第2話 先輩と、約束。


 ◇


 夏休みが終わって、早くも一週間が過ぎた。


「生徒会ってもっと楽かと思ってたのにやる事多すぎるじゃん」


 放課後、十六時過ぎ。生徒会の雑務は毎日のようにある。日によって量は増減するが、体育祭や文化祭などイベント等を目前にすると生徒会の雑務は多くなる。


「口ばっかり動かしてないで手も動かしなさい」


 呆れたように笑うが、友達思いの会長。基本穏やかで怒ったところなんて一度も見たことがない。山崎昴(やまざきすばる)先輩。二年生で成績優秀でスポーツ万能な完璧といっても過言ではない人。


「山崎も手伝ってくれよー」


 副会長の武田尚弥(たけだなおや)先輩。雑務をこなすよりはるかにおしゃべりの方が多くて、面倒くさがりで。どうして副会長になったんだろうってたまに思う。


「おい、タケ。あんまり会長困らせるなって」


 そして二人目の副会長の夏樹孝明(なつきたかあき)先輩。生徒会メンバーの中で唯一の茶髪で、不良に見えなくもないが実は全然そんなことなくて会長と同じで普段は穏やか。


 他にも書記と会計と人数を合わせると七人にもなる。その中で俺は書記をやっている。主に話し合いでの記入等を任されている。


 男子校は当然男だけで、女子は一人もいない。

 それなのに数週間前に夏樹先輩に女装を見られた俺。


 ……あれから気まずくて俺からは一言もしゃべれてない。絶対夏樹先輩も気になってるだろうし。ああ、ほんっとどうしよう。


 危機的状況の俺は、目の前のプリントどころではなくなって、シャープペンを握りしめたまま、頭を抱える。


「矢野くん?」


 すると、目の前から声が聞こえた。


 それと同時に頭に触れた、何か。


 ハッとして顔を上げると、夏樹先輩の伸ばしたままになっている腕が視界に映り込む。

 だから今、俺の頭に触れているのは間違いなく先輩の手のひらだと気づく。


「ぼーっとしてるけど、どうかした?」


 あの日と同じ、真っ直ぐ向けられる瞳。


 一度も逸れることはなく、俺を見据える。


「えっ、あ、いえ……」


 タイムラグがあったあと、慌てて目を逸らす俺。


 どうしよう、俺。まともに夏樹先輩のこと見れないししゃべれない。このままあと一年も生徒会仲間として過ごさないといけないのか? そんなの羞恥でしかないってのに……!


「なぁなぁ、お前、俺のこの作業手伝ってくれねー?」

「何言ってるんですか。それは先輩の仕事ですよ」

「なんだよ、おいっ。後輩のくせに生意気だなぁっ」


 俺が悩んでいる一方でふざけ合う副会長と会計。なにやらはははっと笑い声が漏れる。


 俺たちのことなんか全くお構いなしだ。


 生徒会ってもっと規則に厳しくてピリピリしてそうなイメージだったのに現実は全然そんなことなくて、むしろ緩すぎる。


 ……まぁ、その方がありがたいけれど。


「矢野くん」


 おもむろにコソッと聞こえた声。


 それは前からではなく、横からで。


 顔を上げると、すぐそばに夏樹先輩がいた。


 あまりの近さに思わず息を飲む。


「ちょっと時間ある?」


 長テーブルとパイプ椅子に手をついて、俺を囲むように立っている先輩。


「…え、今…ですか…」

「うん」

「えと、でも今は……」


 生徒会の雑務中で抜け出すことはできなさそうだけれど。


「この前のことで話があるんだよね」


 夏樹先輩は、なんの躊躇いもなくそう言った。


 〝この前〟のことで急速に手繰り寄せられた記憶はたったひとつしかなくて。


「えっ……」


 思わず声を漏らしてしまう。


 まさかまさか、先輩の方からそれを言われるとは思ってもいなくて、頭の中が真っ白になる。


 どうしよう、誤魔化す? でもここで? テンパって俺の声ボリュームが大きくなりそうだし、そうなれば他の人に聞かれるかもしれないし。かといって断ったところで先輩が食い下がるようには見えないし……


「……す、少しだけ…なら」


 女装の言い訳をどうしようかと、そのことで頭がいっぱいで、夏樹先輩の顔を見ることができなくて、俯いて返事をした。


「うん、よかった」


 すると先輩は、優しい声を落としたあと、長テーブルとパイプ椅子についていた手をのけて、


「会長、俺と矢野くんジュース買ってくるからちょっと抜けるわ」


 会長に軽々と嘘をついてみせるから俺はギョッとして顔をあげるが、嘘をついた当の本人は悪びれる様子なんか見られなくて。


 大丈夫なのかなぁ……とこっちが不安になる。


「分かった、気をつけて」


 が、その不安は杞憂に終わる。


 会長は先輩の言葉を疑うこともせずに信用した。


「じゃー行こっか」


 その言葉を聞いて、「は、はい」緊張しながら席から立ち上がると、


「えー、ずりぃ! 俺の! 俺の分も買って来てくれ!」


 副会長である武田先輩が駄々をこねて夏樹先輩に詰め寄った。


 二人とも身長が高い。高すぎる。


 俺なんて170センチもないのに、先輩たち何なの……。どうやったらあんなに背が伸びるの。


「あー、はいはい。分かったから、タケそんなくっつかないで」


 武田先輩を鬱陶しそうに引き剥がすと、


「そんな嫌な顔すんなよ! 傷つくだろ!」


 と、夏樹先輩に指をさしながら文句を言う。


「矢野くん、行こー」


 けれど、夏樹先輩はそれを無視して俺に話しかけるから後ろの方で武田先輩はぎゃーぎゃー騒ぎ立てていた。


「放置したままでいいんですか?」


 さすがに可哀想になって尋ねると、


「うん、気にしないでいいよー」


 けろりと笑って告げられたのだ。



 ***



「矢野くんは、何か飲む?」

「あ…俺、自分で……」

「ううんいいよ。何飲む?」


 ニコニコと笑う表情に圧を感じて、ここは断らない方がよさそうだと思った俺は。


「……じ、じゃあ、アイスティーで」


 控えめに声を落とすと「ん」と軽く微笑んで、自販機でお目当てのものを押した。


「はいこれ」

「あ、ありがとうございます」


 いろんな緊張が押し寄せて、受け取るときに顔を見ることができなかった。


「タケはどーしよっかなぁ……炭酸苦手って言ってたけど炭酸でいいか」


 ケラケラと笑いながらボタンを押す夏樹先輩は、すごく楽しそうに感じた。


「……武田先輩、炭酸苦手なんですか?」

「んー、そうだよ。なんか舌がピリピリするとか言ってた」


 ケラケラと笑いながら話す先輩。


 ……炭酸はたしかにピリピリするけれど、苦手ってほどじゃないよな? でもそれは人それぞれか。


「そー…なんですね」


 武田先輩、ガタイも大きくて目つきも鋭いから怖そうに見えるけれど、案外可愛いところあるんだ。


「で、本題はこっちなんだけど」


 自分のジュースを買ったあと、パキッとキャップを開けてひと口飲んで、


「夏休みのあれって矢野くんだよね」


 さらりと突きつけられた現実に、ビクッと肩が跳ねる。


 あれほど違うと言ってもなお、あのときの女装を俺だと断言した夏樹先輩。いや、そもそも、女装ではなくただの女子だと認識することもできたはずなのに、なぜ俺だと……


「えっと……」


 ──違う。俺じゃない、と一言言えば納得してくれるかもしれない。


 そう思って顔を上げると、からかっているわけでもなく、バカにしているわけでもない、真っ直ぐな瞳が俺を見据えていた。


 夏樹先輩のこの目に俺は、なぜか弱くて。


「……はい、そうです」


 もうここまでくれば嘘はつけそうになかった。


 けれど、女装していたことを人前で認めることがこんなに恥ずかしいんだと知り、顔を俯かせる。


 ああ、最悪だ。俺の高校生活は日陰と化してしまう。笑い者にされて三年間過ごすんだ。このあと生徒会室に戻ったらきっと真っ先にみんなに言うかもしれない。


「なんで女装してたの?」


 と、二つ目の問いが現れる。


 覚悟していたはずなのに、いざ聞かれると唇が固まって動かなくなる。


 すると、「あー…いや」と頭をガシガシと掻いて言葉を選ぶようにしばらく口を結んだあと、


「俺もあのときはびっくりしたけどさ、何か理由あるのかなって思って」


 夏樹先輩は、俺のことを見た目だけで軽蔑することはなかった。


「……なんで、夏樹先輩」

「ん?」

「いや…だって、普通なら女装する男子なんてきもいってバカなんじゃないかって思うじゃないですか……」


 一般的に考えて、女装はおかしな部類に問われかねない。


 それなのになぜ──


「んー、普通とか一般的とか分からないけど、だからといって矢野くんに変わりはないじゃん」


「……えっ……」


 どんな格好をしていても、俺だと。


 女装している俺のことを、俺自身として肯定してくれた先輩。


 こうなることは全然、予想できていなかった。

 確実に俺の噂が学校全体に及ぶんだと思っていた。


「……夏樹、先輩……」


 だから、目の前の出来事に動揺を隠せなくて。


「矢野くんが人一倍頑張り屋だってこと俺、知ってるし」


 ──先輩は、微笑みながら。


「それに矢野くんは、一度引き受けたものは投げ出さずに最後までちゃんと自分でやりとげるってことも知ってるよ」


 ──ちょっと得意げに。


「だから、矢野くんを軽蔑するなんて絶対にないから」


 ──真っ直ぐ向けられた瞳は、キラキラとしていて。


「……夏樹、先輩……」


 ああ俺、泣きそうだ。


 ふと、そう思ってしまったんだ。


 アイスティーを握りしめる手に思わず、ぎゅっと力が入る。


 一生、女装をして生きようとは思っていなかった俺。

 自分の女顔がコンプレックスで、人よりも自信がなくて。どうしても自分に自信がほしかった。


 それだけ、だったのに。


 夏樹先輩に自分自身を肯定されて。


 ──素直に嬉しいと思ったんだ。


「俺は、矢野くんのことを軽蔑したりしない。矢野くんが何を抱えているのかは分からないけど、尊重だってする」


 切れ長の瞳が緩められて、


「……先輩」


 思わず、どきっとする。


 それがなんだか恥ずかしくてパッと目を逸らすと、


「だけど、ひとつだけ俺と約束してほしいな」


 突飛なことを告げられて、また顔を上げる。


「……約束、ですか?」


 それって一体、なんだろう。


「──うん」


 と照れくさそうに笑ったあと、先輩は、


「女装するなら俺の前だけにしてほしい」


 そう言ったのだ。


「…………へ?」


 だから、困惑するのは当然のことで。


 〝女装するなら俺の前だけにしてほしい〟


「えっと、あのー……」


 一体、どういう意味なんだろう……?


「ああうん。だからね、俺がそばにいるときだけ女装してほしいってこと」

「……えっ?」

「そういうわけだから、女装するときは連絡してよ。俺、すぐ駆けつけるからさ」

「いやっ、あの……」


 わけが分からず尋ね返そうとするけれど、


「じゃー、生徒会室戻ろ。会長たち待ってると思うし」


 俺の横を通り過ぎてゆく夏樹先輩。


 全然、理解が追いつかなくてその場に立ち尽くす俺。


 俺の前だけで、って夏樹先輩の前だけ女装しろってこと……?


 なんかそれって──


「おーい、矢野くん?」


 聞こえた声にハッとすると、夏樹先輩の真っ直ぐ向けられる瞳とぶつかって。


 ──ぶわっ、と熱くなる。


「顔、赤いけどどうかした?」


 それって〝独占欲〟みたい。


 そんなふうに思う自分が恥ずかしくなって。


「なななっ、何でも、ありません……っ!」


 慌てて誤魔化すと、歩き出す俺。


 けれど、手足が同じタイミングで出てしまう。それはまるで壊れたロボットのようだ。


「なんでもないって顔してないけど」


 俺の隣を歩く先輩が、いきなりひょこっと顔を覗かせる。


 そのせいで、足に急ブレーキがかかり、


「こっ、これはただ暑かっただけです!」


 そうだ。顔が、身体が、暑いのは、この真夏のせい。きっとそうに違いない。


 それなのに。


「ふーん、そっか」


 先輩は全く信用した素振りも見せずに、ふはっと吹き出して笑うから、


「〜〜しばらくこっち見ないでください!」


 隣にいる先輩に顔が見えないように、横を向いて歩いた。

 

 ──これは、女装した俺と先輩のお話だ。

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