5 火曜日

 翌朝、ぼくは瑠由ちゃんの言うとおり、いつもよりもちょっと早い時間に家を出た。エレベーターの前に着くと、いつもどおり瑠由るうちゃんが一人でそこにいた。

「おはよ」

「おはよーございます」

「信じて来てくれたね」

「うん」

 相変わらずその小さな顔の下半分を、黒い不織布マスクが覆っている。ぼくはなんとなく悲しくなって、瞼を伏せがちに瑠由ちゃんの隣へ立った。

 エレベーターはもうすぐここへやってくる。話ができる時間、今日は短いかもしれない。三〇分早く来た意味あったのかな。

 ポーンと古い電子音が鳴ってエレベーターが到着。ゴウンゴウンうるさい扉が開いて、瑠由ちゃんから乗り込む。ぼくが乗って、扉が閉まって、そうしたら瑠由ちゃんは一階じゃないボタンを押した。

「えっ、屋上?」

「うん。お話するには最適でしょ?」

 そうか。エレベーターを一階に降ろさなければ話をすることはできるんだ。

 まばたきを重ねていたら、あっという間に屋上に着いた。エレベーターを降りて、ちょっとだけ階段を上がって、重たくて白い金属扉を開けたら、風がビョウビョウ吹いていた。

 屋上はそんなに広くはない。バーベキューができるスペースがありますよということで解放されているけれど、大人の身長よりも高い柵があるから危なくもない。

「ねぇ琢ちゃん」

 風に負けないような声で、瑠由ちゃんはぼくの数歩先に進みながら言う。

「私ね、なりたいものがみつかったの」

「えっ、ほんと?」

 ぼくも自然と声を張る。じゃなきゃ、きっと聞こえない。

「ずっと、私にしか出来ないことしたいって思ってた。琢ちゃんと話してたら、ちょっとわかったような気がする」

「風じゃないもの?」

「アハハ、うん。現実的に考えてみた」

「なにになりたいの?」

 くるっと振り返った瑠由ちゃんは、風に散らされる長い黒髪を抑えながら言った。

「グラビアモデル!」

「ぐ、グラビア?!」

 って、あれだ。水着とか着て、ちょっとえっちなポーズとかする女の子だ。胸の露出があれだったり、おしりをぼーんとしたり、ちょっと以上にえっちなシチュエーションを思い起こさせるような写真を撮らせてあげるやつだ。

 ぼくが口をあんぐりさせていたら、瑠由ちゃんはいつもみたいにカラカラと笑った。

「あのね、私ね、前からストーカーとか痴漢によく遭ってるんだ」

「え」

「胸触られたり、おしり触られたり、スカートの中の盗撮もあったよ。最近になって家まで着いてこられるようになっちゃってね。だから顔をね、マスクで隠してたの」

 そういう理由、だったんだ。あんまりにショックで棒立ちになる。

「お父さんとお母さんは?」

「パパは仕事で夜遅くて、昼くらいまで寝てるの。話できないからいないようなものだし、だからストーカーのこと知られたくない。ママは前に出ていっちゃってるから、もともとここにはいない」

 笑顔で言えることなんだろうか。瑠由ちゃんの抱えていたものが予想の斜め上をいきすぎていて、ぼくは言葉がなくなっていた。

「学校に行かないのもね、学校の前でストーカーに張られてたらヤだからなの。帰り道で絶対に家、わかられちゃうから」

「いつも、朝からどこ行ってるの?」

「人がいっぱい居るところ。駅前とか、公園とか」

「警察は?」

「行ったよ。でもね、一人捕まってもまた出てくるの。次から次に、別の人。キリがなくて」

「じゃあどうしてカラダを見世物にして売るようなことが、やりたいことなのさ!」

 たまらなくなって、ぼくは声を張った。

 瑠由ちゃんが寂しそうにする理由が次々にわかって、溢れて、怖くて、ずんずんと瑠由ちゃんへと足を進める。

「瑠由ちゃんが一番怖い想いしてるのにっ、それ以上怖いことしようとしてるじゃん! もっと自分のこと大切にしなよ!」

「私の『大切』は琢ちゃんだけなの。だから、私に関わってると知られたり、巻き込んだりするのがヤなの」

「へ……?」

 耳を疑う。足が止まる。瑠由ちゃんとの距離、ひと一人分。

「琢ちゃんと喋ってるところ見られて、琢ちゃんに何かあるのだけが怖いの。あとはどうでもよくなっちゃった。だから、エレベーターから降りたらお話するの禁止って言ったの」

 瑠由ちゃんは、言いながらいつものように笑っている。ぼくの肩がワナワナと震える。

「琢ちゃんだけが、私と普通にお話してくれる、唯一のひとだったから」

 鼻の奥がムズムズして、ぼくは思わず瑠由ちゃんを抱き締める。

「やっぱりやめよう、瑠由ちゃんっ。ダメだよ、そんなの。きっと他のことだってあるよ!」

「…………」

「ぼく、瑠由ちゃんに怖いことしてほしくないよ。それに、ストーカーとグラビア、関係ないよ」

「関係あるの、大有りだよ」

 ばり、と剥がされるぼく。瑠由ちゃんを見上げて、ハテナを浮かべる。

「考えてみてよ。こんだけそういうメに遭うってことは、それだけ私が魅力的だってことだよ!」

「は……はあ?」

「だからそゆことする人にはね、私のファンになってもらって、私にお金落としてもらうことにしたらいいって思ったの」

「ファ、ファン?」

「そう、ファン。しかもね、事務所に所属すれば、きっといまよりもずっとずーっとセキュリティ的に安心だと思うの」

 あんぐりしたぼくの顔がマヌケなんだろうか。瑠由ちゃんはクスクス笑って、ぼくを完全に離した。

「私の顔、かわいいよ。琢ちゃんの思うとおり、私確かに美人なの」

「ええ? ナルシストじゃん、それ」

「そうだよ! 小さい頃の瑠由ちゃんは、自分のこと世界で一番かわいいって思ってたこと、思い出したの!」

 瑠由ちゃんは自信満々にそう言って、はつらつとしていた。

「だから私、絶対グラビアで売れる」

 ビョウビョウ吹いていた風がおさまる。黒髪のはためきも、真っ黒のセーラー服のスカートのゆらめきも、いつものとおり元に戻る。

「いまにいくつも表紙飾るような、すごい有名なグラビアモデルになってやるから。グラビアだけじゃなくて、もしかしたら俳優さんにだってなれちゃうかもしんない! 風じゃなくて、星になるの!」

「…………」

「私の体も顔も、痴漢とかストーカーが触っていいほど安いものじゃあないってこと、世界中に知らしめてやるの」

 髪を耳にかけながら、瑠由ちゃんは笑っている。自信満々に、むしろ挑発的なほどに。

「なんか、瑠由ちゃんが言うとマジでそうなりそうだね」

 ぼくは呆れたような、でも安心したような気持ちで細く笑った。

「全部全部、琢ちゃんが昨日気付かせてくれたからだよ」

「おれ?」

「そう、おれ。だからキミは偉大ですよ、外川とがわ琢心たくしんくん」

「あ……」

 名字も名前も、あのたった一回で覚えてくれていたんだ。あんまりにもびっくりして、瑠由ちゃんの『賢さ』を身に染みて理解する。

「ねぇ琢ちゃん。私のこと、絶対に雑誌で見つけてね」

 風が、またふわりふわりと流れ始める。

「雑誌? 雑誌だけ?」

「うん、なるべく写真がいいって思う。琢ちゃんが見てくれてるって思いながらカメラの前に立ったら、最高の瞬間を切り取ったのがいっぱい出来るはずだもん!」

 優しい笑顔が、雲間から注ぐ光に照らされる。その瑠由ちゃんは、なんだか天使みたいに見えた。

「だからそのときに、私の顔、しっかり見てよね」

 柔らかいまなざしの瑠由ちゃんは、ぼくをじっと見つめてそう言った。

 背中まである瑠由ちゃんのストレートの黒髪が、風に穏やかになびく。それを右耳のそばで押さえる瑠由ちゃんは、もうそれだけで素敵な写真のようだった。

「うん。約束だよ、瑠由ちゃん」


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