、
「ああなるほど、〝矢野くん〟はまずいよね」
と、表情を明るくする。
よかった、納得してくれて。そう思って安堵した矢先、
「じゃあ……あーちゃんって呼ぼう」
なんて言葉が薮から棒に現れるから。
「えっ、ちょ……はい……?!」
当然、驚くのも無理はない。
だって〝あーちゃん〟って……
「矢野くんの名前、朝陽でしょ? でも今矢野くんはダメだし。だったら、あーちゃんしかなくない?」
「なっ、なんで……」
さすがにそれは、恥ずかしすぎる。
「も、もっと他の呼び方にしてくださいよ」
「気に入らなかった?」
「いや、そういうわけじゃなくてですね……」
羞恥心が半端ないっていうか、今まで先輩には矢野くんとしか呼ばれたことないから想定外だったというか。
「んー、じゃあ……朝陽ちゃん?」
しばらく考えたあと、先輩は疑問符をつけて俺の名前を呼んだ。
あーちゃんも朝陽ちゃんも、どっちもしっくりこないけれど。
「そ、それならまだいいです」
自分で納得したとはいえ、恥ずかし過ぎて顔が熱くなる。
先輩に顔を見られたくなくて、思わず俯いた。
「うん……朝陽ちゃん、朝陽ちゃん」
頭の上の方で俺の名前を繰り返し呼ぶ声が聞こえた。大事に息でくるむような、優しい声。
俯いたせいで、ふわりと揺れる黒いワンピースが、胸元まである長い髪が視界に入り、まるで女の子扱いされている気持ちになり。
……なんだ、これ。そわそわして落ち着かない。
今まではこんなことなかったのに、俺どうしちゃったんだろう。
「朝陽ちゃん、お昼食べた?」
先輩の〝朝陽ちゃん〟呼びには慣れなくて、反応が鈍る。
「あ…いえ、まだ……」
「じゃー、まずはお昼食べに行こう。何か食べたいものとかある?」
「い、いえ、特には……」
「それじゃあ俺が行きたいところでもいい?」
「…はい、大丈夫です」
そういえばまだお昼食べてないんだっけ。すっかり忘れていた。
「じゃー、はい」
おもむろに先輩が俺に手を差し出すから、
「……? なんですか」
その意図が読めなくて困惑していると、
「手、繋ごーよ」
「っ?! なっ、なんでですか!」
「なんでって……今恋人っぽく見えるから?」
「〜〜…やですよ!」
焦って思わず素が出てしまう。
そんな俺を見かねた先輩が、そうっと顔を寄せて、
「──今女の子なんだからそんな大きな声出したら男だってバレちゃうよ。朝陽ちゃん」
コソッと小さな声で囁いた。
やけに優しく、名前を呼ぶから、カアッと顔が熱くなり、
「なっ! ちょ、先輩……っ」
思わず声が大きくなるが、
「ほらほら言ってるそばから」
「あっ、そ、そうだ……」
俺は慌てて口を手で覆うと、先輩は楽しそうにふはっと笑った。
なんだか俺ばかりが動揺していておもしろくない。
「で、さっきの続きだけど朝陽ちゃん手……」
「は繋ぎませんので」
「でも今俺たち恋人っぽく……」
「も見えませんので」
先輩が言おうとしていることを俺が先回りして言葉を詰むと、
「朝陽ちゃんってば隙がないなぁ」
肩をすくめて笑ったのだ。
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